紫淵との話し合いの末、翌日はこれまで通りに過ごす手筈になった。
五人の侍女たちは今日も変わらず茶菓子作りに腕を奮ってくれている。
毎度のことだが、茶会で残った茶菓子は紅玉宮の十五人の女官たちに下げられ、彼女たちのおやつや夜食になる。
呪毒とは、もとを辿ると呪妖であり呪靄だ。
悪意を成就させるための精製された毒である。
そのため木蘭に出された茶菓子に呪毒が宿っていても、他者の唇に触れた時点で霧散して発生源へと還っていく。女官たちにはなんの健康被害も出ないのだ。
しかし『白蛇の娘』である苺苺ばかりは例外だった。『龍血の銘々皿』を通さずに食べた呪毒に、肉体は正しく反応する。
(けれども新たに目覚めた治癒の力で、呪毒で傷つけられた内臓もすぐに治ります。ふっふっふ、霊力が尽きぬ限りすこぶる元気なわたくしです)
そんなわけで、紅玉宮ではおやつが豪華な日が続いている。
年頃の女官たちは皆嬉しそうにはしゃいでいて、休憩時間も楽しそうだ。
紅玉宮に集められて約三ヶ月、それぞれのことを知り始めた女官たちの仲も平和に深まるというものである。
(――紅玉宮に集まる以前から深かった仲を除いて、ですが)
苺苺は昨晩刺していた紫木蓮が咲き誇る『白蛇玄鳥神鹿図』の円扇でそっと口元を隠し、給仕の支度を始めた春燕を視線だけでひっそりとうかがう。
大皿に上品に盛り付けられた茶菓子を若麗が円卓に並べて、怡君が小さな取り皿をふたりの妃の前にしずしずと置いた。五色の陶製皿だ。五行にちなんだ色合いを使って邪を祓うという縁起物である。
「木蘭様。数刻前に宵世様がいらっしゃいまして、次の選妃姫に関する通達がありました。それから先ほど徳姫様の女官が来られて、徳姫様主催のお茶会を明日開催すると」
筆頭女官の若麗が言う。
「徳姫は自分主催の茶会を誰よりも早く通達したかったんだな」
「そのようですね。お茶会の方は、招待状には紅玉宮からは貴姫様だけで、水星宮の白蛇妃様のお名はありませんでした」
それで、と若麗が申し訳なさそうに言い淀む。
けれど苺苺は「お茶会のお呼ばれがないのはいつものことですので、お気にならさずに。刺繍を刺しつつ、楽しくお留守番いたいますわ」と答えた。
「……宵世はなんと?」
「はい。七日後に行われる選妃姫の試験内容は、『端午節の香袋』だそうです」
端午節は燐華国五大節句のひとつだ。
国中のいたるところで無病息災を祈る龍舟嘉年華が行われ、おこわを笹の葉で巻いた粽子や艾饃饃などを食べて、子孫繁栄や疫病退散を願う。
端午節に作る香袋は『香包』と呼ばれていて、五行に基づいた五色糸を使って刺繍し、中には清涼感のある香りがする蓬や生薬を詰めて作る。
こちらも無病息災や疫病退散、そしてその末にある子孫繁栄を願って作られ、香包は主に首から下げて使われる。昔は母が子のために手作りするものだったが、今ではその風習も変化していて、親しい間柄で贈り合うことも多い。
「七日間で製作し、選妃姫当日に皇太子殿下へ披露するようにとの仰せでした」
「やはりそうか。過去の選妃姫では一度目が詩歌、二度目が端午節の香袋の腕前を競うことが多かったというから、驚きはないが」
選妃姫の題目に一喜一憂する妃嬪が多い中、顔色ひとつ変えずに言う幼い木蘭に、侍女たちは賑やかになる。
「まあ、さすがは木蘭様」
「貴姫様として必要な教養をしっかりお勉強なされていて感心致します」
「木蘭娘娘、偉い偉いなのです」
「ふふん、妾にとっては当然の知識だ」
木蘭は背筋を伸ばして胸を張り、紅玉宮の幼い主人らしく応じる。
苺苺はそんな様子を見て、紅珊瑚の瞳に感動の涙を浮かべる。
(あああ、得意満面な様子の木蘭様……! 金銀財宝では買えない尊さ、ここにあり……ッ)
頬を染め上げて眦を下げる苺苺を見て、『本当は、試験内容を決めているのは自分なんだが……』と木蘭はいたたまれず目をそらした。
「あー……。妾は詩歌には自信があったが、刺繍は苦手だ。その点、苺苺は刺繍の名手。ぬかりはないな」
「ふふふっ、はい。『端午節の香袋』とは腕が鳴ります」
苺苺は早速頭の中に図案を広げる。
「領地をあげて香包製作をしている州もあると聞きます。他にも、粽子型や瓢箪型などの福寿にちなんだ意匠だけでなく、毒を持った蟲さんたちを刺繍する五毒図案が人気を呼んでいる地域もあるとか」
毒を以て毒を制するという意味を持つ五毒図案は、苺苺にとっては手に取るのも難しい図案だが、これまた巷で大人気なのだという。
(妃たちがどのような立場で、どのような意味合いを持たせた香包を製作するのか……。香包の完成度や刺繍の腕前だけでなく、持たせる意味合いも含めて試験されるのでしょう)
「わたくしも、あっと驚くような香包を考えなくてはなりませんねっ。紅玉宮に置いていただいている以上、木蘭様に恥じぬよう立派な働きぶりをお見せいたしませんと!」
「本当よ。あんたのせいで紅玉宮が落ちぶれたらタダじゃおかないんだから! ……頑張ってよね!」
「もちろんです、春燕さん」
「白蛇娘娘なら『百花瓏玉』を賜われるなのです」
「ちょっと! そこまでは望んでないわよ! それは木蘭様のものなんだからっ」
百花瓏玉とは、選妃姫で皇太子殿下から妃に下賜される褒美だ。
その名の通り百花の美しさを持つ最高級の宝飾品で、指輪、腕輪、首飾り、額飾り、笄、簪があって、それぞれに金、銀、白金、そして至極の宝石をあしらっていると聞く。
選妃姫の最終選抜ではこれらで着飾り、その美を競うとか。
つまり、それまでに賜った『百花瓏玉』の希少性で妃嬪たちの力関係はすでに決すると言ってもいい。
一回目の選妃姫では、妃嬪たちには階級を表す官名と宝石の名を冠した宮が与えられた。
二回目の今回は、八人の妃の誰かひとりに百花瓏玉のひとつが褒賞として下賜されるはずだそうだ。
「木蘭娘娘なら『鴿血紅寶石の蓮花簪』、白蛇娘娘なら『白翡翠の花雫額飾』が似合いそうだと言っていたのです」
「言ってないったら!」
春燕と鈴鹿のふたりのやりとりに、クスクスと鈴を転がす笑い声がいたるところから漏れる。
いつも自室で繰り広げられるやりとりがここでも見られるとは思わず、苺苺も「ふふっ」と思わず頬を綻ばせた。
「お二人とも、とっても詳しいのですねぇ〜」
苺苺の周囲にぽけぽけと花が飛んでいる幻覚を見た春燕は、「ふんっ、こんなの常識よ」と顔をそむける。
「むしろこれくらい知ってなきゃ、皇太子宮の上級女官になんてなれないんだから」
「『百花瓏玉』の位と階級を事細かに示す、『百花瓏玉目録』があるのです」
鈴鹿の言葉に、木蘭が鷹揚に頷く。
「皇帝宮の宮女を選ぶ秀女選抜試験でも、皇太子宮の宮女を選ぶ女官登用試験でも、『百花瓏玉目録』に関する試験がある。目録の写しが配布され、正式名称と宝石の種類、それから過去にどのような妃嬪たちが賜ったかという歴史を学ぶ筆記試験が実施されるんだ」
「へええ、そうなのですね」
「上級女官は妃嬪に最も近い存在だ。『百花瓏玉』を知らなくては、自らの主人をそれに相応しく着飾ることも、たしなめることもできないからな」
「なるほど、なるほど。勉強になります」
木蘭の説明に苺苺が大きく頷くと、木蘭は幼妃に似合わぬ呆れた表情で頭を抱える。
「……苺苺、水星宮にもあっただろう? 『百花瓏玉目録』の写しが」
「いいえ? あったのは『王都妖怪大事典』でしたね?」
「は? 『王都妖怪大事典』?」
木蘭が「意味がわからない」と突っ込んだのと同時に、茶会の準備を進めている侍女たちもポカンとする。
「なにが書いてあったか聞くのは負けた気がするが、なにが書いてあったか聞いてもいいか」
「ええ。なんでも、昔々に王都に現れたあやかしさんたちを事細かにまとめた大辞典だとか」
「ほう、それで?」
「黒墨で描かれた写実的な画風が猛々しく、夜はちょっぴり眠れなくなりましたが……。あやかしさん達について、とても勉強になりましたわ! ところどころ虫さんも載っていたので、冗談みたいな読み物なのかもしれませんけれど」
そう語った苺苺は探偵のようにキリリと表情を引き締めて、指先をぴんと一本立てる。
「なんと王都には、悪鬼と並んで最恐と呼ばれる最高位のあやかし〝饕餮〟も出たそうです……! 『王都妖怪大辞典』の解説によると、今もまだ王都にいるかもしれないとか。真相は謎のままです……!」
「そ、そうか」
それって宵世だな? とは言えない木蘭であった。
(ということは、水星宮に『百花瓏玉目録』を配布される係の方が、間違えて『王都妖怪大辞典』を置いていかれたのでしょうね。おかげさまで猫魈様のお姿やお名前も勉強できましたので、ありがたかったです)
と、苺苺と木蘭の話がひと段落したところで。
筆頭女官の若麗が侍女たちに目配せをする。茶会開始の合図だ。
上級女官五人はそれぞれの位置について、今日も時間を惜しまずに手作りした茶菓子をしずしずとつぎ分け始める。
「木蘭様、苺苺様。本日はお茶菓子は三種の餡の煎堆、それから艾饃饃をご用意いたしました」
白胡麻がまぶしてある丸い煎堆の中は、落花生餡、紅小豆餡、黒胡麻餡だ。
発酵させた米粉と小麦粉から皮を作り、餡も全て手作りしたそうだ。
端午の節句の訪れを一足早く知らせる艾饃饃は、昨日のうちに夕露時の御花園で摘んだ春蓬を使ったらしい。朝でなく夕方に収穫するのは、日中に陽気をたっぷり浴びて糖分を増やした葉は甘くなるからだ。
みずみずしい翡翠色に蒸しあがっている小ぶりの姿は、それこそ『百花瓏玉』と例えたくなる。
「こちらの艾饃饃は珍しい形をしていますね? ひとつは木蓮の意匠ですが、もうひとつはまさか、苺の花でしょうか……?」
「はい。こちら私が型から作らせていただきました」
女官の中で一番背の高い、いかにも先輩という雰囲気の怡君が腰を曲げ、少しはにかみながら言う。
「怡君さんが?」
「はい。実は私、木彫りが趣味なのです。普段は観音菩薩様などを彫っているのですが、木蘭様と苺苺様のお泊まり会延長が決まった時から、なにかおふたりの記念になるようなものを作れないかと考えていて……」
茶菓子の型にしようと思い至り、休憩時間に図案を考えて彫刻刀で木を彫って作ったらしい。
「すごいです、怡君さん! ありがとうございます」
「うむ。妾も気に入ったぞ」
「ありがたきお言葉でございます」
怡君が下がると、美雀がふたりの妃の前にそれぞれ空の銀杯を置く。
「本日のお茶は、春燕と一緒に考案した食譜で作った水果茶です」
「蘆薈檸檬と野苺の薬草茶を合わせて、目の前でお作りいたします」
(野苺の薬草茶! あの時、水星宮で若麗様にお渡ししたものですね)
玻璃の水壺には蘆薈と檸檬の果肉が入った果汁蜜が入っている。まずはそれを、春燕がふたりの銀杯にそれぞれ注いだ。
とろとろと注がれた果汁蜜から、清涼感のある香りがふわりと漂い始める。
薬草茶が入った茶壺を持った美雀が、木蘭の銀杯にそれを注ぐ。
「そちらの匙でよく混ぜてお飲みください」
次に苺苺の隣にやってきた。
茶壺から銀杯にとぽとぽと――。
その彼女の周囲を、ひらひらと黒い胡蝶が飛んでいる。誰にも見えないはずの呪妖の姿を、苺苺と、木蘭だけは捉えていた。
「いただこうか」
木蘭が銀杯を手にする。それから不自然にならぬよう、互いの視線を合わせた。
色鮮やかな食器や茶菓子でいっぱいになった朱塗りの円卓の隅に、苺苺がそっと置いた朱塗りの小皿の上はまだ空だ。それを二人で確認する。……だが。
「飲んではいけません、木蘭様。そちらには――〝毒〟が含まれております」
苺苺は毅然とした態度で言い放った。
真珠色のけぶるような睫毛の下、紅珊瑚の瞳がすっと温度をなくす。
「ど、毒なんて」
「そんなまさか……っ」
先ほどまでの紅玉宮に似つかわしくない言葉に、女官たちはハッと息をのんで動きを止めた。
木蘭は銀杯をくるりと回して、内容物を確かめる。
「……苺苺、銀杯にそれらしき痕跡はない。毒とはいったいどういうことだ?」
「銀杯には反応しない毒が使用されております。野苺の葉の毒です。よく乾燥させずに茶葉を作ると、腐敗の過程で有毒になるのです」
「なんだと?」
「薬草茶の水色をご覧ください」
銀杯の中身は比重の関係で二層になっている。下は薄黄色、上は黒茶のような色だ。
「こちら黒茶のように濃くしっかりと出ておりますが、通常の野苺の葉茶は黄茶。君山銀針を思わせる色合いをしているはずです。そして香りも青く、清涼ではありません。それをごまかすために蘆薈檸檬の果汁蜜を入れたのでしょうが、」
苺苺は「ふふふっ」と絹扇で口元を隠し、この場でただひとり呪妖の中に立つ犯人に笑う。
「わたくしはごまかせません。……ねえ、美雀さん?」
(幼い頃に飲んだあの、あの猛毒茶の匂いと味は忘れていません! 嘔吐が止まらず、お腹を下して寒気の中で震え、死の淵を見たあの日……! お兄様が助けてくれていなかったら今頃どうなっていたか。ああああ、思い出すだけで感情がごっそり抜け落ちます……っ! けれど今は木蘭様に猛毒茶を飲ませようとした犯人の前。ここは無理やりにでも笑顔を作り余裕を保ちませんと! 笑顔です、笑顔っ!)
