大正偽恋物語〜不本意ですが御曹司の恋人になります〜

 ***

 華道の家元が邸に見えるまで、絹香は黙々と新聞を読んでいた。
 今日も世間は政府への批判や事件などを取り上げている。それらを真面目に読み(ふけ)り、恋愛小説の枠は最後にとっておく。もっぱら、好きな食べ物を最後に食べる性格だ。
 新聞で連載中のそれは、実話を元に作られたような糖分たっぷりの熱烈な物語だった。身分違いの恋をする男性の主人公が、儚げな美少女との逢瀬(おうせ)で悟る一場面。物語は佳境で、できることなら最初から読んでみたかった。
「ふむ……恋愛とはいつだって見知らぬ男女から始まり、いつの間にか落ちているもの……」
 感銘を受けた文章を紙に書き写す。
 その時、部屋の前で猫が踏みつけられたような(うめ)き声が聞こえた。不審に思い、戸を開けると、洗濯物を落とした侍女がうずくまっていた。苦悶(くもん)の表情には脂汗が浮かんでいる。面長の侍女は今朝会った恒子ではないようだ。
「大丈夫ですか!?」
 駆け寄ると、侍女はふるふると首を振った。
「こ、腰が……外れたみたいに、痛いです」
「まあ、大変だわ。ぎっくり腰かしら」
 絹香は辺りを見回した。助けを呼べる人はおらず、絹香はおろおろと侍女の腰に触れた。
「この辺りが痛む?」
「は、はい……っ」
「大丈夫よ、すぐに楽にしてあげるわ」
 尾てい骨より上の少し丸みのある部分に手を当てると、侍女は声にならない悲鳴をあげた。よほど痛むらしい。
 絹香は手のひらに熱をこめた。優しくさすると、侍女の顔がわずかに和らいでいく。
「お、お嬢様、いったいなにを……?」
「少しさすっただけよ。どうですか? 痛みは引きました?」
「えぇ……あれ? 軽くなった」
「じゃあ、もう大丈夫ね」
 絹香は急いで立ち上がり部屋に引っ込んだが、ふと思い立ち戸から侍女の様子をうかがった。
「あなた、お名前は?」
「はい、ゐぬ(いぬ)と申します」
「ゐぬさん。覚えたわ。念のため、お医者様にかかってくださいね。お大事に」
 そう言って、返事も待たずにピシャリと戸を閉めた。
 異能を使ってしまった。今さら緊張して動揺する。しかし、痛みに苦しむ人を黙って見過ごせるはずがない。彼女が黙っていてくれたら幸いだが……。
 絹香は迂闊(うかつ)な行いを反省した。これは敦貴に知られないようにしなければと、決意はいっそう固くなる。
「お嬢様、ありがとうございました」
 戸の向こうから、ゐぬが言う。その声は見違えるほどにすっきりしている。
 絹香はゆるゆると障子に口を寄せた。
「このこと、他の人には内緒ですよ」
 それが届いたかどうかわからない。ゐぬは落としていた洗濯物を回収し、部屋の前から去った。

 それからとくに問題もなく、お華の稽古の後は地味な灰紫色の着物で過ごしていた絹香は敦貴が戻るまで自室で繕い物をしていた。
「絹香」
 障子戸の向こうから、敦貴が声をかけてくる。
「はい!?」
 つい返事が裏返った。化粧はしていたものの、まさか彼が部屋を訪ねてくるとは思わず、絹香は慌てふためく。
「入るぞ」
「はい、どうぞ……」
 返事をするなり戸が開く。敦貴は仕事から帰ってすぐ部屋へ来たようで洋装のままだった。相変わらず無感情な顔でこちらを見つめている。
「お帰りなさいませ……お出迎えもせず、申し訳ありません」
「いや、いい。手紙を書いたから、先に渡そうと思ってな。着替えと食事を済ませたら呼ぶから、今夜も部屋に来なさい」
「しょ、承知しました」
 絹香は両目をしばたたかせながら答えた。彼はしっかりと封をした白い封筒を寄越し、そっけなく部屋を出ていく。まさか敦貴が一日で手紙を書いてくるなど思いもせず、絹香は動揺した。
「……仕事がお早いことで……えぇっと、先に読んでしまってもいいのよね」
 あの言い方からして、そう解釈してよさそうだ。
 絹香は丁寧にペーパーナイフで封を切り、便箋を出した。

 御鍵絹香様
 五月雨に潤う入梅の候、貴姉におかれましては、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
 今朝よりいただいたお手紙、拝読しました。
 一家団欒の情景が、貴姉の筆からありありと伝わってきました。
「まずはお互いを知ることから」とのことで、私も筆をとってみたものの、これといって幸福な思い出などなく、つまらぬ話となりましょう。
 私は愛にあふれた家庭で育ったわけではなく、屋敷を一戸与えられてからは米田をはじめとした使用人と暮らしていました。
 幼い頃から家庭教師をつけ、学問や礼儀作法などに励み、幼稚舎から大学まで学業成績では上位を修めてまいりました。他、音楽、剣術、武術、馬術なども(たしな)みましたが、ただただ己を磨くための稽古事でありました。
 これらの師範や専門家を呼びつけることは可能ですので、入用でしたら遠慮なく申し付けください。
 長丘敦貴

 こちらは便箋三枚を入れたが、敦貴は一枚で事足りるほどに少なかった。
 しかし、彼はとても生真面目で、筆も丁寧なものだった。普段の威圧的な態度とは大違いである。この落差に絹香は驚き、思わず頬が緩んでしまった。
 手紙をもらうのはいつだって嬉しいものだ。今までは弟の一視くらいしか相手がいなかったので、新鮮な気分を味わっている。
「案外、楽しいものだわ……ふふふっ」
 ひとつ屋根の下で、遠距離の恋愛ごっこをしている。そう思うと、胸の奥が弾むようで、久しぶりに浮かれた。
 絹香はクスクスと忍び笑い、髪をとかした。彼に会うのが、昨日より幾分も楽しみになる。
「絹香様、よろしいでしょうか」
 障子の向こうから侍女の声が聞こえる。ゐぬだろうか。
「はい」
 返事をすると、戸を開けたのは恒子だった。今朝、彼女はきちんと新聞を持ってきてくれたのだが、依然として仲良くなれそうな気配はない。今も恒子は固い表情で絹香に言う。
「敦貴様がお呼びです」
「わかりました。すぐに向かいます」
 絹香は手紙を文机の上に置いた箱へ仕舞い、身なりを整えて部屋を出た。
 敦貴となにを話そうか。手紙のことに触れてもいいのだろうか。いや、手紙は手紙だけの会話にとどめておこう。
 絹香は高揚するあまり廊下を急ぎ足で進んだ。
 敦貴の部屋へ向かう間、幾人かの使用人たちとすれ違い、その中にゐぬもいた。元気そうでなによりだ。
 彼女たちが膳を片付けているところを見るに、敦貴の食事は済んだのだろう。
 絹香は呼吸を整えて、敦貴の部屋の前に正座して声をかけた。
「敦貴様、絹香です」
