第七章 帰郷
食事を終え、荷物を磯吉が背中に背負うと子供達は飛び跳ねて彼に従った。余程、公園から出ない生活は退屈だったのだろう。
「ゐく、行くぞ」
いつまでも立ち上がらない妻に声を掛けたが、彼女は座り込んだままだ。
「どうした、立てるか」
昨夜はしっかり睡眠を取れたはずなのに、見張りで寝不足の彼より青い顔をしている。
「磯さん、すみません足に力が入らなくて」
「どうした、具合でも悪いのか」
心配そうに、顔を覗き込む彼に
「池の水を飲んでいたからでしょうか、昨日の昼頃からお腹を下しておりまして。今朝からあまり力が入らず・・・」
もし分けなさそうに彼女は言う
「すまなかった、全く気がつかなかった」
彼は悲しそうな顔をして、背中の荷物を降ろすと上着を脱ぐ。
風呂敷と、上着の2つに荷物を分ける為だ。
「正一、二郎。お前達がこれを持て。俺が母さんを背負う」
「はい、お父さま」
「わかりました」
こう言うときは、さすが男の子だ。小さな身体に、大き過ぎるほどの荷物を言われるがままに背負った。
正一が頷くと、二郎も真似をしコクンと頷く。
「ゐく、良い息子達を。ありがとう」
彼は妻をひょいっと持ち上げると、子供達を愛おしそうに見た。やっと、家族揃ったと言うのに、どうしたことだろうか。彼は心の中でそう思った。

朝の夫婦の会話通り、倒壊せずに建物が唯一残っている場所を目指す。埠頭から間近にある桜木町、そこに立てられた海外渡航検査所という役所の建物だ。咋夕、目の前を通った時も役人らしき人達が集まっていた。建物は焼けていても、コンクリート造の為に倒壊はしていない。そんな建物は、幾つか有った。
ただ、被害が小さくそのまま使えそうなのはここだけだ。
目と鼻の先にある、横浜市役所も原型は保っているようなので事務作業は行われているだろう。

援助という意味では、震災当日に港にいた東洋汽船のコレア丸が打電をしたことを磯吉は知っている。それを受電すれば、政府や軍隊は横浜に向けて援助の手を差し伸べるだろう。

そのおかげか、震災翌日は略奪や暴動といった危険極まりない状態だったが、今は所々に軍人の姿が確認出来る。おかげで平穏が、何とか保たれているという感じを受けた。

しかし・・・。磯吉と同様に武器を持ちだした市民が多い事を考えれば、食べ物などに困ればいつでも殺傷事件が起き得るということを彼は理解していた。

「2人とも、俺の側を離れてはならぬぞ」
そう言いながら、背中で苦しそうに息をする妻ばかりが気になった。次第に強くなっていく夏の陽射しが、彼女の体力を奪っている気がしてならない。

目的地は掃部山公園から歩いても、桜木町までは10分程度。子供を連れていてもあっと言う間にたどり着いた。周囲の建物がほぼ残っていないので、目的とする建物が見えてから、たどり着くまで時間が掛かったような気がするのが不思議だった。
軍隊が上陸して幹線道路を整備したのだろうか、広い道は車が通れる程度に瓦礫がどかされている。左右には、うずたかく何かが積まれているが、倒壊した建物なのか綺麗に焼けてしまい黒い山にしか見えない。

海外渡航検査所には、長い人の列が出来ている。入り口には「臨時救護所」の立て札も見え、人々が治療を待っている様だ。ここに来れば治療を受けられる、誰もがそう思ったのだろう。広報がされていないのに、百人近い人が手当を待って居る。
磯吉達が列の最後尾に近づくと、係と思われる人が声を掛ける。
「動けない方は、お名前を伺って軒下で待っていただいてます」
背中でぐったりとしている、ゐくを見てのことだろう。
「ありがとうございます。妻と、息子を見ていただけますか。妻は動けません、息子はこの通り元気ですが怪我をしております」
二郎の背中を押し、頭の怪我を見せる。
彼は無言で頷くと「こちらへどうぞ」とばかりに、手で方向を示し歩き出す。列から外れて建物の横に行くと、日陰にムシロが敷かれていた。そこが重症者の待機所のようだ。多くの人は、怪我をしており目を反らしたくなるほどの惨状だ。
「お父さま、こわい」
二郎がしがみつくのも無理は無い。瀕死の怪我人が多く。死臭に似た、何かが鼻をつき。そこにゐくを寝かせるのを、磯吉自身も躊躇する。しかし、日陰で横になれる場所の方が良いに決まっている。
磯吉は、そこにゐくを寝かすと
「ゐく、あまり良い場所とは言えぬが横になったほうが良い。ここで良いな」
それを聞き、彼女も頷いた。二郎にも
「二郎、お前も診て貰うのだからここに居なさい」
と言うと、係員に二人の名前を告げて順番待ちをして貰うことにした。