苺苺の赤い唇が弧を描いた瞬間。
その場にいるすべての人間は息をのみ、胸の奥底から湧き上がる畏怖から微動だにできなくなった。
白き大蛇と生贄花嫁の異類婚姻によって生まれた――『白蛇の娘』。
その、この世のものとは思えぬぞっとするほどの禁忌の美貌が、美雀を見据える。
先ほどまで少女らしい可憐な笑みを浮かべていた美雀は、その禁忌の美貌に直視され、恐怖のあまり青ざめてガタガタと震え出した。
「白蛇妃様? わ、私には、白蛇妃様がなにをおっしゃっているのか、わかりません……」
彼女の周囲をひらひらと舞っていた呪妖が、途端にぶわりと数を増す。
「茶葉は厨房にある、刺繍袋に入っていたものを使いました。白蛇妃様のお作りになった茶葉です。見知らぬ茶葉だったので、量はたくさん使ってしまったかもしれませんが……。けれどそれだけで、私は無実ですわ……!!」
「おかしいですねぇ。わたくしは確かに野苺の葉茶をお贈り致しましたが、しっかりと乾燥させ、薬草茶として人体に良い影響を与える状態にしたものだけを吟味しておりますわ。それに黒茶になるほどの量も差し上げておりませんでした」
今もひらひらと飛ぶ黒い胡蝶をまとっているのは、感情が乱れるほどの悪意を抱いているからだ。
昨夜の呪妖の光は、美雀と春燕の部屋からも確認されている。
白澤の八花鏡を使い異能を行使した時、呪妖は美雀のそばに還り、だからこそあの悲鳴をあげたはずだ。
その件に関しては、すでに紫淵に報告済みである。――もちろん、白蛇の娘が視たもののすべてを。
「……美雀さん。わたくしの野苺ちゃんを鋏で切ったのは、あなたですね?」
苺苺が静かにそう告げると、美雀が大粒の涙を浮かべる。
彼女の手から滑り落ちた茶壺が床で跳ね、パリンッ! と部屋の空気をさらに凍らせる音を立てて割れる。茶壺の中から茶葉が飛び散った。
それはゆうに十人分以上の量に相当するほどの茶葉だった。
「……やはり。よく乾燥させずにわざと有毒の状態にした茶葉ですね。こんなにたくさんの葉で抽出したお茶ですから、きっとひとくちでお手洗いに駆け込むことになりますわ! 一杯飲んだら死の淵です!!!!」
苺苺は毅然と美雀を睨みつける。
美雀は悲痛そうに顔をくしゃくしゃにすると、「――春燕ですッ!」と泣き叫びながら崩れ落ちた。
「毒茶を淹れた犯人は春燕です! この食譜は、春燕が考えたものなんです!」
「な、なにを言ってるの美雀……!? あなたが最初に『白蛇妃様に喜んでもらうお茶にしよう』って提案してたから、だから、私は――!」
春燕が驚愕し顔を青ざめる。
「春燕はいつも白蛇妃様の悪口を言っていました……っ。出て行ってほしいっ、不吉だって。白蛇妃様の野苺だって、白蛇妃様付きの春燕だから盗めましたっ! 昨日、蓬を摘む時にもいっぱい摘んできていて……っ」
美雀は頬を真っ赤にしながら、一生懸命に叫び、大粒の涙をこぼす。
「私は……ぐすっ、……何度も止めたんです! だけど、春燕は紅玉宮から白蛇妃様を追い出すために……ッ!!」
「は、はあ!? ちょっと、でたらめ言わないで!」
「木蘭様! 春燕は白蛇妃付きにした木蘭様を逆恨みしていました、それで木蘭様の銀杯にまで……! ううっ、ぐすっ、私が春燕を止めていたのは、紅玉宮の女官全員が証人です!」
涙で目を腫らした美雀が泣き崩れた姿のまま、冷静に事の成り行きを観察していた木蘭を見上げる。美雀はそのまま膝立ちで駆け寄り、幼妃の小さな膝に縋った。
「姐姐が、『寝台の下に腐敗した茶葉を隠してるのを黙っててほしい』って言ってたけれど、私……っ。私もう、姐姐の大きすぎる罪を隠し通せないわ……っ!」
ポロポロと大粒の涙をこぼしながら春燕を仰ぎ、美雀はそう堂々と叫んだ。
……まるで悲劇の少女だな。
木蘭は幼い顔に似つかわしいほど冷めきった表情で、まるで蛆虫でも見るかのような視線を美雀に向けた。
心底軽蔑しきった表情をして主人に気づかぬ美雀は、まだ膝に泣きすがっている。
春燕はふつふつと湧き上がる怒りのせいでぶるぶると震えながら、一歩踏み出した。
「隠してなんかない! いい加減にでたらめ言うのはやめて!」
「うっ、ぐすっ……私が白蛇妃様に疑われるように、わざと茶壺を持たせたんでしょう? 姐姐はいつも、木蘭様付きになった私を妬んでいたものね……っ。それで犯人に仕立て上げて、白蛇妃様と一緒に追い出すつもりだったんだわ! そうやって、幼い頃からいつも、姐姐は私に意地悪をして虐げる……っ」
埒が明かないな。
「……若麗」
「はい」
木蘭は呪妖が次々に湧き出す美雀から視線を外すと、硬直している怡君と鈴鹿の隣に並んで、神妙な顔をして事態を見守っていた筆頭女官に命じる。
「今すぐここへ東宮補佐官を呼べ」
「御意」
完璧な礼をとった筆頭女官が颯爽と応接間を退出し、皇太子付きの筆頭宦官を呼ぶために紅玉宮を出て行く。
それからすぐに宵世と皇太子宮の警備請け負う宦官が到着し、宿舎にある春燕と美雀の部屋が改められた。
宦官たちが、湿り気のある水盆に入った大量の腐った野苺の葉を持って、この部屋に入ってくる。それから土のついた鋏、蓋つきの籠の中で衰弱死した野兎。
「ひいっ!」
「なんとむごいことを……っ!!」
女官たちが顔を青ざめ小さく悲鳴をあげ、苺苺は悲痛に満ちた表情で口元を覆う。
声をあげなかったのは木蘭くらいだ。
木蘭は指を顎先に当て考え込みながら、それらの品を改める。
鋏に付着しているのは栄養のないその辺の土ではなく、御花園の腐葉土だ。水盆の湿り方から見ても、毒素を含ませるため意図的に野苺の葉を大量腐敗させたのは間違いないだろう。
皇太子宮に上がっていた盗難報告書に野兎があったな。
蓋つきの箱も目撃情報と一致している。
極めつけに、彼女を慕うように飛び回る黒い胡蝶。……決まりだな。
木蘭は侮蔑を含んだ笑みを浮かべそうになるのを抑え、大袖に埋もれた両の指先でちょこんと口元を隠す。
「証拠品は以上です。すべて春燕の寝台の下から出てきました」
墨をこぼしたような杏眼を、宵世が春燕に向ける。
動かぬ証拠を前に、集まってきた紅玉宮の女官や宦官たちは誰もが黙したまま思っていた。『春燕が犯人だろう』と。
「そんな……ッ。東宮補佐官様、私じゃありません! 信じてください!」
「そうですよ、宵世様! 春燕さんではありません!」
四面楚歌の春燕をかばうために、苺苺も負けじと声を張る。
春燕はハッと目を見開き、信じられないものでも見る顔で、自分を庇った苺苺を見た。
「春燕さんの言葉は警戒心から生まれるもので、わたくしへの悪意がありません。春燕さんはなんだかんだ言って、わたくしを慕ってくれています……!」
(どんなことを口にしていてもどなたの周りにも呪靄が生じず、今だってこんなに混乱している状況ですのに呪妖を宿してもいませんッ。そして、なにより――木蘭様を推している方に、悪人はいないのですわ!! 木蘭様推しのひとりとして、わたくしが春燕さんを守らなくてはっ)
「わたくしには春燕さんの心の清らかさがわかるのです!」
力説した苺苺を心底気だるげに一瞥した宵世は、抑揚のない声で「引っ捕らえよ」と冷たく宦官たちに命じた。
万事休すか、と春燕が唇をぎゅっと噛み締めた時。
「……な、なぜ、私を……!?」
杖を持つ宦官たちに捕らえられたのは、床に崩れ落ちたままの姿で冤罪を訴えるように泣いていた美雀だった。
「美雀。お前のことは昨晩苺苺から報告を受けて、すでに宵世が調べている」
紅玉宮の幼い主人、木蘭は威風堂々とした足取りで捕らえられた美雀の前に歩み出ると、紫水晶の双眸を冷たく細めながら彼女を見下ろした。
「昨日、尚食局に搬入されていた野兎が一匹盗まれた。その際、『不自然な蓋つきの籠を抱えていた皇太子宮の女官を見た』と多数の目撃証言があったんだが、西八宮の下女がお前の顔を覚えていてな」
三年も一緒に働いたのだからわかる。彼女は美雀だった、と。
「…………っ!」
「妾も今朝報告を聞き、紅玉宮ではどう罰するべきか考えあぐねていた最中だった。だが、盗みだけでなく……――皇太子妃を未遂とはいえ二人も害そうとした罪、そして虚言を重ね、皇太子宮最上級妃付きの上級女官である春燕に濡れ衣を着せた罪は重い」
投獄され杖刑ののちに、上級女官から下女へ落とされるだけでは済まされない。
彼女には厳罰が下るだろう。
「毒茶の威力を試すなら、せめてどぶ鼠でも捕まえたら足がつかなかっただろうに。育ちの良さが仇になったな」
木蘭の言葉を聞き、美雀はギリっと奥歯を噛みしめる。
「美雀、妹妹……なんで……」
