並んで歩きだした春野は、めずらしく無言だった。
 僕と肩がぶつからないようになのか、春野はやたら僕との距離を開けて歩こうとする。見れば彼女の右肩が雨に濡れていて、僕は彼女の腕をつかむと、軽くこちらへ引き寄せた。
 途端、「へっ」と驚いたように春野が僕を見上げる。彼女の顔は、街灯の頼りない光の下でもわかるぐらい赤かった。そのことに、思わず僕まで少し動揺しながら、
「か、肩が濡れてたから」
「だ、だ、だって……」
 ぼそぼそと、か細い声で春野が呟く。騒々しい雨音にかき消され、続きは聞き取れなかった。

 春野の家は、たしかに遠かった。
 案内されながら、国道沿いから込み入った住宅街の中へ入っていく。歩いているあいだに、跳ね返す水滴でスニーカーがぐっしょりと濡れた。
「……明日なんだけど」
「うん?」
 春野の言っていた南町に差しかかったあたりで、僕は口を開いた。先ほど、春野の話を聞いてからずっと考えていたことを。
「放課後、ちょっと用事があって。もしかしたら会えないかもしれない」
「うん、いいよ」
 春野は、僕にこう言われることをなんとなく察していたみたいに、
「無理そうなら、ずっとなしでもいいよ」
「え」
「そりゃ、無理だよね。ひまりちゃんに怪我させた女といっしょに遊ぶとか」
 さらっとした調子でそんなことを言う春野に、僕は眉根を寄せると、
「そういうわけじゃない。明日は本当に用事があるから、明日だけ」
「……じゃあ、明後日はまた会ってくれるの?」
「会うよ」
 意外そうに聞き返してきた春野に、つい食い気味に頷いてしまって、
「三十万、もらってるんだし」
 ごまかすように付け加えれば、春野はようやく少し穏やかな表情になって笑った。

「あの、ここでいいよ」
 春野がそう言って足を止めたのは、住宅街の中にある小さな児童公園の前だった。
「わたしの家、もうすぐそこだから」
「え、じゃあそこまで送るよ」
「ううん、いいの! もうここまでで充分……」
「いや、せっかくここまで送ったのに、ここで別れたらどうせ春野濡れちゃうじゃん。なんかそれ、送った意味ないじゃん」
 などとそれらしい理由をつけ、けっきょく僕は春野を家の前まで送った。
 春野は「ええ……」とか「うう……」とかしばらく葛藤するように唸っていたけれど、やがて、あきらめたように僕を家まで案内した。
 どうやら、僕がちょっと強く言えば彼女は案外逆らえないらしいことを、発見してしまった。

「あの、ここ……わたしの家」
 二階建ての白い家に着いたところで、春野はふたたび小さな声で告げて足を止めた。
 え、と僕は少し困惑して、彼女の指さした家を眺める。
 いやべつに、お金持ちは豪邸に住んでいなければならないというわけでもないのだろうけれど。それにしても、その家はずいぶん庶民的に見えた。
 僕の家と同じぐらいのサイズ感の、シンプルな総二階の家。家の前には車がギリギリ二台停められる程度のスペースが空いているだけで、両隣はほとんど隙間なくべつの家が建っている。見た感じ、奥に広い庭などがあるわけでもなさそうだ。
 表札を見ると《春野》とあったので、たしかにここが彼女の家らしい。

「あ、あのね、うち、あんまり家にはお金をかけないことにしてて」
 僕の困惑に気づいたのか、春野が言い訳するような早口で口を開く。
「ほら、どうせもうすぐ海外に引っ越すし。もともと長く住む予定はなかったから、小さくていいかなって」
「あ、そうなんだ……」
「でも家の中とかすごいんだよ。家具とかぜんぶ超高級なやつだし」
「……へえ」
 訊いてもいないのに必死に弁明を始めるところがより怪しかったけれど、さすがに突っ込むことはできなかった。本当なのかもしれないし。

「じゃあ、送ってくれて本当にありがとう、倉木くん」
「うん。……じゃあ、また」
「うん!」
 うれしそうな笑顔で手を振る春野に軽く手を振り返して、踵を返す。
 少し歩いたところで、僕は何気なく後ろを振り返った。玄関の閉まる音がしなかったので春野がまだそこで見送っているのだと思った。月曜日、恋木神社の前で別れたときみたいに。
 けれど、振り返って見たそこには、今日はもう誰もいなかった。