昼ご飯を食べ終わった頃には、少し身体が楽になったように感じた。この様子なら、たぶんもうひと眠りすれば回復しそうだったので、
「たぶん、明日は大丈夫だと思う。ちゃんと行けると思うから」
「ほんと? 無理はしなくていいからね」
「うん。てか、今日の分ってどうなるの? 今日がなしになった分は、来週の月曜日に振り替え?」
 ふと気になったことを訊ねてみる。
 僕が春野と交わした契約内容は、今週の月曜日から来週の日曜日までの七日間、春野といっしょに過ごすことだった。七日間を三十万で売っているわけだから、当然、僕のせいでつぶれた今日の分はどこかで埋め合わせる必要があるのだろうと思ったけれど、

「ううん、振り替えはなし。予定どおり、倉木くんにもらうのは、来週の日曜日までの時間だけだよ」
「え、でも一日減ってるじゃん。じゃあお金を一日分返すとか」
「返さなくていいよ。べつに減ってないもん。今日もわたし、倉木くんといっしょに過ごしてるし」
 むしろ今日のほうが長くいっしょにいられてラッキーだったかも、なんてあっけらかんと笑う春野に、
「いや、でも今日のはお見舞いじゃん。看病してもらってるし、これでお金もらうのはさすがに」
「全然いいんだよ。わたしは倉木くんといっしょに過ごせればそれでいいんだもん。この時間だって、わたし、すごく幸せだよ」
 恥ずかしげもなく言い切った春野は、本気でそう思ってくれているように見えた。今の笑顔も、本当に楽しそうだった。

「いや、でも」だけど、なぜか僕は無性に意地になりながら、
「さすがに申し訳ないから。今日の分はなしで、もう一日、べつの日に振り替えよう。ちゃんとその日、春野の行きたい場所に付き合うよ」
 僕が食い下がると、春野はふと困ったような顔になった。
「あ、でも……」言葉を探すように、しばし口ごもったあとで、
「それは、できないんだ」
「え、なんで」
「その……わたしが、来週の日曜日までしか、時間がなくて」
 言いづらそうに、春野がもごもごと口にする。
「時間がない?」
「うん。あの、わたしね、実は」
 春野はうつむいてシャツの袖口をいじりながら、
「引っ越すことになってるの。来週」

「……え」
 春野の言葉に、僕は自分でも思いがけないほど動揺した。
 驚いて春野の顔を見つめながら、硬い声で訊き返す。
「引っ越すって、どこに」
「すっごい遠く。外国」
「外国ってどこ」
「えっと、ヨーロッパのほう」
 僕の質問に、春野はなぜか曖昧な答え方をする。教えたくないのだろうか、と思って、僕はそれ以上突っ込むのをやめた。

 思えば、奇妙な点ではあった。春野は最初から、一週間と期限をくっきり区切っていた。それ以上の時間はいらないというように。
 好きだから付き合って、ではなく、一週間だけ時間をちょうだい、だったのは、こういう理由だったのだろうか。
 ――どうせ、もう会えなくなるから。

「だからね、わたし、最後の一週間だけでも倉木くんといっしょに過ごしたくなって」
 考えていたら、僕の思考の答え合わせをするみたいに、春野が言った。
「会いにいったんだ。でもそれはわたしの都合で、倉木くんはわたしのこと好きじゃないのも知ってたから。ちゃんとお金を払って、倉木くんの時間を買おうと思って」
 僕は黙って春野の顔を見つめた。なんと言えばいいのか、わからなかった。

 倉木くんはわたしのことを好きじゃない。
 前にもそう言い切った、春野の言葉を思い出す。
 たしかに、そうだった。好きではなかった。休み時間、僕の席にやってくるなり唐突におすすめの漫画についてしゃべりだしたり、妙にしつこく野球をやめた理由を訊いてきたりする春野のことが、少し苦手だった。どうして僕にそんなことをするのか、わからなかったから。

「だからお願い。もう少しだけ、倉木くんの時間、わたしにちょうだいね」
 そう続けた春野の声はいやに切実な響きがして、わずかに胸が軋む。
「……そりゃ、あげますよ。三十万ももらったんだから」
「あはは、そっか。そうだよね。わたしはちゃんと買ったんだから」

