第六章 約束
横浜の港の朝は早い、漁村では無いが外国船や国内航路を結ぶ大型船。貨物船などが24時間、絶え間なく入港する。
そんな港からほど近い川沿いには、横浜市最大の住宅地が広がっていた。いわゆる下町。長屋も多く、海に近い場所には船からの荷下ろしをする人夫達が多く住んでいる。
静岡から駆け落ちをした磯吉とゐくも、そんな横浜の港にほど近い長屋に住んでいる。夜も明けぬ午前4時、早出の勤務の為に磯吉は朝食を食べていた。
「磯さん、今日のお戻りはお昼過ぎですか」
ゐくが、お茶を注ぎながら聞いた。
「そうだな、お昼を少し回るかも知れない。子供達と先に食べていなさい」
既に、磯吉とゐくには2人の子供が生まれている。柴田家のご老体が亡くなった事で、父である長太が事実上の当主になり数年。夫婦は、嫁の実家からも許され安定した生活を営んでいた。
港の人夫の給料は安いが、贅沢さえしなければ十分食べていけた。2人の間に生まれた男の子達は、ゐくに似たのか大人しく聞き分けが良い子供に育っていた。上が11歳、下が、9歳。賑やかな毎日が繰り広げられていた。
お嬢様と、農民の長男という立場は既に崩れ。対等な夫婦関係になった2人は、おしどり夫婦と近所では評判だ。
「あ、そうそう。そう言えば、昨日の夜。二郎が突然目を覚まして泣いたのです」
「なんだ、アイツは男の癖に良く泣くヤツだな」
「磯さん、まだ9つなのですよ。子供は『つ』が取れるまでは目を離しては駄目とか。神の内だとか言いますでしょ」
それを聞いてキョトンとする彼にゐくはこう言った。
「宮城の家では言わないですか。柴田の家では、それこそ母が良く口を酸っぱくして申しておりました。1つ、2つ、3つ、4つ、5つ、6つ、7つ、9つ、10。ここでやっと『つ』が取れるのです。ここまでは、自己判断が難しい幼子だから何かあったら親の責任ですと」
「ほお、面白い理屈だな」
そう言われて、面白く無い彼女はちゃぶ台をバン!と叩いた。
「おおおお、ゐくそんなに怒るな。俺が悪かった。で、二郎は何で泣いたんだ」
「それがですよ、寝ていたらゴオオオオっと地鳴りがしたというのです」
「そういえば、最近。やたらに地震が多い上に、地鳴りが多いな。俺も気がついていたが、数年前に世間を賑わわせたインチキ地震学者の言う事が当たる訳では有るまいな」
この時期、少し大きめの地震が各地で起こり。地震研究をしていた学者が、今度は関東に壊滅的な大地震が起こると発表して人々を震え上がらせていた。
しかし、結局何も起きず。人々は安堵し、その学者の名前は聞かなくなっていた。磯吉はそのことを言っているのだ。
「まあ、何はともあれ十分注意するに越した事は無いですね」
「ああ、前もお前に話したが。俺のオヤジのハトコ殿が、安政の江戸地震の時。松平様から藩邸を修繕するために呼ばれてな。下町は灰塵に帰していたらしい。武家屋敷などは防火帯が有ったため延焼を間逃れたらしいがな。この辺りは、下町だ。軒下が触れ合う程に近い。もし、地震が起きて出火したら火の海になるだろう」
それを聞くゐくの顔が、曇る。
「なあに、心配は無いよ。めったやたらに大地震は起こらんて。ただ、ここの所、余りにも不穏故。もし、地震が起きたらそなたも分かる通り。海に向かっては駄目だ。山の手に逃げよ。火を防ぐには、緑の多い所、そして池の有る所が良い。もし何かあれば、掃部山公園だろうか。そこに逃げる様に心しておけ・・・って、俺は何を話しているやら」
自分が万が一の話を真剣に話していることが、恥ずかしくなった磯吉だ。意外とこう見えて、気が小さいのだ。
照れ隠しのごとく、立ち上がると数歩で玄関とい居間を出て、地下足袋を履いた。明治後期に出て来た地下足袋だが、磯吉は、はしけと船の間を荷物を持って走り回る仕事をしていたので草履より地下足袋が良いと愛用している。
玄関に座り、地下足袋を履いていると玄関のドアが強風でバタバタ言っている。どうやら、雨音もパラパラだがしている。
昨夜のニュースでは、九州から台風が北上してきて太平洋沿岸沿いに沖を進むと言っていた。
「昨夜よりは風が静かになりましたが、海はまだ荒れておりますでしょう。気をつけてお仕事してらっしゃいませ」
ゐくが、気遣いの言葉を掛けると
「大丈夫さ、このリボンが守ってくれる。俺のお守りだ」
あの連隊で磯吉の腕に結んだリボンを、まだ彼は大事に竹製の水筒に括り付けていた。
「磯さん、それは単なる私のリボンです。恥ずかしいのでそろそろお捨て下さい」
「いや、これを持っていると何事も上手く行く。お前は俺の幸運の女神だからな」
そういうと、スッと立ち上がり玄関を出て行く
「ゐく、不用心だから玄関の鍵を閉めなさい。では行ってくるよ」
手をサッと挙げると、彼は出勤していった。
