黒の大天狗は祓い屋の血に願う



 その昔、時は(よう)歴元年。

 突如として現れた人間を食らう『怪異』によって、人々は生存の危機に瀕した。

 それを颯爽と現れ退けたのが、人の姿を象った『あやかし』たちである。
 手も足も出ない怪異を跡形もなく屠ってみせた彼らは、人類に提案を持ちかけた。

 ――怪異の脅威から逃れたくば、我らに国土を委ねよ、と。



 ***


 年月は流れ――妖歴、二百五十年。
 あやかしが支配する現代。
 知らず知らずのうちに文明は徹底して制限され、ある『言葉』と『血筋』が永久に葬られた。


 人が権利を握っていたのは遠い昔の時代。歴史書に綴られているだけの、今は誰も想像がつかない世界である。

 現在、国を統制しているのは、あやかしだ。
 なかでもあやかしの頂点『妖五大家門(あやかしごだいかもん)』は、天や神に等しい存在として君臨している。

 (こう)の鬼家、(せい)の龍家、(おう)の九尾家、(こく)の大天狗家、(はく)の大蛇家。
 この五家紋が国の柱であり、最高権力者となって国を治めていた。

 また、あやかし達に階級があるように、支配される人間側にも位が定められている。
 上位、中位、下位。その区別は、あやかしに関わる程度の差で大きく変わっていた。

 上位の人間はいわゆる国政に身を置く者たちだ。
 それすなわち、立場は人間であるものの、あやかしの配下として何代にも渡り忠誠を誓う人間たちのことを指している。

 中位は国政以外の、あやかしと繋がりがある人間たちが当てはまった。
 あやかしに嫁や婿として嫁いだ一族も、ほとんどが中位に該当する。
 下位の人間は、あやかしとは何の関わりも持っていない一般庶民のことをいった。

 この世を生きるうえで、あやかしは重要な存在。人間は決して彼らに逆らうことなどできないのである。


 文明は激しく入り乱れ、夜闇を照らす光は、電灯よりも怪火(かいか)という無害なあやかしの明かりが遥かに多い。

 街ゆく人々の格好は、現在関わりを絶っている西洋のデザインと、和装を混ぜたような独特な文化を形成している。
 主な連絡手段は手紙。移動手段は蒸気の力によって走る車と路面電車、その他に馬車や手軽な自転車があった。

 澄み渡る川の美しさ、力強く根を生やし広がる山や森、空を彩る煌びやかな星々の輝き。
 
 それがこの国、旧日本国――またの名を、夜ノ国。

 あやかしと人間で成り立つその国は、昼間が十時間、夜間が十四時間と――少しずつ世の在り方を変えていたのだった。



***


「俺の婚約者にならないか」

 彼がどんな思いでそう提案したのか、その時の一華(いちか)には到底わかりようもなかった。

 頬に添えられた白い指が下顎に移動し、そっと顔を持ち上げられる。
 すべてを呑み込むような烏羽色の瞳に、くらりと目眩がしそうになった。

 恐ろしく妖艶で、底知れず未知。一度その姿を目にすれば忘れることは不可能であると断言できる、麗しい容姿の青年。

「そして、力を扱えるようになったとき──きみは俺を祓う(殺す)んだ」

 一華の目に映る青年は、どこか懇願するような面差しをして、ひどく穏やかな笑みをたたえていた。

「きみの手で、祓っておくれ」

 青年──黒縁(こくえん)は、自分のことを『はらいや』と呼んだ。そして、あわよくばこの身を祓って欲しいのだと。

(はらいや、はらう……? 聞いたことのない言葉ばかり)
 
 未だことの重要性を理解していない一華にとって、人々から『あやかし様』と呼ばれる立場にある彼を前に、身がすくんでしまう。
 それどころか、今の自分は……声を出すことすらかなわない。
 
 一華は、こうなるきっかけとなった日の記憶を脳裏に蘇らせた。
 あの日は、十八回目の一華の生まれ日であった。
 十八歳となった一華は施設長の企みを耳にしてしまい、居合わせた弟の手を引いて逃げ出したのだ。

 追っ手に捕まり貞操の危機にすら陥った一華の前に現れた青年こそが、目の前にいる彼である。
 
 今や国を支配する『妖五大家門』の一柱、黒の大天狗家を率いる若当主・黒縁。
 のちに(えにし)と呼びかけるようになる、身震いすら起こす美しいあやかしとの出逢いは、七日前に遡る。


