ーーあの人は僕が嫌いだと思う。
 郁が見えないものをにらむようにして言うのは、もう何度目だろう。
 私には親友がいる。名前は桐人(きりと)。同い年の男性だ。
 かつては希理子(きりこ)という名前で、女性として郁を産んだ。
 桐人はまめに郁の学校行事に顔を出し、細々と郁の身の回りの品をそろえる。
 郁を叱ることもなく、もちろん暴力をふるったりもしない。
 でも桐人は私たちに何を見せまいとしているのだろうと、時々考えた。
「ひな!」
 舞台の後、下りた幕を片手でかきあげて、桐人が声を上げた。
 花束を持って楽屋へ向かおうとしていた女の子たちが黄色い声を上げる。
 別世界にいると思っていた俳優が舞台から降りようとしていたら、ファンでなくてもびっくりする。
 私もうろたえて、身振り手振りで「後で」と桐人に知らせる。
 桐人は我に返ったように、慌てて幕の向こうに消えた。
「悪い。初舞台で興奮しすぎて」
 後で出待ちのファンの子たちを振り切って、桐人は私の家にやって来た。
「そういう顔ね。おつかれさま。はい、焼きたてだよ」
 苦笑しながら私が自家製のあんぱんを出すと、桐人の目が輝いた。
 ぱっとお皿の上からあんぱんを手に取ると、にこにこしながら食べ始める。
「俺、これ大好き!」
 いつも郁にそっくりのかわいい笑顔だと思う。
 秀でた目鼻立ちに、彫像みたいに引き締まった長身。今年引退するまで二十年間モデルをしていた桐人は、笑わないと怖いほどの美男子だ。
「いい舞台だったね」
「だろ? 千秋楽直前は三日間水しか飲まなかった甲斐があったな」
「あんぱんなんて食べて大丈夫?」
 私が顔をかげらせたのを見て、桐人は安心させるように笑う。
「平気、平気。本当の俺が丈夫なことは、ひなも知ってるだろ」
 今回の舞台は、桐人が主演を務める天才音楽家の生涯の物語だ。
 難病に苦しんで、若くして亡くなった彼を演じるにあたって、桐人はただでさえ細い体をさらに十キロ絞った。
「モデル歴は長いけど、舞台じゃ俺は三十歳で新人だからな。ここからだ」
 誓うようにつぶやく桐人に、私は何も言えない。
 本当は、本当のところは、言いたいことは山ほどあるけど、言えない。
「ひなが泣くのをこらえる顔を見るのは、もう数えきれないや」
 桐人はふいにあんぱんを食べるのを止めて言う。
「ごめんな。俺はひなの忠告を何も聞かない」
 私と桐人は、中学生のときに初めて隣の席になった。
 桐人、そのときはまだ希理子。
 刃物のような子だった。自分を取り巻くすべてに怒っていた。
 けれど周りの期待に決して逆らわない子だった。
 テストもスポーツも、何をさせても常に一番。十歳の頃からお菓子の一つも食べずに、完璧にランウェイを歩いていた。
 私は苦い笑みを浮かべて言う。
「だから言わないよ。今の桐人が、桐人のなりたかった自分なんでしょ」
「うん!」
 桐人は痩せた頬をほころばせて、屈託なく笑う。
 二十年ものモデルのキャリア、誰もが憧れた美少女、どちらも彼には何の価値もなかったのだ。
「ひなのおかげだ」
 桐人は神妙に、私のおかげだと言うけれど。どんなときも決めたのは桐人で、私はそれを見守っていただけだった。
「ひなちゃん、ただいま!」
 ただ一つ、郁を引き取って育てたのは、私の意思だけど。
 斗真と双眼鏡を買いに行っていた郁が帰ってきた。ぱたぱたと足音が近づく。
「おかえり」
 郁に振り向いた桐人は、先ほどまでの子どものような笑顔とは違う。
 笑顔なのだけど、とてもぎこちなかった。
「……こんにちは、桐人さん」
 対する郁も、桐人をみとめた途端声が小さくなった。
 郁は斗真をお父さんと呼ぶけど、桐人のことは決してお母さんと呼ばない。