子供達が起き出した頃には、風も止み。日も差し、朝から蝉の声が賑やかに響き渡っていた。先に起きてきた正一は、居間に入る前にしっかりと正座をし深々を頭を下げると「お母さま、おはようございます」と挨拶をした。くりくりの坊主頭で、ほっそりとしているが骨格はしっかりしている。どうやら磯吉に似たらしい。
「はい、正一。良く出来ました、おはようございます」エプロン姿で台所に立っていた彼女は、にっこりと微笑見ながら振り向く。
遅れて起きてきた、二郎はあくびをしながら「おかあさま、お腹空いた」とちゃぶ台にすわってしまう。それを見た、正一は「二郎、教わった通りお母さまに朝のご挨拶をしろよ」そういうのと同時に頭をポカン!と殴った。
「痛い!お母さまあ、お兄ちゃんが殴ったあ」ギャーンと火のついたように泣き出す二郎。
「僕は悪く無い」と胸を張る正一。この2人は、2歳差だが、体格差が無ければ双子と思えるほど良く似ている。
いつものことなのか、ゐくは仲裁に入る事も無く、声を掛ける。
「早く、自分の食事をお持ちなさい。今日から新学期ですよ、新学期早々遅れてはいけませぬ」
母に言われると、2人はいざこざを辞めて自分の朝食を取りに下駄を履く。土間になっている台所に降りる為だ。実は、言う事を聞かないと怖いのは、父親ではなく母親だという事を良く知っているのだ。
180cmと身体の大きな父親は、実はとても子供に甘い。母は、150cm無い小さな身体だが、躾に関しては非常に厳しく言う事を聞かないと裁縫用の竹定規で手の甲をピシッ!と叩いたりするのだ。
ちゃぶ台に、それぞれの茶碗とお椀、そして副菜に箸を並べると2人はしっかりと正座をして待つ。
「お父様は、先にお食事をなさって出勤されました。では、いただきましょう」
ゐくが、ちゃぶ台につき声を掛けると2人は手を合わせて「いただきます!」と元気よく声を出すと箸を持ち上げた。
「所でお母様、一応申し上げて起きますと。今日は半ドンですのでお昼にはもどります」
正一が、昼食にありつけないと不安なのかそう言う。
「お兄ちゃん、今日は半ドンなの」
ぽかーんとする二郎に
「当たり前だ、昨日まで夏休みだったから曜日が分からなくなったのか。今日は土曜日だ」
正一はそう言い放つ。それを見て、ゐくが笑う。
「わーい、今日は半ドン」食事中なのを忘れて、立ち上がって飛び跳ねた二郎は、ゐくの鉄拳を貰う事になったのだった。
新学期1日目は、土曜日ということで夏休みの宿題を提出したり、教室の掃除をさせられたりと、特に授業らしい物は無くあっと言う間に終わった。
だが、夏休みの間に父の磯吉が何度か酔っ払って暴れた事があり。やはり同級生の耳に入っていた様で、色々からかわれた。
「おい、二郎。またお前の父ちゃん暴れたんだってな。お前も大人になったら暴れるンだろ」とか。「俺の兄ちゃんが、お前の父ちゃんに酔っ払って殴られたんだぞ。謝れ」等々。
普段は無口で、優しい大男なのだが酒が絡むと暴れるのだけが問題だった。
父が時々、問題を起こすことで二郎は学校では「暴れ者」として扱われていた。問題を起こす所か、気が小さい大人しい生徒だったが親のイメージが子供に影響しているのだろう。
色々言われたことが、余程悔しかったのだろう。二郎は斜めがけ鞄を、引っつかむと半べそをかきながら教室から飛び出した。
「お父様の馬鹿、お酒なんてこの世の中から消えてしまえ」心の中で叫びながら、いつの間にか足は掃部山公園に向かっていた。公園には大きな池があり、沢山の水鳥たちが集う。嫌なことが有ったときは、二郎はそこで水鳥を眺めるのだ。しばらく眺めて居ると、不思議と心が晴れてくる気がするから不思議だ。
裏路地は、車も少なく。居るとしたら自転車か、大八車程度。二郎は、誰にも泣き顔を見られたく無くて裏路地を走っていた。
と、その時・・・。
二郎は、足がフッと浮いたような気がした。目の前の景色がぐにゃんと歪み、上下の感覚が無くなったと思ったら、道路に突っ伏していた。
『転んだ』そう思って、立ち上がろうとしたが、何か変だ。
道路が波打って、地の底から何者かが叫ぶ様な不気味な音が鳴り響いてきた。
「な、何だ。どうしたんだよ」
転んだ格好のまま、翻弄され地面を右に左にと転がり声にならない声を、彼は挙げ続けた。本当に何が起きたのか分からないまま、上下左右に揺すぶられ続ける。
時間が経つにつれ、バラバラバラっと頭上から何かが降り始める。それと同時に土煙が立ち、辺りは砂煙で真夜中の様に暗くなった。
「ケホケホケホ」
土煙に噎せながら、二郎は自分の着物の袖で鼻と口を覆った。次第に、身体を揺らしていた何かが収まって来て、立ち上がろうとした彼の額に大きな衝撃があった。
ガツンッ!!