 ***


 八歳と少し経った頃、星野(ほしの)一華の両親は大火災に巻き込まれ亡くなった。
 人伝えに聞いた内容であるため詳しいことは知らないが、一華も火災に巻き込まれた一人だったという。
 そして、そのときのショックにより、一華は当時の記憶を失っていた。
 両親のことはもちろん、八歳までに築き上げてきた思い出のすべてが無となったのだ。

 命からがら救出された一華は、生後まもない弟・璃音(りおん)と共に下位区域の児童養護施設に身を置くことになった。

 あやかしが統制する夜ノ国では、人間も位によって区別されている。上位、中位、下位の順に居住地をわけられ、一華や弟が暮らす施設は下位区域に分類されていた。
 下位とはいえ、生きていく上での設備が劣っているわけではない。この位の区別とは、あやかしと親密な関係を構築できているか、否かである。

(今日は予約がたくさんあったから、遅くなっちゃったな)

 時刻は夜の三時過ぎ。
 黒曜街・中位区域にある勤務先の料亭をあとにした一華は、怪火に照らされる歩道を進んでいた。
 人を襲う怪異とは違い、ただ宙を漂うだけの存在である怪火は、至るところに飛んでいる。闇夜の道を照らす照明といえば、街灯よりもこちらの方が世に定着していた。

(早く帰ろう)

 賄いが入った袋を片手に、早々と下位区域の家路を目指す。もう弟は寝ている頃だろうか。ほかの子供たちと仲良く眠ってくれていればいいのだけれど。

 そんなことを考えながら黙々と歩いていれば、一華の目線の先には横長の一軒家が見えてきた。
 一華が世話になっている児童養護施設『ほしぞらの家』。横文字の看板が低い塀に設置されており、その奥には小さい子供用の砂場や遊具がある。

(ただいま)

 門を開けた一華は、心の中で帰宅を告げた。
 そろりと足を動かしながら玄関の鍵を開ける。やはりこの時間では起きている者はいないようだ。

(部屋に入って起こしちゃうのも悪いから、今日はサンルームのソファで眠ろう)

 浴室で体を洗った一華は、濡れた髪をタオルで拭きながらサンルームに向かう。
 真っ暗闇の空間は随分と頼りなく、一華はテーブルに乗っていた小さな照明に手を伸ばした。

 アルコールを原料にしたそれは、淡くではあるが一華の周囲をほのかに灯してくれる。
 一華はそのままソファに腰掛けると、天井を仰いで深い息を吐いた。

(今日もたくさん働いたなぁ)

 一華の勤め先である料亭は、おもに中位区域を居住とする人間に向けた店である。
 時にはあやかしも利用するほど知名度の高い店でもあるが、開店すれば客足が途絶えることはないので気を休める暇もない。
 だからいつも帰宅して一人になると、溜めていた疲労がどっと襲ってくる。


 ふと、壁に掛けられたカレンダーに目がいった。
 今日は三月七日――いや、すでに日付けが変わっているため八日である。

 一華はぼうっとカレンダーを見つめながら呟いた。

「あと、一ヶ月……」

 一ヶ月後の、四月八日。
 それは一華が児童養護施設を出て行く日を意味していた。
 この児童養護施設には年齢制限がある。十八になると自立できる歳だと判断され、特例措置がない限り退去となるのだ。
 それは数日後に十八歳を迎える一華も例外ではない。
 
 一華の施設の退去日には、弟の璃音も一緒にここを出ることになっている。
 下位区域に二人が住める広さのアパートを借りて二人暮しを始めるのだ。
 そのために、一華は勤務時間を増やして貯金をしていた。かれこれ三年――月休みは多くて四日、あとは働き詰めだった。

(退去日までに、できれば多く稼ぎたいとは思っているけど……すこし、張り切りすぎたかな……)

 今朝は気のせいだと思っていたが、どうにも肌寒い。一華は用意した毛布にくるまって暖を取る。

(明日……いや、今日は……日の出の八時には起きて、朝食の準備を手伝って……)
 
 予定を組みたてながらも、一華の思考はぼんやりとし始める。
 眠気の限界に到達し、うつらうつらとソファに深く身を沈めた。

(…………頭、いたい)