そして、こう問う。
「診察が終わるまでに、どの程度かかりましょう」
「そうですね、2時間、いえ3時間は・・・」
やはり、想像以上に時間は掛かるようだ。
「では、少しここを離れても良いでしょうか」
「ええ、構いませんが。何か用事でしょうか」
「つかぬ事を伺いますが、帰国証明書はこちらで出していただけるのでしょうか」
当時は、船で国(県外)に帰る場合は証明書が無ければならない時代だった。磯吉は、家族をいち早く船で実家のある清水に帰したいと考えていたのだ。
「さあ、私には分かりませんが。市役所も焼けておりますが、業務は跡地で再開しているはずです。近くですから見て来てください。コンクリートの建物は、中が焼けても使えますから」
「そうさせていただきます」
「では、診察までお待ちください」
係員はそう告げると、列の最後尾に戻って行った。

その一部始終を聞いていたゐくは、少し不安げにこう問うた。
「磯さん、船は出ているのですか」
船で故郷に帰るという話についてだろう。
「船は港に付けられないだけで、小舟やはしけで荷物や人は動かせるはずです。定期船がある神戸の港や、清水の港からは被災しても普通に船は入港するでしょう」
そう言うと、被災直後の港事務所での話しを説明し始めた。

「あれは、地震直後のことだ・・・」

横浜港の誇る最新設備である、鉄桟橋が倒壊し多くの人々が海に投げ出され。
津波が押し寄せたり、レンガ蔵の倉庫群が壊れたりと。それはそれは、港も大変な状態になっていた。

船の上で震災を経験した者、海に投げ出され救助された者も多く。全員が陸に集まった震災翌朝。まだ夜も明けやらぬ内にこんな事があった。

怪我をせず無事な人夫を集めて被災後の港の荷揚げについて話し合われた。ところが、経営者達が思って居た以上に、無事な人夫が少なかったのだ。
まあ、普通はこの震災の翌日に出勤する者も居るまい。

通常、震災の起きた昼頃というのは、人夫達の交代時間に当る。多くの人が揃う時間だ。朝早くからのシフトの人間と、昼からのシフトの人間が申し送りをする姿が見られたりする。
磯吉は別の船会社専属の人夫は知らないが、感覚的にはこの時間、100人以上の荷下ろし人夫達がひしめき合っているはずだ。
所が被災後、集まった人夫の人数は20人に満たなかった。当然、怪我をしている者も多く。家族を心配して、早々に港から離れた者も居ただろう。既に、一晩が経過している。港に残っている方が不自然だ。

どちらにしても、さすがに少なすぎた。経営者達が、港にある舶来品をどうやって守るのか、また食料を求め暴徒化した住人から倉庫の穀類をどう守るのか。
そんな話し合いが()されていた。数少ない人夫達も、いつもは参加する事の無い会議に立ち会った。当然、事情を知っておいて貰った方が良いという経営者側の判断だ。

ここに居続ければ、下働きの人夫達も港の保安要員として働く事になる。軍や警察が動くまでは、治安維持の一端を必然的に担うしか無い。だからこそ、会議で全てを知っておいて貰う必要があった。

真剣な話し合いが続く中、色々な情報も入ってくる。状況は刻々と変化している。家族の元に仕事を放り出して駆けつけるつもりだった人夫達も、橋が崩落して戻れなかったり、火災で足止めされたりし、居残ったことで否応無しに港の警備要員に充てられる事になってしまったのだ。

