日が落ちても、空気は朱に染まり真夏の暑さなのか。火の熱さなのか。
人々は、恐怖と疲労で無言で座り込み気味の悪いほどの静けさを保っていた。
ただ、パチパチという火の燃える音と、時々どこかで何かが爆発するような破裂音が聞こえ、その度にざわめきが起きる。時々子供の泣き叫ぶ声や、赤子の泣き声が妙に生々しく、これが現実だということを物語っている。
集まった人々は疲れ果て、どうやらこの公園内は安全だろうと分かると至る所で眠る人の姿が見られるようになっていた。時々やってくる余震も、気がつかぬほど疲れ切っている人々の中で、ゐくも子供達もウトウトし始めた。ただ、何とかして持ち出した文箱だけは無くさぬ様に、しっかりと胸に抱えていた。
四方八方から広がった火は、日付が変わった頃から下火になり。夜が明ける迄には、すっかり消えていた。体力のある若者や、男性達は夜が白々と明けた頃から1人、また1人と公園から出て行ったようだ。
太陽が地平線から昇り、公園の木々の間からも見える頃には、子供を連れた家族や、老人などが残るのみだった。ゐく達も、9月とはいえまだ真夏と変わらぬ陽射しに、木陰に移動することにした。
「お母さま、喉がかわきました」
「僕も、お水がほしい」
どこをどう見ても、水など有る訳が無く。しかたなく、皆てんでに池の水を口にして喉の渇きを癒すしかなかった。
「沢山飲んではいけませんよ。お腹を壊すかも知れません」
昨夜の火事のせいなのか、黒いゴミがかなり池には浮き。水も相当濁っていた。
「お母さま、これからどうするのですか」
昼前になり、いつまでも動こうとしない母に正一が聞いた。
「そうですね、何か食べる物を探さねばですが。お父様がここに来られるまで待った方が良いはずです」
「お母さま、おなかすいた。頭が痛い」
二郎の訴えに、やっと息子の怪我を思い出したほど彼女も疲れ切っていた。昨日、家の下敷きになったからだろうか。色々な所が痛み、時々意識が朦朧とすることもあった。
「二郎、母が傷を見ても良いですか」
小さく頷く彼の頭から、手ぬぐいを取ろうと結び目を解いたが・・・。
出血を止める為に、強く結んでいた為だろうか。血を吸った手ぬぐいが乾き、傷に張り付いてしまっている。しばらく悩んだ上で、カサブタを手ぬぐいと一緒に取ってしまうことで、又出血をしたら良く無いだろうと。今度は、強く結ばずゆったりと手ぬぐいを結んだ。
「お母さま、怪我は大丈夫でしょうか」
そう聞く彼に
「血は止まってます、良かったですね。お医者様に見せるまでこのままに」
無理して微笑んで見せた。親が動揺したら、子供が不安に思うだろうと精一杯の笑顔だった。
高く登った太陽が頭上を過ぎ、西方向へ進むのを見て。さすがに、彼女も行動を起こすことにした。丸1日何も食べて居らず、脱水症状もあり命を繋げる為には、何かしないとならないと思ったからだ。
「二郎、ここで待てますね。お父様が来たら、母はまた戻ってくると伝えて貰えますか。正一、一緒に家に戻りましょう。何か食べ物が掘り出せるかも知れません」
自らが出て来た場所が、台所だったのを思い出し、何か食べ物をと思ったのだ。立ち上がって、文箱を二郎に渡すと公園を出ようと立ち上がった所に男性が走り込んできた。
「ここに避難されている皆さん、井戸は危ないです。もし、飲まれるなら川の水を!井戸に毒が入れられたという話が回ってきてます」
避難をしている人々がざわめき始める。
「どこの井戸だ!どこの井戸なら安全なんだ!俺らは、喉がカラカラなんだよ」誰か分からない高齢の男性が、立ち上がって彼の胸ぐらを掴む。
「分からないです、私も聞いたばかりで。取りあえず、避難されている人に伝えようと、手分けをして回っているので。あと、暴動と略奪も起きてます。市街地には行かれない方が安全です」
そう言い残すと、あっと言う間に男性は去って行く。
「お母さま、家の辺りは大丈夫でしょうか」