「姐姐が全部悪いのよ!! 昔からそう。利用してやってただけなのに勝手に姐姐づらして! そのせいで紅玉宮で私は姐姐の下に見られるようになったッ。私が街一番の美人で、誰からも可愛がられて幸せだったから嫉妬して、こうやって私に意地悪をするんでしょう!?」
「私が美雀を妬む? そんなわけないでしょう。私たち、いくら姉妹でも別人なのよ……? それに意地悪なんてしてないわっ」
「してるわ! 木蘭様にも白蛇妃様にも取り入って……私の出世の邪魔してるっ! 私が先に後宮に入ったのに……私が先に妃になるはずだったのに!! こんなのおかしいわ、姐姐はずっと私のご機嫌を伺って、なんでも請け負って、下女みたいに傅いててよ!!」
「宵世、連れて行け」
「御意」
「私の人生がめちゃくちゃになったのは姐姐のせいよ! 今すぐ紅玉宮から出て行って……ッ」
泣きわめく美雀は宦官たちにきつく取り押さえられながら、紅玉宮を後にした。
◇◇◇
「そ、壮絶な修羅場でした……。あれが後宮……恐ろしいところです……」
「あれくらいなら後宮では序の口程度のやり合いだ。死人が出なくてよかったな」
執務用の椅子に腰掛け、長い足を組んだ紫淵は憂いを含んだ顔で淡々と言う。
ここは皇太子の居城である天藍宮。
本来ならば夕刻となり後宮の門が閉ざされたあと、後宮妃は滅多なことでは門の外へは外出できない。
そんな後宮内皇太子宮は紅玉宮預かりの〝白蛇妃〟苺苺は、初めて訪れた天藍宮で紫淵の執務室に通されていた。
後宮から出てしまったという罪悪感でなんとなく居心地が悪い。
それに万が一、許可なく後宮を抜け出しているところを誰かに見つかったらと思うと、不安に駆られてしまう。
だって、あやかし用の地下牢に投獄された経験のある白蛇妃だ。問答無用で即刻打ち首になる気がするのも無理はない。
(わたくしは全力で木蘭を推すために後宮へ来ただけであって、後宮で死ぬ気はさらさらないのですが……! けれどもあのご様子では、)
「わたくしと木蘭様も、だっだだだ脱走罪で……!」
「寝室の内側から扉に閂をかけているから、女官に侵入される心配はない。外から声をかけて反応がなくても寝ているだけだと思うだろう。そのためにわざわざ俺が演技をして寝室に君を引き入れたんだ、問題はない」
苺苺がビクビクしていると、呆れ顔の紫淵が「心配する必要すらない話題だな」と首を振る。
まあ連れ出したのは皇太子宮を治める皇太子殿下本人なので、誰かにバレたところでどうとでもなる。
それにもし、二人の姿が目撃されたとしても、【皇太子殿下が白蛇妃と月下の逢瀬!? 天藍宮で禁断のご寵愛】と煽るような見出しと尾ひれと背びれと胸びれがついて、後宮全土に激震が走るだけなのだが。
苺苺はそんな状況下にあることにまったく気がついていない様子だ。
(はぁぁ……。ここに来るまでの間でどっと疲れてしまいました……。それに加えて、呪妖を視るためとは言え白蛇ちゃんを長く封印しすぎた弊害の疲労も……)
紫淵の執務机の向かい側に置かれた応接用の長椅子を勧められた苺苺は、そこに座ったまま〝白蛇の鱗針〟を片手にグッタリしている。
いくら異能の才が強まり、歴代の白蛇の娘にはなかった癒しの力を得たと言っても、常に悪意に蝕まれていると癒しの力も追いつかないものだ。
目の前には、夜光貝の総螺鈿細工が施された漆塗りの卓子がある。
普段の苺苺であれば、その緻密な吉祥図案と猫足の曲線美に心底感服するところなのだが、今は「きらきらしていてきれいですね、まるでおほしさまのようです」と現実逃避をする感想しか浮かばなかった。
「ふふふ、ふふふ」
「……苺苺、君はよほど疲れたんだな。言動が支離滅裂だ」
(それにしても……。昨晩のあの様子から事件が起きそうな気配は察知していましたけれど……まさか『木蘭様暗殺未遂事件その二』と『白蛇妃暗殺未遂事件』、それから『上級女官追放未遂事件』が立て続けに起きるだなんて……)
「って、いえいえ、死人なら出ましたよっ」
「……誰か死んだか?」
「無実の野兎ちゃんが暗殺されてしまいました……!!!!」
「皇帝陛下の滋養強壮料理用に食肉業者から仕入れていたやつだろう」
「なっ、なんと冷たい! 紫淵殿下は鬼ですっ、この悪鬼武官!! ではなくて悪鬼皇子めっ!」
「なんとでも言ってくれていい。事実だしな」
野兎は苺苺によって手厚くお別れ会が行われた。あの世で寂しくないように、ぬい様と白蛇ちゃんも一緒に詰めてある。どうか野山を元気に駆け回ってほしいと思う。
執務の手を止めた紫淵は机の上で頬杖をつくと、「それよりも」と言葉を切る。
「君の身になにも起こらなくてよかった。美雀が刃物でも持っていたら、あの姿の俺では君を守れないかもしれないからな」
静かな夜にふんわりと溶けるような微笑みを浮かべる。
(うっ)
絶世の美青年の甘い眼差しを直視してしまった苺苺は、手慰みに刺していた刺繍の手を止めて、その絹扇で目元以外の顔を覆う。
「い……今の会話の流れで、よくそのようなお顔をできますね……?」
「今夜の図案はまた凄いな。『白蛇玄鳥神鹿図』に観音菩薩と紫木蓮とは……天界か? 君は一体どこへ向かっているんだ」
「木蘭様は天女様の御使いですので、推しの概念を表現しました。ではなくて、」
「華やかでいいな。色選びもいいからごちゃついていないし、統一感があっていつまでも眺めていたくなる。なによりも、なんだか嬉しい」
「わたくしの突っ込みは聞いてませんね?」
(……今夜の紫淵殿下はおかしいです)
時刻はすでに亥三つを回っている。
しかし苺苺が寝衣ではなく、普段は散歩用に使用している簡単な衣裳をまとっているのは、ちょうど夜警に出てすぐだったからだ。
猫魈を使った『木蘭暗殺未遂事件』の犯人である〝恐ろしい女官〟が誰だかわかった今、彼女から木蘭を守らなくてはならない。
(現行犯で取り押さえた暁には、ぜひとも心を入れ替えていただかなくては。ふっふっふ、この白苺苺、必ずや木蘭様の素晴らしさを布教し、恐ろしい女官の方を木蘭様沼に突き落としてさしあげますわ! そのためにも今夜からは本殿に籠城ですっ)
そう強く意気込んだ苺苺がぬい様と〝白蛇の神器〟を携え、紅玉宮本殿の見回りを始めようとしていたところ、寝室からぬっと出てきた寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭様に抱きつかれて、
『お姉様ぁ。妾ひとりで寝るのは怖いです。今夜は妾と一緒の部屋で寝てくださぁい』
と言われたからさあ大変。
(かわゆいが大爆発をしていて、ついつい寝室に……。そうして気がついたら紫淵殿下に捕まって、こんなところまで……)
寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭から『目をつぶってしばらく待つこと』と言われて、衝立の裏でおとなしく待って過ごしていたら、いつの間にか寝衣から着替えた紫淵から『もういいぞ』なんて声をかけられるとは聞いていない。
あまりの出来事に苺苺は『こんなの詐欺です!』と叫んでしまった。
そうして箪笥の下に隠されていた扉から階段を降り、地下通路を通って出た先は、灯籠がらんらんと輝く天藍宮の瀟洒な寝室。
『苺苺、今夜はここで寝てくれないか』
『え?』
『俺は向こうの部屋で執務をしているから、問題があったら呼んでくれ』
『ええっ!?』
『おやすみ』
まるでそれが自然であるかのように紫淵は優しい手つきで苺苺の頬を撫で、そう言い残して寝室を出て行く。
はて? と思い室内を見回すと、木蘭の部屋にあるものよりも大きくて豪華な寝台の上には、紫色の堅物感のある枕が。
そしてその隣には、新品とおぼしきふわっふわの羽根枕が鎮座しているではないか。
『ええええええっ』
苺苺は思わず羞恥心にさいなまれ、ぶわりと頬を染め上げる。
『ま、待ってください! わたくしも行きます!』
弾かれるようにして慌てて寝室から飛び出した苺苺は、濃紫の深衣姿の紫淵の背中を追いかけた。
早足が捌く長い裾がふわりと広がるのに合わせて、後頭部を一部結って載せらた皇太子を表す冠の簪飾りと、背中に流された紺青の黒髪がさらさらと揺れている。
銀糸の刺繍が施された幅広の帯がきっちりと締め上げる腰はより細く見え、いつもの冷酷な雰囲気が漂う佩剣した武官姿とはまた異なる雰囲気だ。
地下通路では判らなかったが、この姿は紫淵をこの宮の主人たらしめていて、よりいっそう高貴さが漂っている気がする。
随分と見慣れてきた紫淵の姿との違いに、苺苺が少しどぎまぎしてしまうのも仕方ないだろう。
しかもそんな皇太子の寝室に枕がふたつ、なんてただごとではない。
(い、いいえ。気おくれしていても仕方ありませんっ。ビシッと行きましょう! ビシッと!)