「入れ」
 すぐさま彼の声が障子戸の向こうから聞こえ、絹香は静かに戸を開けた。
 彼は文机に向かって座っており、絹香に背を向けていた。振り返らない。そんな凛々しい背中に、おずおずと話しかける。
「敦貴様、お手紙ありがとうございました」
「あぁ、読んだか」
「はい。楽しく拝読いたしました」
「楽しく? つまらんものだったろうに。物好きなことを言う」
 敦貴の背中は気を抜いたように小さく丸くなった。そして、彼は眠たそうにこちらを見る。
「まぁ、最初のうちはあんなものかと思ったが……初手で切り捨てるほどのことではないからな。明日もよろしく頼む」
 その言葉の意味がよくわからず、絹香は首をかしげた。
「初手で切り捨てる、とは?」
「君の話がつまらなかったということだよ」
 すかさず敦貴は抑揚のない声で言う。絹香は頬を引きつらせ、顔をうつむけた。
「そう、でしたか……つまらなかったのですね……申し訳ありませんでした」
「いや。こちらが勝手に期待をしていただけだった。構わん。初めから期待を上回る仕事ができれば世話ないさ」
「ご期待に添えず、申し訳ありません」
 他に言葉が見つからず、結局は謝るしかなかった。
 返事をもらっただけで舞い上がっていたが、敦貴はただ礼儀として返事をしただけにすぎなかったのだ。
 絹香はすっかり消沈した。対し、敦貴はのんびりとあくびをする。
「案外、難しいものだな。恋愛というのは」
「……お言葉ですが、恋愛は学問やお稽古事によって身につくものではありません。いつだって見知らぬ男女から始まり、いつの間にか落ちているものなのです」
 絹香はもどかしくなり、つい厳しい言葉を投げかけた。今日の新聞に寄稿された他人の恋物語から引用しただけである。
 これに、敦貴が片眉を上げて反応した。
「ほう。君、新聞を読むのか? それは今朝の連載小説の一節だったはずだ」
「え? はい……」
 彼もあの小説を読んでいたことに驚いたが、それよりもまず恥ずかしさが込み上げる。
「叔父の家では誰よりも早く起きて、こっそり読んでおりました。申し訳ありません」
「女が新聞なんて」と蔑まれるに違いないと覚悟したが、彼はただただ感心げにうなずいていた。
「謝ることはない。それにしても変わった趣味を持っているな」
「俗世とのつながりが欲しくて……これくらいしか楽しみがなかったのです」
「なるほど。あの家じゃまともな教育を受けることもできないだろう。学校も退学させられたのかな? あの叔父上なら『女に学問は不要』と熱弁を振るったに違いない」
 容易に言い当てられ、絹香は挙動不審に目を泳がせた。一方で敦貴は切り込むように迫ってくる。
「なにを恥ずかしがっている? 私に恋愛がなんたるかを教えようと意気込んでいたんじゃないのか?」
「……こ、心を読まないでください」
 絹香はそれだけ返した。一方、敦貴は悪びれることなく鼻で笑った。
「慣れてくれ」
「慣れてしまったら、心を閉じます」
 意固地になって生意気な口を叩くと、敦貴はからかうように片眉を上げた。
「うちの使用人たちはそうしているぞ。心を読まれたら困るような後ろめたさがあるから悪いんだ」
 絹香はまじまじと彼を見つめた。こうなったら失礼ついでに訊いてみよう。
「敦貴様って……ご友人はいらっしゃいます?」
「いない」
 ──でしょうね。
 絹香は呆れた。そのわずかな感情も敦貴は読み取っていく。
「そんなもの、必要ない。しかし、君だっていないんだろう? 君が学校を退学した後、幾人の学友が心配した?」
「それは……」
 敦貴の言葉に、絹香は思わず怯んだ。
 そんなこと、考えもしなかった。学友たちの多くは良家に見初められて退学し、忙しい毎日を送っている。卒業せずに嫁ぐのが淑女としての格というものである。つながりといえば文通しか手段がないが、文を送る余裕などないだろう。
 黙っていると、敦貴はつまらなそうにため息を落とした。
「今日はもういい。また明日にしよう。寝る」
 無慈悲にも会話の終了を宣言される。絹香は仕方なく引き下がった。
「おやすみなさいませ」
 部屋の戸を閉め、絹香はがっくりと肩を落としたまま部屋へ戻った。
 手紙を書かねば。今の自分には、これしか彼にアプローチする術がない。
 新聞を読むことに興味を示した様子だったから、それについて書いてみようか。時事の話は手紙のネタに事欠かないから、何枚も便箋を使えそうだ。その中で彼の興味を惹くものを探ってみたい。
 絹香は拳を握って、気合いを入れた。
「絶対、楽しんでもらいますからね」
 不敵に満ちた声は誰もいない廊下に響くことなく、静かに夜の月だけが聞いている。上弦の月はさながら、笑うように細める目だった。
 敦貴との文通は最初のうちは毎日行われたが、だんだんと間隔が遠のいていく。彼の仕事が忙しくなり、家を空けることがたびたびあるからだ。出張も多いので、帰らない日はことさら暇だった。二日に一度の間隔で手渡しの文通を行えば、ひと月後にはすでに五、六回ほどのやり取りを経ている。
 しかし、敦貴は手紙でも日常会話でも受け身だった。彼の好きなもの、嫌いなもの、趣味趣向など探ってみるも、答えはいつも「とくになし」なので、会話が進まない。
 絹香は試行錯誤したが、いくら時事を手紙に織り交ぜたとしてもしょせんは新聞からの情報であり、世界を股にかける彼と議論を交わすにはあまりに浅識だった。無理は禁物だと思い直し、時事に関する話は早々に諦める。
 手応えが感じられないまま日だけが過ぎていき、これでいいのかと自問自答するも、いつの間にか一日が終わっていた。
 そんな日々を過ごすうちに、初めての給金をいただく日がやってくる。毎月十日、敦貴から手渡しで現金五十円が支払われることになっているが、これは職業婦人の花形であるタイピストの平均月給とほぼ同等の金額らしい。
 この日、敦貴は大阪(おおさか)での仕事を済ませ、ようやく帰宅したのが夜中の十二時近い時間だった。食事は外で済ませたらしく、あとは着替えるだけである。
 カフスを取った敦貴は不機嫌そうに眉間を険しくさせていた。絹香は声をかけられるまで黙々と待ち続ける。
「……絹香」
「はい!」
「今日は給金を払う日だったな」
 彼は気だるげにこちらを見た。その視線が痛い。
「はい……まだなんの成果も出していないので、心苦しいのですが」
 絹香は率直に言った。すると、彼は「そうだな」と冷たく相槌(あいづち)を打つ。
 絹香は敦貴の着物を用意した。前もって使用人が綺麗に畳んでいたもので、自分はなんの助力もしていない。つくづく役立たずに思えてしまう。
