美術館へようこそ ピカソ『泣く女』
第三スタジオ
「カット! オーケー。」
「先生、お疲れ様でした。」
張り詰めた緊張感が解けるこの瞬間がとっても好きだった。
しかし、それも今日で最後。若いフロアーディレクターの女性が小走りで私に近寄ってきて花束を渡してくれた。長い間美術番組の解説をしてきた私は今日をもって退職なのだ。拍手に包まれながら、満足感とともに心のどこかに大きな空洞が広がっていくように感じる。
演出の彼が後ろで微笑んでいる。
赤提灯
カウンターからおでんの湯気が上がっている。
「先生のわかりやすい解説が聞けなくなるかと思うと残念です。」
「そういってくれるのは光栄だが…。」
演出の彼は串に刺さったコンニャクを口にしながらこちらを覗き込んだ。
「実は、本当に各々の絵画の本質を表現できたのかどうか、自分でもわからない時があるんだよ。」
「先生がですか? 私はこの番組を通して随分と学ばさせていただきました。」
「ああ。しかし、一つ一つの絵の中にはきっと私が理解できなかった画家の深い生活なんかが描き込まれているんじゃないかってね。特に人物画には。」
「はぁ。でも、そんなことは随分といろんな評論家に…。」
「そう、語り尽くされていると言える。しかし…、」と言いながらガブっと噛んだがんもどきの汁が口の中に溢れてきた。「あちち…いや、この話は難しくなるな。」私はお猪口をかざして「いままでありがとう。」と彼に杯を向けた。
「ところで、これからどうするのですか?」
「自分の生活を考えないといけないよな。粗大ゴミにならないように。」
「第二の人生ですか?」
熱気の向こうで微笑む大将の額のシワが妙に気になった。
「あぁ。それを決める前にもう一度鑑賞しておきたい作品があるんだ。」
ロンドン
テムズ川にかかるモダンな歩道橋。その正面にその大きな工場然とした建物がある。
実は初めてのカミさんとの海外旅行。彼女の服装は少し派手なような気がしないでもない。
結婚後は家族のために仕事に打ち込んできた。家のことは全て彼女に任せてがむしゃらに前進してきた。いろいろな思い出はあるにしろ、残念ながら彼女や家庭との共有部分がすぐに思い出すことができない。いや、感謝はしているのだが、これからはお互いが自分の好きなことをしようと。変に我慢しない余生を過ごした方がいいはずだ。だから、せめて最後の一言の前に海外旅行でもと。
「これが美術館? 刑務所見たいね。」
チラッと見せたその表情には驚きと嬉しさが混じっているようだった。
入り口の大きな吹き抜けを見上げながらその絵に向かった。
お目当ての女は、それほど大きくない金色の額縁に飾られていた。
「あなたは何度も見ているだろうけれど、私は初めて。これ、本物なのね。」
そう言って黙ってじっと絵を見つめている。
おや? 私は少しうろたえた。カミさんのこんな表情を今まで見たことがあっただろうか? 彼女を二度見しながら、私はゆっくりと優しく今までの番組のようにその絵のことを解説した。
「一目でピカソだってわかるへんな顔だろ。そう、この絵を描き始めた当時、彼には主に三人の女がいた。妻と古い愛人、そして新しい愛人。この肖像画はその新しい泣き虫の愛人ドラ・マールらしいが、実は『泣く女』という絵は100種類以上あるとも言われているんだ。その表情にはその三人の女が重複されて描かれていながら、実はピカソ彼自身の苦悩の表情が表現されている。という説もあるくらいだ。」
「ふぅ〜ん。」
分かったような解らないような。ポカンとしている。まるで純粋無垢な少女のように。
しかし、私自身は何故これを観に来たくなったのだろう。何が気にかかってここまできたのだろうか。そんな自問自答しながらも心の中では違和感と安堵感が同居している。軽くゴクンと唾を飲んだ。と、
「不思議。」彼女の声がいつになく透き通って聞こえた。
「?」