一瞬意識が遠のきそうな衝撃と、目の前に火花が散る様な感覚。衝撃の有った場所が、カッと熱くなり、彼は再度地面に倒れた。
「な・・・なにこれ」
違和感のある額に手を持っていくと、ヌルッと生暖かい何かを感じた。だが、耳がぐわんぐわんと、奇妙な音を立てていて意識を保つのがやっとだった。轟音の中で、遠くから知らない大人の声が聞こえてくる。
「地震だ、大丈夫か」
「助けて、助けて」
そして、女性なのかすすり泣く声。
呆然と、座り込んでいる彼の肩に誰かの手が添えられた。
「坊主、大丈夫か。お前、怪我してるじゃないか」
相変わらず、周囲はもうもうと砂煙が立っているが目の前に居る人間は辛うじて見えていた。
「怪我ですか・・・」
「そうだ、驚いて気がついていないのか。よっし、オジサンが手当してやろう」
知らない30代と思われる男性が、着物の袖から手ぬぐいを取り出すと頭に巻いてギュッと縛ってくれた。
「痛っ!」
やっと、傷口にそれが触れたことで痛みを感じて声を挙げた。
「痛いだろ、これは痕が残るかも知れないな。坊主、家は近くか」
気が動転しており、言われたことが良く理解出来ずに空を見上げる。砂埃で、太陽が黒く霞んで見える。
「坊主、おい。しっかりしろ。俺の顔を見ろ、お前の家は近くかと聞いている」
目の前の男性の顔を見たが、砂煙のせいか真っ黒に煤けていて誰なのかすら分からない。
「あ・・・はい。歩いても10分と掛からないはずです」
やっとまともな返事をした彼に、男は頷いて。
「俺も、家族を探しに行くから。お前、自分で家まで帰れるな。ほとんど家が崩れちまって、瓦礫の山だ。家が崩れたから砂埃で真っ暗だが、足元をしっかり見て歩けば大丈夫だ。分かるな」
二郎は、コクンと頷く。
「よし、良い子だ。気をつけて行くんだ」
二郎は余りの出来事に、声が自分の頭の中で響く様な気がしていたが。
「あり・・・がとう・・・ございます」小さな声が出て、お礼を言えた。
「良いんだ、坊主。達者でな」
霞む景色の中、彼は消えていった。
言われたとおりに、ゆっくりと足元を見ながら家に戻った頃には砂埃も落ちついて来ていた。あらゆる家という家が、ほとんど潰れ。立っている家も、斜めに傾いでいる。人々は、その家の前に立ちすくんで呆然としていた。
戸部街道は、比較的広い道路だったため。そこに出てからは、道の中央を歩けば、ほとんど瓦礫は無く。容易に家の近くまでたどり着けた。街道沿いから細い路地を50mほど入った所にある自宅までが、難儀だった。
土を塗っただけの壁で出来た家は、ことごとく崩れ道路をそれが塞ぎ。小さな山を作っていて、それを登ったり降りたりしながら必死に家までたどり着いた。
家が有ったと思われる場所には、梁と土壁の中の材料だろうか。格子状になった竹を組んだものがハの字に倒れかかって山になっている。
「誰か居るか!居るなら返事をしろ!」
男性達が、その中に声を掛けて歩いている。それを、近所の女性達数人が立って見守っている。二郎はヨタヨタと、その一団に近づくと女性の1人が振り向き「二郎ちゃん!」と走り寄ってきた。
「あら、本当。二郎ちゃんだわ」
「二郎ちゃん、無事で良かった。お兄ちゃんも、無事よ」
「二郎ちゃん、お母さんは一緒じゃないの」
てんでに、彼に声を掛ける。
「お母さまは・・・一緒じゃないです」
聞かれたことで、母のゐくが居ない事に気がつく。
「二郎!」遠くから兄の正一の声が聞こえ、目を凝らすと人捜しをしている男性に着いて歩いているのが分かった。
「お母さまは、あの中ですか」
二郎の声が震える。
「分からないのよ、二郎ちゃん。ゐくさんだけ、居ないのきっと大丈夫よ」
向かいの住人が、彼をギュッと抱きしめる。
「おかあさま・・・」
落ちついてくると、額が脈を打ち痛みが増し。家が全壊し、母親が下敷きかも知れないという状況にまともに思考が動かない。
そこに、兄の正一がやってきた
「二郎、怪我をしたのか。他は、大丈夫だな」
上から下まで、確認して「よし」というと「落ちついて聞くんだ」と真っ直ぐに目を見て彼に言った。
「地震が起きたとき、お母さまは台所で昼食を作っていた。大きく揺れたら、居間に何かを取りに行き。僕には外に逃げろと。僕が外に出たとたん、家が潰れた。お母さまはたぶん中だ」
「だって、おばさんたちが『二郎ちゃんお母さんと一緒じゃなかったのって』言ってた」
「全員混乱してるんだよ。僕がお母さまが中だと言ったので、オジサンたちが探してくれてる」
「おかあさま・・・」
二郎が途端に泣きだすのを、彼が静止する
「まだ、死んだわけじゃない。梁が壁とハの字になっているから空間があるとオジサン達が言ってる。大丈夫だ、お母さまが死ぬわけ無い」
泣いている二郎を、彼が抱きしめた時。
「居たぞ!手を貸してくれ、無事だぞ!」