幸いだったのは、被災後すぐ。東洋汽船のコレア号が救援を求める打電をしたことだ。これが無ければ、壊滅的な中で中央に助けを呼ぶ事も出来なかっただろう。
おかげで火の手が収まった翌朝には、素早く横須賀鎮守府の海軍の軍艦や駆逐艦が到着し港の警備も充填された。
そんなこんなで、彼は早々と港を離れられる状態になった。だが、彼が出て行こうとすると経営側が引き留めた。
「これから、援助物資が大量に到着する。磯吉殿、貴殿は家族を見つけ出した後に戻ってくれないか。その代わり、避難船が出る際は家族は最初に乗せられるように手配しよう」
それが、彼をこの場に留めて作業をする代償として提案されたのだ。
「当然、避難船は大変な混雑になるだろう。君の家族は船員達の居住箇所に乗せて貰う。それでどうだろう」
そんな好条件、彼が逃す訳がなかった。
「その条件は、本当ですか。口約束では心配ですから、書面にて判子をついて戴きたい。事務所は、半壊ですから中の物は取り出せますよね」
口約束で反故にされるのを、彼は警戒していた。
「当然だよ、君の働きは素晴らしい。いつも人一倍働いてくれている、こう言うときに頼れる男には、それなりの条件を与えるべきだと我々も分かっている」
「では、その証書を戴き次第。家族を探しに向かいます、妻とはいざという時の避難場所は話し合っております故。直ぐにみつかるでしょう。家族を、地元に戻せたら、落ちつくまで幾らでも働きます」
「そうか、君の働きを期待しているよ。当然、賃金も弾みますからね」
「分かりました、賃金はまた交渉しましょう。少なくとも倍は戴かないと」
ドカッと、地面に座り腕を組む大男に経営者は急いで証文を用意したのだった。当然、他の人夫達も同様の扱いを求め大混乱になったが、最初に証文を手にした彼は家族を探しに出発したのだ。

・・・で、これが証文だ。
彼は懐から、判子をキッチリおされた洋紙を取りだしゐくに自慢げに見せた。
「良く出来ました・・・磯さん」
力なく微笑む彼女を、ひざまづき抱きしめると「少し行ってくる」と、今度は帰国証明書を取りに向かったのだ。市役所は、同じ桜木町で目と鼻の先。船で避難しようという思考より、電車が動いているかという確認に走る時期だったのか。
2人の診察が終わり、治療が済んだ頃には、無事帰国証明書を片手に家族の元に戻っていた。

二郎の頭に巻かれた手ぬぐいは綺麗に取り払われ、変わりに真っ白な包帯が巻かれた。薬を処方され、安心した顔のゐくと正一が建物の日陰で待っていた。
「お父さま、お母さまは汚いお水を飲んだからお腹を壊しただけだそうです。あと、脱水症状なので綺麗な水を煮沸して多めに飲みなさいと先生が」
笑顔で正一の頭を撫でて、うんうんと頷く。
「で、二郎の頭は8針ほど縫いました。打撲も酷いですが、骨に問題は無いでしょうとお医者様が。今の状態なら、治るまで待つだけで良いと」
2人分の状態を報告すると正一は嬉しそうに、父の胸に飛び込んだ。

「よしよし、お前が1番不安だったかも知れないな。よく頑張ったぞ、それでこそ男だ。嫡男だ、これで宮城の家も安泰だな」
それを聞いて脹れっ面の二郎、当然ながら兄に嫉妬していた。自分も痛みに耐えながら、頑張ったのに。と睨むような顔付きになっているのを磯吉が気がつく。
「二郎も、痛みに耐えて兄と一緒に母を守ったな。父は嬉しいぞ」
パッと顔が輝き、照れ笑いの後ろで、ゐくの笑顔が大輪の牡丹の様に輝いていた。

昨日、埠頭の会社を出る時に言われたとおり。磯吉は、家族を全員発見できたので埠頭に向かう。道すがら、まだ真っ黒に焦げて放置された遺体や。原型を留めないほど、ぐにゃっと曲がった真っ黒な何かを見かけたり。必死に、瓦礫を掘り何かを探している人々と出会う。

いかに、自分達が幸運で。また、偶々二郎が夜泣きをしたことで避難先を決めて置いたという、幸運が重なり。家族を容易く見つけられたという事を、信心深く無いのに神仏に感謝していた。

昼前に、港に着いた頃には多くの人夫達が港に戻って来ていた。おかげで予想以上に賑やかな声が、天幕の中から聞こえる。思わず、磯吉の顔が緩む。
今は陽射しよけとしてなのか、人夫達が力仕事の間に休める場所としてなのか天幕の周りを何かの布で覆って居るため中は見えない。

