各地からやってきた船は、大桟橋が壊れてしまったり、港が液状化や沈下で使えなくなったこともあり。少し西寄りの山下橋近くの埋立地沖に停泊している。
海岸に横付け出来ない為、荷物は(はしけ)を使い。人は小舟を使い行き来する形になっている。
清水港からやってきた船も、荷下ろしと人の渡しに時間が掛かっており出航まで至っていなかった。小舟で渡しをしている埋立地には、搭乗を待つ人でかなりの行列が出来ている。

壊れた港の近くに停泊している艀に、人夫たちと共に乗り込んだゐくと息子たちは海岸線に見える人の列に驚きを隠せずに居た。
「磯さん、鉄道は動いていないのですね」
「動いている所もあるだろうが、繋がっている訳では無いと聞いたな」
「それでこんなに多くの方が待って居るのですか」
海風に吹かれて、乱れる髪を押さえながらゐくは言った。
「ああ、お前達は心配しなくていい。今から直ぐ乗せて貰える(ゆえ)
「何やら申し訳無い気がします。私達だけ・・・」
「何を言うか、俺がその代わりに働いて返すのだから。胸を張って乗るが良い」
「そうですね」
と言うゐくに頷き、2人の息子には
「良いか、父はここに残り横浜の人々に救いの手を差し伸べるのだ。船で運ばれてきた支援物資を荷揚げする。そして、分配するのだ。俺達港の人夫が居なければ、荷物をあげる事も出来ない。誇りに思うと良い」
余りに誇らしげに言った為、二人は顔を見合わせて、少しイタズラそうな笑顔をすると「はい!」と返事をした。

海風に吹かれていると、あっと言う間に船に到着する。
大きすぎて船の名前もよく見えないが、目の前にそそり立つ大きな船が清水行きの船なのだそうだ。人夫達は、とても器用に板を渡すとヒョイッと船に乗り移っていく。
「危ないからな、俺が乗せてやる」
磯吉はそう言うと、二人の子供をヒョイと担ぎ上げて肩に乗せると。
「しっかり、俺に掴まってろ」
そう告げて、子供達がしがみつくのを待って、今度は軽々とゐくを抱き上げて。
「さて、行くか!」
嬉しそうに、ひらりと板にの乗ると甲板まで軽業師の様に乗り移った。
「どうだ、これが人夫の技術よ。誰にも、力技じゃあ負けないぞ」
これまた、大声で言うものだから同僚達から大きな笑い声が沸き起こる。
「そんななぁ、な。誰だって出来るもんさ」
「そうさな、俺達人夫は誰にも負けねぇ」
力強い男達に、横浜の復興が任される意味がゐくにも分かった気がした。初めて、父の仕事がどう言う物かを知った息子達の顔も笑顔だった。

男達の騒ぎを見て、船員がやってきて声を掛けてくる。
「このお三方ですね、清水までご乗船の方は。えっと、宮城ゐく様、正一様、二郎様ですね」
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
頭を下げる彼女に、子供達も遅れてピョコンと頭を下げる。
「では、一般の方もそろそろ乗船されますので。その前に船室の方へどうぞ」
既に、磯吉は荷下ろしの作業に行ってしまい。どこに居るのかすら分からない。
「磯さん、元気で・・・」
2人の手を引いて、ゐくは船にある階段を登っていく。
「お父さまは、もう行ってしまわれたのですか」
正一が不満そうだ
「お母さま、いつお父さまはいらっしゃるのですか」
二郎も寂しそうだ
「お父様も寂しいと思いますよ、数ヶ月の我慢です。直ぐに戻られます」
今まで、実家を出て以来。ずっと側にいてくれた彼が期間が決まっているとはいえ、居なくなった事に1番不安を感じているのは彼女のようだ。
その横で、寂しさよりも好奇心が勝っている息子達は目を輝かせて色々な物に興味を示している。
「お母さま、あちらの船は何でしょう」
「お兄ちゃん、軍艦だ!」
「お母さま、あの軍艦の名前をご存じですか」
2人の声に、ゐくは救われた気がした。臨時救護所で磯吉が言った「ゐく、良い息子達を。ありがとう」あの言葉を思い出す。あの時、磯さんもきっと不安だったのね。やっと、あの巨体の中に秘められた寂しさを分かった気がしていた。
『私も、もっと強くならないと』
彼女は心の中で、そう思っていた。多分、磯吉がそれを聞いたら「これ以上強くならないでくれ」と言いそうだが・・・。
そんな磯吉・ゐく夫婦の心を余所に夕闇の中を船は離岸していく。沿岸を見渡しても、闇の中であの賑やかで華やかで、昼夜関係無く明るい港とが夜のとばりの中に暗く沈んでいくように見える。人々を乗せて、船は一旦沖合に停泊し。翌朝出発ということだ。取りあえず、今夜は何も不安も無く眠れることが彼女は嬉しかった。
足元では、疲れたのか2人の子供達は眠りこけていた。
「横浜・・・私の第2の故郷。ごめんなさい、そしてありがとう」
ゐくも、そう言うと子供達の横に身体を横たえると直ぐに夢の中に入って行った。