 こうして今日も疲れきった体から意識を離し、一華は泥のように眠るのだった。


 三月十二日。
 その日は、頭痛に加えどこか熱っぽさを感じる朝であった。

 昨夜も遅い帰宅だった一華が食堂に顔を出すと、すぐさま施設の子どもたちに取り囲まれる。

「一華ねーちゃん、お誕生日おめでとう!」
「これね、おてがみ書いたの」

 香りの良い花束や可愛らしい便箋。ほかにも腕に収まりきらない贈り物が次々と渡された。

 ほしぞらの家は最年少が一歳の幼児、小・中学生が十九人、そして最年長の一華と二十人の孤児が暮らしている。
 一華を本当の姉のように慕う子どもたちは、彼女の驚きに満ちた顔に期待の眼差しを向けた。
 
「一華おねえちゃん、喜んでくれた?」
「……うん、すごく嬉しい! みんな本当にありがとう。手紙はあとで大切に読ませてもらうね」
「やったぁ、一華ねーちゃんうれしいって!」
「がんばって折り紙つくったもんね」

 微笑んだ一華に、皆はサプライズ大成功と大喜びだ。

「一華(ねえ)

 背後から声をかけられ振り返ると、そこには璃音の姿があった。
 一華とよく似た顔立ちの璃音は、ほんの少し照れくさそうに目をそらしている。

「もしかして璃音も、なにかくれるの?」
「……うん、あげる」

 璃音が手を前に出す。握られていたのは、髪留めらしき硝子細工だった。

「これなら、仕事のときも邪魔にならないでしょ。前髪もとめられるから」
「すごくきれい……これ、本当にもらってもいいの?」
「なにいってるの、あたりまえじゃん。そのために買ったんだからさ」
「ありがとう、璃音。お姉ちゃん、嬉しい」

 感極まって頭をよしよしと撫でる一華に、もう子供じゃないんだからと璃音は後ずさった。そんな反応も姉としては可愛らしいものである。

 そうして璃音は、ほかの子どもと同様に朝食の支度を手伝い始めた。
 箸や皿を並べたり、ご飯をよそったりと、いつもより浮き足立った空気で食事の準備が進められている。

「本当は夕食にお誕生日会を開きたかったらしいんだけど……一華ちゃんは仕事だからって、みんな早く起きて待ってたのよ」

 贈り物に埋もれた一華に声をかけてきたのは、施設長だった。
 四十代後半の彼女は、年齢よりもずっと若々しく、優しげな笑みを浮かべている。

「そうだったんですね。みんなの気持ちが……本当に、すごく嬉しいです」
「あらあら、朝から涙ぐんじゃって。私が買ったものも喜んでくれたらいいのだけれど」
「え……これは、口紅ですか?」

 まん丸とした手毬型の器。蓋を開けると、鮮やかな色の紅が収まっていた。

「ふふふ、そうよ。街の若い子にも流行っているものらしくてね。頬にも使えるのよ」
「こんなに良い物を私に……?」
「あなただってもう十八になるのだから。たまには色を差して楽しんでもいいと思うのよ。少しつけてみてもいいかしら」
「は、はい」

 一華は戸惑いながらもうなずき、言われるがまま唇を軽く突き出す。
 慣れないことだからか、妙に緊張してしまう。思わずまぶたを閉じると、くすりと笑う声が聞こえた。

「そう構えなくても大丈夫よ。ほら、とても素敵。似合ってるじゃない」

 施設長に手鏡を渡された一華は、促されるがまま確認をする。
 鏡の中には、控えめに頬と唇を色づかせた自分の顔があった。

「わ、わ……なんだか」
「ふふ、気恥しい?」

 一華はぎこちなく首を縦に振った。

 いつもお洒落は二の次で、施設の手伝いや資金を貯めることばかりだった一華だが、こうして化粧をされると胸のあたりがそわそわしてしまう。

「私からの贈り物、気に入ってくれたかしら」
「はい。ありがとうございます」
「よかった。これであなたも──立派な女性ね」

 一華は施設のみんなから祝福され、温かな気持ちでいっぱいになった。
 今日はこの紅を差したまま勤め先に向かってしまおう。いつもとは違った自分の顔に浮かれているのは自覚している。

 けれど薄づきに塗られた唇の紅は、一華によく似合っていた。


 一華の勤め先『三日月亭』は、開店と同時に客が流れ込んでくる。
 昼間は主に人間が、夜間は個室を利用するあやかしたちで繁盛していた。

「一華ちゃん、お疲れさま」

 いつも通り昼の最繁時の業務を終えた一華が休憩室に入ると、女将の 芽亜里(めあり)が明るく出迎えた。
 一華が軽く会釈をすると、女将は楽しそうに笑って紙袋を差し出す。