正一の言葉に
「危ないかもしれません。様子が分かるまで、空腹は堪えられますか」
ゐくは、ここに留まる決意をしたようだ。正一は、力強く頷いたが二郎はモゴモゴ口ごもると泣き始めた。
「二郎、お父様が戻るまでの我慢ですよ」
と言っても、ただ泣くばかり。困った彼女は、何か息子の気を紛らわせる物が無いかと文箱を開いた。
そこには、ゐく本人も忘れていた舶来の菓子が幾つか入れられていた。少し前に、外国船が入港した際、仕事をしたというのでチップ代わりに磯吉が貰って来た物だった。高級品であるチョコレート、息子達のご褒美にと食べずに保管しておいたのだった。
銀紙に包まれた板チョコは、気温のせいか、はたまた胸に抱いていたためか溶け始めていたが開封して居なかったのが幸いして漏れ出さずに何とか原型を留めている。他にも、金平糖が和紙で作った袋に入れられて収められていた。これも、磯吉が神戸から入港した船の船員に貰った物だ。
ゐくは、何でも大事な物は文箱に入れる癖があり。それが、今回プラスに働いたらしい。他の人達に見つかると、危険と思った彼女はこっそりと子供達の口にそれを含ませたのだった。
そして、2日目の夜がやってきた。少しずつ、夜のとばりが降りていく中。
暴動が起きていると言う話しが有ったが、静か過ぎるほど公園内は平和そのものだった。食べ物を求めて移動した人々も多く、パッと見で確認できるのはゐく達を含めて5家族くらいのようだ。ただ、公園は広く。池の反対側からも、人の気配がするような気がする。
日が暮れるにつれ、さすがの彼女もプラス思考ができなくなっていた。もしかすると、夫である磯吉は津波に飲まれてしまったのかも知れない。明日、昼まで待って、彼が現れなければ子供達を連れて公園を出よう。そう決心した彼女の目に、公園の入り口に松明なのか灯りを持った人が入ってきたのが確認出来た。
どうやら松明らしき物を持った人は、池の周りを丁寧に確認して回っている様だ。
「やっと、警察が機能し始めたのかしら」
ゐくのひとり言に、正一が彼女の顔を見上げる。
「暴徒が落ちつけば、家に戻れますね」
「そうですね、さすがに警察も軍も放置はしないでしょう。明日、3人で公園を出てみましょう。お父様は、お忙しいのでしょう」
言葉を選びながら、彼女が答えた。
「お母さま。お父さまは、生きてないかも」
幼い二郎は、思った事をそのまま口にだしてしまう。しかし、ゐくはそれも考慮に入れていたようだ。
「そうですね、その可能性もあるやもしれません。正一と二郎には母がおりますから大丈夫ですよ」
「はい、お母さま」
母の言葉から何かを感じたのか、二郎はさすがに泣き出す事も無かった。ただ、何も声を発することが無かった正一が弟をぎゅっと抱きしめていた。
先ほどから、止まっては動き。動いては止まる松明が少しずつ近づく。どうやら、公園に居る家族を丁寧に確認して歩いているようだ。
「お母さま、あれはやはり警察か何かでしょうか」
彼がそう言うと、松明の主がこちらに走ってくるのが分かった。何事かと、ゐくが立ち上がり息子達を背中に隠した所で松明の主が分かった。
薄明かりの中、松明を持って歩いてきた男は待ちわびていた磯吉だった。
「ゐく!」
そう言うと、松明・・・いや、棒に布切れを巻いた物を放り投げると彼女を抱きしめた。
「磯さん、ご無事でしたか」
ほっとしすぎたのか、彼女は磯吉の腕の中で気を失った。
「ゐく、ゐく殿。おい、おい!」
焦って、彼女を抱き留めて表情を確認した彼だが。ゐくが、どうやら失神というよりは、眠っている事に気がつき「ふっ」っと笑うと彼女を抱きしめた。
「ゐく、眠る事もせずに子らを守っていたか。難儀であった」
ゆっくりと、草の上に彼女を寝かすと何とも言えない表情で子供達を見つめた。
「お前達、母上が守ってくださったことを忘れてはならぬぞ。母親というのは、命を賭けて子を守る物だ。無事で何よりだ。遅くなって悪かった」