翌朝、気がつくと船は清水に向かって動き始めていた。夜明けと共に、出航しますと聞いていたが船が動き出しても気が付かずに寝ていたようだ。窓から外を見ると太陽はかなり高い場所に見える。
すると、彼女は子供達が居ない事に彼気がついた。起き上がり、船室のドアを開けると甲板が見え、その渡り廊下で子供達は景色を見ながらはしゃいでいた。
「ほら、あんなに富士の山が大きい」
「凄いな、横浜からは小さくしか見えなかったのに」
ちょうど、富士山を真横に見ながら船が進んでいた。

これから、新しい生活が始まる。
ゐくは、自分達が住める場所が磯吉の実家にあるのかとても不安だった。決して広くない家だから、彼が戻って新しい家を建てるまでは迷惑を掛けるだけの様に感じる。
その点、自分の実家は兵役の者達に宿を貸せるほどの広さもあり。父である現当主、長太が許してくれるならば実家に世話になろうかと模索していた。ただ、嫁に行った身で、勝手に里に子供達を連れて行くのが許されるのか。
まずは、港の近くにある実家に顔を出して相談してみようと彼女は考えていた。

親子3人で富士山を眺めていると、少し離れた船の操舵室から昨夜の船員がおむすびと、漬け物、汁物を持って来てくれる。くたびれた手ぬぐいを頭に巻き、下着と思われるタンクトップを着て、スラックスに革靴という、何とも不思議な組み合わせの服装をしている。笑うと歯が白く輝いて見えるほど、良く日に焼けている。
「おはようございます、よく眠れましたか」
そう問いかけてから、彼は船室の机の上に食事を置いた。
「さあ、朝食を持って来てくださったわよ。いただきましょう」
子供達の肩を抱き、風にかき消されないように耳元でそう言うと部屋に戻る。
「お手間をお掛けしております。ありがとうございます」
頭を下げる彼女に
「こんな物しか有りませんが、お昼過ぎには清水に到着しますので。陸で美味しい物を食べてください。地元は清水ですか、それともそこから陸伝いですか」
気を使ってくれているのが分かる。これで、まだ陸で移動するといえばお弁当でもこしらえてくれそうな感じだ。
「お気遣い感謝いたします。里が清水の港にありますので、そちらに取りあえずは身を寄せようかと思っています。夫の実家も清水ですが、少し距離がございますので」
「そうですか、それならば安心ですね。食器は後ほど下げに来ますので、そのままで大丈夫ですから」
声を掛けると、サッと消えていく。
「あのお兄ちゃん、優しいね」
そういう二郎に
「そうね、海の男は見た目は怖いけれど優しいとお父様がいつも仰っていたわね」
二郎にお兄ちゃんと言われるくらい若い彼も、かなり厳つい身体をしていた。
「お母さま、お父さまは、海の男ですか」
正一の問いに
「どうでしょう、船に乗って航海するわけでは無いので違うと思いますよ」
「でも、厳ついですね」
そういと、皆楽しそうに笑った。