「はい、これ。誕生日の贈り物。朝はばたばたしていて渡せなかったから。旦那と私からよ」

 就業時間前に祝いの言葉をもらっていた一華は、まさか女将と大将から貰えるとは思っておらず、目を丸める。

「女将さんと大将から……?」
「ふふ、そうよ。心ばかりの品だけど、あなたに似合いそうなものをあの人と選んだの」

 袋の中には薄手の羽織りと、腰につける飾り紐が入っていた。
 決して安くはない贈り物に恐縮してしまう。

「遠慮はしないでね? いつも頑張ってくれている一華ちゃんにずっとお礼をしたかったの。だけどあなたって、なにか特別な理由がないと快く受け取ってくれないでしょ?」

 だから今回、誕生日の贈り物として渡すのだと言って女将は笑った。
 遠慮ばかりするのも失礼だと感じとった一華は、紙袋を抱きしめて女将に向き直る。

「女将さん、ありがとうございます。大切にします。早く大将にもお礼を言わないと」
「それはお店を出る時で大丈夫よ。早く着替えてゆっくり休んでね」

 中休みとして、一華は十五時から十九時まで休憩時間をもらっていた。
 女将には店の来客用の部屋か、一度施設に帰って休んでいると思われているようだが、実はこの時間を利用して一華は仕事を掛け持ちしていた。

 三日月亭からそれほど遠くはない中位区域の中心街にある和菓子屋で、箱詰め作業を手伝っているのだ。

 三日月亭だけでもかなりの額を稼いではいるが、璃音と一緒に生活していくためにも、資金は多いに越したことはない。
 それに一華は毎月、施設にもお金を入れている。強要されているわけではないものの、必ず渡しているものだ。
 そのために、稼げるだけ稼ぐ必要がある。


 一華は支度を整えると、荷物置き場に畳んだ前掛けを置いて休憩室を出た。

 途中で厨房に寄り、大将に贈り物のお礼を告げると、女将と同じような笑顔で「遠慮はするなよ」と言われてしまった。





 和菓子屋の箱詰め作業は、時給換算の日払いである。
 およそ三時間半と決して長くはない時間だけれど、塵も積もればなんとやら。これまで手をつけずにいたおかげで中々に貯まっていた。

 その日の給与をいただき和菓子屋の裏口を出たあとは、近道を使って三日月亭へと足早に戻る。
 休憩室で身なりを整え各テーブルを確認。補充を済ませて、三日月亭の夜営業が始まる。

(よし、もうひと頑張りだ)

 前髪は硝子細工の髪留めを、唇には淡い紅を、腰にはさっそく取り付けた飾り紐。今ならばなんでもやれそうな気がする。
 一華は気合いを入れて業務に励んだ。

 昼間と違って酒類が多く出るため、自然と客同士の会話は大きく耳に入ってきてしまう。
 一華は右へ左へ忙しなく動きながらも、テーブル席の客が話していた話題が気になっていた。

「聞いたか、人攫いの噂。若い女子どもばかり狙うっていう」
「ああ。この辺りは被害がないらしいが、ほとんど下位の人間だろ? 実はもう何人もいなくなっているらしいじゃないか」
「九尾様が統括してる下位区域だとよ。いやだねぇ、わざわざ国都内で人攫いとは」

 夜ノ国の中心ともいえる国都・東京は、妖五大家門の名の下で、五つの街に振り分けられていた。
 一華が住む黒曜街は、黒の大天狗家の管理下にある。
 とはいえ下位区域ともなれば、直接手を回しているのは分家筋のあやかし家だ。

(いつ黒曜街の下位区域で人攫いの話が出るかわからないけど、大天狗家(上の方)の耳には入っているのかな)

 あやかしと人間には、それぞれ街の警備を生業とする者たちがいる。
 怪異を退けられるあやかし集団のさらに下に人間という組織図にある警備隊は、昼夜問わず交代で見廻りをおこなっていた。
 怪異に出くわそうものなら、あやかしたちは即刻排除に動く。
 人間の警備隊が出くわせば一般民に被害が及ばぬように足止めと、あやかし側に報告と要請を入れるという流れになる。
 そしてもちろん、警備隊内のすべての情報は、大天狗家に伝えられるのだ。