 それから春野は、しばらく僕の部屋にいた。僕にはベッドで寝ているように促してから、おでこに冷えピタを貼ってくれたり、うちわで扇いでくれたり、甲斐甲斐しく世話をしていた。
 そのあいだ、春野はずっと楽しそうだった。
「楽しいな」
 実際に、何度かそう口に出してもいた。
「看病が?」
「うん。倉木くんの看病できるなんて、夢みたい」
「なんだそれ」
「ほら、わたし、ずっと看病してもらう側だったから」
 何気なく春野がこぼした言葉に、少しどきりとする。病院で会った入院中の春野の姿が、また頭の裏に浮かんだ。

「あ、そうだ」
 僕が言葉に詰まったあいだに、春野は思い出したように床に置いていた鞄を引き寄せる。そのやたら大きなトートバッグから彼女が取り出したのは、十冊ほどの漫画本だった。
「これ、あげるね」
 それらをすべて、ローテーブルの上に置いた彼女は、
「わたしのおすすめ。今日暇だろうし、漫画読める元気があったら読んでみて」
「え、ありがと」
 たしかに、こうして寝ていることしかできない今日は暇なので、素直にありがたかった。お礼を言ってから、ふと春野がさっき口にした引っ越しという言葉を思い出した僕は、
「来週の日曜日までには読んで、返すから」
「返さなくていいよ。わたしはもういらないから、倉木くんにあげる」
「え、でも」
「気に入らなかったら、また誰かにあげるか、売ってくれたらいいよ」
 さらっとそんなことを言われ、困惑する。おすすめと言うぐらいだから、春野の気に入っている漫画ではないのだろうか。手元に置いておかなくてもいいのだろうか。
 だけどそう訊ねようとしたとき、ふいに、病院で彼女の言っていた言葉を思い出した。
 ――最近、漫画を読むのがつらくなってきちゃったの。

「……春野さ」
「ん?」
「今も、漫画描いてるの?」
「うん! 描いてるよ」
 明るい返事があって、じゃあ、と僕が続けようとしたときだった。
 ふいに外から車の音がした。聞きなれたバック音が聞こえてきて、え、と思う。
 身体を起こして窓の外を見てみると、白い軽ワゴンが車庫に入ろうとしているところだった。見慣れた母の車だ。

「母さんだ」
「えっ」
 僕が困惑して呟くと、春野はなぜかあわてたように、
「あっ、えと、じゃあわたし、帰るね!」
 早口に告げ、荷物をまとめて立ち上がった。ビニール袋に残っていたパンやお菓子だけ、「あとで食べられそうなら食べてね」とテーブルの上に置いてから、さっさと部屋を出ていこうとする。
「出口わかる? 母さん呼ぼうか?」
「ううん、大丈夫! じゃあ、また」
「あ、今日は来てくれてありがと」
 彼女の背中に急いで声を投げれば、春野は一度足を止めてこちらを振り向いた。そうしてちょっとはにかむように笑うと、
「お大事にね」
 と小さく手を振ってから、僕の部屋を出ていった。

 春野がいなくなってから少しして、ふたたび部屋のドアが開き、今度は母が顔を見せた。
「どう、具合は」
 心配そうに眉根を寄せる母に、僕は「だいぶ良くなった」と返してから、
「今帰ってきたの?」
「うん。早退させてもらっちゃった」
「今?」
「そうだけど?」
 きょとんとする母の顔を、僕もきょとんとして見つめてしまった。

「あれ」
 そこで母はローテーブルに並ぶパンとお菓子に気づいたらしく、それ、と指さして、
「どうしたの? 買いにいけたの?」
「いや、さっきまで来てた友達が買ってくれた」
 母の態度に引っかかりを覚えつつ、僕が答えると、
「あら、お友達が来てたの? お礼言いたかったのに」
「……会ってないの?」
「え、会ってないわよ。誰とも」
 じゃあまた寝てなさいね、と言い残して母が出ていったあと、残された僕は、ひとり首を傾げていた。
 だったら春野は、どうやって家に入ってきたのだろう、と。