 そんな絹香に追い打ちをかけるように敦貴が言った。
「確かに、このひと月、君はなんの成果も出していない。使用人の方がよく働いている。給金泥棒と罵られても文句は言えまい」
「心を読まないでください……!」
「顔に書いてある」
 敦貴は鼻で笑いながら絹香が差し出した着物を受け取り、さっさと着替えを済ませて奥の寝室へ向かった。蓮が描かれたふすまの先にはすでに用意された布団があり、今すぐにでも眠れる環境だ。
 その脇を通り、おもむろに床板を外す。そこからなにやら金具を触る音がする。どうやら、床下に金庫を置いている様子。
 そんな仕掛けを見てもよいものか、絹香は視線に困った。見ないふりをしておく。こういう余計なものを見てしまうと、後で言いがかりをつけられそうで厄介だ。
 敦貴は金庫から給金袋を出した。そして、ふすまを閉めて戻ってくる。
「今月分だ。ご苦労だった。以降も励むように」
「頂戴いたします……」
 罪悪感が全身に渡り、絹香は苦笑いで受け取った。だが、初めての給金に心が踊らないはずがない。中身は後で見よう。喜びを見せないように(たもと)の中へ差し込む。
 つくづく不思議だ。こんな仕事が成立するのだろうか。世間一般の仕事とは比べ物にならないのでは。
 絹香はすぐに浮き足立った心に活を入れ、気を引き締めた。
 対し、敦貴は妙に動きが鈍かった。その場にあぐらをかいて座り、頬杖(ほおづえ)をついて絹香をジッと観察している。
「……敦貴様、まだなにか?」
「…………」
 返事がない。彼は目をシパシパさせてぼうっとしている。なるほど、眠たいのだとようやく気がついた。
「お疲れのようですね」
「あぁ……まぁ……眠い」
 そう答える口も重い。絹香は心配になって顔を覗き込んだ。
「大阪でのお仕事はいかがでした?」
「あぁ……そうだな……まぁ、それほど退屈はしなかったな」
「左様ですか。それはようございました」
「うん」
 いつもより覇気のない声が返ってくる。今日の彼はあからさまに疲れている。無防備すぎて甚だ不気味だ。
「もうお休みになられては?」
「いや……明日の話をしようと、思っていたんだ」
 敦貴はあくびをしながら言う。仕方なく絹香も付き合うことにした。
「明日の話とは?」
「あぁ、明日は休日だ。大口の仕事も片付いたところだから、君をどこかに連れていってやろうと思ったんだが……なにか欲しいものはあるかね」
 そう訊かれ、絹香は眉をひそめた。
「それって……」
「恋人は休日に出かけるものだろう? 大阪の支店長から聞いた」
 支店長というのはおそらく銀行関係の部下だろう。思わぬ申し出に絹香は前のめりになった。いつもは受け身でそっけない敦貴が自ら誘ってくるなんて、これは確実に進歩だ。
 しかし、すぐに理性が働く。
「敦貴様、お忘れですか?」
「なにを?」
「敦貴様には許嫁の沙栄様がいらっしゃいます。それなのに、わたしと出かけるなんて、周囲によからぬ誤解を招く可能性がありますわ」
「よからぬ、誤解……?」
 敦貴は腕を組んだ。しばし沈黙した後、合点したように唸るも首をかしげて絹香を見る。
「周囲への誤解を懸念しているのだな。しかし、それではこの契約の根本を否定することになる」
「そうですけれど……恋人というのは、男女が成す営みでございますゆえ、そのお考えは正しいのですが……わたしたちは偽物の恋人なのです。不用意な行動は慎むべきです」
 念を押すと、敦貴は冷ややかに睨んだ。
「あぁ、わかっている」
 そのぶっきらぼうさに、絹香はたちまち萎縮し口をつぐんだ。
「この邸で完結するのなら、別に君じゃなく使用人でも問題なかったんだが」
 確かに、彼の考えも理解できる。
 絹香は顎に手を当てて考えた。しかし他に回避する文句が出てこないので、納得せざるを得ない。
「おっしゃるとおりです……が、よいのでしょうか?」
「私がよいと言っている。君は私の、仕事上のパートナーというやつだ」
「仕事上のパートナー、ですか。相方という意味ですね」
「そう捉えてくれ。正直、君の手紙は退屈で仕方がない。それに、手紙は面倒だ。書く時間が惜しい。そして、精神的な負担にもなる」
 その意味がわからず、絹香は首をかしげた。精神的な負担になるような失礼なことは書いていないはずだ。話がつまらないのは確かに負担かもしれないが。
 すると、敦貴はため息交じりに口を開いた。
「返事を書かなければという強迫観念が働くんだよ。私の手紙を待っている君を思うと、気が散って仕事に差し支える」
「そう、ですか……申し訳ありません」
 絹香は落胆した。仕事の邪魔をしているとは夢にも思わなかった。
「わたしは、敦貴様との文通が楽しかったのですが……お邪魔になるのでしたら仕方ないですね」
 たわいない手紙を書くのは迷いもあるが、楽しかった。そして、ぎこちなくも生真面目に返事をする敦貴の心遣いが嬉しかったのだが……。
 肩を落とすと、敦貴は頭をかいて顔をしかめた。
「そんな顔をするな。文通はやめない」
「えっ?」
「君はまだ人生の半分も語ってないだろう? いつもその日の稽古や天気の話など、代わり映えのない話がつまらんと言っただけだ。もっとさらけ出して書いてみなさい。私は君のことが知りたいんだ」
 彼の言葉はまたしてもぶっきらぼうだ。しかし、冷たさはない。気を抜けば眠ってしまいそうなほどまばたきが遅く、またあくびをする。ゆえに、彼の気持ちがわかりにくくて疑わしい。
「本当にそう思っておられますか?」
「思っている」
「……でも、わたしのあの家での話なんて、恥ずかしくてとてもできません」
 敦貴の即答に面食らいつつ、正直な気持ちをおずおずと述べる。
 絹香も叔父の家での生活について、誰かに相談したくはあった。だが、それこそつまらず、出てくる内容がすべて暗い色に染まりそうで怖かった。毒物じみた過去を持っている自分を恥じていた。それを敦貴に知られるのが嫌だ。
 また普段は心を読んで深くは踏み込もうとしないくせに、こういう時に限って彼はろくに頭を働かせずうとうとしているので少々不満を感じてもいる。
「……敦貴様?」
 声をかけてみるも、彼は返事をしない。腕を組んでそのまま静かに寝入ってしまった。
「そんな。嘘でしょう……ねぇ、敦貴様。起きてください。お布団で寝ましょう」
 肩に触れた途端、敦貴の首がガクンと落ちた。慌てて受け止めると、敦貴はそのまま絹香の肩の上に伸しかかった。
 ──どうしましょう……どうしたらいいの?