そう言って、2人を抱きしめた磯吉の背中には小銃が背負われていた。
その夜は、磯吉が合流したこともあり。ゐくと子供達は、ぐっすり眠ることができた。そして、朝が来た頃。磯吉は静かに家族の元を離れると、公園内の落ち葉や枯れ木を拾って来て炊飯を始めていた。
女・子供、老人ばかりが残っている公園内とはいえ、炊飯を始めれば人々の視線はつき刺さる。ただ、身体の大きな彼に誰も近づけないようだった。
しかも、背中には小銃を背負っている。そこまで、命がけで食料を奪おうという者はここには居なかった。
3人が目を覚ます頃には、炊き上がった米と少しばかりの漬け物で久しぶりの食事らしい食事が出来る様になっていた。食べる事に必死の子供達をよそに、ゐくは矢継ぎ早に夫に質問を浴びせかけた。
なぜ、ここに来るのに数日掛かったのか。食材はどこから集めてきたのか、鍋や食器などはどうしたのか。それより何より、背中に背負っている小銃がきになっていた。
確かに、彼は兵役で小銃の使い方や扱い方を知っているとはいえ、一個人がこんな物を携帯していること自体が異常だと思ったからだ。
磯吉は、真っ先に自分の分を平らげると、ゐくに震災発生からの経緯を話し始めた。
「地震が起きた時、俺は鉄桟橋の上で外国船から荷物を降ろしている頃だった。実は、地震に気がつく前になあ・・・腰に下げていた水筒に結んであったお前のリボンが解けて宙に舞って行った。で、俺はそれを追って荷物を抱えながら船の方に走っていった」
「また、リボンですか」
呆れるゐくに、そうだと真剣な顔で言う。
「宙に舞ったリボンは、船の上に舞い降りて。俺がそれを掴んだ瞬間、大地震はやってきた。桟橋は崩れ海に落ち。荷物の積み下ろしを待っていた船も地震の揺れで発生した波で多くが沈んでいった。
ふっと、埠頭を見ると・・・埠頭そのものが轟音を立てながら海中に沈んでいく。埠頭にいた人々が海に放り出され泳げずに海に沈んでいく。接岸していた船は、地震で起こった波で岸壁にぶち当たり壊れて傾いたり、浸水している状態で俺は呆然とそれを見ていた」
「実は港の様子を私も聞き及んでおりました」
「そうか」
「ご無事で何よりでございました」
彼は大きく深く頷く。
「その後、船が人々を海からすくい上げる手伝いをし。そのまま沖に、避難をした。津波が来ると、船は転覆してしまうからだ」
「それで、遅くなられたのですね」
「まあ、それもあったが。沖からは、陸地に炎が広がっていくのが見えた。船の船長や船員達は、陸に戻ることを拒んだ。やっと、火災が収まり陸にあがると、暴動や略奪が起きていると言う情報が入ってきた。幸か不幸か、港の倉庫には沢山の米や舶来の品がある。
ただ、多くの倉庫も半壊全壊し品物が剥き出しになっていた。我々が陸に上がる前から、略奪をされておりほとんどめぼしい物は無くなっていた。だが、米の入った倉庫はなぜか無事でな」
「それで、磯さんは米をお持ちになったのですか」
「端的に言えばそうだが。会社の方が、その内には米を求めた暴徒がやってきて扉など簡単に壊されてしまうであろう。というので、扉を開放して好きに持っていく様に声を掛けることにした。まあ、俺は先に米をしこたま懐に入れたのだけれどな」
「まあ、貴方らしいですね」
「そこからが、大変だった。自宅にも取れば、跡形も無く。しかも、完全に崩れた建材は灰になっていた。そこから、どの家の物か分からぬ茶碗や鍋などを掘り出し風呂敷に包み。掃山公園に向かおうと思ったのだが、途中で在留外国人が暴れているとか、井戸に毒を投げ込んだなんていう話しが飛び込んできた」
「ここにも、同じ様な事を伝えに来てくれた方がいました。外国籍の方の暴挙でしたか」
「ああ」
「その頃、来てくださったら・・・もう少し早かったのでは」
そう言う彼女に、コクンと頷く。
「実はな、途中で軍の武器庫が崩れ。人々が自衛の為に、武器を取りに押し寄せているという話も聞いた」
