まだ時間が早かったので、春野と神社で別れたあと、僕はひまりの入院している病院を訪れた。
 ちょうど夕ご飯を食べ終わったところだったらしく、空になった食器の載ったトレイが、ひまりの病室前に置かれていた。

「お兄ちゃん」
 退屈そうにテレビを眺めていたひまりは、僕に気づくと、ぱっと顔を輝かせた。
「母さんは?」
「まだ来てない。ちょっと遅くなるかもって昨日言ってた」
 僕は下の売店で買ってきたお菓子をひまりに渡してから、ベッド脇に置かれたパイプ椅子に座った。
「今日はきつくない?」
「大丈夫! 咳も出ないし、全然苦しくない」
「そっか、よかったな」
「うん!」

 それからひまりは、楽しそうに今日の出来事を話しはじめた。
 毎日観ている朝のアニメに好きなキャラクターが出てきたこと、おやつでいちご味のドーナツを食べたこと、看護師さんが髪を三つ編みにしてくれたこと。
 前回来たときも聞いたような気のする話を、身振り手振りを交えながら一生懸命に話してくる。
「今日、久しぶりに春野に会ったよ」
「はるの?」
「花耶お姉ちゃん」
 ひまりの話がひと段落したところで、「お兄ちゃんは今日なにした?」とひまりに訊かれたので、僕は少し迷ったあとでそのことを伝えてみた。
 ひまりと春野が最後に会ったのは、半年以上も前のことだ。もうひまりは忘れているかもしれない、と伝えたあとで思ったけれど、
「えっ、かやちゃん!? 前、さーちゃんといっしょに公園で遊んだお姉ちゃんだよね!」
 ひまりは春野の名前だけですぐに思い出したらしく、うれしそうに声を上げた。
「そう。……よく覚えてたな」
「うん! だって楽しかったもん!」
「……そっか」
 あんな目に遭ったのに、と考えてすぐ、そういえばひまりは覚えていないのだ、と思い出す。

 あの日、遊具から落ちたこと。頭を打って、腕にも怪我をしたこと。
 ひまりの脳を揺らした衝撃が、そんな事故の記憶だけを消してくれたことには、正直少し救われた気持ちにもなった。
 怖かったことや痛かったことなんて、忘れられるのなら忘れてくれたほうがいい。

 僕はベッドの上に置かれたひまりの手に目を落とした。チェック柄のパジャマの裾から、もうほとんど消えかけた傷跡がかすかに覗いている。
「じゃあ、さーちゃんにも会ったの?」
「いや、沙和には会ってないよ。春野だけ」
「そっかあ。いいなあ、ひまりも会いたいなあ」
 無邪気にそんな希望をこぼすひまりに、僕は曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
 たぶん、頼めば春野をここに連れてくることはできる。じゃあ今度会わせてやるよ、と。そう言えば、きっとひまりは喜ぶのだろう。
 思うのに、僕はそれを言う気にはなれなかった。どうしても。

 中学を卒業して、春野とも沙和とも会わなくなって、しばらくは思い出すことのなかった記憶。
 そろそろ忘れようと思っていた。春野とも沙和とも、きっともう会うことはないのだから、忘れていいだろうと思っていた。
 けれど今日、久しぶりに春野が僕の前に現れたことで、またそれが、嫌になるほどの鮮明さでよみがえっていた。やっぱり忘れてはいけないのだと、突きつけられたような気もした。
 ひまりがその腕の傷を負った、半年前の出来事を。