崩れた家の上に乗っていた男性が、声を挙げた。2人も、声を聞いて駆けつけると男性達が崩れた建材を4人掛かりでどけている。中から、か細いゐくの声が聞こえている。
数分の格闘の末、天井に人1人出られる穴が空けられ真っ黒になったゐくの手が何かを掴む様に差し出された。
「お母さまあ!!」
駆け寄る子供達を「来るな、瓦礫が崩れる」静止し。彼女の手を引っ張ると、やっとゐくの姿が見えた。
「奥さん、お怪我は無いですか」
その声がけに、コクンと頷いた。
「誰か、水持ってこい」
ゐくは、渡された水で口を濯ぎ、一口二口水を飲むと生きた心地がしたのか。その場にへたり込んだ。
しかし、さすが母親だ。
「お母さま、お母さま」と呼ぶ我が子の声に気づくと、真っ黒の顔でニコッと笑った。余りに真っ黒なんどえ、白い歯がやけに目立った。
そんな彼女に、救助した男性が
「取りあえず、動けますか。瓦礫から降りましょう。ここは危ない」
と声を掛ける。
両脇を近所の住人に抱えられ、道路まで降りた彼女に子供達が抱きつく。
「正一、二郎。お前達も無事だったのね」
愛おしそうに、子供達を抱き寄せてから彼女「あっ」っと、声を挙げた。
何と着物の懐には、無理矢理入れたであろう文箱がしっかりと収まっていた。少し小振りの文箱。実は彼女は、それを取りに居間に向かい逃げそびれたのだ。
「お母さま、それ」
正一の声に
「我が家の全財産、通帳、手紙、全部ここ」
にっこりと笑うと
「そんなの取りに戻ったんですか!」
彼に怒られて、ゐくは困ったように笑った。
「それにしても、みんな顔が真っ黒ね」
ゐくは笑ってから、二郎の額に巻かれた手ぬぐいに気がつく。
「二郎ちゃん、怪我したの。誰か助けてくれたのね。早く手当しないと」
手を伸ばしたが、今治療が出来る状態では無い事に気がつく。
「お母さま、血は止まっています」
「病院に行けるまで、そのままで置きましょうか。痛みませんか」
「いえ、痛みますが二郎は我慢できます」
その答えに頷くと、続いて正一を見て怪我が無い事を確認して頷いた。
皆がほっとして、それぞれに近くに居た家族の安否が一通り確認出来た頃。
制服の警察官が、やってきた。
「皆さん、ご無事で何よりでした。こちらもほとんど家は潰れておりますな」
警察によると、ほとんど下町で無傷な家は無いらしい。確かに言われてみれば、港の方まで見渡せる様になっている。
「あの、巡査さま。港は、どうなっているのでしょう」
磯吉を心配したゐくが、聞く。
「橋がほとんど落ちてしまったので、状況は良く掴めていませんが。残っている橋を渡ってきた者の情報ですと。埋めたてて作った港は、揺れで海に沈み。係留している船も、岸壁に衝突し沈没したり、出火したり、海に投げ出された人を船が救出しているそうです。ただ、引き潮があって、津波が来るのではと皆陸側に逃げてきているとか」
「ありがとうございます」
ゐくは、ギュッと唇を噛みしめると下を向く。
「取りあえず、小生は住宅地の状況を把握して本部に報告するお役目がありますので、皆さん身の安全を最優先に」
警察官は、それだけ言い残して足早に去って行った。
先に来た警察官が見えなくなったと思うと、また違う警察官がやってきて注意喚起をする。
「皆さん、花咲町の辺りから火の手が上がっているそうです。危険ですから、広い空き地などに取りあえず避難をしてください」
皆、何もかも失って呆然としていた所に出火の知らせ。
火の怖さは、それぞれに親世代から聞いているのか一気に群衆がざわめき出す。街頭に立ち尽くして居た人達が、三々五々とどこかへと移動し始める。
「お母さま、お父さまは、大丈夫でしょうか」
「お父さまを待つよね」
2人の子供の肩をギュッと抱えると、ゐくは今朝の会話を思い出していた。
「正一、二郎。お父様はきっと、大丈夫。まずは、私達も避難しないとなりません。そこに、お父様が迎えに来てくれますからね」
「はい、お母さま」
「わかりました」
ゐくは、2人の手を引いて先ほどまで瓦礫の下に居たとは思えないしっかりとした足取りで歩き出した。遠くを見ると、至る所に火災の煙があがり幹線道路では、人々が色々な方向から来ては去って行く。
「火の手が強くなったらしい、横浜第一中学校の方に逃げるように言われた」
と、子連れなので声を掛けてくれる人や。
「御所山の方面は行っては駄目だよ、崖が迫っていて行く手が遮られたら終わりだ」
等々、自分が逃げるのに必死な人達も、小柄な女性が子連れで歩いていると気になるらしい。ただ、情報は錯綜しており警察官数人にも声を掛けられたが、それぞれ違う方向を指示して行くばかりで強くなっていく火の手で空が黒く見える程になってきていた。
「お母さま、どちらに我々は逃げれば良いのですか」
恐怖と痛みで、ゐくにしがみつくしか出来ない二郎とは裏腹に正一はしっかりとしている。
「お父様が、掃部山公園が安全だろうと話されていましたので、そちらに行きましょう」
「はい」