「わかるわ。本当は全部の表情を重ねて一つにしたかった。さすがのピカソでも難しかったのね、きっと。」
いつの間にかカミさんの表情は強く頼り甲斐のある女将さんのようになっていたかと思ったら、フウッとため息をついていつもの顔に戻った。そして、突然こう言った。
「これ、私よ。私の自画像。」
「え?」思わず私の方に振り返った彼女と目が合って、もう一度絵を見直した。
額の中の『泣く女』も私を深く見つめている。
「…あ、あぁっ。」
まるで封印されていた袋から噴き出すようにこれまでの二人の結婚生活の思い出が私の脳裏に吹き出してきた。飲んだくれて帰ったこと。息子のことは任せっきりだったこと。愛人がばれたこと。大きな病気にかかったこと。彼女はその都度それに耐え、様々な表情で私を見つめながら寄り添っていてくれた。
腰が抜けた。そして、思わず涙がこぼれ落ちた。
「あなた、泣く男になっているわ。」
声が出なかった。彼女の一言がずしんと私の身体と心に響いた。
「ほら、こんなところで恥ずかしいじゃないの。」
カミさんはそう言ってペタンと座り込んだ私に手を差し伸べた。
私は思わず彼女の手を掴んだ。
あ、こんなに華奢な手をしていたっけ? 力が抜けた私の手をその小さな手がしっかりと強く握ってくれていた。
これからの道筋がはっきりと見えた。
あの時の二人を取り戻そう。いや、新しい二人かもしれない。いや、分かっている。カミさんには手遅れよと言われるのは。でも、これがラストチャンスに違いない。
私は彼女の力で引き起こされて、再び絵の前に立った。
帰りの飛行機
カミさんが選んだ機内食は、あまり美味しそうではなかった。
「交換しよう。」
彼女は首を横に振ったが、私はトレイを入れ替えた。
「あのさ。」
「?」
「家事を一から教えてくれないかな。」
「どうしたの?」
「そこからやり直したい。恥ずかしながら、そんなとっちゃん坊やなんだ。」
「世話が焼けそうね。」
カミさんが私の肩に顔を寄せてきた。
「お茶はいかがですか?」
キャビンアテンダントの頬が少し赤く染まっている。
自宅
皿洗いの音がしている。
「あなた、電話よ。ディレクターの方から。」
彼女は流し台の前に立つ私に向けてスピーカーのボタンを押した。
「あ、先生。実は今度ピカソの特集で『泣く女』を取り上げようと思うのですが、なんだか杓子定規なことを話す評論家ばっかりで。先生に特別に出演していただけないかと思いまして。」
「ああ、いいよ。」と私は快諾した。「その代わり一つお願いがある。」
「なんでしょう? お迎えですか?」
「いや、カミさんと一緒に行っていいかな? 話したいことがたくさんあるんだよ。」
受話器を持っている彼女は肩をすくめた。
TVスタジオ
そのライブの収録スタジオでカミさんが爆弾発言をした。
「で、奥様は?」
「ええ、私は初めての海外旅行で少し浮かれていたんですけど、実は、もう彼との関係を精算しようと思っていたんです。」
「え? 熟年離婚ということですか?」
私の驚いた顔を見ながらカミさんは軽くうなづいた。
「残りの人生は自由に生きていこうって思っていたんです。でも…、」
まるで彼女にスポットライトが当たっているようだった。
「でも、あのピカソの泣く女を観て、これは自分だなと思った時に、彼が言ったんです。」
「な、何て?」
「二人の関係をやり直させてくれないかって。」
「もちろん、私はそれを払い除けることもできました…。」
スタジオが一瞬フリーズしたようだった。
「でも、そうおっしゃらなかった。」
「ええ、こんな変な顔をしている女を理解してくれるのは、やっぱり彼しかいないんじゃないかって思い直したんです。」
俯いている私の頬は濡れていた。
「だって、尻もちをついた彼に手を差し伸べた時に見た彼の瞳は、まるでピカソみたいに焦点が定まってはいなかったけど、嘘はありませんでしたから。」
