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「俺の婚約者にならないか」
彼がどんな思いでそう提案したのか、その時の一華には到底わかりようもなかった。
頬に添えられた白い指が下顎に移動し、そっと顔を持ち上げられる。
すべてを呑み込むような烏羽色の瞳に、くらりと目眩がしそうになった。
恐ろしく妖艶で、底知れず未知。一度その姿を目にすれば忘れることは不可能であると断言できる、麗しい容姿の青年。
「そして、力を扱えるようになったとき──きみは俺を祓うんだ」
一華の目に映る青年は、どこか懇願するような面差しをして、ひどく穏やかな笑みをたたえていた。
「きみの手で、祓っておくれ」
青年──黒縁は、自分のことを『はらいや』と呼んだ。そして、あわよくばこの身を祓って欲しいのだと。
(はらいや、はらう……? 聞いたことのない言葉ばかり)
未だことの重要性を理解していない一華にとって、人々から『あやかし様』と呼ばれる立場にある彼を前に、身がすくんでしまう。
それどころか、今の自分は……声を出すことすらかなわない。
一華は、こうなるきっかけとなった日の記憶を脳裏に蘇らせた。
あの日は、十八回目の一華の生まれ日であった。
十八歳となった一華は施設長の企みを耳にしてしまい、居合わせた弟の手を引いて逃げ出したのだ。
追っ手に捕まり貞操の危機にすら陥った一華の前に現れた青年こそが、目の前にいる彼である。
今や国を支配する『妖五大家門』の一柱、黒の大天狗家を率いる若当主・黒縁。
のちに縁と呼びかけるようになる、身震いすら起こす美しいあやかしとの出逢いは、七日前に遡る。
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八歳と少し経った頃、星野一華の両親は大火災に巻き込まれ亡くなった。
人伝えに聞いた内容であるため詳しいことは知らないが、一華も火災に巻き込まれた一人だったという。
そして、そのときのショックにより、一華は当時の記憶を失っていた。
両親のことはもちろん、八歳までに築き上げてきた思い出のすべてが無となったのだ。
命からがら救出された一華は、生後まもない弟・璃音と共に下位区域の児童養護施設に身を置くことになった。
あやかしが統制する夜ノ国では、人間も位によって区別されている。上位、中位、下位の順に居住地をわけられ、一華や弟が暮らす施設は下位区域に分類されていた。
下位とはいえ、生きていく上での設備が劣っているわけではない。この位の区別とは、あやかしと親密な関係を構築できているか、否かである。
(今日は予約がたくさんあったから、遅くなっちゃったな)
時刻は夜の三時過ぎ。
黒曜街・中位区域にある勤務先の料亭をあとにした一華は、怪火に照らされる歩道を進んでいた。
人を襲う怪異とは違い、ただ宙を漂うだけの存在である怪火は、至るところに飛んでいる。闇夜の道を照らす照明といえば、街灯よりもこちらの方が世に定着していた。
(早く帰ろう)
賄いが入った袋を片手に、早々と下位区域の家路を目指す。もう弟は寝ている頃だろうか。ほかの子供たちと仲良く眠ってくれていればいいのだけれど。
そんなことを考えながら黙々と歩いていれば、一華の目線の先には横長の一軒家が見えてきた。
一華が世話になっている児童養護施設『ほしぞらの家』。横文字の看板が低い塀に設置されており、その奥には小さい子供用の砂場や遊具がある。
(ただいま)
門を開けた一華は、心の中で帰宅を告げた。
そろりと足を動かしながら玄関の鍵を開ける。やはりこの時間では起きている者はいないようだ。
(部屋に入って起こしちゃうのも悪いから、今日はサンルームのソファで眠ろう)
浴室で体を洗った一華は、濡れた髪をタオルで拭きながらサンルームに向かう。
真っ暗闇の空間は随分と頼りなく、一華はテーブルに乗っていた小さな照明に手を伸ばした。
アルコールを原料にしたそれは、淡くではあるが一華の周囲をほのかに灯してくれる。
一華はそのままソファに腰掛けると、天井を仰いで深い息を吐いた。
(今日もたくさん働いたなぁ)
一華の勤め先である料亭は、おもに中位区域を居住とする人間に向けた店である。
時にはあやかしも利用するほど知名度の高い店でもあるが、開店すれば客足が途絶えることはないので気を休める暇もない。
だからいつも帰宅して一人になると、溜めていた疲労がどっと襲ってくる。
ふと、壁に掛けられたカレンダーに目がいった。
今日は三月七日――いや、すでに日付けが変わっているため八日である。
一華はぼうっとカレンダーを見つめながら呟いた。
「あと、一ヶ月……」
一ヶ月後の、四月八日。
それは一華が児童養護施設を出て行く日を意味していた。
この児童養護施設には年齢制限がある。十八になると自立できる歳だと判断され、特例措置がない限り退去となるのだ。
それは数日後に十八歳を迎える一華も例外ではない。
一華の施設の退去日には、弟の璃音も一緒にここを出ることになっている。
下位区域に二人が住める広さのアパートを借りて二人暮しを始めるのだ。
そのために、一華は勤務時間を増やして貯金をしていた。かれこれ三年――月休みは多くて四日、あとは働き詰めだった。
(退去日までに、できれば多く稼ぎたいとは思っているけど……すこし、張り切りすぎたかな……)
今朝は気のせいだと思っていたが、どうにも肌寒い。一華は用意した毛布にくるまって暖を取る。
(明日……いや、今日は……日の出の八時には起きて、朝食の準備を手伝って……)
予定を組みたてながらも、一華の思考はぼんやりとし始める。
眠気の限界に到達し、うつらうつらとソファに深く身を沈めた。
(…………頭、いたい)
こうして今日も疲れきった体から意識を離し、一華は泥のように眠るのだった。