 それは桐人が男性になったからでもあるだろうし、打ち解けにくい桐人の性格からでもあると思う。
「双眼鏡は買えた? 見せてくれる?」
 黙りこくってしまった二人の代わりに、私が言葉を挟む。
 郁は桐人を気にしながら、そろそろと包みをほどく。
 桐人もかがんでそれをのぞき込もうとして、床に手をついた。
「桐人?」
 前髪が下りてわかりにくくなった顔色。でもかえってそれでわかった。
 桐人の額に手を当てると、ひどく熱かった。
「やっぱり無理しすぎたんだよ。病院に行こう、桐人。付き添うから」
「ん……」
 桐人は渋ったけど、体がつらかったのだろう。私が手を差し出すと、力を借りて体を起こした。
「疲れたね。ごはん作るから、しばらくここに泊まりにおいで」
 私の言葉に、今までおろおろしながら様子を見ていた郁の顔色が変わった。
「だめ!」
 郁ははねのけるように叫ぶ。
「桐人さんは出てって!」
「い、郁?」
 私は喉をつまらせる。
 郁がそこまでの拒絶反応を取ったことがわからなくて、頭が真っ白になる。
 でも桐人は静かな声で、さとすように言った。
「ここには泊まらないよ。心配するな」
 私の手を離して、桐人は自力で立ち上がる。
 あきらめたように苦笑する桐人を見るのが悲しい。
 私は中途半端に、手を差し伸べたままだった。




 それからしばらくの間、毎日桐人のマンションに様子を見に行った。
 桐人は三日間は点滴に通っていたけど、元々鍛え上げた体だから、すぐに自分で体調を整えていったようだった。
「ごめんね」
 日曜日の昼、様子を見に来たはずが桐人に手料理のオムライスをごちそうされて、私は何度目かの謝罪の言葉を口にした。
「何が?」
「オムライス」
「ひな、これ好きだろ」
「そうじゃなくて。病み上がりに何をさせてるんだろうって思って」
「なんだ」
 桐人は肩の力を抜いて笑う。
「俺は料理が好きなんだって。食いすぎは嫌いなだけ」
 時々不思議になる。
 桐人は料理をはじめとする家事全般が好きで、女の子だった頃はメイクやスカートも楽しんでいた。
 それに郁を産んだのだから……桐人は確かに、女性としてセックスをしたのだ。
 たぶん桐人は、女性性を嫌って男性になったわけじゃない。桐人はそういう選び方はしない。
 だったら桐人が男性性を選んだのは、どうしてなんだろう?
「三日前のこと、そんな気にするなよ。俺はいいから、いつも郁の味方でいてやってくれないか」
 桐人はふいに苦笑して切り出した。
「郁が俺を嫌うのは当たり前だろう? 俺は母親をやめて男になったんだ」
「桐人は三日空けずに様子を見に来てる。お金だって毎月振り込んでくれてるのに」
「お金に愛情の色はついてないんだよ、ひな」
 私は眉を寄せて桐人を見上げる。
 桐人が郁を愛しているのが、どうして伝わらないんだろう。
 苦笑しながら郁を見やるとき、郁の話を聞いて、困ったなと口の端を上げるとき、桐人は親の顔をしている。
「性別はそんなに大事かな」
 思わず口にした言葉は、もしかしたら桐人を傷つけたかもしれない。
 でも桐人は笑って、うん、とうなずいた。
「俺にとってはね」
 それから少しして、桐人は次の舞台の打ち合わせのために出かけていった。




 私はせめて掃除でもして帰ろうと思って、洗面所に向かう。
 だけど桐人の部屋は綺麗だ。物を出しっぱなしにしないし、無駄なものは買わないから、いつもきちんと片付いている。
 私はだんだんと普段手をつけないような、たとえば棚の隙間やテレビの奥を掃除し始める。
「あ。これ、郁の」
