「なにしてるんだ?」

 優しく、真っ直ぐな声が聞こえてきたのは右手側。薄くても壁があるはずなのに、それさえも気にさせないほど近くに感じた。

 何もないと思っていた場所から声が聞こえて、初めは思わず息を呑んだ清宮も、声のした方へ顔を向け、体重を全て手すりに預けるように背伸びをして覗いた。

 するとそこには、スーツ姿の男性が清宮のいる方を見ていた。当然目が合う。

 清宮は不思議そうに男性を見つめる。そして今、自分が問いを投げかけられていることを思い出した。

 「んー」

 考えるふりをしながら顔も体も引っ込めて壁の中に隠れる。そのまま手すりを掴んでいる両手に力を込め、腕を伸ばして体を後ろに傾ける。ぐっと伸びた後、また手すりにもたれかかった。
 そして力の抜けた腕をぶらんと外に出し、正面を向いた。


 「じしょうこうい」

 彼女は無機質な声でそう言った。
 それに対してまた声が返ってくる。


 「飛び降りるのか?」

 優しくて真っ直ぐで太陽のような声は、彼女の体を通り抜けた先まで伸びた。
 その言葉が自分を通過する時に、拾える分だけ拾って耳に入れる。

 「どうだろ」

 他人事みたいに言葉を投げる。


 彼女は再び声の主の方を覗いた。そこにはやはり、スーツを着た男性が立っている。その表情は怒っているわけでも、憐れんでいるわけでもない。

 それに安心した清宮は、彼の顔を見て疑問を投げる。

 「お兄さんは仕事、行かないの?」

 スーツを着ているということは、時間的にこれから職場へ向かうのだろう。

 すると、彼は今まで合っていた視線を初めて逸らした。

 「あー、今日は休み」

 その答えが返ってくるまでに時間はかからなかった。

 「スーツ着てるのに?」

 「今決めたからな」

 軽く微笑んで真っ直ぐに言葉が返ってくる。


 清宮は、そっか。と呟いた。

 「それより、さっきの歌……」

 聞いてはいけないものを聞いてしまって申し訳ないと、言葉にされなくても十分に伝わってくる彼を見て、清宮はクスリと笑った。

 「聞いてたんだ」

 そう言うと、また腕を伸ばして体を傾ける姿勢をとった。
 誰かに聞かせるつもりで歌っていたわけではないし、聞かれて困るものでもない。そもそも人の口ずさんでいる歌に、何かを言ってくる人の方が珍しい。見て見ぬふりをするのが普通であると清宮は思っていた。


 あの歌を聞いてしまったことをどう掘り下げてくるのか少しだけ気になったので、ゆらゆらと体を左右に揺らしながら相手の反応を待った。