 敦貴の体を抱きしめるようにして中腰でいる。ふわりと香る白檀(びゃくだん)が上品で、鼻腔に届いた瞬間に絹香の心臓がせわしなく動く。無防備に眠る男性を抱きしめているという状況を再認識し、恥ずかしさが全身に回った。
「敦貴様、起きてください! 明日のお話をするんでしょう? まだ寝ないでください!」
 助けてほしい。でも、誰も通りかからないでほしい。
 揺さぶってみようか。さすがに外部から眠りを邪魔されては覚醒するはずだ。
「し、失礼します……」
 敦貴の肩に手を起き、控えめに揺する。
「敦貴様、起きてください」
「……嫌だ」
 ボソボソとした声が返ってきた。顔を覗き込んで見るが、彼は眠っていた。声に反応して答えただけか。それにしては受け答えがしっかりしている。
 わざと困らせるような性格でもないから、絹香はただただ焦っていた。すると、肩にもたれる敦貴がゆっくりと言った。
「君は……温かいな」
 なにを意味するかわからない言葉。それから彼はもうなにも発することなく深い寝息を立ててしまった。
 考える余裕などなく、とにかく今は一刻も早く彼を布団へ寝かせたい。ここは引きずってでも床に入れるしかないのでは。腕力に自信はないが、こうなったらやるしかない。
 絹香は敦貴の後ろに回った。そして、無礼を承知でズルズルと引きずり、寝室のふすまを開けた。六尺以上ある背丈の男を動かすのはつらいものである。数分を要し、最終的には敦貴を布団の中へ転がした。
「さすがに世話が焼けますよ!」
 小声で苛立ちを向ける。眠っているのでなにを言っても構わないと判断した。
 絹香は呆れて行灯の火を消した。使用人の前でもこんなふうなのだろうか。国を守る役目を担う人材とはいえ、あまりにも無防備ではないか。そう思ったが、ふと彼の生い立ちを思い出す。
 彼は幼い頃からひとりだった。使用人に囲まれていても、孤独だったに違いない。
 布団で寝息を立てる彼の姿は、おそらく誰も知らないのではないだろうか。
 そこまで考えて、ふと手のひらを見る。気づかぬうちに熱を持っていた。
 ──まさか、わたしが原因?
 癒やしの異能のせいで敦貴の睡眠を誘発したのか。ありえる。
「敦貴様……」
 真っ暗な寝室で、彼の耳元に口を寄せてみる。
「ゆっくりお休みください」
 寝顔を間近で見ると、その麗しさに見惚れた。
 しばらくした後、絹香は自室に戻って高鳴る胸を抑えながら床についた。まだ心臓が緊張している。抱きとめた彼の温度が全身に残っており、新鮮な感情があふれ出す。
 絹香は頬に手を当てた。この熱は感情から来るものだ。
 普段は威圧的で沈着冷静な彼の意外な一面に不覚にもときめいている。慌てて煩悩をかき消した。
「はしたないわ。あぁ、もう、敦貴様のお顔が頭から離れない……!」
 冷たい布団に入れば少しは熱も冷めるだろうか。灯りを消して、暗がりに顔を埋める。
 ダメだ。まだ胸が鼓動を鳴らし、辺りが静かでは余計に心音が際立っていく。小さく丸まって目をつむった。
「絹香、しっかりして。敦貴様は偽物の恋人。好きになってはいけないの。これは、ごっこ遊びなんだから」
 しかし、いくら言い聞かせても深く眠ることはできず気がつけば朝で、そういえば手紙を書いていなかったと後悔した。

 ***

 敦貴の目覚めは規則正しい。六時半にはきっちり目が覚めるが、今日は頭がすっきりしなかった。その割に体は幾分も軽やかで、凝っていた肩がとても柔らかい。
 眠りも深かったようだが、眠っている位置がいつもと違う。寝相は悪くない方なのに今日は布団の端っこで眠っていた。はて、昨夜のことがうまく思い出せない。
「……給金は渡したよな?」
 思わず呟く。そして床板を外し、金庫を確認する。絹香宛の給金袋がないので、おそらく手渡してあるのだろう。では、その後どうなったのか。出かけることを彼女にきちんと約束をした覚えがない。
 敦貴は釈然としないながら寝室を出て、朝の支度を始めた。休日だろうとしっかり身支度をし、読書をしながら朝食を待つ。たまに仕事の公文書に目を通すこともあるが、今日は仕事を持ち込んでいなかったので手持ち無沙汰だった。
「おはようございます、敦貴様」
 障子戸の向こうから侍女の恒子が声をかけてくる。彼女は敦貴の身の回りを世話する役目を担っているので、当然、朝食の支度をしに毎朝やってくる。
「入れ」
「失礼いたします」
 恒子は伏し目で膳を運んできた。
「おはよう、恒子」
「おはようございます。今朝の朝刊もどうぞ」
「あぁ。すぐに読むから、これを絹香に渡すように」
「かしこまりました」
 恒子は無感情に返事した。彼女が米びつに入ったホカホカの白米を茶碗に盛る間、敦貴は新聞を読んでいた。
 最近、情勢が乱れている。内閣もころころと変わり、庶民たちの運動が頻発しているらしい。活気づくのは結構だが、少々行きすぎではないかと思う今日この頃である。
 恒子が茶を入れると同時に、敦貴は新聞を畳んだ。いつもならもう少し読みすすめるのだが、気が乗らなかった。連載中の小説も読み飛ばす。
 白米に浅漬、味噌汁、数品の小鉢という簡素な膳をさっさと済ませた。
 その間、恒子は寝室の布団を畳み、洗濯物と一緒に持っていく。そして洗濯場で待機する侍女たちに渡し、また敦貴の部屋へ戻ってきて今日の着物を選ぶのだ。平日は洋装の支度を、休日は和装の支度をし、敦貴が食事を済ませるまでに脇へ着物を畳んで置いておく。しかし、今日の敦貴は恒子の選んだ着物を見て迷った。
「今日は、もう少し軽い色みにしてくれないか」
 敦貴の言葉に、恒子は顔をハッと上げた。
「お気に召しませんでしたか?」
 その問いには答えず、敦貴は自らタンスの中を物色した。
「絹香はもう起きているだろうか?」
 敦貴は着物を選びながら訊いた。すると、恒子は「はぁ」と気の抜けた声をあげた。
「早起きされる方ですし、もう起きてらっしゃるのでは?」