了
第三スタジオ
「カット! オーケー。」
「先生、お疲れ様でした。」
張り詰めた緊張感が解けるこの瞬間がとっても好きだった。
しかし、それも今日で最後。若いフロアーディレクターの女性が小走りで私に近寄ってきて花束を渡してくれた。長い間美術番組の解説をしてきた私は今日をもって退職なのだ。拍手に包まれながら、満足感とともに心のどこかに大きな空洞が広がっていくように感じる。
演出の彼が後ろで微笑んでいる。
赤提灯
カウンターからおでんの湯気が上がっている。
「先生のわかりやすい解説が聞けなくなるかと思うと残念です。」
「そういってくれるのは光栄だが…。」
演出の彼は串に刺さったコンニャクを口にしながらこちらを覗き込んだ。
「実は、本当に各々の絵画の本質を表現できたのかどうか、自分でもわからない時があるんだよ。」
「先生がですか? 私はこの番組を通して随分と学ばさせていただきました。」
「ああ。しかし、一つ一つの絵の中にはきっと私が理解できなかった画家の深い生活なんかが描き込まれているんじゃないかってね。特に人物画には。」
「はぁ。でも、そんなことは随分といろんな評論家に…。」
「そう、語り尽くされていると言える。しかし…、」と言いながらガブっと噛んだがんもどきの汁が口の中に溢れてきた。「あちち…いや、この話は難しくなるな。」私はお猪口をかざして「いままでありがとう。」と彼に杯を向けた。
「ところで、これからどうするのですか?」
「自分の生活を考えないといけないよな。粗大ゴミにならないように。」
「第二の人生ですか?」
熱気の向こうで微笑む大将の額のシワが妙に気になった。
「あぁ。それを決める前にもう一度鑑賞しておきたい作品があるんだ。」
ロンドン
テムズ川にかかるモダンな歩道橋。その正面にその大きな工場然とした建物がある。
実は初めてのカミさんとの海外旅行。彼女の服装は少し派手なような気がしないでもない。
結婚後は家族のために仕事に打ち込んできた。家のことは全て彼女に任せてがむしゃらに前進してきた。いろいろな思い出はあるにしろ、残念ながら彼女や家庭との共有部分がすぐに思い出すことができない。いや、感謝はしているのだが、これからはお互いが自分の好きなことをしようと。変に我慢しない余生を過ごした方がいいはずだ。だから、せめて最後の一言の前に海外旅行でもと。
「これが美術館? 刑務所見たいね。」
チラッと見せたその表情には驚きと嬉しさが混じっているようだった。
入り口の大きな吹き抜けを見上げながらその絵に向かった。
お目当ての女は、それほど大きくない金色の額縁に飾られていた。
「あなたは何度も見ているだろうけれど、私は初めて。これ、本物なのね。」
そう言って黙ってじっと絵を見つめている。
おや? 私は少しうろたえた。カミさんのこんな表情を今まで見たことがあっただろうか? 彼女を二度見しながら、私はゆっくりと優しく今までの番組のようにその絵のことを解説した。
「一目でピカソだってわかるへんな顔だろ。そう、この絵を描き始めた当時、彼には主に三人の女がいた。妻と古い愛人、そして新しい愛人。この肖像画はその新しい泣き虫の愛人ドラ・マールらしいが、実は『泣く女』という絵は100種類以上あるとも言われているんだ。その表情にはその三人の女が重複されて描かれていながら、実はピカソ彼自身の苦悩の表情が表現されている。という説もあるくらいだ。」
「ふぅ〜ん。」
分かったような解らないような。ポカンとしている。まるで純粋無垢な少女のように。
しかし、私自身は何故これを観に来たくなったのだろう。何が気にかかってここまできたのだろうか。そんな自問自答しながらも心の中では違和感と安堵感が同居している。軽くゴクンと唾を飲んだ。と、
「不思議。」彼女の声がいつになく透き通って聞こえた。
「?」