昼12時を回った頃、清水の港が見えて来た。外海から、湾に向けて舵を切ると船体がググググググっと、軋む様な音を立てて方向を変えていく。
風光明媚な美しい湾に、海に迫り出す様に富士が裾野まで綺麗に見えている。
「わあ!」
子供達は、横浜で生まれ育ちこの港町は初めてで美しい景色に歓声を挙げた。
「ここが、お母様が生まれた場所よ。ようこそ、私の故郷へ」
息子達を抱きしめて、おでこを二人にコツンと当てると満面の笑顔になった。どんなに離れていても、やはり故郷の景色という物は心を満たしてくれるもの。ゐくは、胸が一杯に息を吸い込むと…。
『ポォー ポポポポポポー』
港に入るという合図だろうか、船が大音量で汽笛を鳴らす。
「うわあ」
2人は耳を塞いだが、下の甲板で一夜を明かした人々からは、歓声が沸き上がる。焼け野原から、文明が残る場所に戻れた安心感だろう。

清水の港は、大型の船が入港できる様に港内を整備してあり。ここ船もかなり大きな船だったが、そのまま滑る様に港に入港する。
そして、船は、前、後ろ、前、後ろと位置を調整しながら、まるで手品の様に静かに着岸した。

船体が停止すると共に、船員達が忙しく走り回り始める。

甲板では、停船作業に追われれる様子も見える。碇を降ろし、停泊用の綱を陸に向かって投げると、陸の作業員がそれを数人で引っ張り大きな杭にぐるぐる巻きにして結ぶ。
「磯さん、無事着きましたよ。ありがとう」
ゐくは、綺麗に晴れ上がり眩しいほどの9月の陽射しを顔に受けた。

下船時は、かなり混乱していた。
ほっとした人々は、我先にと港に降りたいらしく色々な所で小競り合いが起きていた。当然、港からの足にも限りがある。その先の旅程のある人は、できるだけ早く交通手段や宿を確保しなければならず。混乱が起きるのもしかた無いように感じた。

「お母さま、我々は急がなくて良いのですか」
のんびりと構えている母の姿を不安に思ったのか、正一が聞いて来たが。
「大丈夫ですよ、我々は皆さんが降りられた後に動きましょう」
そう答えると、港を見渡す。

港には、大震災の知らせを聞き。
避難民が来ることを知って、近くの各町内会の婦人部が集まってきて臨時救護所を開設している。着物の上に白い割烹着を着て、手ぬぐいを姉さんかぶりにし。たすきを掛け、そのタスキには『臨時救護班 江尻町婦人部』などと所属が書かれている。
急ごしらえの大きな紙に、筆書きの『臨時救護所 食べ物あります』等書いた物が掲げられている。
至る所で、炊飯の湯気が上がり。米の炊ける匂いや、ダシの匂いがこちらまで香って鼻をかすめていく。陸に上がった避難民達に大きな声で救援物資がある事を呼びかける声も、微かに耳に届いてくる。

「お母さま、皆さん優しいですね」
今度は二郎が、驚きの声を挙げる。
「これが日本人の『お互い様 おかげ様』という心ですよ。何かあったら、皆で助け合う。こういう愛念が日本の国を大きくしていくのです。2人共、この日の事を忘れてはなりませんよ。こういう心こそ、身を助ける事になるのです」
幼い2人には、少し難しい様な気がしたが今言っておけば大人になって思い出してくれるだろう。ゐくは、2人にこの光景と共に助け合いの精神を覚えていて欲しかった。

小一時間が経過しただろうか、甲板から人々の姿が消え。港も落ちついて来た頃を見計らって、ゐくは操舵室に礼を言いに行くと子供達と共に下船した。
久しぶりの故郷は横浜の街と違い、昔と変わり無く。子供に戻ったようなほっとした気持ちにさせてくれる。

下船した人々も一段落したからか、救護班も片付けを始めていたが・・・。その中の1人が、ゐく達に気がつき大きな声を挙げた。
「ゐく様!ゐくお嬢様じゃないですか!!」
確か、ゐくの実家の隣家の大奥さんだ。その声を聞いて、一斉に割烹着の一団がこちらを見る。
「ゐく様!本当にゐく様じゃないですか」
「誰か、長太様にお知らせして!」
「私、参ります」
「ゐく様、良くご無事で!!」
割烹着の一団に取り囲まれ、正一と二郎は母の足にしがみつき後ろに隠れる。彼女は、苦笑いすると「これこれ」と息子達に声を掛けながら、彼等の肩をポンポンとする。
「皆様、ご無沙汰しております」
深々と頭を下げる彼女に、全員それ以上に深く頭を下げる。それを見て、2人も困った顔をしながらピョコンと頭を下げた。