「呼んできてくれ」
「……はぁ。かしこまりました」
 恒子は怪訝そうながらも素直に部屋から下がっていった。
 絹香がどんな服を着るかで、着物の合わせ方が変わるだろう。だったら、絹香に決めてもらう方が効率的であると敦貴は思った。
 ほどなくして、床板を踏むふたり分の音が近づいてくる。絹香はおどおどとした様子で入ってきた。
「おはようございます……」
「おはよう。絹香、ちょっと来てくれないか」
 タンスの前で悩む敦貴の横に、絹香がおずおずと近寄った。その後ろで、恒子が膳を片付ける。彼女が完全に部屋から下がった時、敦貴は絹香の顔を見た。
「君に着物を選んでもらいたいんだが……そんなに顔を赤くしてどうした」
 困惑気味な様子で無言になるのはいつものことだったが、今朝の絹香は体調がすぐれないように見える。敦貴の問いに、彼女は珍しく「ふぁっ、えぇっ、あの」と慌てふためくばかりで要領を得ない。
「はっきり言え。熱でもあるのか?」
 さらに顔を覗けば、彼女は一歩後ずさって顔をうつむけた。
「おい、絹香」
「はっ、あの、申し訳ありません……」
 やはり奇妙だ。声をかけるだけでこんなに緊張することなど、あまりなかった。ますます訝り、彼女の顔色から心象を読み取ろうとしたが無理だった。見当もつかないので、なんとももどかしくなる。
 すると、絹香が意を決したように言った。
「あ、敦貴様……あの、昨夜のこと、覚えてらっしゃいますか?」
「は?」
 なんだろう。覚えがない。
「覚えてらっしゃらないんですか!?」
 絹香が驚愕(きょうがく)の表情を浮かべる。敦貴は素早く思案した。
「昨夜……寝る前に約束したよな?」
「や、約束……は、できませんでした」
「えっ」
 思わぬ回答に、敦貴も素っ頓狂な声をあげてしまう。絹香はなおも顔を赤くしており、目を合わせないようにしていた。すると、なんだかこちらまで不安になってくる。
「絹香、昨夜はなにがあった?」
「え……っと、敦貴様が、大層お疲れだったようなので、その、お布団に……」
 絹香はしどろもどろに言葉を発した。濁してしまうところを見るに、嫌な予感を察知する。
 寝ぼけた拍子に、なにか妙なことをしでかしたのか。さっと血の気が引き、自分が動揺していることにすぐさま気がついた。不安を覚え、焦りを感じるのは初めてのことだった。
「待て、言うな。もういい」
 女の口から言わせる内容じゃないかもしれない。すると、絹香も敦貴の顔色から心情を察知したらしく、大仰に手を振って訴えた。
「あ、あの、誤解しないでください! 過ちはありませんから!」
「……そ、そうか。それはなにより……すまない」
 あまりの勢いに拍子抜けし、付け加えるように謝った。
 絹香はホッと安堵し、ぎこちなく笑った。こういう時、彼女はいつも取り繕うのが上手なはずなのにいつもより下手に笑うものだから、敦貴は気まずくなってタンスに目を落とした。咳払(せきばら)いし、場の空気を整える。
「今日は君と一緒に出かけるから、着物を選んでもらいたいんだ」
 話を元に戻すと、絹香はまたも固い表情で笑った。
「お出かけするのはお控えした方がよいと、昨夜に提案したのですが……」
「なに? 私の申し出を断るのか?」
 まさか断られるとは思わず、敦貴は眉をひそめて責めるように彼女を見た。すると、その圧に耐えられなくなったらしく、絹香はあわあわと慌てて両手を振った。
「いえ! お申し出は大変嬉しいのですが……」
「『ですが』? 恋人の役目を放棄するつもりか?」
「いえ、そうじゃなく……このやり取り、昨夜もしたんですけれど」
 絹香の心底困ったような口ぶりに敦貴はため息をつき、タンスの引き出しを閉めた。
 今まで言い寄ってきた女性に振り回されることは多々あるも、申し出を断られるのは一度もなく不本意だ。せっかくまとまった休みが取れるのだから、時間を有効活用したい。
「では、旅行にしよう」
「え?」
鎌倉(かまくら)に別荘がある。母方の家の私有地だ。そこなら誰もいない。人目を気にする必要はないだろう」
「えぇっ?」
 絹香は挙動不審になった。天井を見上げ、左右をキョロキョロ見渡し、敦貴を見上げる。そしてその目線がまた下へ向かっていく。
「敦貴様、どうしてそこまでのことを? いえ、恋人役ですから、仕事をお与えくださるのは大変ありがたいのですけれど……でも……」
 絹香は警戒しているのだろう。敦貴はどう答えたらよいものか、しばし考えあぐねた。
 彼女を恋人役に任命したのは自分だ。すべては許嫁、沙栄のため。手紙や会話をするだけでは進展がなく、愛情を習得できているのか実感が持てない。
 それに、基本的に女性に断られるという経験がないので意地になっているのは薄々感じていた。そして導き出した答えは……。
面子(めんつ)のためだ」
 きっぱり答えると、たちまち絹香の顔がどんよりと曇った。
「左様ですか……わかりました。謹んでお受けいたします」
 なにか気に障ることでも言っただろうか。絹香はそれきり口をつぐんでしまった。どことなく不満を抱くようでもあるが、どうすることもできない。
 敦貴は絹香に旅行の支度をするように言いつけ、あとは使用人たちにもその旨を伝えた。

 ***

 旅行は来週の予定となり、絹香はあれこれと買い物をしなくてはならなかった。それまで自分の持ち物は最低限しかなく、給金をいただいてから買いに行こうと決めていたのだ。
 しかし、その買い物に、やはり敦貴も同行することになった。米田もいるとはいえ、それなりに有名な長丘家令息と街を歩くのは心に負担がかかる。それに、敦貴はどこへ行っても目立つのだ。
 街の中心に最近できた、なんでも揃うという百貨店へ来たが、誰も彼もが振り返ってはささやき合う様子が散見され、絹香はうつむきっぱなしだった。
