男性の視界には、清宮の部屋から見える景色と変わらないものが映っている。そしてゆっくり瞬きをし、彼女との間にある壁を見つめて言った。


 「俺でよければ、話聞くから」

 男性は清宮よりも年上だ。同じマンションの隣人なのに、今まで一度も言葉を交わしたことがない。それなのに、いきなりこんなことを言われて気持ち悪い。この言葉の裏では、そう思われても仕方がないとも思っていた。

 しかし清宮は、あらかじめ返す言葉を用意していたかのように、すぐに答えた。

 「ありがとう、じゃあまた今度話すよ」

 清宮は、自分の立場や相手との関係から導き出した最適解を伝えた。
 また今度という日は、必ずしも保証されているわけではなく、最悪逃げられる理由にも使える。今度を決めるのは自分自身だと思っていた。
 流れるように、この場を後にしようと部屋の方を振り返る清宮。

 「いや待て」

 部屋に戻ろうと引いた清宮の足がピタリと止まる。
 先程まで話していた男性に止められたということは理解できた。同時に今までとは明らかに違うその声に、これ以上逃げるなと阻まれた気がして、警戒心と恐怖心が足元から背中へ這い上がってくる。血の気が引いて、強く騒ぐ心音が頭まで響いてきて吐き気がした。しかしそれを顔に出すわけにはいかない。

 彼の声は他の人からすれば、優しく真っ直ぐで今までと同じように聞こえる声だ。彼女は、それ以上のものを感じとってしまったに過ぎない。

 何もできずにいる清宮に再び声がかかる。

 「今話せ。今度なんて、本当に来るか分からないだろ」

 そして彼は彼女の最適解を見抜いた。その言葉は怒りや憐れみからではなく、今までのやり取りから彼女のことを思って生まれたものだ。


 「やだなー、私のこと信じてないんだ」

 それに立ち向かうように、清宮は再び手すりにもたれかかる。当然言葉に感情は乗っていない。

 「それとも、下心的な?」

 からかうように男性の方を向いて、いたずらっぽく笑って見せた。

 「違う」

 平然を装っていた彼も、これには焦って否定していた。

 その様子を見た清宮は笑った。おかげで呪縛のような恐怖心は解け、本音を打ち明けた。

 「話聞くって言ってくれてありがとう。下心があったとしても、その言葉をもらえて嬉しかった」

 彼女の声を聞いて、男性の体からフッと力が抜けた。

 「じゃあ今からそっち行くね」

 そう言って清宮は部屋に戻った。後ろから弁明する声が聞こえていたが、聞こえていないふりをしてそのまま男性のいる部屋へ向かった。