瓦礫で通れなくなっている裏路地を避ける避難民達で、ごった返して通れる道路も中々前に勧めない。
何とか、3人が公園に着いた頃には沢山の人々で園内はごった返しており。火の手が近くまで迫り、パチパチという音と煙で薄暗くなった中。火によって朱色に染まる空気が、不気味さを増していた。
横浜の港の朝は早い、漁村では無いが外国船や国内航路を結ぶ大型船。貨物船などが24時間、絶え間なく入港する。
そんな港からほど近い川沿いには、横浜市最大の住宅地が広がっていた。いわゆる下町。長屋も多く、海に近い場所には船からの荷下ろしをする人夫達が多く住んでいる。
静岡から駆け落ちをした磯吉とゐくも、そんな横浜の港にほど近い長屋に住んでいる。夜も明けぬ午前4時、早出の勤務の為に磯吉は朝食を食べていた。
「磯さん、今日のお戻りはお昼過ぎですか」
ゐくが、お茶を注ぎながら聞いた。
「そうだな、お昼を少し回るかも知れない。子供達と先に食べていなさい」
既に、磯吉とゐくには2人の子供が生まれている。柴田家のご老体が亡くなった事で、父である長太が事実上の当主になり数年。夫婦は、嫁の実家からも許され安定した生活を営んでいた。
港の人夫の給料は安いが、贅沢さえしなければ十分食べていけた。2人の間に生まれた男の子達は、ゐくに似たのか大人しく聞き分けが良い子供に育っていた。上が11歳、下が、9歳。賑やかな毎日が繰り広げられていた。
お嬢様と、農民の長男という立場は既に崩れ。対等な夫婦関係になった2人は、おしどり夫婦と近所では評判だ。
「あ、そうそう。そう言えば、昨日の夜。二郎が突然目を覚まして泣いたのです」
「なんだ、アイツは男の癖に良く泣くヤツだな」
「磯さん、まだ9つなのですよ。子供は『つ』が取れるまでは目を離しては駄目とか。神の内だとか言いますでしょ」
それを聞いてキョトンとする彼にゐくはこう言った。
「宮城の家では言わないですか。柴田の家では、それこそ母が良く口を酸っぱくして申しておりました。1つ、2つ、3つ、4つ、5つ、6つ、7つ、9つ、10。ここでやっと『つ』が取れるのです。ここまでは、自己判断が難しい幼子だから何かあったら親の責任ですと」
「ほお、面白い理屈だな」
そう言われて、面白く無い彼女はちゃぶ台をバン!と叩いた。
「おおおお、ゐくそんなに怒るな。俺が悪かった。で、二郎は何で泣いたんだ」
「それがですよ、寝ていたらゴオオオオっと地鳴りがしたというのです」
「そういえば、最近。やたらに地震が多い上に、地鳴りが多いな。俺も気がついていたが、数年前に世間を賑わわせたインチキ地震学者の言う事が当たる訳では有るまいな」
この時期、少し大きめの地震が各地で起こり。地震研究をしていた学者が、今度は関東に壊滅的な大地震が起こると発表して人々を震え上がらせていた。
しかし、結局何も起きず。人々は安堵し、その学者の名前は聞かなくなっていた。磯吉はそのことを言っているのだ。
「まあ、何はともあれ十分注意するに越した事は無いですね」
「ああ、前もお前に話したが。俺のオヤジのハトコ殿が、安政の江戸地震の時。松平様から藩邸を修繕するために呼ばれてな。下町は灰塵に帰していたらしい。武家屋敷などは防火帯が有ったため延焼を間逃れたらしいがな。この辺りは、下町だ。軒下が触れ合う程に近い。もし、地震が起きて出火したら火の海になるだろう」
それを聞くゐくの顔が、曇る。
「なあに、心配は無いよ。めったやたらに大地震は起こらんて。ただ、ここの所、余りにも不穏故。もし、地震が起きたらそなたも分かる通り。海に向かっては駄目だ。山の手に逃げよ。火を防ぐには、緑の多い所、そして池の有る所が良い。もし何かあれば、掃部山公園だろうか。そこに逃げる様に心しておけ・・・って、俺は何を話しているやら」
自分が万が一の話を真剣に話していることが、恥ずかしくなった磯吉だ。意外とこう見えて、気が小さいのだ。
照れ隠しのごとく、立ち上がると数歩で玄関とい居間を出て、地下足袋を履いた。明治後期に出て来た地下足袋だが、磯吉は、はしけと船の間を荷物を持って走り回る仕事をしていたので草履より地下足袋が良いと愛用している。
玄関に座り、地下足袋を履いていると玄関のドアが強風でバタバタ言っている。どうやら、雨音もパラパラだがしている。
昨夜のニュースでは、九州から台風が北上してきて太平洋沿岸沿いに沖を進むと言っていた。
「昨夜よりは風が静かになりましたが、海はまだ荒れておりますでしょう。気をつけてお仕事してらっしゃいませ」
ゐくが、気遣いの言葉を掛けると
「大丈夫さ、このリボンが守ってくれる。俺のお守りだ」
あの連隊で磯吉の腕に結んだリボンを、まだ彼は大事に竹製の水筒に括り付けていた。
「磯さん、それは単なる私のリボンです。恥ずかしいのでそろそろお捨て下さい」
「いや、これを持っていると何事も上手く行く。お前は俺の幸運の女神だからな」