そうして紅玉宮の本殿より長い廊下を通って辿り着いた先がここ、現在地である紫淵の執務室である。
(いったいなんだったのでしょうか……? もしかしてあれも豪華薔薇風呂と三食昼寝付きの〝異能の巫女〟の給金に含まれて……?? だとしたら不要な優待特典です)
苺苺は絹扇の裏からじーっと胡乱げな視線で紫淵をうかがう。
「なんだその目は」
「いえ。あの枕はなぜあんなところに? と考えていまして」
「ああ、あれのことか。今夜は君の安全を考慮してここにいてもらおうと思って用意した。枕がないと寝にくいだろう?」
「それは……ありがたいですが、その、なぜに安全を? 紅玉宮でわたくしが置いていただいてる部屋も、十分安全な気がするのですが……?」
「今日、後宮警備を担う宦官の詰所から、あやかし捕獲用の封籠が盗まれた」
紫淵の告げた言葉に、苺苺は驚きで目を見開く。
「美雀の起こした事件の混乱に乗じて、手薄になった詰所に何者かが侵入したらしい。目撃者はいないが、この手口は以前のあやかし……猫魈の時と同じだ」
「なんと!」
「実は『木蘭暗殺未遂事件』が起きた後、東宮侍衛たちに命じて皇太子宮内を徹底的に調べさせていた」
東宮侍衛とは皇太子である紫淵を護衛する武官だ。武官の中でも皇太子の直臣たる青衛禁軍所属になるため、より信頼できる精鋭部隊と言える。
内待省に属し皇太子宮を管轄する宦官に、皇太子宮内に関する報告は常々あげさせていたが、各妃たちの俸禄や食事、茶葉や反物などの下賜品も規定通りに行われていることになっていた。
紅玉宮の主人として目を光らせてはいた範囲では、皇太子宮に上がってくる報告通り。
だが実態はどうだろう。宦官や女官たちは私腹を肥やすために、白蛇妃が正当に受け取るべきものを着服していた。
閉鎖的な後宮内では、宦官による不正や横領もあり信用がおけない。私利私欲のために動く者も、他の皇子や貴族、妃嬪などと癒着して偽の報告をあげる者もいる。
そうなってくると、本来は後宮の門外を護衛する東宮侍衛を介入させることになる。
厄介な体質の紫淵は宵世に指揮権を預け、東宮侍衛長率いる武官たちに事件解明の証拠を集めてもらっていたのだ。
「とはいえ、主要部署は皇帝宮内。皇太子宮側に面する御花園までの捜索がせいぜいだったが、犯人も皇帝宮に罪をかぶせる度胸はなかったみたいだな。その捜査時、盗まれたものとみられる封籠が、鏡花泉付近にある竹林の中で見つかった」
(鏡花泉は水星宮の裏側に広がっています。竹林となると……)
「水星宮とは対角線上に位置する、御花園にほど近い場所でしょうか? 恐ろしい女官の方はそこに道術をかけた猫魈様を隠し、事件当日にあらかじめ籠の封を解いていたと」
「宵世が言うには、相当霊力のある道士になるとあやかしを式符に封じて従妖に下し、無言で命じるだけで自由自在に顕現ができるらしい。だが犯人はわざわざ封籠を用いている。しかも目くらましの呪文が書かれた呪符付きの、だ。これらの証拠から犯人が道術を使う際には呪文や儀式が必要となり、あらかじめ犯行現場を定めておく必要があると考えられる」
「ふむふむ。それで紫淵殿下は、恐ろしい女官の方が今回も同じ手を使われるはずだと……?」
「俺はそう考えている」
紫淵が険しい表情で頷く。
苺苺は寝台にあった枕のことなど忘れて、「それは一大事です」と眉根を寄せた。
昨晩、紫淵と一緒に呪妖を目撃した際、苺苺は女官宿舎のふたつの部屋で、蝋燭の灯りの中に揺れる呪妖の光を見た。
ひとつめは、春燕と美雀の部屋だ。
しかし、呪妖は宿主の周囲にとどまっている様子だった。ということは、あのどす黒い、強烈な殺意を抱いた末に生まれたような呪詛に近い呪妖とはどう見ても違う。
だが、もうひとつの部屋の光は、爛々としていて――。
事件を起こした美雀が捕まった今、疑いは確信に変わっている。
「美雀さんの起こした事件との関連性から鑑みても、そろそろ彼女が手を打つはずです」
「〝選妃姫に臨んだ妃が百日経たずに命を落とした場合、血族を代わりに妃とせよ。百日を皇太子宮で過ごした妃が命を落とした際はすべからく空位とする〟――選妃姫の『八華八姫』に関する規律だ。彼女の計画を遂行するためには、木蘭暗殺は百日以前に行われなくてはならない」
「つまり……明日、ですね?」
「ああ。だから君には今夜、ここで過ごしてもらう。美雀を操って、君の追放も暗殺も失敗した彼女が、君を紅玉宮から消し去るために今夜なにをしでかすかわからないからな」
「わかりました。では明日は何があってもすぐに対応できるよう、しっかり身体を休ませていただきます」
苺苺はその場を辞すために簡略の礼を取ってから、「ですが」と微笑みを浮かべる。
「わたくしは、枕があるのでしたら寝台ではなく長椅子でも大丈夫ですので」
「……は? 長椅子?」
「はい、今夜はこちらでぐっすり眠らせていただきます。長椅子が使用不可であれば、廊下でも、二階の楼榭も結構です!」
「ちょっと待ってくれ。俺の話を聞いていたか?」
「ええ、もちろんです。紫淵殿下は執務が終わり次第、ごゆるりと寝台でおやすみください。明日の木蘭様のためにもっ」
(わたくしが木蘭様と一緒ではないことを好機と捉えられてもいけませんし、今夜は夜警をおやすみして、ぐっすり就寝させていただきましょう。そして明日は全力で木蘭様をお守りするため、ぴったりくっついて過ごさせていただきますっ)
ふんすと気合を入れた苺苺は、紅珊瑚の瞳をごうごうと燃え上がらせる。
(とりあえず、先ほどの枕をいただいてこなくては)
その時。こんこんこん、と執務室の扉が入室の許可を求めて叩かれる。
「入れ」
紫淵が短く答えると、白磁の茶壺と蓋と茶托付きの湯呑である蓋碗を乗せたお盆を手に持った宵世が「失礼致します。お茶をお持ちしました」と慣れた足取りで入ってきた。
「僕のことは気にせず、お話の続きをどうぞ」
「ああ。もとより気にするつもりもないが。……珍しいな、宵世が白毫烏龍を淹れるなんて」
いつもは『時間がもったいないから起きておいてください』とか言って、眠気覚ましにすごく濃い茶を淹れるのに。
紫淵は手元に届いた茶器の蓋をふちを少しずらして、琥珀色をした白毫烏龍の果実と蜂蜜を思わせる香りを楽しみながら、怪訝な顔で宵世を見やる。
「まあ、そうですね。今夜はどうしても早く寝落ちしてほしいお方がいらっしゃるので」
(むむ? 紫淵殿下のことでしょうか? 確かに宵世様のおっしゃる通りです! 紫淵殿下も連日頑張りすぎですし、今夜は執務をお休みして明日に備えられた方がよろしいかと)
宵世は苺苺を『わかっていなさそうですが、そこのあなたですよ』という顔で一瞥すると、
「さあ、どうぞ」
と長椅子の前に置かれている低い卓子に蓋碗を置いた。
「白蛇妃様。明日は犯人に悟られないよう、僕を見つけてもできるだけ遠くにいてくださいね。東宮補佐官と白蛇妃が並んでいるのは至極不自然ですから」
「合点承知でございます。わあ、わたくし白毫烏龍は初めていただきますわ。ありがとうございます」
(最高峰の茶葉を寝る前のお茶として使われるだなんて、さすが天藍宮ですっ)
うきうきと好奇心で頬を緩ませた苺苺は、わくわくで逸る気持ちを抑えつつ、丁寧な所作で蓋碗を茶托の下から左手のひらに乗せる。
右手の親指と人差し指で蓋を摘んでずらし、すんすんと芳しい香りを楽しむと「ほう……」っと感嘆のため息をついた。
「とっても豊潤な香りがします。甘い蜂蜜や果実酒のような……?」
「発酵度が高いので。最高峰と呼ばれる由縁は、生産方法が非常に難しく、年に一度少量しか収穫できないこともありますが……。なんと言っても、美しい琥珀の艶めきを持つ水色と独特の深い甘みが、西方の上流階級に好まれる『香檳酒』を思わせるという――」
「ふ、あ………っ」
宵世は直立不動でつらつらと香檳烏龍とも呼称される茶葉の説明を行なっている横で、茶器に唇をつけてこくりこくりとお茶を嚥下していた苺苺が、唐突に呂律の回らぬ様子で呟いた。
その甘くとろけ落ちる蜂蜜のような声音に、紫淵はびくりと肩を揺らす。
慌てて苺苺の様子をうかがうと、苺苺の頬や目元は赤く蒸気し、けぶるような真珠の長い睫毛がの下では紅珊瑚の大きな瞳がとろとろと潤みを帯びていた。
その双眸がうっとり艶やかに、紫淵を捉える。
「しえん、でんかぁ……。なにか……ん、ん……っ、へん、れす……」
思わず食みたくなるほど濡れた赤い果実の唇が、たどたどしく名前を呼ぶ。
木蘭と刺繍と茶菓子にしか興味がなかった少女の、直視できないほどの色っぽい姿に、紫淵は頬が熱くなるのがわかった。
鼓動が否応無しにドキドキと激しくなる。
喉にきゅうっと甘い感情がせり上がり、反対に胸の内側が独占欲でずくりと切なく痛んだ。
「……宵世! お前いったいなにを茶に混ぜた……!?」
「香檳酒ですけど」
焦ってガタリと椅子を揺らしながら立ち上がった紫淵に対し、宵世は悪びれもなくケロリと言う。
「は、はあ? 香檳酒だと!?」
「ええ。以前、紫淵様が白蛇妃に下賜されていた西方の品つながりで。あの時に国使の方からいただいた最高級品です。これぞ本当の香檳烏龍ですね。おや、一気に飲むとはなかなか」
宵世は苺苺の手の中にある蓋碗を確認し、爽やかな笑みを浮かべる。
「白蛇妃のことですから、どうせ長椅子で寝るとか、廊下で寝るとか、二階の楼榭にある寝台で寝るとか言いだしそうだと思いまして」
「ぐっ。全部当たっているから言い返せない」
「紫淵様は長剣抱えて紅玉宮の寝室で寝る気でいるんでしょう? それならそうと最初から話せばいいんですよ。心配かけまいとしても逆効果です」
執務が終わったあと、確かに紫淵は木蘭の寝室でおとりになるつもりでいた。
なにもなければそれでいい。しかしなにかあった時は、青年の姿であれば遠慮なく長剣も振るえるので、あやかしにも遅れはとらない。
「白蛇妃がいない紅玉宮で今夜中に片がつけば良いですが、終わらなかったらどうするんです?」
「それはわかっているさ。だから、そのだな……あとで寝台に運べばいいかと」
「甘いですね。どうせ途中で起きて、『紅玉宮へおともします!』とか言いだしますよ」
宵世はげんなりした様子で、空中をぽやぽやと眺めている苺苺を見下ろす。
明日の紅玉宮ではなにが起きるかわからない。
極限まで気を研ぎ澄まして、白蛇妃は〝異能の巫女〟として木蘭と自分自身の命を守らなくてはいけないのだ。
廊下や外で寝られて風邪でも引かれたら困るし、長椅子で横になって疲れがとれなくても困る。
今日だって美雀が起こした事件を解決したばかり。連日の疲れが溜まっているのは我が主だけでなく、この憎たらしくもついつい世話を焼きたくなる存在も同じで――。
宵世は肩を下げながら大きなため息をつく。
「とにかく、天藍宮の寝室以外で寝られたら面倒ですからね……って、もう眠ってますね」
いつのまにか長椅子にくたりと横になっていた苺苺の顔を、宵世が覗き込む。
先ほどまでの、とろけるような艶やかな表情は夢だったのかと思えるほど消えさっている。
紫淵の胸を切なく掴んでいることなど知りもしない苺苺は、「むーらんしゃまぁ」となんの夢を見ているのかわかりやすい寝言を唱えながら、すぴーすぴーっと安らかな寝息をたてていた。
「こんなに酔うなんて、きっと酒も少量しか口にしたことなかったはずだぞ」
「そうでしょうね、思ったよりも効きすぎました。ですが大丈夫です。僕は耳が良いので、何かあったらすぐに駆けつけられますよ」
そう言って、宵世は夢の中に旅立っている苺苺を、紫淵の寝台に運ぶため担ぎ上げようとして、
「……宵世。俺がやる」
音もなく隣へやってきた紫淵に腕を掴まれた。
普段はただただ冷たい紫水晶の双眸の奥に、仄暗い熱が揺らめいている。
それは白蛇妃に対する、激情とも呼べる苛烈な独占欲や嫉妬心。
「……殺気だだ漏れじゃないですか。やめてくださいよ。僕はあなたの忠実なる従僕で、暗器で、あやかしです」