 せっかくの華やかな百貨店なのに、楽しむ余裕がない。きらびやかな調度品や南国らしい植物など珍しいものがあったのだが、あまり目に入れることができず、絹香は前を歩く敦貴の後ろを追いかけるだけ。
 見目麗しい青年に連れ添うのが、どこの馬の骨ともわからぬ娘であるのがたまらなく恥ずかしく肩身が狭い。絹香はすっかり自信をなくしていた。それを敦貴は読み取らず、とにかくことあるごとに絹香にあれやこれを買い与える始末である。
 面子がかかっているのだと彼は言った。おそらく誘いを断ろうとした仕返しなのかもしれない。絹香はやや疑心暗鬼であった。
 旅行用のカバンはガマ口の革製で、しっとりなめらかな質感。下着や着物の替え、浴衣なども上等な素材のものを選び、さらには小物や化粧道具までを勝手に店員へ見繕ってもらうという、今までに経験したことのない豪華な買い物だった。
 それから百貨店の最上階にあるパーラーで休憩することとなり、それまで生きた心地がしなかった絹香はようやく息を整えて切り出した。
「敦貴様、あの……」
 疲れている絹香に対し、彼はどこ吹く風で平静そのものである。
「こんなにたくさんのもの……立て替えていただくのはありがたいのですが、その、お支払いがいつになるやらわかりませんよ……」
「なにをたわけたことを。これは私からのプレゼントだよ」
 なに食わぬ顔でサラリと言われ、絹香は思わず立ち上がった。
「そこまでしていただく義理はありません!」
 取り乱すあまり、失礼な言葉を投げつけてしまう。だが、敦貴は不思議そうに眉をひそめるだけだった。
「義理……恋人は一緒に出かけて、プレゼントを贈るものだと聞いたのだが」
「それも大阪の支店長さんからの情報ですか? だから実行に移そうとお考えに?」
「あぁ。私だって本気なんだ。悪いが、付き合ってくれ。そういえば、浅草に劇場があったな。『凌雲閣(りょううんかく)』も流行っている。君がどうしても行きたいのなら連れていくが」
 絹香は頭を抱えて悩んだ。突然の積極的な行動についていけない。ここで素直にうなずけばよいのか、彼と自分の身を案じて行動を控えるよう注意した方がよいのか……答えは出ない。
 実際、恋人がどんな遊び方をしているのか、てんでわからないのだ。
 新聞や小説で読むものといえば、会えない寂しさを噛みしめ、たまに会えた時の喜びを分かち合って公園で語らうか、人目を忍んで川辺を眺めるか。
 こうして豪勢に買い物を楽しみ、パーラーに立ち寄って甘味を食すという上級の遊び方は知らない。周囲にいるのも上流階級の人間ばかりだ。経験のないキラキラした空間に気後れしてしまう。そして、自分がいかに狭い世界で生きていたのかをまざまざと思い知らされる。
 一方で、敦貴はこの景色にしっかり溶け込んでいた。今日の彼は、涼やかな白藍(しらあい)の着物で、濃い藍の縦縞(たてじま)が入っている。帯は落ち着きのある、まるで夜更けのような色だった。揃いの色の山高帽を見るところ、すべて特注のようである。
 彼は青みのある色がよく似合う。簡潔でまとまりのある配色を着こなす彼が爽やかでかっこいい。
 賑やかなパーラーの一角に座っていると、やはりこの状況は〝恋人〟のように映るのだろうか。絹香は自分の格好を改めて見直した。
 勿忘草(わすれなぐさ)のような淡い青に、細やかな淡桃(うすもも)(まり)が袖と裾にあしらわれている。帯は濃い古代紫がつややかで、上等の織物だ。束髪(そくはつ)くずしに帯と揃いの大振りなリボンをつけている。
 すでに購入されていたと思しき二着のうちどちらかを選べと、ほとんど命令に近い口調で敦貴に圧され、仕方なく選んだのがこの装いだった。もう一着は、フリルのブラウスに上品な紫苑色(しおんいろ)のスーツ・ドレスという洋装だった。ドレスを着こなし、街を闊歩する勇気はない。
 応酬も面倒になってきたところで、敦貴が頼んだ甘味が運ばれてきたので話はいったん中断された。
 目の前に置かれたのはいつか昔に食べた、サクサクの生地と粉雪のような砂糖があしらわれた格子型の菓子、ワッフルだった。脇にはリンゴのジャムが添えてある。
「洋菓子を食べたことがあると、君が手紙に書いていたからな」
 敦貴が柔らかな声で言った。彼は紅茶を頼んでいたようで、大きな口のティーカップに角砂糖をひとつ落として混ぜている。
 絹香は目をしばたたかせた。
「どうぞ。遠慮なく食べるといい」
「……いただきます」
 しばらくモジモジとしていたが観念した。そろそろと銀色のフォークをサクサクの生地に差し込む。ひと口の大きさにし、ジャムをつけて食べる。
 すぐに舌へ伝わるリンゴの酸味と甘みに頬がゆるんだ。そのままワッフルを噛めば、奥行きのある生地の甘みに感動してしまう。
 鼻を抜けるまろやかな甘さが惜しく、ひと口、またひと口と手が止まらなくなる。こんなにおいしい菓子の味をすっかり忘れていた。
「うまいだろう。ここの菓子は東京でも指折りの腕前だと聞く」
「はい、とてもおいしゅうございます」
 絹香は素直に言った。すると、敦貴は気を抜くように小さく微笑んで、すぐに咳払いした。

 夢のような休日が過ぎ去り、だが翌週も彼と一緒に旅行へ行く。絹香はその日が来てほしいような、来てほしくないような心境だった。
 前日は緊張でろくに眠れやしなかった。それでも体にはいっさいの不調がなく、これもまた異能のせいかと思うと憂鬱になる。いっそ熱でも出して寝込みたかったが、仮病を使うわけにはいかない。
 手紙を書くのも恥ずかしくなり、おざなりになっていた。敦貴もなにも言ってこないので、おそらく文通はもう行わないだろう。
 絹香は先日の買い物で着た勿忘草色の着物を選び、米田の車に荷物を預けた。
「行ってらっしゃいませ」
 使用人たちの声が聞こえ、振り返ると敦貴が屋敷から出てきた。彼の姿が見えると、絹香も深々とお辞儀する。敦貴は構わずそのまま車に乗り込んだ。
