第四章 親心

山中の村から谷に添って馬で走ると、30分もすれば河口にたどり着く。その河口の近くに、紫田家はあった。門戸は広く、離れが地元陸軍連隊の兵舎として貸与され。そこから少し奥まった場所に、母屋がある。大きなくぐり戸のある入り口、これが柴田家の入り口だ。
何度か、材木の価格交渉で筆記役として訪れたことがある安右衛門(やすえもん)は記憶を頼りにたどり着く事が出来た。
日中は、門戸は開かれており誰でも出入り出来る様になっているが、正式な訪問客以外は、くぐり戸を使うのが仕来りであることを間違えてはいけない。
門前にある、呼び鈴を鳴らすと程なくして使用人と思しき女性が顔を出した。
「どちら様でしょうか」
そういう女性に
「小島村の宮城安衛門と申す。ご当主様に、文を持って参った」
それを聞くと、頭を下げて女性は奥に走って行った。直ぐに、男性使用人がやってきて馬の口を取って繋ぎに行ってくれる。この家の者は、どの使用人も無口だ。当主がよほど厳しいのだろう。その当主と、面と向かって話さねばならぬと思うと安右衛門は胃が痛む思いだ。

安右衛門宅の何倍もあろうかという屋敷を、使用人に連れられて歩くことしばし。奥まった1つの座敷に通された。だだっ広い畳敷きの部屋、そこで男はキセルを吹かし座っていた。背丈は小柄で、少し猫背。白髪頭で、ゐくの父にしては年齢が高すぎると安右衛門は感じた。
「小島村の方ですか、何か当家の者が粗相でもいたしましたか」
細い身体から出たとは思えない力強い声に、彼は心臓を鷲づかみにされたような錯覚に陥っていた。
その男は、上等な紬の着物の袖を軽く払うと煙草の灰をカンッ!と捨てた。
「柴田様、実は私の母からの文をお届けに参りました」
「お母上からのお文ですと、さてさてそれは奇っ怪な」
彼は立ち上がり、自ら歩み寄ると安右衛門の手から文を取る。その文を、片手でパッと広げて読み始めた。
しばらくすると、見る見る顔付きが厳しくなり、チッと舌打ちする。すぐさま、安右衛門に喧嘩を売るようにドカッと斜めに座り肩を突き合わせる。
「お宅に当家の孫娘が逃げ行ったと申されるか」
「はい、その通りにございます」
そこまで話して、やっとこの男性が現当主の父。ゐくの祖父で有ることに彼は気がついた。
「で、お宅のご子息と孫娘は恋仲だと言うことで良いのかい」
鋭い目つきで睨まれ内心平穏では無かったが、心を見透かされないように安右衛門は冷静を装った。
「そうは申しておりませんな。私も聞いた話ですが・・・」
勿体(もったい)ぶった言い方に、彼は我慢の限界が来たとばかりに安衛門の(えり)を掴む。
「どんな話でも手前は構いませんよ、そのままを申してくださいませよ」
「息子は、半年前までこちらの連隊におりました。何度か、お茶をお出しくださるお嬢様と話す機会があり、話しが合ったとのこと。しかしながら、恋仲という訳ではなく。単に、気が合う友人の様な関係であったと申しております」
「じゃあ、ご子息の所まで走る必要な無さそうですがねえ」
「私もそう思いますが、他に頼る所が無かったとお嬢様がもうしておりまして。聞きかじった所では、意に染まらぬ縁談を押しつけられそうになり、逃げ来たとのことで」
そこまで聞いて彼は膝をポンと叩くと、少し離れてあぐらを組み目を瞑った。
「そうさね、男の所に逃げたとなれば傷物として縁談は壊れる。それを狙ったということか。我が孫ながら天晴れ。ところで、安右衛門さんよ。このことは、ご家族以外の誰かご存じですかな」
「いえ、我が家族以外は、まだ誰も気がついてはいないと。それで、母が急いでお迎えを呼んでこいとのことで。早馬で駆けて参りました」
「そうでしたか、母御の機転に感謝申し上げたい。直ぐに、こちらから迎えを差し向けます故。このことは、どうぞご内密に」
彼は安右衛門の肩を、ポンポンと触れると立ち上がり「長太」と男性を呼んだ。程なくして、中肉中背の細面の中年男性が現れて頭を下げた。
「ゐくが、この方のお宅にお邪魔したようだ。父親のお前が連れ戻してこい」
「はい、お父様」
「息子をお連れ願えますかな。しかし、助かりましたよ。お宅の様な食うや食わずの家に孫を嫁にやるのは、避けたいですしな。だからといって、小学校しか出ていない様な者を婿に取ったら、世間の良い笑いものになりますから。悪気が有るわけでは無いですが、お分かりでしょうな」
どう聞いても、嫌味にしか聞こえないこの言い草を安右衛門は堪えるしか無かった。グッと手を握りしめ、爪が刺さるほどに力を込め、殴りかかりたい衝動を必死に堪えた。
当然柴田の隠居も、自分が村の命綱を握っている事を分かっての言い草だ。彼も孫娘への怒りを収める為に、こうでも言わなければ安右衛門の胸ぐらを掴んで手を挙げていただろう。
それぞれの気持ちのせめぎ合いは、なんとか血を見ずに済んだという形で決着がついた。