(だけど嫌な話……人攫いなんて)

 悪事をはたらく者が早く捕まることを祈りながら、一華は空の徳利(とっくり)をさげるのだった。


 ***


 夜の十時過ぎ。一華は早めに仕事を切り上げることになった。
 せっかくの誕生日なのだからと女将が気を利かせてくれたのである。
 女将曰くもっと早めに上がらせたかったようだが、一華としては十分な心づかいだった。

(お給料はいつもの退勤時間までつけてくれるって言っていたけど、いいのかなぁ……)

 そう考えるものの、女将も大将も一度決めたことを覆すつもりはないのだろう。
 一華は早々と退勤させられてしまった。

(この時間ならまだ璃音たちも起きているよね。部屋で話もできそう)

 明日は日曜日。学び舎組の子供たちは休日だ。
 休みの前日は多少の夜ふかしも許されているため、夜は誰かの部屋に集まって遊んでいることが多い。

「……うっ」

 ふと、一華の歩みが止まった。
 突然これまでに感じたことがない眩暈が襲ったからだ。

(なに、これ? 足元がふわふわする)

 言いようのない浮遊感に戸惑いながら、どうにか気を紛らわそうと遠くの空に視線を向けた。
 ちかちかと、赤や橙の光が散っている。こんな場所からでも、桔梗楼(ききょうろう)の灯火ははっきりと確認できた。

(……よかった、すぐに治まった)

 楼閣を眺めていれば、徐々に眩暈が弱くなっていく気がした。

(なんだろう、貧血? それとも寝足りなかったとか)

 一華はほっと息をついて、もうしばらく目に映る桔梗楼を眺めた。

 桔梗楼とは、黒の大天狗家が国都に構える楼閣のこと。
 妖五大家門には都以外にも国内に管理すべき割り振られた土地があるが、それぞれ拠点として国都に立派な楼閣を築いている。
 下位区域からでも遠目に確認できるほど大きく豪奢な建造物は、空に浮かぶ摩天楼のようできらびやかだ。

(……そろそろ帰ろう。それに、お客様が言っていた人攫いにも気をつけないと)

 すい、と一華は夜道だけを見据える。
 普段から目視できるといっても、一華のような下位の人間にとっては風景の一部に過ぎない。
 おそらくあの高い建物のどこかには、黒の大天狗家当主もいるのだろう。まったく想像もつかないが。

(街に出回っている大天狗様の絵姿は、どれも天狗の面を被っているんだよね。いったいどんなお顔をしているのかな)

 そもそも妖五大家門のあやかしとは、国の柱であり、天上人のような存在である。
 本来ならば想像することすら不敬にあたるのかもしれない。

(どんな顔なんだろうって考えるくらい、罰は当たらないよね)

 この国で最も尊ぶべきあやかしのご尊顔を拝見する機会など、自分には一生巡ってこないことなのだから。


 それからしばらく歩を進め、施設の門前まで近づくと、見慣れない一台の蒸気自動車が視界に入った。

(この時間に来客だなんて、誰だろう?)
 
 里親候補の大人が日取りを決めてやって来ることはあるが、それは決まって昼間である。
 事前に訪問予定が入っているときは、施設長があらかじめ知らせてくれるのだが、今朝はそれもなかった。

 音を立てないように開けた玄関扉の先には、曇りなく磨かれた革靴が二足ある。どれも男性用だ。
 耳を澄ませると、食堂のほうから話し声が聞こえてきた。

「今日で十八になったんだろ? だったら今夜連れて行ったって変わらないじゃねぇか」
「勝手なことを言わないでちょうだい。こっちにだって順序ってものがあるのよ」
「そりゃないだろ。こっちがこれまでいくら金を払ってると思ってんだ。少しは融通効かせてくれてもいいんじゃないのか?」

 十八という言葉に、心臓がびくりと震える。
 なにか聞いてはいけない内容なのではないか。それを彷彿とさせる会話に一華は自分の手のひらを握りしめた。

 ゆっくりと、食堂に繋がる扉に手を添える。
 少しだけ空いた隙間の向こう側から、薄ぼんやりとした照明の光が漏れていた。

「ともかく、今日は帰ってちょうだい。ここで待ち伏せていてもあの子はまだ帰って来ないわ。毎日身を粉にして働いているんだからね」
「はっ、よく言うぜ。施設(ここ)にも金を入れさせてんだろ。酷いことさせるよな。それを全部散財させてるんだからよ」
「酷い? 強制なんかしてないわよ。あの子が勝手にしていることなんだから」

 ――あの人は、誰?
 脳内で、そんな疑問が浮上した。

 見知らぬ男たちに吐き捨てるように言ったその人は、一華が母だと慕っている施設長だった。

(一体、どういうこと? 何を話しているの?)