 それで、古いビデオテープをみつけた。ラベルには、「入学式」、「六年生運動会」など、郁の学校行事がずらっと並ぶ。
 桐人は郁の学校行事に必ず出て、そのたびにビデオを取る。でも実は、その中身を私は一度も見たことがなかった。
 郁の学校行事には、もちろん私も出ている。でも桐人の目を通して見てみたいなと思った。
 桐人は古い演劇のビデオを見るために、家に旧式のビデオレコーダーを置いている。私はそれのスイッチを入れる。
 懐かしい映像が流れ始める。
 小学校の入学式、郁が私と手をつないで桜の下を歩いている。あどけない郁の顔を見て、頬がほころぶ。
 ママ、と郁が呼ぶ。内緒話をしようと私の袖を引いてはしゃぐ。
 私がお母さんだと、何の疑いも持っていない笑顔だった。
 そう呼ばれるたびどれだけ嬉しかっただろう。かがみこんで郁の内緒話を聞いている私を、画面の外から見ていた。
 別のテープを入れると、六年生の運動会だった。
「大丈夫だよ」
 桐人の声が聞こえる。レンズの向こうには、不安が張り付いた私の顔があった。
「せっかくたくさん練習したのに、転んだりしたら……」
「大丈夫。郁は転んだって立ち上がるよ」
 何度桐人に大丈夫と言われても、私はおろおろしながら白線の先を見ていた。
 リレーが始まる。郁はこのときアンカーで、郁が走り終わるまで私は一瞬も目が逸らせない。
 バトンが郁に渡って、私は泣きそうな顔で見守る。
 そのとき、郁が接触して転ぶ。悲鳴を飲み込んで、私は息を吸う。
 本当は、もういいよと言いたかった。郁は練習のときからたくさん転んで痛い思いをした。泣いて私のところに戻ってきたなら、抱きしめてあげられる。
「大丈夫よ!」
 私の声を、郁がどんな気持ちで聞いたかは知らない。
 ただ郁は立ち上がって、前だけ見て走った。
 五位でバトンを受けて、結果は二位だった。
「お母さん。だめだった」
 一番になれなかった。後で私のところに戻ってきた郁は、そう言ってぼろぼろ泣いていた。
 がんばったからいいよなんて、言えなかった。そんな言葉は郁の気持ちにはあまりに安い。
 何も言えずに郁の前でうつむいている私を、桐人のビデオが見ていた。
 別のビデオは、つい最近のことになる。
 それは郁の学校行事ではなくて、私の友達の結婚式のときだった。
 桐人の友達でもあったから、桐人も来ていてビデオを撮っていた。
 違和感が胸をついた。
 確かに友達も映っているけど、ピントが合っていない。桐人はもっと近くを撮っている。
 それは桐人の隣のテーブルで、郁と斗真、私が三人で話している。
 斗真は決して桐人の方を見ない。全身で桐人を気にしながらも、振り向けない。
 そんな斗真にどうしていいかわからず、他愛ない話でごまかす私と、やはり桐人の方を気にしている郁がいる。
 最初は斗真を撮っているのかなと思った。一緒には暮らさなかったけれど、桐人と斗真の間には他人にはわからない思いがある。
 でも違っていた。桐人はその中から一人を選んで、食い入るようにみつめる。
 それは、紅の着物姿の……。
「知らなかっただろ」
 横から手が伸びてきて、私の手の上からビデオを止める。
 現実に戻ってくる。息が触れるようなところに桐人がかがんでいて、私を見下ろしていた。
「俺がいつもひなに見とれてたなんて」
 桐人が私を見るときに、瞳に映す色。ずっと見ないようにしていたそれを、間近でみつめることになる。
「桐人、手」
「斗真はずっと知ってた。郁も気づき始めてる」
 ビデオは止まったのに、桐人は私の手を押さえたままだった。
 その手は温かいのか冷たいのかもわからない。
「だから俺をひなに寄せ付けないんだ。あの子は賢いな」
「手を」
 離してほしい?