「……そうだな。お前は俺の悪友で、右腕で、あやかしだ。疑ってなんかいない」
紫淵がそう告げた時には、宵世が感じていた突き刺さるような威圧感はおさまっていた。
紫淵は苺苺の両膝の裏に腕を回し、背中を支えて抱き上げる。いわゆるお姫様抱っこだ。
羞恥心で頬を染めた紫淵は、ちょっと拗ねたような表情をしているものの、どこか満足げに幸せそうな顔で苺苺を見つめている。
望めばこの国のすべてを手に入れることができ、ゆえに本当に欲しいものは手に入らない次期皇帝が、唯一気にかけ、心を寄せる……――仮初めの皇太子宮の妃。
けれども、きっといつか近い将来、主人は白蛇妃を手に入れるのだろう。
宵世は幼い頃の紫淵を思い出す――。
あの頃の紫淵は、後宮妃たちから向けられる壮絶な悪意と悪鬼が歴代の皇太子に向けていた怨念のすべてを被ってしまい、瘴気に呑まれてほとんど鬼化しかけていた。
その呪詛を命がけで押さえ込んでくれたのが、白家で九尾の銀狐に過保護に庇護され、さらには溺愛されて育った幼い苺苺だった。
今も昔も、彼女は兄が数百年を生きる神獣だとは知らない様子であるが、あの日、力尽きて昏倒してしまった苺苺の記憶を封じたのは、宵世と同じく特異な存在である彼女の兄だ。
宵世は幼い紫淵が苺苺と過ごした日々の記憶を対価に、東八宮の地下に封じられた悪鬼の封印を再び強固なものにした。その際にほとんどの霊力を失うことになったのだが、後悔はしていない。
そして、静嘉に言われた通りに宵世は密約を交わしたのだ。
『ふたりに起きたことはすべて内密に』
『わかりました。ふたりは出会ってなど、いなかった』
……あれから九年。ひとつの九星が巡り、幼かった皇子も大人になった。けれど。
武芸に秀で、誰よりも冷酷な処断を指先ひとつで行えるようになった紫淵様が、また再び白蛇の娘に惹かれることになろうとは……。
宵世はかすかに眉を下げて、自らの主人を見つめる。
現在、紫淵の身に起きている怪異――性別が変わり、年齢も後退して幼女に変化するという怪異は、苺苺に封じてもらった悪鬼の怨念とは別ものだ。
建国時代から歴代の皇太子を蝕んできた呪詛で、皇太子が成人の儀を迎えるまでに命を落とすよう仕向けるためのもの。そのため起きる事象は大小さまざまで多岐に渡る。そして呪詛の発現は兆候にすぎず、年数を経て怪異に変わる。これが非常に厄介であった。
……だが、この世でもしも主人を怪異から救えるとしたら、それはきっと白蛇の娘だけ。
そう考えて、危ない橋を渡る決意をした。
紫淵と苺苺が再び出会うことで、悪鬼の封印が綻びるのではないかと懸念し、不安に思わないはずがなかった。
そして美しく可憐な少女に成長した苺苺が、歴代の白蛇の娘のように後宮だけでなく紫淵自身にも災いをもたらすのではと警戒していたわけだが――どうやら、どちらも杞憂だったようだ。
苺苺の人となりには、長い時間を生きた宵世にもどこか惹かれるものがある。
そんな彼女へ向ける主人の視線が過去見たこともないほど柔らかくて甘いものだから、宵世はなんとなくイライラしてきて、『はいはい、末永く爆発しろ』と作り笑顔を浮かべながら紫淵を見送ったのだった。
◇◇◇
翌朝。苺苺が目を覚ますと、紅玉宮の木蘭の寝室にいた。
窓紗が掛かった格子窓からは薄く陽が差し込んできている。
上半身を起こして見回すと、大きな寝台の真ん中ほどで眠っていたらしい自分とは遠いところに、小さく蹲るように眠っている木蘭の姿があった。
(あんなところに木蘭様がっ! 寝台から落ちなくてよかったです……!)
苺苺は抜き足差し足で寝台から降りて、寝ぼけたままあくびをする。
(それにしても、ふわわわ……。昨晩は天藍宮に行ったような気がしたのですが、夢だったのでしょうか? なんだか紫淵殿下と言い合いをして、宵世様から美味しいお茶を勧められたような……?)
「ん、苺苺。起きたのか……?」
んんん、と小さく唸りながら木蘭は寝ぼけ目をこすった。
「おはようございます、木蘭様。お支度をお呼びいたしますね」
「ああ」
苺苺が扉の閂を外して、部屋の外にいる女官に声をかける。
その姿を木蘭は寝台に座ったまま眺めながら、小さな指先で、眉間にできた幼い顔に似合わぬシワを揉む。
「くそっ。不眠症が解消されたと思ったらすぐ眠く……っ」
――結局、一晩中ここで佩剣し犯人を待ち構えていた紫淵だったが、犯人は現れなかった。
あやかしを使役するのなら夜が一番霊力が強まる。
だが、それを押してでも、木蘭を〝異能の巫女〟から切り離したところを狙いたいのだろう。
自分の手を汚さぬために、ギリギリまで粘って仕組んだ美雀を使った策略が潰えというのに、決して勇み足になったりはしない。
時間が押し迫った分、彼女は木蘭を確実に仕留めたいのだ。
『……頃合いか』
紫淵は周囲の気配を探り、長い前髪を搔き上げる。
そろそろ女官たちが起き出す時間だ。今から数刻は安全だろう。
そうして朝陽が昇る前に天藍宮に戻り、紫淵の寝台でぐっすりと眠っていた苺苺を抱き上げて、この部屋へ連れて帰ってきていた。
しかし、朝陽が昇り木蘭の姿になった途端、壮絶な眠気が襲ってきて、ついつい一瞬で意識が飛んでしまっていた。
やはりこの身体は不便だと、こんな非常時にはことさらに実感する。
そんなことを木蘭が思考していると、部屋の扉の外から入室の許可を求める声がしたのちに、彼女がしずしずといつもと変わらぬ様子で綺麗な礼を取る。
「おはようございます、木蘭様。朝のお支度をお手伝いいたします」
「おはよう。頼む」
決して仮面を剥がすことなく貞淑に振る舞い、慎重に一歩一歩確実に詰めていく姿勢は実に見事。
――やはり紅玉宮の筆頭女官に相応しく、肝が座っていてぶれないな。
木蘭は朱家の娘らしい完璧な所作の礼を取る若麗を前にして、すっと冷たく目を細めた。
身支度を整えたあとは、紅玉宮の広間でいつもの朝餉だ。
しかし今回は給仕を行う女官の顔ぶれが違った。苺苺はぱちくりと瞬きをする。
「若麗様が朝餉の席にいらっしゃるのは珍しいですね」
大きな深皿から、海老や貝柱の出汁で作られた豆漿粥をお玉で掬った紅玉宮の筆頭女官に、配膳されるのを待っている苺苺はお行儀よく話しかける。
「昨日の事件の混乱であちらこちらの仕事が滞っておりますので、私がお手伝いに加わったんです」
「そうなのですか。お忙しい中、ご準備していただきありがとうございます」
「いいえ、滅相もございません。私どもは紅玉宮の女官ですから、木蘭様と苺苺様が健やかにお過ごしいただけるように尽くすのが使命ですので、どうかお気になさらずに」
若麗は頼りになるお姉さんらしい優しげな笑顔を作る。
そんな会話の最中も他の女官たちが次々に料理をよそい給仕をしてくれているが、どこか皆元気がない。
木蘭はそんな様子を見るに見かねて、「配膳を終えた料理から下げるように」と言う。
「今日の朝餉は苺苺と妾のふたりでとることにする。皆、早めに朝餉を食べて休み時間をとるように」
そう告げて、広間から早々に女官たちを退出させることにした。
侍女見習いの立場にある年若い中級女官たちは、料理の乗った皿を持って木蘭と苺苺に礼をすると急いで踵を返し、
「わあ、豪華な朝餉だわ」
「木蘭様が私たちの心を気遣ってくださったのですね」
「見て、紅棗と枸杞子がこんなにたくさんっ」
「豆漿粥の色合いってなんだか白蛇妃様みたいでお洒落よね? 美容に良さそう」
「私、この海老の小籠包が食べたいわ! それからこっちの〜」
などと口々に喋りながら嬉しそうに広間を出て、女官たちの私室がある棟に向かって行った。
「若麗も皆と一緒に朝餉を食べに行ってくれ」
「ですが」
「幾つだと思っているんだ。妾とて、朝餉くらい食べられる」
木蘭は栗鼠のごとく頬を膨らませる。
(はわわわっ! 朝からなんて貴重な! 栗鼠ちゃん姿の木蘭様、かわゆいです!!!! 次のぬい様は栗鼠ちゃん姿にしましょう……っ! ぬい様と栗鼠ちゃん様、それから寝衣のあやかしちゃん姿のねむねむ様、きっと並べたら壮観に違いありません……!)
苺苺は両頬を押さえて、めろめろになる。
そんな紅玉宮の妃二人の様子に、若麗は「ふふっ」と吹き出すように微笑んでから、「わかりました」と折れた様子で頷く。
「では先に、本日のご連絡をお伝えいたしますね」
「うむ」
「徳姫様が主催のお茶会は、未の刻までにお集まりをとのことでした。場所は金緑宮ではなく、鏡花泉の東の四阿だそうです。お手土産はどうなさいますか?」
「どうせ次の選妃姫の腹の探り合いをする茶会だ、徳姫が喜びそうな茶菓子でいいだろう。朱州の桃花月餅はどうだ?」
桃花月餅とは朱州の銘菓で、桃花の塩漬けを練りこんで作る、鮮やかな桃色をした月餅だ。
「良いご判断だと思います。それでは準備が整い次第、お支度のお手伝いに参ります」
若麗はそう言って礼を取ると、しずしずと広間を辞した。
「さすが木蘭様ですっ! 姚家の姫君であらせられる徳姫様は『探春の宴』で桜花舞を披露されていましたから、『月日が移ろった今でも徳姫様の優美さを忘れることは誰もできません』と、桃花月餅でお伝えなさるのですね! きっと徳姫様や徳姫様推しの女官の皆様も、お喜びになると思います」
「そうだな」
つんと澄ました顔で木蘭はそう言って、豆漿粥の器を手に取る。
茶会に呼ばれた妃たちは、茶会の主催者、そして時には参加した妃たちに手土産を配る。
それには血筋による家格を示したり、妃としての階級と威厳を知らしめたり、時に皇太子の寵愛を匂わせて他妃を牽制し、はたまた配下として庇護を仰ぎたいと擦り寄ったりと、ひとつの品に様々な思惑が複雑に絡ませてある。
その思惑を正しく読み取るのもまた後宮妃の生きるすべ。
足元をすくわれぬよう、本当の心を隠し、自分の意のままに操れる者こそが強者として君臨できる。
木蘭が今回の土産に選んだのは玉でも反物でもなく、ただの茶菓子だ。
貴姫として、決して徳姫にへりくだる品じゃない。
だが、茶会の主催者は必ず気を良くする。他の妃たちも、最上級妃が贈った土産に滲ませた年上の妃への羨望に警戒心をおさめる。
表面上は穏やか笑顔を絶やさず、『次の選妃姫では自分こそが一番に選ばれるはずだ』と、腹の中では強い自信に酔うだろう。
それこそが木蘭の狙いであった。
茶会に集った誰もが、自分自身を過信し、――最下級妃の白蛇妃の存在を忘れてしまえばいい。
「ふふふっ。噂をすれば桃花月餅です」
苺苺が円卓の上にそっと並べていた〝龍血の銘々皿〟に現れた、呪毒の宿る茶菓子もどきへ手を伸ばす。
「朝餉の時間にお茶菓子が出るのは初めてですね」
「……朝餉の時間まで悪いな」
「いいえ! わたくし、木蘭様のためなら悪意も美味しくいただきますっ」
そう言って、苺苺は「いただきます。はむっ、んんん……! おいひいです〜〜〜!!」といつものように極上の茶菓子を味わう様子で頬を緩ませながら、呪毒を食べた。
皇太子宮の宦官や女官たちが、なんの後ろ盾もないのに白蛇妃に嫌がらせをしたり、与えられる褒賞や下賜品を横領したりできるはずがない。
彼らの後ろには妃の存在がある。
白蛇妃に罪をなすりつけて、自分たちを正当化したあと、上手に庇いだてしてくれる妃がいるのだ。
だからこそ、紫淵は思う。今に見ているがいい、と。
俺がただひとり、どこまでも甘やかし尽くして幸せにしてやりたいと願うのは、この能天気な『白蛇の娘』。
――白苺苺だけだ、と。
頬を高揚させて美味しそうに呪毒を頬張る苺苺を眺めながら、愛らしい幼妃は策士な笑みを浮かべた。
◇◇◇
朝餉を終えてしばし歓談した後は、木蘭の寝室の隣にある私室へ場所を移した。
ここは本殿に造られたいわゆる書斎にあたり、立派な格子窓からは壺庭が望める。
(銀花亭の白木蓮はそろそろ終盤に入る頃ですが、紅玉宮の紫木蓮の花はあとひと月は見頃でしょう。窓を開けているので芳しい香りがしますね。木蘭様の香り、というかどちらかというと紫淵殿下の香りを思い出すような気も?)