「あ・・・それで、その背中の」
「そうだ。さすがの俺も、素手では家族全員を守り通せる自信が無い。だから、その武器を取りに行き。ほとんど殴り合いの喧嘩に近い事をしながら、この小銃と弾丸を確保した後にこちらに来たと言う訳だ」
「それで、磯さんはお怪我は無いですか」
「ああ、俺は大丈夫だ。所で、ボウズの頭はどうしたんだ」
手を伸ばして、何も考えずに手ぬぐいを取ろうとする彼の手を、ゐくは払い除けると彼を睨む
「おお、怖い。何だ」
「血が乾いて、手ぬぐいが傷に固着しております。下手に剥いだら、また出血しかねません」
彼女の気迫に押されて「お、おお」と答えると手を引っ込める。
「地震の際に、落ちてきた物干し竿が額に当たったそうです」
「傷の具合は、どうなんだ」
二郎の顔は、傷口よりずっと広い部分で赤紫に変色しており、眼球も気持ち血走って赤くなっているようだ。
「だから、分からないのです。お医者様でなければ、取っては駄目です」
「お、おお」
完全に磯吉は小さくなって、ゐくの言うなりになっていた。
「磯さん、そこまで情報を集めてきているということは、お医者様の情報もお持ちなのでは無いですか」
そう言われて、彼は首を横に振ると
「食事が終わったら、ここを出よう。きっと、どこかに救護所が開設されているだろう。聞いて回れば、きっと二郎も診て貰えるはずだ」
確かに、彼の言うとおりだと彼女も思った。
「途中、建物が残っている所はありましたか」
「そうだな、ほとんどが倒れてしまっていたが。近代建築で、コンクリート造の建物は幾つか残っていた」
「とすると、その辺りが救護所に使われる可能性は高そうですね」
「おお、ゐくは頭が良いな」
「まあ、どなたでも思い付くかと思いますが、そう言うことにしておきます」
そんな会話をしながら、外の様子に思いを馳せるよりも・・・。
やっと、悪夢の数日を過ごしたこの公園から出られることがゐくには1番嬉しかった。
人々は、恐怖と疲労で無言で座り込み気味の悪いほどの静けさを保っていた。
ただ、パチパチという火の燃える音と、時々どこかで何かが爆発するような破裂音が聞こえ、その度にざわめきが起きる。時々子供の泣き叫ぶ声や、赤子の泣き声が妙に生々しく、これが現実だということを物語っている。
集まった人々は疲れ果て、どうやらこの公園内は安全だろうと分かると至る所で眠る人の姿が見られるようになっていた。時々やってくる余震も、気がつかぬほど疲れ切っている人々の中で、ゐくも子供達もウトウトし始めた。ただ、何とかして持ち出した文箱だけは無くさぬ様に、しっかりと胸に抱えていた。
四方八方から広がった火は、日付が変わった頃から下火になり。夜が明ける迄には、すっかり消えていた。体力のある若者や、男性達は夜が白々と明けた頃から1人、また1人と公園から出て行ったようだ。
太陽が地平線から昇り、公園の木々の間からも見える頃には、子供を連れた家族や、老人などが残るのみだった。ゐく達も、9月とはいえまだ真夏と変わらぬ陽射しに、木陰に移動することにした。
「お母さま、喉がかわきました」
「僕も、お水がほしい」
どこをどう見ても、水など有る訳が無く。しかたなく、皆てんでに池の水を口にして喉の渇きを癒すしかなかった。
「沢山飲んではいけませんよ。お腹を壊すかも知れません」
昨夜の火事のせいなのか、黒いゴミがかなり池には浮き。水も相当濁っていた。
「お母さま、これからどうするのですか」
昼前になり、いつまでも動こうとしない母に正一が聞いた。
「そうですね、何か食べる物を探さねばですが。お父様がここに来られるまで待った方が良いはずです」
「お母さま、おなかすいた。頭が痛い」
二郎の訴えに、やっと息子の怪我を思い出したほど彼女も疲れ切っていた。昨日、家の下敷きになったからだろうか。色々な所が痛み、時々意識が朦朧とすることもあった。