そういうと、スッと立ち上がり玄関を出て行く
「ゐく、不用心だから玄関の鍵を閉めなさい。では行ってくるよ」
手をサッと挙げると、彼は出勤していった。
子供達が起き出した頃には、風も止み。日も差し、朝から蝉の声が賑やかに響き渡っていた。先に起きてきた正一は、居間に入る前にしっかりと正座をし深々を頭を下げると「お母さま、おはようございます」と挨拶をした。くりくりの坊主頭で、ほっそりとしているが骨格はしっかりしている。どうやら磯吉に似たらしい。
「はい、正一。良く出来ました、おはようございます」エプロン姿で台所に立っていた彼女は、にっこりと微笑見ながら振り向く。
遅れて起きてきた、二郎はあくびをしながら「おかあさま、お腹空いた」とちゃぶ台にすわってしまう。それを見た、正一は「二郎、教わった通りお母さまに朝のご挨拶をしろよ」そういうのと同時に頭をポカン!と殴った。
「痛い!お母さまあ、お兄ちゃんが殴ったあ」ギャーンと火のついたように泣き出す二郎。
「僕は悪く無い」と胸を張る正一。この2人は、2歳差だが、体格差が無ければ双子と思えるほど良く似ている。
いつものことなのか、ゐくは仲裁に入る事も無く、声を掛ける。
「早く、自分の食事をお持ちなさい。今日から新学期ですよ、新学期早々遅れてはいけませぬ」
母に言われると、2人はいざこざを辞めて自分の朝食を取りに下駄を履く。土間になっている台所に降りる為だ。実は、言う事を聞かないと怖いのは、父親ではなく母親だという事を良く知っているのだ。
180cmと身体の大きな父親は、実はとても子供に甘い。母は、150cm無い小さな身体だが、躾に関しては非常に厳しく言う事を聞かないと裁縫用の竹定規で手の甲をピシッ!と叩いたりするのだ。
ちゃぶ台に、それぞれの茶碗とお椀、そして副菜に箸を並べると2人はしっかりと正座をして待つ。
「お父様は、先にお食事をなさって出勤されました。では、いただきましょう」
ゐくが、ちゃぶ台につき声を掛けると2人は手を合わせて「いただきます!」と元気よく声を出すと箸を持ち上げた。
「所でお母様、一応申し上げて起きますと。今日は半ドンですのでお昼にはもどります」
正一が、昼食にありつけないと不安なのかそう言う。
「お兄ちゃん、今日は半ドンなの」
ぽかーんとする二郎に
「当たり前だ、昨日まで夏休みだったから曜日が分からなくなったのか。今日は土曜日だ」
正一はそう言い放つ。それを見て、ゐくが笑う。
「わーい、今日は半ドン」食事中なのを忘れて、立ち上がって飛び跳ねた二郎は、ゐくの鉄拳を貰う事になったのだった。
新学期1日目は、土曜日ということで夏休みの宿題を提出したり、教室の掃除をさせられたりと、特に授業らしい物は無くあっと言う間に終わった。
だが、夏休みの間に父の磯吉が何度か酔っ払って暴れた事があり。やはり同級生の耳に入っていた様で、色々からかわれた。
「おい、二郎。またお前の父ちゃん暴れたんだってな。お前も大人になったら暴れるンだろ」とか。「俺の兄ちゃんが、お前の父ちゃんに酔っ払って殴られたんだぞ。謝れ」等々。
普段は無口で、優しい大男なのだが酒が絡むと暴れるのだけが問題だった。
父が時々、問題を起こすことで二郎は学校では「暴れ者」として扱われていた。問題を起こす所か、気が小さい大人しい生徒だったが親のイメージが子供に影響しているのだろう。
色々言われたことが、余程悔しかったのだろう。二郎は斜めがけ鞄を、引っつかむと半べそをかきながら教室から飛び出した。
「お父様の馬鹿、お酒なんてこの世の中から消えてしまえ」心の中で叫びながら、いつの間にか足は掃部山公園に向かっていた。公園には大きな池があり、沢山の水鳥たちが集う。嫌なことが有ったときは、二郎はそこで水鳥を眺めるのだ。しばらく眺めて居ると、不思議と心が晴れてくる気がするから不思議だ。
裏路地は、車も少なく。居るとしたら自転車か、大八車程度。二郎は、誰にも泣き顔を見られたく無くて裏路地を走っていた。
と、その時・・・。
二郎は、足がフッと浮いたような気がした。目の前の景色がぐにゃんと歪み、上下の感覚が無くなったと思ったら、道路に突っ伏していた。
『転んだ』そう思って、立ち上がろうとしたが、何か変だ。
道路が波打って、地の底から何者かが叫ぶ様な不気味な音が鳴り響いてきた。
「な、何だ。どうしたんだよ」
転んだ格好のまま、翻弄され地面を右に左にと転がり声にならない声を、彼は挙げ続けた。本当に何が起きたのか分からないまま、上下左右に揺すぶられ続ける。
時間が経つにつれ、バラバラバラっと頭上から何かが降り始める。それと同時に土煙が立ち、辺りは砂煙で真夜中の様に暗くなった。
「ケホケホケホ」
土煙に噎せながら、二郎は自分の着物の袖で鼻と口を覆った。次第に、身体を揺らしていた何かが収まって来て、立ち上がろうとした彼の額に大きな衝撃があった。
ガツンッ!!