本来天幕は居留地の人達が、母国の船に乗る前の休憩所として椅子を並べて使ったり。倉庫に計算ミスで荷物が入りきれなくなった場合の急しのぎとして利用していたものだ。
多分、半壊した事務所か倉庫から大勢で引っ張り出して張ったのだろう。十分に雨風も凌げて、特注サイズの為。十数人程度なら寝泊まり出来るタイプの物が、数個広げられていた。

中に磯吉が顔を出すと
「おお!磯吉だ」
「おい、お前がどん尻だぞ。家族はどうだった!」
次々と声が掛かる。外に数体の遺体と思われる物が布を掛けられていたことから、家族を失った物が多いことが予想できた。だが敢えて、彼は元気な声で「俺が1番最後かよ。お前達どれだけ、急いで戻って来たんだ」磯吉は戯けて見せた。

「磯さん、お前家族は?」
「そうだよ、家族はどうだったんだよ」
もう一度、同じ事を聞かれて少し申し訳無さそうに
「ありがとうよ、全員無事だ。だから、昨夜は暴徒の話も有ったから安全な所で一夜を過ごして戻ったんだ。何せ妻と小さい小僧2人だからな」
そういうと、全員がまるで自分の事のように歓声を挙げて彼に飛びつき頭をボコボコ殴って喜びを表現した。

それを遠目で見守っていた、ゐくがヨタヨタと歩いて磯吉の隣りに立ち頭を深々と下げた。
「お世話になっております、磯吉の家内にございます」
余りにつり合わない雰囲気の妻に、一同シーンと静まりかえってしまう。その横にピョコンと正一と二郎が出て来て一緒に頭を下げると今度は笑いが巻き起こった。
「なんとまあ、可愛い坊主達だ。こりゃ、父ちゃん堪らんな」
「おお、痛々しいな。傷は大丈夫か」

「はい、おかげ様で大丈夫でございます!」
元気に答えた二郎に、また歓声が沸いた。

これで戻るべき人夫達が揃ったことで、港は復興に向けて動き出すだろう。賑やかな声を聞いて、経営者側の数人がやってきた。その中で、ヒョロリと背が高くパナマ帽を被ったスーツの者がトップらしい。
「皆さん、約束通りお戻り戴き感謝しております」
パナマ帽を取り、深々と頭を下げ膝に両手を置いてしばらくそのままだった。

数日着替えることが出来ていないのだろう。真っ白のYシャツも薄汚れ。暑さで脱いでしまったのか上着は着ておらず。長袖すら肩口までめくっていた。
「こちらに、神戸行き、清水行きの船の乗船用の名簿があります。ご家族がご無事で有った方は、こちらに全員分のお名前をお書きください。1番速い船で、責任を持って、かつ安全に故郷まで送り届けさせていただきます」
それを聞き、急いで記入しようとする彼等に
「急がなくても大丈夫です、全員確実に乗れる手筈は整っております。順番に落ちついて書いてください。ただし、帰国証明書は必要です。取得出来た順に、こちらに提出して下さい。その日付で、乗船していただきます」

人夫達の顔が陰る「おい、帰国証明書だとよ」「どこで貰えるんだ」「どこもかしこも被災してるというのに」口々に言い合う。

そんな中、空気を読む気の無い磯吉が
「あの・・・帰国証明書ですが。先に取得してきました」
胸元から、証書を取り出す。
「磯吉殿、用意周到ですな。では、今日の船がもうすぐ出ますのでそちらに乗れるか、又明日になるのか聞いて来ましょう。ご家族はこちらの3方ですね。貴殿の地元は・・・」
「清水です、清水の港行きに乗せてやってください」
「わかりました」
証書を受け取り、名前を確認すると「おい、連絡をしてくれ清水だ。3名」横に付き添っていた事務方にそれを渡した。
「よろしくお願いします」大きく彼は頭をさげた。

外では、ポーッと入港してきた船の汽笛が聞こえて来る。
これから数日で、震災の支援物資が全国から集まるであろうと聞かされている。だからこその天幕だろうが、たかだか20人の人夫で荷下ろしするのはどれだけの労力を必要とするのか。他の船会社の者も、居るとは言え100人程度は確保できるのだろうか。軍や警察も入ってるので、人ではそこそこ工面されるだろう。
だが、船の上での作業は慣れなければ中々上手く出来る物では無い。だからこそ、自分が行うのだという人夫達のプライドが彼等の表情から伺えた。