思わず静止の言葉が木蘭の口をついたが、鎮火活動を行う苺苺には聞こえていないみたいだ。
 そうこうしているうちに、青紫の炎が苺苺の手のひらの上に移る。
 底知れぬ不気味な美しさを持つ炎は、しかし踊るように揺らぎ、「ふっ……」という苺苺のひと息でたちまちに消えた。
 まるで、命の灯火が消えるみたいに。
「……それは、なんだったんだ?」
「先ほどの青紫の炎は、いわゆる燐火(りんか)ですわ。元気に燃え盛っておりましたが、ああ見えて見た目だけなので触れても熱くはありません」
「……あれが、燐火」
「その、木蘭様が手にされた時に、円扇に封じられる悪意の限界がきたようです。普段はその時期を見極めて焼却するので、このようなことは初めてで……!」
(もしかしたらご本人が触れたからでしょうか。今後は気をつけなくては……!)
 骨組みだけになった円扇の残骸を手に、苺苺はおろおろとする。
「悪意が純度を増したものである燐火には、人間にとって有毒な瘴気(しょうき)が含まれております。他者から向けられた悪意自体は封じられて祓われたあとですが、あのように燐火になると、異能を行使して鎮火しなくてはいけません」
(書物には【出来る限りしてはいけない】と、先代のどなたかの走り書きがありましたが)
 それでも今までの人生で二度、燐火を発生させてしまって鎮火した経験があった。今回で三度目だ。
 一度目は修行中の身で、異能を操りきれずに。
 二度目は七歳の時らしいが、派手に昏倒したせいか、その年は丸々記憶がない。
 しかし今回は今のところ体調に大した影響が出ていないので、肉体が成長するとともに異能の力も成長しているのかもしれない。思わぬところで自分の成長を実感する苺苺である。
「なるほど。すごいものを見た。それが、苺苺の異能の一部なんだな」
「はい。こちらは一応、わたくしが回収させていただきますね。七つまでは何が起きてもおかしくはありませんから、木蘭様は触れられないようになさってください」
 苺苺は円扇の残骸を大袖の中へしまう。
 それに異能の術を使った証拠が残っていては、木蘭以外にバレた時に面倒になる。
「すまない、せっかくの大作を」
「いいえっ。これでまた、木蘭様を想って新しい図案を考える楽しみができましたわ!」
(はぁぁぁっ、想像力が掻き立てられます……っ)
「次の作品では木蘭様の初夏の装いにぴったりの図案を考えますから、ぜひ贈り物にさせてくださいませっ。あああ、そうですわ! 先日、わたくしの実家から朱色の絹が送られてきましたの。良かったら破魔の衣裳も作らせてくださいまし……!」
 王都の市井で行われている推し活では、推している演劇一座や演者本人に宛てて熱心に贈り物を送ったり、姿絵を購入して間接的に貢いだりすると聞く。
 全力で推し活をしてきた苺苺だが、〝白蛇〟の冠をいただく最下級妃という立場上、最上級妃への贈り物だけは許されなかった。木蘭に媚びたい他の妃たちに牽制されていたためだ。
(こんなに全力で推しに貢げる絶好の機会……逃しません!)
「衣裳は……燃えるのか?」
「破魔の衣裳は、悪意を寄せ付けないために特別な技法を用いて縫う衣ですので、燃えませんわ。ご安心ください」
「そうか。では、いつか貰えたら嬉しい」
 眉を優しく下げて、可愛らしい幼妃が目を細める。
(あっ、あっ。この限りない喜びを、木蘭様推しのみなさまと分かち合えたら、どんなにか……っ。そうですわ、あとから若麗様とお話できないでしょうか!? 若麗様は木蘭様の筆頭女官ですし、絶対に木蘭様推しですわよね!?)