無言で良く磨かれた廊下を安右衛門と長太は歩いていた。
「門の前でお待ちしております」
安右衛門が言うと、無言で彼は頭を下げ部屋の中に消えていった。
『あのご隠居では、長太殿も大変であろうな』
心の中で、ゐくの父長太への哀れみに似た感情を抱いていた。

かなり長い間待たされたが、袴姿になった長太が馬に跨がって出て来た。磯吉は、自らも馬に乗り軽く会釈すると何も告げずに無言で走り出した。見事な手綱捌きに、ついてこれる者はいない程だったが必死に長太も馬を走らせた。

途中、有る程度の距離が開いたのを確認して、安右衛門は馬を止めた。丁度、川が道の横に迫っており、馬に水を与えるのに丁度良い場所を選んだのだ。
「安右衛門殿、もう少し手加減を・・・」
ゼエゼエと肩で息をする彼を見て、やっと安右衛門の頬も緩んだ。
「長太殿、ここは川が近うございます。馬を休ませて我々も休みませぬか」
草むらにドカッと腰を下ろした彼を見て、長太もそこに腰を下ろす。
「急いで駆けて参った事、お詫び申し上げる。さすがに、ご隠居殿の戯言が過ぎました故。あそこに居りましたら、何を致すか私自身も分からぬ状態でありましたので」
額の汗を拭いながら、悪びれること無く彼は言い放った。
「本当にお恥ずかしい限りでございます。手前共の家は、家督を譲った後も代々元当主が手腕を振るうのが定例になっております。父は、ヤクザまがいの口の聞き方を致しますが、あれは山仕事をしている荒くれ者達を相手に何十年も立ち回ったからでございましょう。私には、あのような不敬な態度はとれません」
「まあ、それは百歩譲って理解するとしても。娘御が、縁談が嫌で逃げるほどの状況というのが気になりますな」
実は、彼がここで休憩を入れたのは事情を聞き出す為だった。当然、今後嫁として彼女を家に入れる事を考えて、知っておく必要があると思ったからだ。
問われるがままに、長太は苦笑いをすると「それは当然でしょう」と頭をかいた。
「実は、父の碁仲間に先日奥様を出産で亡くされた方が居られまして。後添えを探している・・・という縁談が舞いこみましてね。私も妻も、親ほどの年の離れた男で、しかも7人もの子供がいる所に娘をやるつもりは更々無かったのです。
所が、父は痛く乗り気でして。その方というのが、華族様で最初の奥様はお子様が出来ず離縁。次の奥様は、7人の子を()した物の全て女子。しかも、お亡くなりに。
仕方無く、長子に婿を取らして、家を継がせることも考えられたようですが。やはり男子に継がせたいというお考えの様でして。子を産める年齢の妻を探されていたとのこと。
実は父はここの所、ゐくの婿を探す為に仕事やら趣味やらで娘を連れ回しておりまして。それで、その方の目に止まったようなのです。父は古い人間ですから、平民が華族の家に嫁ぐというだけで『悪い話ではない、縁談は惚れた腫れたではなく親が相応しい相手を探す物だ』と言い出しましてね。明日にでも、返事をすると言い出したのです」
余りの話に、安右衛門は驚きを隠せなかった。
「さすがに、それはゐく殿もお嫌でしょうて。貴方様は、それでよろしいとお考えか」
「いえ、私も良いとは思っておりませんでしたが。父はこうと行ったら絶対に聞く人間ではございませぬ。そこで、私がゐくに話しを持ちかけました。お宅の息子さん・・・何て仰いましたかね」
「磯吉でございます」
「そう、磯吉殿と娘が母屋の裏手で何度か密会しているのを私は目撃していましてね。あんなに楽しそうに娘が笑って話すのを初めて見ました。最初はどこの馬の骨か分からぬ男に笑顔を見せる娘に怒りを覚えておりました。
しかし、朝な夕なにゐくが離れのラッパ兵の事を話す様になりまして、そんなに惚れたのかと男親としては複雑な心境でした。
