《明日は、広域公園の芝生広場に集合で!》
 春野からそんなメッセージが届いたのは、夕飯のカレーを温めていたときだった。
 片手にお玉を持ったまま、もう片方の手で《了解》と返そうとして、ふと指が止まる。
 顔を上げると、リビングの床に無造作に置かれた通学鞄が、目に留まった。春野から受け取った三十万が、まだ入ったままの。

 いいのだろうか。今更、かすかにそんな迷いが湧いてくる。
 三十万。春野にとっては、ただのはした金なのかもしれない。けれど僕にとっては、間違いなく大金だ。ファミレスでいったい何日働けば稼げるのか、考えるのも嫌になったほどの。
 それを、一週間春野といっしょに過ごすという、ただそれだけの見返りとして受け取ってもいいのだろうか。
 一日目、僕は本当に春野といっしょに過ごしただけだった。たったの一時間ほど。これといって春野を喜ばせることはしていない。なにもしていない。春野はそれでいいと言っていたけれど、あんな時間に三十万も払って、本当に春野は満足しているのか。

 そんなことを悶々と考えていたとき、
「ただいまー」
 声とともにリビングのドアが開いて、思考はそこで中断された。
 入ってきたのは母だった。いつもと同じ、かっちりした黒のパンツスーツに身を包んだ母は、キッチンに立つ僕を見つけると、「おっ」と顔をほころばせ、
「温めてくれてたんだー。ありがとね」
「うん。ご飯もさっき炊けたから、食べよう」
「わ、やった。帰ってすぐにご飯が食べられるってうれしいね」
 母は目尻に少し疲れをにじませた顔で笑うと、
「ほんと、(りつ)がいてくれて助かるわー」
 もう何度聞いたかわからない言葉を口癖みたいに付け加えてから、洗面所のほうへ歩いていった。

 僕はコンロの火を消し、食器棚から二枚、カレーをよそうための皿を取り出す。
 助かると言われたけれど、べつにこのカレーは僕が作ったわけではなく、母が昨夜作っておいてくれたものだ。仕事を終え、ひまりの病院に行き、その日の家事を済ませた、そのあとで。
 母はいつもそうしていた。夕方は作る時間がないからと、前日の夜やその日の朝に、夕ご飯を用意してから仕事に行っていた。
 三年前に父が死んで、さらには半年前にひまりが病気になってから、母は毎日、仕事と看病に追われている。

「お、ありがとうねー」
 よそったカレーとコップに注いだお茶をテーブルに並べたところで、母が洗面所から戻ってきた。
 スーツのまま椅子に座り、「いただきます」と笑顔で手を合わせる。
 その向かい側に座った僕も、同じように手を合わせてからスプーンを手に取った。
「律、今日ひまりのところ行ってくれたんだってね」
「ああ、うん。時間あったから」
「喜んでたよ。お菓子もらったーって」
 僕は軽く笑って相槌を打ったけれど、母はそこでなぜか真顔になった。

「……あのね」口の中に入っていたご飯を飲み込んでから、ちょっとあらたまって口を開く。
「ひまりの手術の予定が決まりそうなの」
 スプーンを口に運びかけた手が、一瞬止まった。
「……そっか。よかったね」
「うん」
 さっき見た、ひまりの小さな手のひらや無邪気な笑顔が、ふいに瞼の裏で弾けた。
 命に関わるような手術ではないとは聞いている。成功確率はとても高く、手術を受ければほぼ間違いなく完治するのだということも。
 それでもいつだって、その響きはざわりとした感触で耳に残った。

 どうしてひまりが、と何度となく思ってしまう。
 まだたったの六歳なのに。あんなに小さな身体で、手術だなんて。

 ぎりっと胃が絞られたように痛む。なんだか急に通りが悪くなった喉に、カレーを押し込む。
 そこでふと、明日は僕が夕ご飯を作ろう、と思い立った。
 夜の九時までバイトをしていた今までは無理だったけれど、今週は時間がある。春野が僕の時間を買うのは、夕方七時までと言っていた。そうすれば母も少し余裕ができるだろうし、病院へ行ける時間も増えるだろうから、ひまりも喜ぶはずだ。

 ああ、そうだ。
 考えていると、潮が引いていくように迷いが消えるのを感じた。
 これでいいのだ、と思う。
 なにも罪悪感なんて覚える必要はない。
 春野だって、僕がお金に困っていることを見透かして、あんな提案をしてきたのかもしれない。だって好きだったのなら、まずは普通に告白でもすればよかったのだ。それなのに、彼女はいきなり三十万を差し出してきた。それ以外の選択肢はないみたいに。
 もしかしたら人助けのつもりだったのかもしれない。有り余っているお金を、貧乏でかわいそうな僕に使って、ついでに自分も少し良い思いをする。春野だってそれで満たされているのだろうから。

 春野がくれると言うのなら、もらえばいい。
 僕はなにも、持っていないのだから。