 絹香も後に続く。その姿を見送る使用人たちの様子は想像したくない。結局、彼は使用人たちにもろくに説明せず、絹香との旅行を決行したのだった。
「さて、行こうか」
 敦貴の心象はまったく読み取れない。絹香は曖昧に笑って、ただただおとなしく車に揺られるしか術がなかった。
 鎌倉は異国情緒漂う西洋建築物があちこちにあり、冷たい潮風が心地いい人気の避暑地だ。緑と青空が夏の風情を思わせ、セミの鳴き声すら涼しげだ。
 敦貴の母方の持ち物だというこの地は、外界から隔離されるように森が鬱蒼(うっそう)と生い茂り、自然豊かだった。その森を抜ければ白浜が現れる。奥にはキラキラとまたたく(あお)い水平線を望む。じっくり見つめてしまうほど、海への懐かしさを感じていた。
 このあふれる自然の中、ひっそりと建つのは切妻(きりづま)屋根の木造洋館だった。白い外観に窓枠やバルコニー、支柱は焦げ茶色という、その色合いが意外にもかわいらしさを醸す。立派な円筒形の展望台が玄関の横に設置されている。
 ある程度の持ち物は別荘に送っており、絹香のカバンには簡単にまとめた化粧品が入っている。それを米田が屋敷の中へ運んでいった。
「絹香」
 車から降りた敦貴が呼ぶ。森の奥にある海を見つめていた絹香はハッと振り返った。
「そこからでなくとも、この展望台から海が見えるぞ」
「本当ですか!」
 思わず高揚する。この反応に、敦貴は少し面食らっていた。
「なんだ。道中、黙りこくっていたから不機嫌なのかと思っていたのに」
 彼の言葉に、今度は絹香が驚いた。
「そんなふうに思われていたんですか?」
「あぁ」
 ──敦貴様でも心が読めないこともあるんだわ。
 普段は探るように質問攻めにし、こちらの口を塞いでくるのに、今日の彼は手紙や夜に見せるゆるみがある。誰もいない休日なのだから当然と言えば当然だが。
 敦貴の後ろから、絹香は邸の中へ足を踏み入れた。
 緑がかった乳白色のシャツは縞柄(しまがら)で、吊りベルトと紺色のネクタイといった洋服をさらりと着こなしており、そんな彼の後ろを動きにくい着物でついていく。
 さっそく展望台の階段をのぼる敦貴についていこうと必死に追いかける。しかし彼の歩幅と合わず、絹香は遅れをとった。
 背中が見えなくなり、さらに慌てていると、敦貴が下りてきた。
 彼は無言で手を差し出してくる。その手をためらいがちにとると、敦貴はゆるやかに階段をのぼり始めた。
 時折、階段の踊り場の窓から差し込む陽の光が(まぶ)しかった。邸の中はひっそりとしていて、とても涼やかだ。
 三階が最上階であり、そこは木目が柔らかなドームだった。前方に海が広がっている。
「しばらく来てないから、立て付けが悪くなっているかもしれないな」
 そうこぼす敦貴が窓を開け放った途端、うねる潮風が流れ込んできた。絹香は彼の横に立った。
 窓の向こうにはバルコニーがあり、横に伸びる海を一望できる。キラキラとまばゆい白波と、反射する陽光、美しい碧がとても清々しく、心が落ち着く。
「気に入ったようだな」
 敦貴が満足そうに目尻を緩める。絹香はほころばせていた顔を伏せた。
「心を読まないでください」
「それくらい、読まなくともわかる」
 絹香は恥ずかしくなり、顔をそむけた。
「そうか。君は海の街で生まれたんだったな……」
 こちらの恥じらいに構わず、彼はバルコニーに身を乗り出しながら言った。
「東京は窮屈か?」
「いいえ。これ以上ないくらい毎日が夢のようで。憧れの場所です」
「その割に君は私と歩く時、ずっと周囲をうかがっていた。東京は嫌いなのかと思っていたんだが」
「それは……」
 ──敦貴様の横にいるのがわたしでよいものか、罪悪感が働くのです。
 喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「私の隣にいることが不満か?」
「違います」
「では、こうかな。自分はしょせん〝恋人役〟だから、間違いのないよう振る舞わなければいけない。それくらいわかってくれ、とでも考えているのかな」
「……っ!」
 絹香は思わず顔を上げ、不満あらわに唇をとがらせる。だが、その苛立ちも長くは続かず、彼の笑顔を捉えた瞬間、すべての時が止まった。
 敦貴はふわりと目尻を垂らしていた。破顔とまではいかず、うっすらと微笑んでいる。陽の光を浴びる彼の横顔はあまりにも精巧で、美しかった。
「敦貴様、素敵です」
 絹香は驚きのあまり、つい口に出した。すると、敦貴がゆるめていた口の端をキュッと結んだ。そして、バルコニーから背を向けて部屋の陰に隠れていく。
「あまり風に当たるな。体に障る」
 そう言い残し、彼は展望台を下りていった。
 ***

 不覚だった。敦貴は階段を下りながら、口の端を()んだ。
 感情が表に出ることはあまりなく、ただただ求められたものに応じて顔を変えているにすぎない。しかし、どうしてか絹香の前では自分でも気づかぬうちに心に秘めた感情が漏れてしまう。
 こちらが優位に立っているはずなのに、いつの間にか絹香に立場をひっくり返されているような気がしてならない。今回の旅行も、彼女が買い物に出たがらず、共に出かけるのすら拒むから提案したものであり、妙な意地が働いた。絹香に断られたのが我慢ならなかったのだと改めて思う。
 ──柄にもない。
 また、同時に情けなくなる。絹香の恋人として振る舞おうと意識すればするほど、調子が乱されていく。
「待って、敦貴様……」
 考えていると、背後から絹香がパタパタと危なっかしく追いかけてきた。
「慌てて下りると危ないぞ」
 そう言いかけて振り向くや否や、彼女の足がずるっと階段をすべる。
「っ!」
 短い悲鳴を抱きとめるように、敦貴は腕を伸ばした。彼女は手すりをつかんだが間に合わず、そのまま仰向けに倒れていく。
 敦貴は咄嗟に絹香の後頭部に手を回した。なんとか頭を守ることができたものの彼女に覆いかぶさる形になっており、互いに顔が近かった。