一瞬意識が遠のきそうな衝撃と、目の前に火花が散る様な感覚。衝撃の有った場所が、カッと熱くなり、彼は再度地面に倒れた。
「な・・・なにこれ」
違和感のある額に手を持っていくと、ヌルッと生暖かい何かを感じた。だが、耳がぐわんぐわんと、奇妙な音を立てていて意識を保つのがやっとだった。轟音の中で、遠くから知らない大人の声が聞こえてくる。
「地震だ、大丈夫か」
「助けて、助けて」
そして、女性なのかすすり泣く声。
呆然と、座り込んでいる彼の肩に誰かの手が添えられた。
「坊主、大丈夫か。お前、怪我してるじゃないか」
相変わらず、周囲はもうもうと砂煙が立っているが目の前に居る人間は辛うじて見えていた。
「怪我ですか・・・」
「そうだ、驚いて気がついていないのか。よっし、オジサンが手当してやろう」
知らない30代と思われる男性が、着物の袖から手ぬぐいを取り出すと頭に巻いてギュッと縛ってくれた。
「痛っ!」
やっと、傷口にそれが触れたことで痛みを感じて声を挙げた。
「痛いだろ、これは痕が残るかも知れないな。坊主、家は近くか」
気が動転しており、言われたことが良く理解出来ずに空を見上げる。砂埃で、太陽が黒く霞んで見える。
「坊主、おい。しっかりしろ。俺の顔を見ろ、お前の家は近くかと聞いている」
目の前の男性の顔を見たが、砂煙のせいか真っ黒に煤けていて誰なのかすら分からない。
「あ・・・はい。歩いても10分と掛からないはずです」
やっとまともな返事をした彼に、男は頷いて。
「俺も、家族を探しに行くから。お前、自分で家まで帰れるな。ほとんど家が崩れちまって、瓦礫の山だ。家が崩れたから砂埃で真っ暗だが、足元をしっかり見て歩けば大丈夫だ。分かるな」
二郎は、コクンと頷く。
「よし、良い子だ。気をつけて行くんだ」
二郎は余りの出来事に、声が自分の頭の中で響く様な気がしていたが。
「あり・・・がとう・・・ございます」小さな声が出て、お礼を言えた。
「良いんだ、坊主。達者でな」
霞む景色の中、彼は消えていった。
言われたとおりに、ゆっくりと足元を見ながら家に戻った頃には砂埃も落ちついて来ていた。あらゆる家という家が、ほとんど潰れ。立っている家も、斜めに傾いでいる。人々は、その家の前に立ちすくんで呆然としていた。
戸部街道は、比較的広い道路だったため。そこに出てからは、道の中央を歩けば、ほとんど瓦礫は無く。容易に家の近くまでたどり着けた。街道沿いから細い路地を50mほど入った所にある自宅までが、難儀だった。
土を塗っただけの壁で出来た家は、ことごとく崩れ道路をそれが塞ぎ。小さな山を作っていて、それを登ったり降りたりしながら必死に家までたどり着いた。
家が有ったと思われる場所には、梁と土壁の中の材料だろうか。格子状になった竹を組んだものがハの字に倒れかかって山になっている。
「誰か居るか!居るなら返事をしろ!」
男性達が、その中に声を掛けて歩いている。それを、近所の女性達数人が立って見守っている。二郎はヨタヨタと、その一団に近づくと女性の1人が振り向き「二郎ちゃん!」と走り寄ってきた。
「あら、本当。二郎ちゃんだわ」
「二郎ちゃん、無事で良かった。お兄ちゃんも、無事よ」
「二郎ちゃん、お母さんは一緒じゃないの」
てんでに、彼に声を掛ける。
「お母さまは・・・一緒じゃないです」
聞かれたことで、母のゐくが居ない事に気がつく。
「二郎!」遠くから兄の正一の声が聞こえ、目を凝らすと人捜しをしている男性に着いて歩いているのが分かった。
「お母さまは、あの中ですか」
二郎の声が震える。
「分からないのよ、二郎ちゃん。ゐくさんだけ、居ないのきっと大丈夫よ」
向かいの住人が、彼をギュッと抱きしめる。
「おかあさま・・・」
落ちついてくると、額が脈を打ち痛みが増し。家が全壊し、母親が下敷きかも知れないという状況にまともに思考が動かない。
そこに、兄の正一がやってきた
「二郎、怪我をしたのか。他は、大丈夫だな」
上から下まで、確認して「よし」というと「落ちついて聞くんだ」と真っ直ぐに目を見て彼に言った。
「地震が起きたとき、お母さまは台所で昼食を作っていた。大きく揺れたら、居間に何かを取りに行き。僕には外に逃げろと。僕が外に出たとたん、家が潰れた。お母さまはたぶん中だ」
「だって、おばさんたちが『二郎ちゃんお母さんと一緒じゃなかったのって』言ってた」
「全員混乱してるんだよ。僕がお母さまが中だと言ったので、オジサンたちが探してくれてる」
「おかあさま・・・」
二郎が途端に泣きだすのを、彼が静止する
「まだ、死んだわけじゃない。梁が壁とハの字になっているから空間があるとオジサン達が言ってる。大丈夫だ、お母さまが死ぬわけ無い」
泣いている二郎を、彼が抱きしめた時。
「居たぞ!手を貸してくれ、無事だぞ!」
崩れた家の上に乗っていた男性が、声を挙げた。2人も、声を聞いて駆けつけると男性達が崩れた建材を4人掛かりでどけている。中から、か細いゐくの声が聞こえている。