そこで、ゐくにこう言ったのです。意に染まらぬ縁談を止めたいのなら、1つだけ方法がある。例のラッパ兵の男の所に逃げてみたらどうだろうと。年増男の嫁になるくらいなら、貧乏男の嫁になった方が幸せだろうと私は思ったのです。
金なら、私が幾らでも工面出来ますので。しかも、今日。貴方様を拝見して気がつきました、貴方は御維新前は武士だった方ですね。ゐくは思ったより見る目が有ったようですね」
「どうして、私が武士で有ったとお思いですか」
「お武家様は、刀を差して歩かれていた。その関係で歩く際に、左右対称の動きはなさいません。刀のある側の手は刀に触れぬ形でうごかします。
それ以上に、刀を差して安定して歩く為に、腰をほとんど動かさず、すり足に近い足さばきをされる。
我々商人というのは、人を見て商売をしますから自然と人を見る目が養われると言うわけです。
世が世なら・・・といっても、50年も前でしたらゐくは親族から祝福されてお宅様に嫁いだ筈です。平民から武家へ嫁に行く、どれだけ武家が貧しい経済事情であろうとも、嫁の家が援助をすれば良い訳ですから。そんな時代でありましたでしょう。
それが大きく世の中は動き、平民になられた御武家様も多い。明治の世だけで、ここまで変わったのです。これからは、もっともっと身分は関係無い時代になると私は考えております。だから、ゐくには好いた男と共に人生を歩ませてやりたいのです」
「それならば・・・なぜ、貴方様はゐく殿を迎えにおいでになった」
「まさか、私が娘を連れ戻しに来たとお思いですか」
「当然そう思いますな」
「私は、娘を逃がしに来たのですよ。私が里に着いた時には、既に娘は行方をくらませていた。それを、磯吉殿や家族の方が必死に探してくださったが遂に行方は分からなかった。そう言うことにいたしませぬか」
「それでは、娘御の戻る場所が無くなるではございませぬか」
「建前ですよ、建前。実際は、本当に磯吉殿に娘を連れて逃げて貰おうと思っておるのです。
実は、家を出る前に父にこの封書を渡されました。貴方様と合流する前に、中を確認いたしましたら大金が入っておりましてね。
もしかしなくても、父もゐくの縁談を壊したかったのかも知れませぬ。ただ、立場上、お断りする術も無く。この際、孫を自由にさせてやろうと思われたのかもしれません。安右衛門どのはどう思われますか」
そういうと、懐から茶封筒を取りだし彼に渡す。中には、恐ろしい厚みの札束が無造作に入れられていた。
「これを手切れ金と取るか、口止め料と取るか、ゐくの逃亡資金と取るか。それは分かりませんが。私は、逃亡資金と取りました。普通に考えれば、私を差し向けるなど、おかしな話。普通は使用人を使わして終わりだと思われませんか」
「確かに。あのご隠居・・・かなりの曲者ですな」
「当然でしょう、あの大店を何十年も取り仕切ってきたのですよ」
「まあ、ご隠居殿の本心は分かりませぬが。私も、1つ申し上げなければならぬ事がございます」
「はい、なんでしょうか」
「既に、貴方様と同じ方法を我が母が考えておりまして。同村内の叔父宅にゐく殿を逃がしてございます。息子には、お迎えが参ったら必死に探す様に、申しつけてあります」
2人は、顔を見合わせて大笑いすると草むらに大の字に寝転んだ。
「世は変わって行きますなあ、娘は幸せになれるのですかね」
「我が息子を信じてくだされ、デカイのは図体だけでなく心もデカイ男故。命に換えても家族を守り通す覚悟かと」
「これで、安心いたしました。安右衛門殿、もう一つお願いをしてよろしいでしょうか」
「はい、何なりと」
「早馬で、尻の皮が剥けそうです。もう少し休んで構いませんでしょうか」
2人の笑い声が山中にこだました。