「二郎、母が傷を見ても良いですか」
小さく頷く彼の頭から、手ぬぐいを取ろうと結び目を解いたが・・・。
出血を止める為に、強く結んでいた為だろうか。血を吸った手ぬぐいが乾き、傷に張り付いてしまっている。しばらく悩んだ上で、カサブタを手ぬぐいと一緒に取ってしまうことで、又出血をしたら良く無いだろうと。今度は、強く結ばずゆったりと手ぬぐいを結んだ。
「お母さま、怪我は大丈夫でしょうか」
そう聞く彼に
「血は止まってます、良かったですね。お医者様に見せるまでこのままに」
無理して微笑んで見せた。親が動揺したら、子供が不安に思うだろうと精一杯の笑顔だった。
高く登った太陽が頭上を過ぎ、西方向へ進むのを見て。さすがに、彼女も行動を起こすことにした。丸1日何も食べて居らず、脱水症状もあり命を繋げる為には、何かしないとならないと思ったからだ。
「二郎、ここで待てますね。お父様が来たら、母はまた戻ってくると伝えて貰えますか。正一、一緒に家に戻りましょう。何か食べ物が掘り出せるかも知れません」
自らが出て来た場所が、台所だったのを思い出し、何か食べ物をと思ったのだ。立ち上がって、文箱を二郎に渡すと公園を出ようと立ち上がった所に男性が走り込んできた。
「ここに避難されている皆さん、井戸は危ないです。もし、飲まれるなら川の水を!井戸に毒が入れられたという話が回ってきてます」
避難をしている人々がざわめき始める。
「どこの井戸だ!どこの井戸なら安全なんだ!俺らは、喉がカラカラなんだよ」誰か分からない高齢の男性が、立ち上がって彼の胸ぐらを掴む。
「分からないです、私も聞いたばかりで。取りあえず、避難されている人に伝えようと、手分けをして回っているので。あと、暴動と略奪も起きてます。市街地には行かれない方が安全です」
そう言い残すと、あっと言う間に男性は去って行く。
「お母さま、家の辺りは大丈夫でしょうか」
正一の言葉に
「危ないかもしれません。様子が分かるまで、空腹は堪えられますか」
ゐくは、ここに留まる決意をしたようだ。正一は、力強く頷いたが二郎はモゴモゴ口ごもると泣き始めた。
「二郎、お父様が戻るまでの我慢ですよ」
と言っても、ただ泣くばかり。困った彼女は、何か息子の気を紛らわせる物が無いかと文箱を開いた。
そこには、ゐく本人も忘れていた舶来の菓子が幾つか入れられていた。少し前に、外国船が入港した際、仕事をしたというのでチップ代わりに磯吉が貰って来た物だった。高級品であるチョコレート、息子達のご褒美にと食べずに保管しておいたのだった。
銀紙に包まれた板チョコは、気温のせいか、はたまた胸に抱いていたためか溶け始めていたが開封して居なかったのが幸いして漏れ出さずに何とか原型を留めている。他にも、金平糖が和紙で作った袋に入れられて収められていた。これも、磯吉が神戸から入港した船の船員に貰った物だ。
ゐくは、何でも大事な物は文箱に入れる癖があり。それが、今回プラスに働いたらしい。他の人達に見つかると、危険と思った彼女はこっそりと子供達の口にそれを含ませたのだった。
そして、2日目の夜がやってきた。少しずつ、夜のとばりが降りていく中。
暴動が起きていると言う話しが有ったが、静か過ぎるほど公園内は平和そのものだった。食べ物を求めて移動した人々も多く、パッと見で確認できるのはゐく達を含めて5家族くらいのようだ。ただ、公園は広く。池の反対側からも、人の気配がするような気がする。
日が暮れるにつれ、さすがの彼女もプラス思考ができなくなっていた。もしかすると、夫である磯吉は津波に飲まれてしまったのかも知れない。明日、昼まで待って、彼が現れなければ子供達を連れて公園を出よう。そう決心した彼女の目に、公園の入り口に松明なのか灯りを持った人が入ってきたのが確認出来た。
どうやら松明らしき物を持った人は、池の周りを丁寧に確認して回っている様だ。
「やっと、警察が機能し始めたのかしら」