厳粛な気高さを思わせる優雅な花の香りと、その深層で香る蜜の甘い匂いは、天藍宮で焚かれていた香炉から漂っていた匂いにも似ている。
(そういえば、こちらの書斎の調度品の配置も、紫淵殿下の執務室に似ていますね)
ぼんやりと昨夜のことを思い出していた苺苺はふとそんなことを考えながら、壺庭の紫木蓮の手入れをする木蘭を愛でながら刺繍を楽しむ。
本日は茶会の予定もあるので、木蘭の手習いはすべて休みだ。
なので苺苺はこうして、できるだけ木蘭のそばにつきっきりで過ごす。
苺苺の腰掛ける椅子の前にある茶机には、たくさんのぬい様が入った藤蔓籠が置かれており、その向かい側の長椅子には、めいっぱい陣取った白蛇ちゃんたちが朗らかな顔で鎮座している。
いざという時のための準備も万端だった。
「……木蘭様、苺苺様。怡君でございます」
扉の外から入室の許可を得る声が掛かる。
「どうぞお入りください」
壺庭にいた木蘭の代わりに苺苺が答えると、女官用の普段着ではなく正装した怡君が、「失礼いたします」と部屋に入ってきた。
木蘭もそれに気がつき、室内に入る。
「木蘭様、そろそろお召し替えのお時間でございます。どうぞお支度部屋へ」
「わかった。支度は怡君が手伝ってくれるのか?」
「私と春燕と鈴鹿がお手伝い致しますよ。若麗様は最終確認を終え次第、こちらに」
「そうか。それじゃあ苺苺、ここで好きに過ごしていてくれ」
「ありがとうございます。行ってらっしゃいませ、木蘭様」
「ああ、行ってくる」
書斎から出て行く木蘭と怡君を、苺苺は穏やかに見送る。
木蘭の衣裳がずらりと並ぶ支度部屋は本殿内にあり、この書斎とも近いので、もしあやかしが出てもすぐに助けに行けるだろう。
(本日もお茶会のお呼ばれはありませんので、わたくしは個人的に、あくまで私用で鏡花泉の東の四阿へお散歩に行かせていただきましょう!)
決定的な瞬間を押さえるためには、付かず離れずの距離感も必要なのだ。
「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
苺苺は少し調子の外れた能天気な歌を口ずさむ。
手元の絹布に通していた〝白蛇の鱗針〟を引っ張り、図案の裏側で針目に糸を何度もくぐらせて絡めると、きゅっと針を引っ張ってから糸を丁寧に鋏で切った。
それからほどなくして、書斎の扉の向こうから再び入室許可を求める声が響いた。
苺苺が「どうぞ」と促すと、「失礼いたします」と怡君と同じく女官の正装に身を包んだ若麗が入ってくる。
今日の若麗はとびきり綺麗であった。
(朱家の三の姫であることを忘れさせない凛とした立ち振る舞い、そして紅玉宮の筆頭女官として貴姫である木蘭様を引き立てるお衣裳と髪飾り選び……。お見事です)
もし彼女の前に木蘭が立っておらず、後ろに怡君と春燕、鈴鹿が並んでいたら、清楚な朱家の妃に見えるかもしれない。
けれど幼くとも覇気のある木蘭という存在が、彼女たちを最上級妃の上級女官として正しくまとめ上げていた。
(もしもここが皇帝陛下の納められている後宮であったならば、若麗様は今宵、女官から一夜にして寵妃になられるでしょう)
そう思わせるほどの嫋やかさが、今日の若麗からは見え隠れしていた。
「出発の挨拶に参りました。私どもは木蘭様とご一緒いたしますので、なにかご不便がおありでしたら、他の女官たちにお申し付けくださいね」
「わかりましたわ。わたくし〝異能の巫女〟とは名ばかりで、あやかし退治もできていない居候ですのに、細やかなお気遣いをいただきましてありがとうございます」
「いいえ、そんなにご謙遜なさらないでください。苺苺様がいらしてから、木蘭様の笑顔が増えて、紅玉宮が明るくなりました。今までの木蘭様はしかめっ面で、なんでもひとりでおやりになることが多かったですが、今は苺苺様に甘えられたりと……ふふっ、年齢相応で。ご成長が楽しみです」
「かわゆい木蘭様は無敵ですっ。本日のお茶会でも、木蘭様が元気で健やかにお過ごしになれるよう願いながら刺繍をしつつ、こちらでお留守番をしていますね」
「お願いいたします。それでは」
若麗が腰を折って挨拶をし、踵を返して……肩越しに振り向く。
「あの、木蘭様のお部屋に、昨夜は紫淵様がいらしたのですか?」
「はい?」
苺苺は突然の質問にきょとんとした。
若麗は身体を苺苺に向けなおし、頬を染める。
「紅玉宮の閂は閉まっていたはずですが、まさかお忍びで? 美雀の起こした事件の調査でいらしたのでしょうか? 紅玉宮の筆頭女官として、紫淵様をお出迎えできず申し訳なかったです」
熱くなった頬に片手を添えて隠した若麗は、恋慕の情を抱える姫のような表情で黒い瞳を潤ませた。
(し、紫淵殿下ッ!! なぜかわかりませんが若麗様にはほとんどバレてますっ!!)
ギクリと顔を強張らせた苺苺は『とにかく上手に言い訳をしないと!』と、胸の前で両手をぶんぶんを横に振る。
「いっいいえ! 来られては、いませんでしたね?」
「ですが苺苺様から紫淵様の焚かれる香の匂いがかすかに……。御髪でしょうか?」
「ええっ!? そんな匂いが!?」
すんすんと自分自身を匂ってみるが、わからない。
「あっ! 木蘭様の寝台で、一緒に寝させていただいたからでしょうか!? それとも、こちらのお部屋も木蓮の香りでいっぱいですし、その香りでしょうかっ!?」
(紫淵殿下のお部屋の香りと似ていますし、この言い訳で押し通すしかありませんっ)
「あの、若麗様? どうかしまし――」
苺苺があたふたと言い訳をしていると、若麗の真っ黒な双眸がすっと温度をなくす。
そして紅を引いた口元に、不気味な弧を描いた。
その瞬間。
――ザクッ! ザクザクザクザクザクッ!
長椅子の上にあった白蛇ちゃんたちが、刃物で斬りつけられたかのように、次々と腹を裂かれていく。
一瞬にしてすべての白蛇ちゃんが無残な姿に成り果たその刹那、若麗の周囲にぶわりと黒い胡蝶が舞った。
若麗は今しがた起こった怪奇現象に目もくれず、余裕のある笑みを浮かべる。
「私、ずっと苺苺様が羨ましかったんです。最下級妃でも妃は妃ですから。……けれど、それもきっと今夜まで」
ひらひら、ひらひら。
若麗の周りを不気味に彩るように、燐光を撒き散らすどす黒い呪妖が踊る。
あの時の……呪詛に近い黒い胡蝶が、今にも苺苺に襲いかかろうとせんとさざめいた。
「そろそろお茶会の時間ですね。私はこれで失礼いたします」
「はい。木蘭様をよろしくお願いいたします」
呆気にとられた苺苺は、小刻みに震える手を悟られぬよう気丈に振る舞い、挑戦的な笑顔を浮かべながらそう返答するので精一杯だった。
若麗が退出した部屋で、無意識に詰めていた息をふうっと短く吐く。
(美雀さんの呪妖と比較すると、まさに育ちきったという表現がふさわしい姿でした。美雀さんの呪妖が蛹から孵ったばかりの蝶なら、若麗様のは……豊富な呪毒を含んだ霊気という〝蜜〟を吸い尽くして育った胡蝶の女王)
「――呪詛になる前に、決着をつけなくてはいけませんね」
苺苺は静かに決意を固める。
椅子から立ち上がると、長椅子に横たわるズタボロになった白蛇ちゃん抱き枕をそっと手に取った。
「うううっ、今夜はお別れ会です……っ。のちほど宵世様からありったけの爆竹をお借りましょう。ばばばーんと白蛇ちゃんたちの無念を晴らさなければ……」
苺苺はえぐえぐと涙を流しながら、「悲しいです」と腹綿の出た白蛇ちゃんに頬ずりした。
部屋の中に散り散りになった白蛇ちゃんたちを一箇所に集め、飛び散った腹綿の回収を終えた苺苺は、「これでよしっ」と額を拭う。
(そろそろ鏡花泉へ向かいましょう。木蘭様は、そろそろ金緑宮を過ぎたあたりでしょうか?)