数分の格闘の末、天井に人1人出られる穴が空けられ真っ黒になったゐくの手が何かを掴む様に差し出された。
「お母さまあ!!」
駆け寄る子供達を「来るな、瓦礫が崩れる」静止し。彼女の手を引っ張ると、やっとゐくの姿が見えた。
「奥さん、お怪我は無いですか」
その声がけに、コクンと頷いた。
「誰か、水持ってこい」
ゐくは、渡された水で口を濯ぎ、一口二口水を飲むと生きた心地がしたのか。その場にへたり込んだ。
しかし、さすが母親だ。
「お母さま、お母さま」と呼ぶ我が子の声に気づくと、真っ黒の顔でニコッと笑った。余りに真っ黒なんどえ、白い歯がやけに目立った。
そんな彼女に、救助した男性が
「取りあえず、動けますか。瓦礫から降りましょう。ここは危ない」
と声を掛ける。
両脇を近所の住人に抱えられ、道路まで降りた彼女に子供達が抱きつく。
「正一、二郎。お前達も無事だったのね」
愛おしそうに、子供達を抱き寄せてから彼女「あっ」っと、声を挙げた。
何と着物の懐には、無理矢理入れたであろう文箱がしっかりと収まっていた。少し小振りの文箱。実は彼女は、それを取りに居間に向かい逃げそびれたのだ。
「お母さま、それ」
正一の声に
「我が家の全財産、通帳、手紙、全部ここ」
にっこりと笑うと
「そんなの取りに戻ったんですか!」
彼に怒られて、ゐくは困ったように笑った。
「それにしても、みんな顔が真っ黒ね」
ゐくは笑ってから、二郎の額に巻かれた手ぬぐいに気がつく。
「二郎ちゃん、怪我したの。誰か助けてくれたのね。早く手当しないと」
手を伸ばしたが、今治療が出来る状態では無い事に気がつく。
「お母さま、血は止まっています」
「病院に行けるまで、そのままで置きましょうか。痛みませんか」
「いえ、痛みますが二郎は我慢できます」
その答えに頷くと、続いて正一を見て怪我が無い事を確認して頷いた。
皆がほっとして、それぞれに近くに居た家族の安否が一通り確認出来た頃。
制服の警察官が、やってきた。
「皆さん、ご無事で何よりでした。こちらもほとんど家は潰れておりますな」
警察によると、ほとんど下町で無傷な家は無いらしい。確かに言われてみれば、港の方まで見渡せる様になっている。
「あの、巡査さま。港は、どうなっているのでしょう」
磯吉を心配したゐくが、聞く。
「橋がほとんど落ちてしまったので、状況は良く掴めていませんが。残っている橋を渡ってきた者の情報ですと。埋めたてて作った港は、揺れで海に沈み。係留している船も、岸壁に衝突し沈没したり、出火したり、海に投げ出された人を船が救出しているそうです。ただ、引き潮があって、津波が来るのではと皆陸側に逃げてきているとか」
「ありがとうございます」
ゐくは、ギュッと唇を噛みしめると下を向く。
「取りあえず、小生は住宅地の状況を把握して本部に報告するお役目がありますので、皆さん身の安全を最優先に」
警察官は、それだけ言い残して足早に去って行った。
先に来た警察官が見えなくなったと思うと、また違う警察官がやってきて注意喚起をする。
「皆さん、花咲町の辺りから火の手が上がっているそうです。危険ですから、広い空き地などに取りあえず避難をしてください」
皆、何もかも失って呆然としていた所に出火の知らせ。
火の怖さは、それぞれに親世代から聞いているのか一気に群衆がざわめき出す。街頭に立ち尽くして居た人達が、三々五々とどこかへと移動し始める。
「お母さま、お父さまは、大丈夫でしょうか」
「お父さまを待つよね」
2人の子供の肩をギュッと抱えると、ゐくは今朝の会話を思い出していた。
「正一、二郎。お父様はきっと、大丈夫。まずは、私達も避難しないとなりません。そこに、お父様が迎えに来てくれますからね」
「はい、お母さま」
「わかりました」
ゐくは、2人の手を引いて先ほどまで瓦礫の下に居たとは思えないしっかりとした足取りで歩き出した。遠くを見ると、至る所に火災の煙があがり幹線道路では、人々が色々な方向から来ては去って行く。
「火の手が強くなったらしい、横浜第一中学校の方に逃げるように言われた」
と、子連れなので声を掛けてくれる人や。
「御所山の方面は行っては駄目だよ、崖が迫っていて行く手が遮られたら終わりだ」
等々、自分が逃げるのに必死な人達も、小柄な女性が子連れで歩いていると気になるらしい。ただ、情報は錯綜しており警察官数人にも声を掛けられたが、それぞれ違う方向を指示して行くばかりで強くなっていく火の手で空が黒く見える程になってきていた。
「お母さま、どちらに我々は逃げれば良いのですか」
恐怖と痛みで、ゐくにしがみつくしか出来ない二郎とは裏腹に正一はしっかりとしている。
「お父様が、掃部山公園が安全だろうと話されていましたので、そちらに行きましょう」
「はい」
瓦礫で通れなくなっている裏路地を避ける避難民達で、ごった返して通れる道路も中々前に勧めない。
何とか、3人が公園に着いた頃には沢山の人々で園内はごった返しており。火の手が近くまで迫り、パチパチという音と煙で薄暗くなった中。火によって朱色に染まる空気が、不気味さを増していた。