ゐくのひとり言に、正一が彼女の顔を見上げる。
「暴徒が落ちつけば、家に戻れますね」
「そうですね、さすがに警察も軍も放置はしないでしょう。明日、3人で公園を出てみましょう。お父様は、お忙しいのでしょう」
言葉を選びながら、彼女が答えた。
「お母さま。お父さまは、生きてないかも」
幼い二郎は、思った事をそのまま口にだしてしまう。しかし、ゐくはそれも考慮に入れていたようだ。
「そうですね、その可能性もあるやもしれません。正一と二郎には母がおりますから大丈夫ですよ」
「はい、お母さま」
母の言葉から何かを感じたのか、二郎はさすがに泣き出す事も無かった。ただ、何も声を発することが無かった正一が弟をぎゅっと抱きしめていた。
先ほどから、止まっては動き。動いては止まる松明が少しずつ近づく。どうやら、公園に居る家族を丁寧に確認して歩いているようだ。
「お母さま、あれはやはり警察か何かでしょうか」
彼がそう言うと、松明の主がこちらに走ってくるのが分かった。何事かと、ゐくが立ち上がり息子達を背中に隠した所で松明の主が分かった。
薄明かりの中、松明を持って歩いてきた男は待ちわびていた磯吉だった。
「ゐく!」
そう言うと、松明・・・いや、棒に布切れを巻いた物を放り投げると彼女を抱きしめた。
「磯さん、ご無事でしたか」
ほっとしすぎたのか、彼女は磯吉の腕の中で気を失った。
「ゐく、ゐく殿。おい、おい!」
焦って、彼女を抱き留めて表情を確認した彼だが。ゐくが、どうやら失神というよりは、眠っている事に気がつき「ふっ」っと笑うと彼女を抱きしめた。
「ゐく、眠る事もせずに子らを守っていたか。難儀であった」
ゆっくりと、草の上に彼女を寝かすと何とも言えない表情で子供達を見つめた。
「お前達、母上が守ってくださったことを忘れてはならぬぞ。母親というのは、命を賭けて子を守る物だ。無事で何よりだ。遅くなって悪かった」
そう言って、2人を抱きしめた磯吉の背中には小銃が背負われていた。
その夜は、磯吉が合流したこともあり。ゐくと子供達は、ぐっすり眠ることができた。そして、朝が来た頃。磯吉は静かに家族の元を離れると、公園内の落ち葉や枯れ木を拾って来て炊飯を始めていた。
女・子供、老人ばかりが残っている公園内とはいえ、炊飯を始めれば人々の視線はつき刺さる。ただ、身体の大きな彼に誰も近づけないようだった。
しかも、背中には小銃を背負っている。そこまで、命がけで食料を奪おうという者はここには居なかった。
3人が目を覚ます頃には、炊き上がった米と少しばかりの漬け物で久しぶりの食事らしい食事が出来る様になっていた。食べる事に必死の子供達をよそに、ゐくは矢継ぎ早に夫に質問を浴びせかけた。
なぜ、ここに来るのに数日掛かったのか。食材はどこから集めてきたのか、鍋や食器などはどうしたのか。それより何より、背中に背負っている小銃がきになっていた。
確かに、彼は兵役で小銃の使い方や扱い方を知っているとはいえ、一個人がこんな物を携帯していること自体が異常だと思ったからだ。
磯吉は、真っ先に自分の分を平らげると、ゐくに震災発生からの経緯を話し始めた。
「地震が起きた時、俺は鉄桟橋の上で外国船から荷物を降ろしている頃だった。実は、地震に気がつく前になあ・・・腰に下げていた水筒に結んであったお前のリボンが解けて宙に舞って行った。で、俺はそれを追って荷物を抱えながら船の方に走っていった」
「また、リボンですか」
呆れるゐくに、そうだと真剣な顔で言う。
「宙に舞ったリボンは、船の上に舞い降りて。俺がそれを掴んだ瞬間、大地震はやってきた。桟橋は崩れ海に落ち。荷物の積み下ろしを待っていた船も地震の揺れで発生した波で多くが沈んでいった。
ふっと、埠頭を見ると・・・埠頭そのものが轟音を立てながら海中に沈んでいく。埠頭にいた人々が海に放り出され泳げずに海に沈んでいく。接岸していた船は、地震で起こった波で岸壁にぶち当たり壊れて傾いたり、浸水している状態で俺は呆然とそれを見ていた」