苺苺はたくさんのぬい様を入れた藤蔓の籠を手に持つ。
上級妃は御輿に乗り、それを宦官に担がせ、周囲に女官を侍らせてて移動することも多いが、小さな空間内ではいざという時に逃げ場を失う。そのため木蘭は、『今回は徒歩で向かう』と話していた。
紅玉宮は後宮の入り口のそばである、もっとも天藍宮に近い場所にある。鏡花泉はその真反対で、皇太子宮の最奥。水星宮の近くだ。
まっすぐ一本道の大通りを通っても、木蘭の幼い足ではかなりの時間がかかる。
(鏡花泉に到着なさる前に追いつけたらよいのですが。近くまでは走って、こそっと身を隠しましょう)
考えつつ、苺苺は書斎を出て、本殿の扉を開こうとする。だが、しかし。
「えっ、ええっ? ……――扉が開きませんッ!」
ガタガタと揺らしてみても、扉はびくともしない。
扉の内側の閂はかけられていない。となると。
「外から鍵を!? あわわわわ、まさか閉じ込められてしまうとは……!!」
苺苺は顔を蒼白にして打ちひしがれる。
「なぜ気がつかなかったのでしょうか……。きっと若麗様が出発を告げにきた後に、本殿からお人払いをなさったのですわ……!」
(木蘭様やわたくしに悟られぬよう、内密に女官の皆さんたちへ指示を出されていたのですね)
この時間ならば本殿で掃除をしている中級女官たちも、いつのまにかいなくなっている。
朝餉のこともある。彼女たちは若麗から『今日は掃除を早めに切り上げて休憩をとってほしいと、木蘭様からの伝言よ』と聞いて、掃除を中断して外から鍵をかけたのかもしれない。
白蛇妃はすでに外出したとか、別棟の自室で休んでいるとか、言い訳はどうにでもなる。
「……こ、こうなったら窓から出ましょう!」
苺苺はパタパタと走って自分が出られそうな大きな窓を探そうとする。
が、どの部屋の扉も錠前がかけてあり、鍵が閉まっていた。
「な、な、な。全部だめだなんて〜〜〜っ! さすがは紅玉宮の防犯意識です……!」
仕方ないので廊下の小窓の鍵を開けて、「どなたかいらっしゃいませんかーっ!」と力いっぱい叫んでみるも、外には人っ子ひとりいる様子がない。
「もしかして……皆さん、お出かけに……?」
(ありえます。昨日の今日ですし、若麗様が突然『お休み』を言い渡されて……お茶菓子を詰めて、後宮内のどこかに遊びに行かれたのやも……! どうしましょう、この調子では紅玉宮の門も外側から錠前がかかっているはずですっ)
残すは書斎しかない。
苺苺は急いで襦裙の裾をひるがえし、本殿の奥へと引きかえす。
「きっと壺庭からなら……!」
壺庭に面する床から天井までの大きな格子窓は、引き戸になっていて庭に出ることができる。
(高い塀に囲まれてはいるものの、その壺庭をぐるりと回れば、本殿の二階に続く階段があります。楼榭から屋根に降り立って、それで、そこから……どうにかなるでしょうかぁぁぁ!?)
屋根の上なんか歩いた経験もない。
「ううっ、いまさらですが、練習しておくべきでしたッ」
苺苺は急いで壺庭を出て、真っ白な髪をなびかせながら中庭を走る。真珠色のそれは陽の光を浴びてきらきらときらめいて美しいが、反対に表情は『あわわわわ』と聞こえてきそうな必死な形相をしていた、
大袖を翻しながら階段を登って、楼榭の上を走り、苺苺は二階の欄干に勢いよく両手で捕まる。
「ど、どなたか、いらっしゃいませんか〜〜〜っ」
最後の足掻きに叫んで、ぐっと唇を噛み締める。
(これはもう、屋根に降りて、どうにかして紅玉宮の塀に飛び移るしかありません)
「木蘭様の命をお助けするために、わたくしはここに来たのです。屋根くらい……塀くらい越えられなくてどうしますかっ! 女は度胸ですっ! いきますよっ」
苺苺は欄干の前から一度大きく下がってから、呼吸を整え、助走をつける。
「いっ、せー、のー、せいっ!」
そして勢いよく欄干を飛び越え、そのまま屋根の黄瑠璃瓦の上を全速力で駆けた。
まるで鳥になったような気分だ。今ならなんだってできる気がする。
(本殿の屋根から一番近い塀瓦の上に飛び移れたら、こちらのものです! あとは紅玉宮の外に降り立って、全速力で――)
「あっ!!」
つるっと、瓦の上で足が滑った。
今ならなんだってできる、だなんて強めの錯覚に過ぎなかったらしい。
ひやりと五臓六腑が浮かぶ感覚がする。
「おっ、落ち――っ! …………ない?」
「はぁぁぁ。あなたって本当に世話が焼けますね」
苺苺は、いつのまにか宵世の腕の中にいた。どうやら屋根の上から落ちそうになっていたところを、抱きとめられたらしい。
状況を理解して、苺苺は頭上に疑問符を浮かべる。
「へ? 宵世様? どうしてこちらに?」
「あなたが鏡花泉に現れないからですよ。仕方がないから様子を見に来たんです。そしたら屋根から滑り落ちそうなあなたを見つけたので」
宵世は苺苺を横抱きにして、軽々と跳躍し、紅玉宮の塀を越える。
そしてそのまま、人気のない屋根瓦の上を物凄い速さで走り出した。
「ひ、ひえぇ。早すぎです、宵世様っ」
「口、開けてたら舌を噛みます。閉じてください」
「は、はいっ」
「犯人に悟られないよう、僕を見つけてもできるだけ遠くにいてくださいとは言いましたが、ここまで離れた別行動は望んでません。茶会はもう始まっている頃です。まったく、紅玉宮に閉じ込められるなんて。どれだけ鈍臭いんだか」
「すみません……」
「あなたは木蘭様のあやかし避けなんですから、現場にいてもらわないと困るんです。しっかり〝異能の巫女〟してくださいよ」
「すみません……」
「…………まあ、閉じ込められたくらいでよかったですよ。怪我はないですか」
宵世はばつが悪そうにそう言って、ちらりと苺苺を見下ろす。
その目元はうっすらと紅色に染まっている。
けれどビュンビュンと吹き抜ける風圧で目が開けられなかった苺苺は、毒舌宦官の言葉に打ちひしがれたまま、「ないですッ! お助けくださりありがとうございます!」と力の限り叫んだ。
(それにしても、さすが東宮補佐官様です。とっても身軽で運動神経も良いのですね。紫淵殿下も足音がしませんし、皇太子殿下とその右腕は、これほどの妙技を持っていなくては危険なのやも……!)
明らかに人間業とは思えない宵世の移動方法に対し、苺苺はただただ羨望の眼差しを向ける。
「……なんですか、その目は。そろそろ鏡花泉の東に着きますよ。自分の足で走る準備しててください」
「はい」
苺苺がひとつ頷くと、宵世は水星宮の塀の屋根から降り立ち林の中を駆け抜ける。
宵世が大きな木の太い枝を飛び移って移動していくうちに、苺苺の目にも拓けた場所にある四阿が見えた。
四阿では華やかに着飾った七人の妃が、様々な表情でお茶や点心を楽しんでいる。
選妃姫の課題である『香包』について、各々の解釈や進行状況、完成品の程度の予測を言葉巧みに聞き出しているのだろう。
その周囲には正装した女官が総勢四十人ほどいるだろうか。
朗らかに見える七妃たちのおしゃべりの裏で、女官たちは互いを牽制しあっている様子だ。
その時。
宵世と苺苺は視界の端に、牙を剥いた獅子ほどの大きさの三毛猫が四肢を躍動させ、猛突進している姿を捉えた。
その首に靡くのは音の鳴らない鈴付きの、純白の披帛。
「あれは!」
「猫魈様です!」
あやかしの急襲に気がついた女官たちが、「きゃあああ!」「あやかしよ!」「逃げて!」と甲高い悲鳴をあげ、逃げ惑い、その場は阿鼻叫喚となった。
猫魈は「シャァァァアアア!」と咆哮し一直線に木蘭を目指す。
木蘭の後ろで控えていた怡君と春燕、鈴鹿が可哀想なくらいガタガタと震えて顔面を蒼白にしながら、木蘭を守るようにして腕を広げて、前に出た。
騒然としたその場に降り立った宵世の腕から、苺苺は弾かれるように飛び出す。
そのまま木蘭の前に躍り出て、そして、
「猫魈様!」
と苺苺は腹の底から大きく叫んだ。
ぴくりと耳を動かした猫魈の双眸と、苺苺の瞳がかちあう。
牙を剥いた猫魈の開いていた瞳孔が針のように細くなった。
迷いなく後脚に力を込めた猫魈は、大きく躍動し、苺苺へと飛びかかる。
「シャァァァァッ!」
「苺苺――!」
木蘭の切羽詰まった叫び声が猫魈の咆哮と重なる。
獅子ほどの巨体が苺苺に突進するかと思われた、その時――。
「にゃーんっ」
「あうっ」
猫魈が苺苺の肩に両前脚をかけ、勢いよく押し倒した。
苺苺はごちんと地面で頭を打って、思わず舌を噛む。
大きな姿の猫魈はとたんに子猫ほどの大きさになると、ぺろぺろと苺苺の頬を舐めた。どうやら妖術を使ったらしい。
「にゃぁぁぁん」
「ああ、猫魈様……。そうだったのですね。またお大変なめに……!」
苺苺は地べたにペタリと座り込むと、子猫になった猫魈を手の中でよしよしと撫でる。
猫魈の話から推察するに、猫魈はまた名が刻まれた式符で道術を使われ、後宮内に顕現されてしまったようだ。
しかし苺苺がくれた友情の証のおかげで、道士に意識までは操られずに済んだらしい。
『木蘭を喰い殺せ』と再び命じられたが、寸前まで使役の術にかかったふりをして、木蘭を安全なところへ連れ去ったうえで苺苺が来るのを待つ気でいたとか。
「あやかしに喰い殺せと命じるなんて、非道な女官だ」
「へ? すみません、宵世様。今なんと?」
「いいえ、なんでもありませんよ」
猫魈を抱き上げる苺苺の隣に、眉根を寄せながら立った宵世が首を横に振る。
その宵世がどこぞへ合図を送ると、隠れていたらしい青衛禁軍に属する東宮侍衛の武官たちが、四方八方を取り囲んだ。
「四半刻ほど前、『あやかしが後宮内に侵入した』との報告を受け――、あやかしを退ける力を持つ〝異能の巫女〟として紅玉宮預かりになっていた白蛇妃を伴い、巡回していた最中でした。あやかしを引き入れた首謀者を炙り出すため、ご報告が遅れましたこと誠に申し訳ございません」
宵世はまったく申し訳なさそうではない顔で淡々と口にすると、
「貴姫様、淑姫様、徳姫様、賢姫様、令儀様、芙容様、彩媛様、お怪我はございませんでしたか」
とこれまた淡々と言う。
墨をこぼしたような黒髪美青年を前に、妃たちは頬を赤らめてふるふると小さく首を振る。
あやかしに阿鼻叫喚だった女官たちも、見目麗しいと女官や宦官たちに人気の高い宵世の登場で、悲鳴を黄色い声に変えていた。
今まで張り詰めていた緊張の糸が緩む。
だがしかし、誰もが白蛇妃への感謝など抱かずにいるようだった。
宵世の脇に歩み立った木蘭が、周囲を見渡してから、最上級妃らしく背筋をぴんと伸ばして叫ぶ。
「皇太子宮に侵入したあやかしは、『白蛇の娘』が弱体化した。皆の命を救わんと、命懸けでこの場に駆けつけた白蛇妃に、すべからく叩頭せよ!」
そんな木蘭の言葉を聞き最初に反応を示したのは、一番背の高い中性的な容貌の美姫、碧家出身の淑姫だった。
「感謝いたします、白蛇妃」
彼女は美しく丁寧な所作でもって叩頭する。
その凜とした声に、我に返った五妃たちはどこか不満そうに戸惑った表情を浮かべながらも、「感謝いたします」と淑姫に続くようにして叩頭した。