そんな子供達に、一斉に割烹着集団から笑い声が起こる。
「可愛い坊ちゃんたちだ」
「ゐく様のお子さん達かい」
「お母様に似てらっしゃるかね」
「どれどれ、お顔見せてちょうだい」
今度は自分達に、矛先が向いたことを知ってまた母の後ろに隠れる。
それを見て、再度笑い声が起こる。
「おっ、お母さまって、お嬢様なの」そういう二郎に「知らないよ」正一は答える。それを無視してか、割烹着集団が母に色々と話し続けるので2人は彼女の背中から離れられずにいた。

どうやら、ゐくの実家町内会婦人部によれば、父の長太がかなりいらだっているとのこと。東京の情報ばかりが、新聞紙面を賑わわせ。ラジオでも取りあげられるが、横浜の情報は単に「全滅」とだけ報じられたらしい。

磯吉が言っていた、最初に電信を打った船が「全滅」という言葉を使ったからだとは思うが。9割超の家が倒れ、地震後の火災でほぼ焼け野原になった横浜の街を「全滅」と例えることは決して間違っていない。
父長太は、早々に家人を横浜に派遣して娘夫婦を探させると言い出したそうだが。ゐくの母が、それを留まらせたという。
「磯吉殿が着いているのだから、父親が余計な事をすれば顔を潰しまする」
そう言ったと、近所では話題になっていたそうだ。しかし、母は港につとめる娘婿で有ることから、嫁と息子達は船で地元に避難させるだろう。そう考えたらしい。
だから、ご近所の救護班の所には
「港で娘を見かけたら、必ず実家に寄るように。夫の実家に直接行ってしまわない様にと、伝えてください」
ゐくの母から伝言があったらしい。
「さすが、奥様ですわ。旦那様は、ただオロオロされていて・・・」
自分が悪口を言ったのに気がつき、あっ!と口を手で覆う。ゐくは、それを見てクスッと笑うと。
「まあ、男ってのはイザと言う時に弱いのですよね。お父様も然りでしたか。夫も大きな身体をしていますが、子供みたいなと頃がありますから」
笑い飛ばしてくれて、ほっとしたのかまた一同に笑いが起こる。
「そうだ、坊ちゃんたち。お腹は空いてないかい。まだおにぎりが残っているから食べねぇか」
既に、撤収準備をしていて布巾を掛けたお盆を持ってきて差し出す。
「お母さま、貰って良いですか」
正一が聞いている間に、二郎が「わーい」とおむすびを手に取ると口に含んだ。
「これ、二郎。まずは、お礼をといつも言って居るでしょう」
怒られた彼は、口をモゴモゴさせて頭を下げ「ありがとうございます」と言った。
「お嬢様、お子さんにこの状況でお叱りになるのはお可哀想ですよ」
「そうでしょうか、どんなときでも男子は礼節を大事に・・・」
そういった視線の先に、息を切らして走ってくる父の姿を見つけた。
「ゐく!ゐく!無事だったか、子供達も!!磯吉君はどうした!!!」
目の前に来るのを待ちきれないらしく、大声で叫ぶ父に彼女は満面の笑みで
「夫は、救援物資の荷下ろしでしばらく横浜におります。ご安心ください。私も息子達も、この通り元気です。ご心配お掛けしました」
そう言う娘の前に立ち、上から下まで怪我が無いか確認した長太は、孫達に視線を向ける。
「ゐく、この子が正一か。大きくなったのお、ジジじゃ。で、この子が・・・何と!怪我をしているじゃ無いか、医者に連れて行かねば!!」
二郎の肩を持って、右往左往する父親にゐくはピシッと言う。
「お父様、落ちついてくださいませ。医者には診せておりまする。傷は縫い合わせて、消毒も終わり。このまま治癒するまで、安静にと言われておりますから」
呆れた顔をする。
父に遅れ、母のよねもやってきた。
「ゐく、無事で何よりでした。孫達も・・・おうおう、痛々しい。大変じゃったのお、ババじゃぞ。こっちが正一で、こっちが二郎かのお。何と可愛らしい。怪我はこの程度で済んだのか、命あってのものだねというから。何よりだった」
すっと、膝を曲げて子供達の前に座ると顔をまじまじと見てから、頭を撫でた。