「実は港の様子を私も聞き及んでおりました」
「そうか」
「ご無事で何よりでございました」
彼は大きく深く頷く。
「その後、船が人々を海からすくい上げる手伝いをし。そのまま沖に、避難をした。津波が来ると、船は転覆してしまうからだ」
「それで、遅くなられたのですね」
「まあ、それもあったが。沖からは、陸地に炎が広がっていくのが見えた。船の船長や船員達は、陸に戻ることを拒んだ。やっと、火災が収まり陸にあがると、暴動や略奪が起きていると言う情報が入ってきた。幸か不幸か、港の倉庫には沢山の米や舶来の品がある。
ただ、多くの倉庫も半壊全壊し品物が剥き出しになっていた。我々が陸に上がる前から、略奪をされておりほとんどめぼしい物は無くなっていた。だが、米の入った倉庫はなぜか無事でな」
「それで、磯さんは米をお持ちになったのですか」
「端的に言えばそうだが。会社の方が、その内には米を求めた暴徒がやってきて扉など簡単に壊されてしまうであろう。というので、扉を開放して好きに持っていく様に声を掛けることにした。まあ、俺は先に米をしこたま懐に入れたのだけれどな」
「まあ、貴方らしいですね」
「そこからが、大変だった。自宅にも取れば、跡形も無く。しかも、完全に崩れた建材は灰になっていた。そこから、どの家の物か分からぬ茶碗や鍋などを掘り出し風呂敷に包み。掃山公園に向かおうと思ったのだが、途中で在留外国人が暴れているとか、井戸に毒を投げ込んだなんていう話しが飛び込んできた」
「ここにも、同じ様な事を伝えに来てくれた方がいました。外国籍の方の暴挙でしたか」
「ああ」
「その頃、来てくださったら・・・もう少し早かったのでは」
そう言う彼女に、コクンと頷く。
「実はな、途中で軍の武器庫が崩れ。人々が自衛の為に、武器を取りに押し寄せているという話も聞いた」
「あ・・・それで、その背中の」
「そうだ。さすがの俺も、素手では家族全員を守り通せる自信が無い。だから、その武器を取りに行き。ほとんど殴り合いの喧嘩に近い事をしながら、この小銃と弾丸を確保した後にこちらに来たと言う訳だ」
「それで、磯さんはお怪我は無いですか」
「ああ、俺は大丈夫だ。所で、ボウズの頭はどうしたんだ」
手を伸ばして、何も考えずに手ぬぐいを取ろうとする彼の手を、ゐくは払い除けると彼を睨む
「おお、怖い。何だ」
「血が乾いて、手ぬぐいが傷に固着しております。下手に剥いだら、また出血しかねません」
彼女の気迫に押されて「お、おお」と答えると手を引っ込める。
「地震の際に、落ちてきた物干し竿が額に当たったそうです」
「傷の具合は、どうなんだ」
二郎の顔は、傷口よりずっと広い部分で赤紫に変色しており、眼球も気持ち血走って赤くなっているようだ。
「だから、分からないのです。お医者様でなければ、取っては駄目です」
「お、おお」
完全に磯吉は小さくなって、ゐくの言うなりになっていた。
「磯さん、そこまで情報を集めてきているということは、お医者様の情報もお持ちなのでは無いですか」
そう言われて、彼は首を横に振ると
「食事が終わったら、ここを出よう。きっと、どこかに救護所が開設されているだろう。聞いて回れば、きっと二郎も診て貰えるはずだ」
確かに、彼の言うとおりだと彼女も思った。
「途中、建物が残っている所はありましたか」
「そうだな、ほとんどが倒れてしまっていたが。近代建築で、コンクリート造の建物は幾つか残っていた」
「とすると、その辺りが救護所に使われる可能性は高そうですね」
「おお、ゐくは頭が良いな」
「まあ、どなたでも思い付くかと思いますが、そう言うことにしておきます」
そんな会話をしながら、外の様子に思いを馳せるよりも・・・。
やっと、悪夢の数日を過ごしたこの公園から出られることがゐくには1番嬉しかった。