「わかるわ。本当は全部の表情を重ねて一つにしたかった。さすがのピカソでも難しかったのね、きっと。」
いつの間にかカミさんの表情は強く頼り甲斐のある女将さんのようになっていたかと思ったら、フウッとため息をついていつもの顔に戻った。そして、突然こう言った。
「これ、私よ。私の自画像。」
「え?」思わず私の方に振り返った彼女と目が合って、もう一度絵を見直した。
額の中の『泣く女』も私を深く見つめている。
「…あ、あぁっ。」
まるで封印されていた袋から噴き出すようにこれまでの二人の結婚生活の思い出が私の脳裏に吹き出してきた。飲んだくれて帰ったこと。息子のことは任せっきりだったこと。愛人がばれたこと。大きな病気にかかったこと。彼女はその都度それに耐え、様々な表情で私を見つめながら寄り添っていてくれた。
腰が抜けた。そして、思わず涙がこぼれ落ちた。
「あなた、泣く男になっているわ。」
声が出なかった。彼女の一言がずしんと私の身体と心に響いた。
「ほら、こんなところで恥ずかしいじゃないの。」
カミさんはそう言ってペタンと座り込んだ私に手を差し伸べた。
私は思わず彼女の手を掴んだ。
あ、こんなに華奢な手をしていたっけ? 力が抜けた私の手をその小さな手がしっかりと強く握ってくれていた。
これからの道筋がはっきりと見えた。
あの時の二人を取り戻そう。いや、新しい二人かもしれない。いや、分かっている。カミさんには手遅れよと言われるのは。でも、これがラストチャンスに違いない。
私は彼女の力で引き起こされて、再び絵の前に立った。
帰りの飛行機
カミさんが選んだ機内食は、あまり美味しそうではなかった。
「交換しよう。」
彼女は首を横に振ったが、私はトレイを入れ替えた。
「あのさ。」
「?」
「家事を一から教えてくれないかな。」
「どうしたの?」
「そこからやり直したい。恥ずかしながら、そんなとっちゃん坊やなんだ。」
「世話が焼けそうね。」
カミさんが私の肩に顔を寄せてきた。
「お茶はいかがですか?」
キャビンアテンダントの頬が少し赤く染まっている。
自宅
皿洗いの音がしている。
「あなた、電話よ。ディレクターの方から。」
彼女は流し台の前に立つ私に向けてスピーカーのボタンを押した。
「あ、先生。実は今度ピカソの特集で『泣く女』を取り上げようと思うのですが、なんだか杓子定規なことを話す評論家ばっかりで。先生に特別に出演していただけないかと思いまして。」
「ああ、いいよ。」と私は快諾した。「その代わり一つお願いがある。」
「なんでしょう? お迎えですか?」
「いや、カミさんと一緒に行っていいかな? 話したいことがたくさんあるんだよ。」
受話器を持っている彼女は肩をすくめた。
TVスタジオ
そのライブの収録スタジオでカミさんが爆弾発言をした。
「で、奥様は?」
「ええ、私は初めての海外旅行で少し浮かれていたんですけど、実は、もう彼との関係を精算しようと思っていたんです。」
「え? 熟年離婚ということですか?」
私の驚いた顔を見ながらカミさんは軽くうなづいた。
「残りの人生は自由に生きていこうって思っていたんです。でも…、」
まるで彼女にスポットライトが当たっているようだった。
「でも、あのピカソの泣く女を観て、これは自分だなと思った時に、彼が言ったんです。」
「な、何て?」
「二人の関係をやり直させてくれないかって。」
「もちろん、私はそれを払い除けることもできました…。」
スタジオが一瞬フリーズしたようだった。
「でも、そうおっしゃらなかった。」
「ええ、こんな変な顔をしている女を理解してくれるのは、やっぱり彼しかいないんじゃないかって思い直したんです。」
俯いている私の頬は濡れていた。
「だって、尻もちをついた彼に手を差し伸べた時に見た彼の瞳は、まるでピカソみたいに焦点が定まってはいなかったけど、嘘はありませんでしたから。」
了