女官たちもそれに習い、続々と皆が叩頭していく。
苺苺はその光景にびくりと肩を揺らして、猫魈を抱きしめる。
「ど、どうぞ皆様、頭をお上げください」
後宮に来てからというもの、見知らぬ妃や女官たちに嫌われることは幾度もあったが、感謝されることなどあっただろうか。
(木蘭様暗殺阻止のために駆けつけたのですが、まさかこんな風に皆様にお礼を言われるだなんて)
「事件が起きる前に駆けつけることができて、よかったです」
照れくさい気持ちではにかみながら、苺苺は微笑みを浮かべた。
「……東宮補佐官殿、この場の指揮を頼めるか」
「御意」
木蘭に代わって、怖い表情をした宵世が前に出る。
「朱若麗を捕縛せよ」
「……っ!」
黒い胡蝶が舞う中、若麗は東宮侍衛長によって捕縛された。
◇◇◇
茶会は中止になり、集った妃たちはその場で解散となった。
宵世の采配で青衛禁軍の東宮侍衛がそれぞれ彼女たちの護衛に付き、各々の宮へと帰路につく。
捕縛された『木蘭暗殺未遂事件』を起こした犯人、朱若麗は、朱家次期当主の三の姫という立場から、紅玉宮で取り調べが行われることと決まった。
場所を移した一行は、紅玉宮にある木蘭の私室に向かう。
入室可能な関係者は限定され、木蘭、宵世、東宮侍衛長、そして若麗となった。
「木蘭を三度も暗殺しようなんて。馬鹿な真似をしたなぁ、若麗? 木蘭は俺たち朱家の宝だったんじゃねーの?」
この垂れ目の東宮侍衛長こそが、紫淵のもうひとりの腹心。
木蘭が白州を訪れた際に、木蘭の後ろに控えていたあの般若護衛。齢十九になる朱家当主が次男、零理であった。
朱皇后陛下の随分歳の離れた弟君にあたり、紫淵とはそれこそ赤子の時からの幼馴染になる。
そして零理にとって、若麗は血の繋がった姪に当たった。だが彼は、両膝で跪かせた若麗の首に、長剣の刃先を戸惑いもなく向ける。
しかし、若麗は「誤解です」と静かに首を振った。
「木蘭様、私はあやかしとなにも関係ありません。一体なぜ、私があやかしを使役するのですか? それに木蘭様を暗殺しようだなんて、理由がありません……!」
「野苺の葉茶の有毒性について、自然な会話を装って美雀に吹き込んだのはお前だな?」
木蘭の言葉に、若麗ははっと息をのむ。
「美雀が春燕に抱く劣等感を感じ取り、うまく煽って操作したんだろう? 春燕はちょうど苺苺を紅玉宮預かりにしたことに反発し、事あるごとに意見していた」
そんな春燕を紅玉宮の中で孤立させようと、美雀が他の女官たちに、
『春燕は悪口が多くて意地悪なところがあるの。昔から私も、姐姐には虐められてきたわ』
と喋って裏から根回ししていたというのは、美雀が捕まった後に女官たちから聞いた話だ。
美雀はその劣等感を、いつしか木蘭や苺苺にまで向けるようになっていた。
「春燕を評価する妃が邪魔だと、憎しみを抱くようになっていた美雀に毒のことを話せば、春燕を紅玉宮から追放するために行動に移すと理解していたのだろう?」
「そんな、ことは……」
「一度、猫魈を使った妾の暗殺に失敗していた若麗のことだ。自分の手を汚さずに妾を暗殺できる方法を考えて、美雀が事を起こしてくれるのを待った。違うか?」
美雀は春燕が事件を起こしたことにし、紅玉宮を追放されたらいいと考えた。
木蘭と苺苺を暗殺できるかどうかはどうでも良かった。
ただ春燕が被る罪の大きさが、大きければ大きいほどいいと考えていたのだ。
計画が失敗したら、野苺の葉茶を作った張本人である苺苺に罪を被せられるし、逃げ場は十分にある。
「お前の計画では、あの時ついでに苺苺も糾弾して追放するはずが……とんだ失敗だったな」
木蘭が鼻であざ笑うと、若麗は顔色を変えてギリっと奥歯を噛み締めた。
「美雀の計画が上手くいけば、『犯人である春燕は白蛇妃に毒された』だの、『やはり白蛇の娘が紅玉宮に不幸をもたらす』だのと言って追い出す予定だったんだろう? あやかしを紅玉宮に引き入れるには、〝異能の巫女〟が邪魔だからな」
「選妃姫が始まって今日で九十九日目です。それで悲願を成就するために、邪魔で邪魔で仕方がなかった白蛇妃を、今日はまんまと紅玉宮に閉じ込めた。なぜあなたは、木蘭様を暗殺してまで――紅玉宮の妃になりたかったんですか?」
木蘭の言葉を引き継ぎ、木蘭を守るようにして立つ宵世が言う。
「……紅玉宮の、妃、ですか? うふふっ。まあ、皆様。どうしてそんな突拍子もないお話になるんです?」
「筆頭女官なら、妾を暗殺する手段も機会も、いくらでもあったはずだ。だがそれをせず、あやかしを使役し……美雀を使うという回りくどく足のつかない方法を選んでいた。それは自分の手を汚さず綺麗なままでいることによって、皇太子の前で後ろ暗いことのない妃になりたかったから。間違っているか?」
本日の若麗がまとっているのはそのための衣裳、そのための化粧だ。
「猫魈が妾を襲おうとした時……若麗、お前だけが妾を守ろうとはしなかった。どうせ逃げおおせて、妾があやかしに殺された不幸の理由を歴史上の『白蛇の娘』に重ね、苺苺を罪人に仕立て上げる予定だったんだろう?」
「うふふっ。木蘭様は幼くていらっしゃるのに、想像力が豊かですのね」
「あいにく、見た目通りの年齢ではないからな」
木蘭はやれやれと肩をすくめると、紫水晶の大きな瞳で若麗をすっと冷たく見据える。
「百日以内に妃のいなくなった紅玉宮に君臨するのは、朱木蘭の血筋に連なる――朱若麗。お前だ。……さて。ここまで来て、言い逃れは無駄だぞ。もう逃げ場はない」
木蘭は上座にあたる椅子に座り、肘掛の上で頬杖をついた。
「鏡花泉の東の四阿付近の竹林で、宦官の詰所から昨晩盗まれた封籠が見つかった。……若麗、猫魈を従妖にした際の式符を持っているな? 出せ」
「………っ」
ぎりいっと奥歯を噛み締めた若麗は、本当にもう言い逃れができないのだと悟った。
悪態を吐き、言葉の限り暴言をわめき散らしたいのをぐっと我慢しながら、胸元から式符を取り出す。
道術を力を込めて作られた白い式符には【招来猫魈】と書いてある。
それを宵世が受け取った。
「これはどこで手に入れた?」
木蘭が問いかける。
「……西八宮である女官から……目くらましの霊符と合わせて、金品と交換をしました。彼女は以前、西八宮に来ていた異国の宮市で買ったそうです。道術も彼女から基礎を教わりました。ですが、彼女は……不治の病に侵されていたため先日亡くなっています」
「そうか」
神妙な顔で木蘭は頷く。
「若麗。お前の処罰は後宮からの追放、そして朱家での生涯に渡る禁足だ。またいかなる理由があろうとも、燐華城に立ち入ることは禁じる。燐華城内に足を踏み入れた瞬間、死罪を覚悟しろ」
「……そんな――ッ!」
「すべて未遂に終わったからこそ、情けをかけてやった。苺苺もお前の死罪は望まないだろう」
「……情け? うふふっ、幼児からの情けなんて、そんなのいらないわ! あなたが現れなければ、私が選妃姫に臨めたの。それなのに、選妃姫に臨めない私をお父様は自分の地位を固めるためだけに、皇帝陛下に嫁選びに参加させた。……ねえ、知っていて? ふふっ、皇帝陛下に見染められたら、私は紫淵様の義理の母になるんですって。そんなの、そんなの耐えられない……!!!!」
ねえ、義理の母なのよ? と若麗は目を見開き、何が面白いのか狂ったように笑う。
「そんなの、そんなの耐えられないわ……。だから西八宮で、ずっと復讐の方法を考えていたの。……うふふっ、だからあなたの女官になれると聞いた時、救われたのだと思った」
若麗はうっそりと嗤う。
若麗は幼い頃から、宮廷行事の際にひっそりと姿を現す紫淵に恋心を抱いていた。
悪鬼面をかぶり決して顔を見せない彼に惹かれたのは、その洗練された所作と、美しい紺青の黒髪、そして凛々しい立ち姿、なによりも氷のような冷たさを帯びる甘い声だったかもしれない。
祖父や父が招かれた宮廷行事がある際には、二人に何度も頼み込んで、次期当主の三の姫という立場で顔を出した。
いつか彼と一言でも話せますように。
そしてお顔を拝見できますように。
そう願いながら。
十三歳のある日、招かれた宮廷行事の際に道に迷った。しかも、絶対に入ってはいけないと言われていた皇帝陛下の後宮に迷い込むなんて。絶対に処罰される。帰宅は絶望的だと思った。
そんな時、幼い若麗に救いの手が差し伸べられる。見知った影を見つけたのだ。
『零理お兄様!』
若麗は走って、彼らを追いかけた。
そして禁足地で見つけたのだ。叔父の零理と、――紺青の黒髪が煌めく絶世の美少年を。
彼が紫淵様だ。
若麗にはすぐにわかった。
絶世の美少年は若麗を認めると、ふいっと顔をそらす。そして零理に何事かを耳打ちして、零理と一緒に後宮から外に出してくれた。
会話はなかった。だが視線は交わった。
その日の若麗の心臓は、人生で一番ドキドキしていたかもしれない。
その日の夜、事のあらましを聞いた父が言った。
『皇太子宮の封が解かれたら、お前は慣例に従い皇太子妃になる。朱家の血筋の家格が合う娘はお前しかいないからな』
あの美しい紫淵様の妃に、私が……?
若麗はその日から、一生懸命に妃教育に励んだ。
紫淵の隣で見つめ合い、手を繋ぎ、愛し合うのを夢見ながら。
しかし、現実はどうだろう。
伯母の縁者にあっさり朱家の姫の座を奪われ、皇帝の後宮に放りこまれた。
皇后陛下の女官として後宮で日々を生きる中、じくじくと木蘭への憎しみが疼き、胸を侵食して止まらなかった。
幼妃が捨て置かれていれば、まだ憎しみの溜飲が下がったかもしれない。
だが紫淵の寵愛を一身に受けていたのは、この後宮で一番憎悪を向ける相手――木蘭だった。
「筆頭女官としてあなたに尽くしていたら、あなたがいなくなったあとに紫淵様から寵愛を受けられると思っていたのに……絶対に許さないわ、朱木蘭! 私の紫淵様を返して……ッ」
若麗が素早く頭に刺していた簪を抜き、その鋭い切っ先を木蘭へ向けて立ち上がる。
だがその四肢を、宵世の隠し持っていた暗器――赤い紐のついた双剣の縄鏢が一瞬にして縛り上げた。次の瞬間には、零理の長剣の刃が彼女の薄い腹に当てられる。
「……――ッ!」
「これだから後宮の女は嫌になる」
腹心の臣下への信頼からか命の危機にも動じず、若麗に冷めきった目を向けていた木蘭は、「そろそろ頃合いだな」と言うと、座っていた椅子から立ち上がった。
若麗がこの部屋に入る前に、手伝いも呼ばずに召し替えたのだろう。先ほどまで身に纏っていた茶会向けの衣裳から、いつのまにか濃紫の深衣を身にまとっていた木蘭は、長すぎる裾を引きずりながら歩く。
ほら、ひとりで着替えもできない幼な子のくせに。
そう思っていた矢先、奇怪なことが起きた。
目の前にいた美幼女が、不敵な笑みを浮かべたまま大人になり、そして――。
「勝手に恋心を抱かれて、殺されかけては迷惑だ。恥を知れ」
「あ、ああ……そんな……。そんな、木蘭様が……紫淵様だなんて……!」
若麗は絶望感に苛まれながら、静かに一筋の涙を流した。