 後宮妃で推し活をしているのは奇特な苺苺くらいだが、女官には嗜みとして浸透している。
 女官たちの推し活は妃を慕って尽くしたり、他の妃を推す女官と応援合戦や代理戦争をするもので、市井の推し活文化も取り入れた木蘭様過激派の苺苺とは若干推し活の方向性が違うのだが――それを知らぬ苺苺は、若麗との楽しいやりとりを想像しながら、『若麗様とお話するのが楽しみですわ』と微笑んだ。
「はっ! わたくしとしたことが、話が逸れてしまいました。……こほん。木蘭様が眠れなくなっている原因は、呪靄(じゅあい)によるものでしょう。呪靄はわたくしが刺繍の手を止めてしまうと祓えませんので……おそらく、木蘭様は夜中にも悪意を向けられているということになります」
「夜中にも、悪意が……?」
「ええ。まさか木蘭様が不眠に悩まされているとも知らずに、わたくし、亥の刻(二十一時)から日の出まで、ぐっすりと就寝しておりました……。一生の不覚です……っ」
 苺苺はきゅっと両目を瞑って、心の底から悔しがる。
 悪意を勝手に収集し封じ込めて祓う形代――ぬい様は、昨日の昼に完成したばかりだ。
(それまでは破魔の術である刺繍しか、木蘭様に向かう悪意を祓うすべがありませんでした。だというのに白蛇ちゃん抱き枕を抱いて、すぴーっと穏やかに就寝していただなんて……っ!!!!)
 呪毒を生じさせるほどの呪妖の宿主が発する呪靄なのだから、眼で直接視たらよほど禍々しいものに違いない。木蘭への影響も相当だったはずだ。
 苺苺の決死の申告に、木蘭は『確かに日の出以降しか眠れていない気がするな』と思いながら、はたと首を傾げる。
「その前に。まさか苺苺は一日中、妾を守護するために刺繍を?」
「はい、もちろんです。木蘭様が健やかでありますように、楽しく過ごされますように、と願いを込めてひと針ひと針、刺しております!」
「は……? 待ってくれ、一日中?」
「はい! と〜〜〜っても有意義な時間でございますわ!」
 推しが毎日幸せであることが、苺苺の幸せだ。
 それを叶えるためなら、刺繍の半刻(一時間)一刻(二時間)、いや五刻(十時間)十刻(二十時間)だってお茶の子さいさいである。
 木蘭への熱い思いを惜しみなく注ぎ続ける時間こそ、後宮で忌避されてもへこたれずに頑張れる活力なのだ。
 ぴかぴかの笑顔でうふふと微笑む苺苺に、木蘭は無表情で閉口する。
 一日中、無償で刺繍を刺し続けるなど、後宮で尚服局に配属されている針子女官でもしないだろう。
 給金も名誉も欲しがらず、ただ陰ながら木蘭の毎日のために……。
 その心の向け方は、常人には真似できない。
 ありがたい。非常にありがたいが……なんだか、複雑な思いを抱いてしまう。もう何も言うまい。
「呪妖と呪毒に関してですが、昨日のあやかし――猫魈(ねこしょう)様は、『女官に道術で操られていた』と言っておられました。呪妖の宿主である女官の方が、木蘭様を攻撃するためだけに猫魈様を後宮に招き入れたのでしょう」
「猫魈……そうだったのか」
「猫魈様はその方によって無情にも飢餓状態にさせられ、そのうえで木蘭様を『襲え』と命じられたそうですわ。猫魈様自身にその意志はなく、今回の事態をとても後悔しておいででした」
「となると、女官には妾への明確な殺意があったというわけだな」
「おそらくは。ここからは推測となりますが……その恐ろしい女官の方が、木蘭様の食事を呪毒で蝕まれているのだと思います。呪毒とは、呪妖になるほどの悪意を心に秘めている方が配膳などで触れた(・・・・・・・・)対象者の食事(・・・・・・)に、無味無臭の毒となって宿るものなのです」
 つまりは先ほど苺苺が口にした茶菓子にも、その女官の手が触れているという意味になる。
 呪毒は発生源が悪意を向けた相手の肉体を体内から蝕む。
 その性質上、特定の人物が口にした時にのみ呪毒が反応が反応し、それ以外の人物が口にすれば霧散する。
 苺苺が木蘭に向けられた呪毒を口にして感知できるのは、『白蛇の娘』であるからにほかならない。
(朱家ですでに呪毒に侵されていた可能性も考えられますが、清明節以前から日常的に症状が出ているのですから、紅玉宮(こうぎょくきゅう)での食事が呪毒で蝕まれていると考えるべきです)
 今日の茶会は急遽開かれたもの。
 朱家から届いて、厨房に保管するまでの間に誰が触れていてもおかしくない。
 それでも主人の口に入れるものだから、取り扱いを行うのは上級女官のみに限定されるだろう。
「食事に宿った呪毒は、こちらの銘々皿を使った時にのみ形にでき、祓うことができます」
 苺苺はおもむろに、円卓の上に並べていた辰砂のごとく赤く色づく『龍血(りゅうけつ)銘々皿(めいめいざら)』を手に取る。その名の通り龍の鮮血を塗って作られたものだ。
(とは言え、わたくしも使ったことはありませんが……)
 食事に呪毒となって宿るほどの悪意となると、ほとんど自覚のある殺意だ。
 苺苺がいくら後宮で忌避されていると言えど、誰かから『殺したい』と明確な殺意を抱かれるほど憎まれるような経験はまだ無い。
「契約できるのはひとりまでで、同時契約はできません。使用方法は、この銘々皿に血を一滴垂らしていただくだけなのですが……。木蘭様の手を傷つけるわけには参りませんので、困りましたわね」
「いや。やろう」
「えっ、あっ、木蘭様!? おやめください――!」
 苺苺の制止など意に介さず、幼い木蘭が懐から短剣を取り出す。
 それは清明節に、彼女が剣舞で使用していたものだった。
 燐華国の紋章が刻まれ、細かい装飾が施されている。その装飾は、皇太子殿下にのみ使用を許された意匠だ。
 木蘭は痛みに一瞬片目を瞑りながらも、銘々皿にポタリと血を垂らした。
(あわわわっ! 木蘭様をお助けするためとは言え、指先を、指先を斬らせてしまいました〜〜〜!)