 自分がわからなくなったとき、桐人はその言葉を口にする。
「俺が本当は誰とセックスしたかったか、知りたいか」
 私は恐怖に追いつかれて、おもいきり桐人の手を振り払っていた。
「やめて!」
 拒絶を口にした私を、桐人はそれ以上追い詰めたりしなかった。
 そろそろと私から距離を取ると、大切そうにビデオを背中に隠す。
「……うん。俺もずっと秘密にしておくつもりだったよ」
 ごめんとつぶやいて、桐人は部屋を後にする。
 部屋に残った私は、空になったビデオデッキをみつめたまま、動くことができなかった。





 郁と同じ十二歳だった頃、私の世界は静かだった。
 母と義父の鷹生さんの愛情に包まって、安息の中にいた。
 でも桐人がそこにセックスを持ち込んだとき、世界は少しずつ変わり始めた。
 桐人は隠していたけど、なんとなくは私も気づいていた。
 桐人が私に向ける感情に戸惑って、見ないふりをしていただけ。それはよくないものだと、恐れていたから。
 でも斗真が桐人に恋をするのは止められなかった。斗真が桐人にセックスを向けたとき、私は大切な弟も恐れるようになった。
 心が桐人のせいだと悲鳴を上げていた。
 私は家族のくれた、愛の世界にいたかった。弟さえも恐れるような、恋とセックスは見たくなかった。
 見たくないのに……どうしてその世界は、愛の隣にあるのだろう。
「郁、入ってもいい?」
 何度考えてもめげてしまいそうだったから、私は郁の部屋の扉をノックした。
 桐人のマンションを訪ねなくなって、一週間が経とうとしていた。
「いいよ」
 郁の声が返って来て、私は扉を開く。
 暗い部屋の中、手作りのプラネタリウムが天井を照らしていた。
「ひなちゃんも一緒に見ようよ」
「うん。そうする」
 郁は床に寝転がって天井を見上げていて、私もその隣に寝そべる。
 郁が手でプラネタリウムを動かすと、夜空も動いていく。
 星を見ると子どもの頃を思い出して、どうしても泣きたくなる。守られていた頃が懐かしくなる。
 気持ちをまぎらわそうと郁の方を見ると、彼は胸の上に何かを置いていた。
「それ」
「この間お父さんと買ってきたんだ」
「でも」
 繰り返しそれをさする郁に、私は不思議に思って言う。
「それは双眼鏡じゃなくて、オペラグラスっていうの。星や鳥を見るものじゃないんだよ」
 郁の大好きなものは、もっと遠くを映さないといけないよ。私がそう言うと、郁はうなずいた。
「知ってる。でもこれがいいんだ」
 郁は口をへの字にして言う。
「これは桐人さんを見るためのものだから」
 息を呑んだ私に、郁は続ける。
「桐人さんはこれからどんどん遠くにいっちゃって、僕は劇場の隅っこでしか見れないでしょ」
 オペラグラスをさすって、郁はうつむく。
「……でも見たいんだよ」
 そのとき、桐人に出会ったときを思い出した。
 隣の席で初めて見た桐人は、綺麗すぎて話しかけることもできなかった。
 話しかけたのは斗真だった。斗真が桐人に興味を持ったのはすぐにわかった。
 でも当時、桐人は今より激しい性格だった。斗真のことが勘に触ったらしく、刃のようなまなざしで斗真をにらみつけた。
 私は慌てて、鞄から小包を引っ張り出しながら言った。
 ごめんね。あなたが好きなものも、嫌いなものも、まだなんにも知らなかったの。
 よかったら食べてねと言って、前日に手作りしたクッキーを差し出した。
 私は実際、何も知らなかった。桐人が子どもながらモデルをしていて、太らないためにお菓子を食べないでいたこと。
 でも……本当はお菓子が好きなことも知らなかった。
 恐る恐る私が差し出したいびつなクッキーを桐人はつかんで、言った。
 私、これ大好き!
 初めて見た桐人の笑顔は、とびきりかわいかった。
「ありがとね、郁。思い出したよ」
 郁はいつも私に教えてくれる。
「そうね。好きな人はみつめていたいね……」
 たとえ時間は流れても、同じ場所にはいなくても、持ち続けるものはある。
 恋と愛とセックス。どれも違うけど、ゼロ距離でつながった瞬間があったはずだった。
 うつろう星空を郁と見上げる。久しぶりに頬を涙がつたった。





 それから一か月後、桐人が主演を勝ち取った次の舞台を、郁と二人で見に出かけた。
「僕も行っていいのかな」
「もちろん」
 出発の直前までためらっていた郁に、私は笑う。
「郁が桐人を見たいって思うように、桐人だって郁を見たいと思ってるんだよ」
 相手が自分を嫌っていると思っている、不器用な二人は、よく似た親子だと思う。
 劇場に入って郁と席につく。
 桐人は自分で言う通り、まだ役者としては駆け出しだ。小さな舞台だから、一番後ろの席でもよく見えるはずだ。
 でも私もオペラグラスを買った。郁と同じように神妙に膝の上に置いて、舞台の始まりを待つ。
 今度はどんな姿で現れるのだろう。桐人、またあなたが望む姿に近づけた?
 あなたがこれから、どんな姿に変わっていくとしても。私はあなたが好きで、あなたをみつめ続ける。
 幕が上がる。
 桐人の笑顔を初めて見たあの日のように、どきどきしていた。