 すべてを把握したわけではないが、ずっと前から胸騒ぎがしていた。
 堅気ではない雰囲気の男たちに、臆する様子もなく話を続けている施設長は、まるで別人のようだった。

 そして自分のことを話しているのではないかと気づいたとき、不穏な直感が一華の頭を過ぎったのである。

『――今日で十八になったんだろ? だったら今夜連れて行ってもいいじゃねぇか』

 男は、誰を、どこに、連れて行くつもりなのだろうか。

「……一華姉?」

 その時、左耳に馴染んだ声が響く。一華はおそるおそる顔を横に向けた。

「璃、音」

 寝着(ねまき)姿の璃音は、片目を擦ってこちらを見つめていた。
 すでに就寝していたのだろうか。眠たげな面持ちは、いつもより一段とあどけなく感じる。

「一華姉、帰ってたんだ。今日は早かったの?」

 ぺたぺたと素足の音が近づく。

 目の前に璃音がやって来たとき、一華は今まで聞こえていた会話が途切れていたことに気がついた。
 はっとした瞬間、食堂の扉が勢いよく開かれる。

「今の話、聞いてたな?」

 瞳を不気味なまでにカッと開いた男は、静かに見下ろしてそう問うた。
 


「……っ」

 すごみに気圧され、呼吸が浅くなる。
 一華の目の前にいる男は、上等な背広を身に包んでいた。
 この下位区域では滅多にお目にかかれない装いは、おそらく中位以上の人間であると予測がついた。

 嘘でも平静を保つべきだった。
 しかし、それはもう遅すぎたのだ。

「その顔は……聞いてたんだな?」

 男の目つきが変わる。
 そして、一華の全身を舐めるように上から下まで確認すると、邪に口端を笑わせた。

「よし、連れて行くぞ」

 男は不意に背後を振り返ると、もう一人の連れにそう告げた。
 そこに主語はないが、どんな意味を持って言われた言葉なのかが容易に想像がついてしまう。

「ちょ、話が違うじゃないの!」
「そんなもん、今の話を聞かれちまったんだから仕方がねぇだろう」

 納得がいかない様子の施設長が抗議に入るが、男は決定を覆す気がないようだ。

「あなたたちは、一体誰なんですか……っ」

 やっとの思いで絞り出した一華の声音はひどく震えていた。

 だが、ここで引くわけにはいかなかった。

 すぐ近くには璃音がいる。

 もし璃音にまで危害が及ぶようなことになれば、姉として見過ごすわけにはいかない。



「名乗るほどのもんじゃねえさ。俺たちは、ただの運び屋だ」
「運び、屋……?」

 一華は、さらに警戒を強める。
 すると目の前の男は煩わしげに舌打ちを鳴らし、後ろを振り返って乱暴に言った。

「もう面倒だ。いいだろ、こうしてばったり出くわしちまったんだからな。今夜、連れてくぞ」

 施設長に向けての言葉だったのだろう。
 声を投げかれられた当人は、苦々しげな面持ちで視線を下降させていた。

 一華は、その一瞬の隙に行動を起こすべく頭を働かせる。

(連れていくって、私のことなんだ)

 そうでなければいいと思っていたが、状況は刻一刻と悪くなっていた。
 この瞬間を逃せば、おそらく――

「一華姉? この人たち、だれ……」
「璃音、きて!」
「えっ、一華姉!?」

 一華は寝ぼけ頭の璃音の手を引き、勢いに任せて駆け出した。
 玄関扉を素早く開き、外へ飛び出す。
 靴を履いている余裕はなく、背後で素っ頓狂な声を出す璃音も素足のまま走っていた。

「ちょ、一華姉ってば! なんで外になんか……っ」
「璃音、お願い。今はただ全力で走って!」

 説明できるのならばしたい。
 けれど、実のところ一華もすべてを理解したわけではなかった。

 ただ、あの場に居続ければ自分たちは間違いなく危うかったはずで。その証拠に、

「……っ、ちっ、おい待て!」

 一華と璃音のさらに後ろからは、二人を追跡する足音が聞こえていた。