「大丈夫ですか!? お怪我は、止血を……っ!」
「なんてことない」
「いいえ重傷です!」
(木蘭様に重傷を負わせたわたくしは完全に有罪ですわ……!)
「わたくし、自主的に牢獄暮らしをいたしますッ」
 顔を真っ青にした苺苺の脳内で、会ったこともない皇太子殿下が『そなたの名を牢獄妃に改名する!』と高らかに叫ぶ。
「牢獄妃の異名、謹んで拝命いたしますっ」
 罪悪感と絶望感でアワアワと目を回す苺苺の様子に、なんとなくどんな想像をしているのか察した木蘭は、
「投獄は絶対にあり得ないな。妾が保証しよう」
 これくらいで大袈裟だな、と呆れた表情を浮かべる。
「それに。第一、お……じゃなくて皇太子(こうたいし)殿下はそこまで鬼じゃない」
 木蘭はちょっと不服そうなむくれた様子で、ゆるく首を振った。
「そ、そうでしょうか……ッ!?」
「むしろ皇太子殿下は、『苺苺の手のひらの傷に比べたら、これくらい我慢して当然のことだ』と表情ひとつ変えずに妾に言うだろう」
 そうこうしている間に、龍血の辰砂に、ぷっくりとした柘榴石のような――木蘭の血の赤が溶けていく。
 契約が正常に行われた証拠を見届けてから、苺苺は「薬箱はどこですか!?」と弾かれたように立ち上がると、急いで木蘭の指の手当をするための綺麗な布と消毒薬を用意した。
 悪鬼武官からもらった薬壷を取り出し、軟膏を入念に塗り込む。
 真剣に手当てを施す苺苺に気づかれぬよう、木蘭は遠い憧憬を滲ませた切ない双眸で眺める。
「……これでよしっと。湯浴(ゆあ)みをされる際は気をつけられてくださいね。とっても()みますから」
「わかった」
「ふう……、ドキドキいたしましたが、契約は以上で完了です。あとは木蘭様が呪毒(じゅどく)の宿った食事に触れるだけで、この銘々皿に呪毒が形を伴って抽出されますので、それをわたくしが封じることで祓えますわ」
「試しにそちらの月餅に触れてもらっても?」と、苺苺は茶菓子を示す。
 木蘭が従って自分の月餅を手に取ると――真っ赤な銘々皿の上に、ことり、とどこからともなくまったく見た目の同じ月餅(げっぺい)が現れた。
「……は? まさか、その月餅が呪毒なのか?」
「はい。そのようです」
 書物によると、どんな飲食物に宿った呪毒も、すべて茶菓子の形をとって現れると書いてあった。
 しかし、何もなかった空間から突如現れた月餅は、同じ見た目といえど少し不気味である。
(でも、これが銘々皿の上に現れたということは……木蘭様の食事に長い間、呪毒が宿っていたという動かぬ証拠になります)
 苺苺は険しい表情で、目の前の月餅もどきを睨んだ。
 さて。呪毒は刺繍でも形代でもなく、白蛇の娘が自らに封じて祓わなくてはいけない。
 書物によると、【呪毒の茶菓子は捨てたり腐らせたりすると呪詛になる】とあった。
「どのような味がするのでしょうか。ちょっとドキドキいたします」
「こんな怪しいもの、食べなくてもいい」
「いえ。わたくしが食べなくては、大変なことになりますから。――いきます」
 苺苺は意を決して、はむっと食らいつく。
「ん……んんんん!?」
「ど、どうした?」
「お、美味ひいです……! なんということでしょう……。人生で食したお茶菓子の中で、一番美味しいです……っ!」
(なんと繊細な歯触り、洗練された甘みなのでしょうか! 見た目はもちろんのこと、食感も素晴らしいですわ。まるで超高級お茶菓子!!!!)
