***

「ひまりちゃんを、公園にでも連れていってあげようよ」
 僕にそう提案してきたのは、沙和だった。
 去年の十月。ひまりの病気が発覚して、僕たち家族の生活が一変し、少し経った頃のことだった。

 沙和とは家が近く、小学校の頃から仲が良かった。面倒見の良い彼女はひまりともよく遊んでくれていて、ひまりも沙和には懐いていた。
 きっと病気のせいでひまりが気落ちしていると、沙和は心配してくれたらしい。その日、彼女はお弁当まで用意してきて、僕たちを誘ってくれた。

 ひまりはもちろん大喜びだった。病気になって以来、あんなにうれしそうな笑顔のひまりを見たのは、はじめてだったかもしれない。
 沙和の提案で、僕たちは近所の小さな児童公園ではなく、少し遠出して川の近くにある広域公園まで足を延ばした。大きな遊具のあるその公園は、ひまりのお気に入りだった。

 そしてそこで、思いがけない人物に会った。春野だった。
 たまたま遊びにきていたという彼女は、僕たちを見ると、いっしょに遊んでいいかと訊いてきた。暇を持て余していたところだったから、と。
 気さくな性格の沙和は、迷うことなく春野を迎え入れていた。ひまりも、人数が増えることをうれしそうにしていた。

 遊びだすと、ひまりは春野にもすぐに懐いた。もともとは人見知りしがちな子だったから、ちょっと驚くぐらいの早さだった。春野がひまりといっしょに走ったり遊具に上ったり、全力でひまりに合わせて遊んでくれていたからかもしれない。
 公園でこんなに喜んでくれるなら、これからちょくちょく連れてきてあげよう。少しでも気晴らしができるように。沙和や春野も、ときどき誘って。
 そのときは呑気にそんなことを思っていたけれど、けっきょく、沙和たちといっしょに公園に来たのは、それが最初で最後になった。

 お昼時になると、沙和の持ってきてくれたお弁当をみんなで食べた。
 ひまりはまだ遊び足りないらしく、お弁当を食べ終わるとすぐに、ふたたび遊具のほうへ走っていった。「かやちゃん行こう!」とひまりに呼ばれ、春野もあわててついていく。

 そのとき、隣の芝生広場のほうに、ぞろぞろと小学生男子の集団がやってきた。
 彼らが野球のユニホームを着ているのを見て、僕はなにか重たいものがお腹に沈み込むような感覚がした。
 見ないようにと視線を逸らしても、練習を始めた彼らの掛け声や、ボールがバットに当たる高い音は、否応なくこちらまで響いてくる。

「先に帰る」
 そのうち、僕は耐えきれなくなって、近くにいた沙和にそう声をかけた。
「え、でも」
 沙和は戸惑ったようにひまりのほうを見た。高い塔のような遊具に上ったひまりが、下にいる春野に向けて手を振っている。春野も、それに笑顔で手を振り返しているのが見えた。
「ひまりには、あとで言っておいて」
 ひまりに言えば、帰らないで、と駄々をこねられるのが目に見えていた。その相手をするのが、今は億劫だと思ってしまった。それならさっさと帰ってしまって、そのあとで沙和に、もう帰ったよ、と伝えられれば、ひまりもあきらめるしかないだろう。

「いいの?」と沙和は心配そうな顔をしていたけれど、僕は適当に頷いてさっさと踵を返した。
 一刻も早く、この場を離れたかった。球を打つ乾いた音と、威勢の良い掛け声が、高い空に響く。それが今は、どうしても耐え難かった。
 その頃、ひまりの病気をきっかけに、僕は野球をやめたばかりだった。