 苺苺は月餅を片手に持ったまま、「餡が舌の上でとろけます……極上の月餅ですわ……」と頬をを抑える。
 先ほどいただいた本物とは大違いだ。
(呪毒を抽出して作り出したお茶菓子だからこそ、この美味の頂点に君臨してしまったのでしょうか……っ!?)
「これぞ堂々たる王者の風格……。ううむ、菓子職人泣かせの神器ですっ!」
「そ、そうか。……苺苺の身体に害はないんだな?」
「ええ。わたくしはそう思います」
 苺苺はペロリと呪毒の茶菓子を平らげた。
(――さあ、これで証拠は出揃いました)
 木蘭の就寝時間や散策へ出かける頃合いを把握していて、なおかつ、昨日までは予定になかった唐突な来客の茶菓子に触れられる、女官。
「残念ですが、恐ろしい女官の方は……この紅玉宮にいる木蘭様付きの侍女(・・・・・・・・)のどなたかということになりますわ。けれど猫魈(ねこしょう)様を操れるほどの道士であっても、『白蛇の娘』が書き記した『五つの悪意の(ことわり)』は、ご存知ないのかもしれませんね。わたくしも道術は(かじ)っておりませんし、あやかしを強制的に操るすべも持っておりませんから」
 そう結論づけた苺苺に、幼い妃は鷹揚(おうよう)に頷く。
「なるほど。確かに、あやかしや道術を操り用意周到に妾を害そうとする者が、異能持ちだと噂される『白蛇の娘』の前にわざわざ証拠を残すはずもない。だが、どうやって炙り出すかだな……」
「ええ。ですがこの勝負、有利なのはわたくしたちの方です」
「いったいどうするつもりだ?」
「それなのですが……――本日、わたくしを紅玉宮に置いてはくださいませんか?」
 真剣な表情で問うた苺苺に、木蘭は紫水晶の瞳を大きく見開いた。
「――は?」
「大変ご無礼を申しているのは承知しております。ですが、木蘭様の危機とあっては、この苺苺、命を懸けないわけには参りません!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。紅玉宮に置くというのは、妾の部屋に泊まるという意味か?」
「いいえ、言葉通り紅玉宮のどこかに置いていただくだけで大丈夫ですわ! 室内がダメでしたら、廻廊(かいろう)でも、お庭でも、どこでも構いません。木蘭様か、紅玉宮の女官のみなさまのどちらかをつぶさに観察できる場所に置いていただきたいのです」
 お茶や茶菓子を運んできた女官たちの中に、黒い胡蝶をまとっている者はいなかった。しかし木蘭の行動を完璧に把握しているのだから、犯人は絶対に紅玉宮の女官だ。
(木蘭様はもう一ヶ月近くよく眠れずに、胸が痛む日々を過ごしていらっしゃいます。大人にとってもひどい状況ですが、幼い彼女にとってはもっと過酷でお辛い状況のはず。一刻も早く、解決してさしあげねば)
 苺苺が熱い決意で燃えているのとは裏腹に、木蘭は「それ以外の方法は――」と必死な形相を隠すようにして言い募る。
 しかし、木蘭様に害をなそうとしている恐ろしい女官を()らしめる気満々の苺苺は、「ないです!」と一刀両断した。
(そして一刻も早く、その恐ろしい女官の方に木蘭様の素晴らしき愛らしさを布教しなくては。天女様の御使いである木蘭様の尊さがご理解できれば、きっと悪さをしようなどとは考えられなくなりますわ! 推し活の真髄を、叩き込んで差し上げます!!)
 木蘭は、苺苺の背後にごうごうと燃える炎の幻覚を見た。
 どうやら、苺苺を紅玉宮に一泊させる以外の方法はないらしい。
「……わ、わかった。では、空いている部屋を用意するよう、女官に伝えよう」
 木蘭は口角を上げて微笑みを作ろうとして失敗したような、幼い見た目に似合わぬ引きつった表情でそう言った。