 絹香の白くきめ細やかな肌と、赤く染まった頬紅、大きく見開かれた澄んだ瞳はまるで星空のよう。完璧なまでに美しく、ずっと見ていたくなる。
 その時間、どちらの呼吸も聞こえなかった。息を止めていることに気がつき、ハッと我に返ると敦貴は静かに訊いた。
「無事か?」
 真っ赤だった絹香の顔が瞬時に青ざめる。
「申し訳ありません」
「まったく、怪我でもしたらどうするんだ。ここから医者までは時間がかかるんだぞ」
 絹香を抱き起こしながら、敦貴は苛立ち交じりに言った。しかし、絹香は困惑気味に眉をひそめて笑う。
「平気です。ご心配には及びません。わたしは丈夫なので」
「なにを言ってるんだ。ついこの前、車に驚いて足を挫いただろう」
 鋭く指摘すると、彼女は両目をしばたたかせた。そして、気まずそうにうつむく。
「そうでした……」
 その声があまりにも意外そうなので不審を感じた。
 ──まさか忘れていたわけではあるまい。
 敦貴は冷静に考えた。あの怪我はちょっとやそっとのことで治るものではない。米田の報告にもあったが、いつの間にかすでに完治している。だんだん挙動不審になる彼女を、敦貴は目を細めて見つめた。
「絹香」
 立ち上がる絹香の手首をつかむ。
「君、私になにを隠している?」
「えっ」
 絹香の真っ黒な瞳が揺らいだ。彼女は敦貴の目を見ているが、動揺のあまり言葉を失っている。
「君の足はそう簡単には治るはずがないんだ。正直に言いなさい」
 そこまで言えば、絹香は唇を震わせて怯えた。つかんだ手首までもが震え、その振動を感じた。
「あ……あの、敦貴様……わたし……」
 絹香は赤い唇から呻くような声を漏らす。そして、やはり顔をうつむけた。
 そんな顔をされたら、まるでこっちが脅しているようだ。いや、脅しているのか。彼女にとって、よほど聞かれたくない内容なのだろう。
 敦貴はため息を落とし、彼女の手首を放した。絹香の顔がわずかに上がり、おずおずとこちらを見る。
「もういい」
「申し訳ありません……」
 絹香は声を絞り出した。
 そんな怯えた声で謝らせたかったわけじゃない。しかし、今の自分が彼女にとって脅威なのだと気づけば言葉を諦めるしかなかった。
 敦貴は憤懣(ふんまん)やるかたない気持ちのままその場から離れ、一階の居間へ引っ込んだ。
 彼女といると、煩わしいほどに心がざわつくのだ。いちいち感情に揺れ、彼女の動向ひとつひとつに敏感になる。他人など、どうでもよかったはずなのに。
 出窓に置いた肘掛け椅子に座り、外へ目を向けた。心のざわつきを静めるため、清らかな緑をぼんやりと眺める。すると、道の向こうから白いパラソルがこちらに近づいてきた。
 目を凝らせば、黄色の華やかなワンピースの少女と物腰柔らかそうな着物の老女がこの別荘に歩いてやってくる。来客の予定はなく、この旅行を知っているのは限られた使用人だけのはずだ。
 敦貴は慌てて外に出た。夏の日差しのせいで蜃気楼(しんきろう)でも見ているのかと思った。しかし、そこにあったのは紛れもなく現実だった。
「あ、敦貴さーん! お久しゅうございますー! 沙栄が参りましたよー!」
 ころころと鳴る鈴音のような声を響かせる矢住沙栄がパラソルを持ち上げて登場した。

 沙栄はニコニコと楽しげな笑みで屋敷の中へ入ってきた。お付きのばあやが疲れた様子だったので、米田に紅茶を作らせている。
 居間のソファに敦貴と沙栄、ばあやが向かい合わせで座った。敦貴が暖炉側に座り、部屋全体が見渡せる。すると、二階からようやく絹香が下りてきた。ちょうど沙栄たちが座る方向に階段があり、絹香と目が合う。彼女はこちらの状況を察したように、ゆっくりと上段へ戻っていった。
 そんなヒヤヒヤしたこちらの状況をつゆ知らず、沙栄は愛嬌(あいきょう)を振りまいてくる。
「うふふ。お会いするのはわたくしの誕生日会以来ですね。ちょうど、わたくしもこっちの別荘に滞在しておりまして。ご挨拶に参りましたの」
「そういう時は事前に連絡を入れてほしいところだな。いっさい聞いてないが」
「なんて言うんでしたっけ……あぁ、そうそう〝サプライズ〟ですわ!」
 沙栄が元気よく前のめりになる。敦貴は表情を動かさないよう努めた。沙栄を困らせるということは、自分も困るということ。面倒は避けたい。
 敦貴は話題を変えた。
「髪を切ったのか」
 沙栄はつややかでまっすぐな黒髪を肩の位置で切り、内巻きにしている。先日、会った時は大切に伸ばしていたはずだが、急な様変わりに驚く。
 すると、彼女はあっけらかんと答えた。
「えぇ、わたくしにはこっちの方が楽で。都会的でおしゃれでしょ? うふふふっ」
「……そうか。それはなにより」
 すると、米田がワゴンに紅茶のポットとカップをのせて運んでくる。よどみのない動作で米田は三人分の紅茶を用意した。英国紅茶は沙栄のお気に入りだ。
「ありがとう、米田さん」
 沙栄が微笑みながら言うと、米田は一礼して下がった。
 濃い眉が凛々しく、ほっそりとした顔立ちの沙栄は絹香よりふたつ年下だが幼く見えてしまう。こうして突然押しかけてくることも含み、彼女の自由奔放さに呆れる。
 敦貴は紅茶をひと口含んだ。上品な渋みがあるダージリンは、やはりストレートに限る。気持ちを切り替えるにはうってつけだ。
 味を堪能してから敦貴は、目の前で紅茶にミルクを流している沙栄に訊いた。
「どうして私がここにいると?」
「敦貴さんのお父上から聞きましたわ」
「……そうか」
 敦貴は苦々しく思ったが、顔に出すまいと懸命に努力した。
 確かに休暇を取ると各方面に申告したが、まさか父にまで届いているとは思いもしない。沙栄の恐ろしいところは、なぜか父と親しいところだ。外堀を埋められているようで、ますます気に食わない。
 すると、沙栄がいたずらに笑いながら言った。
「懐かしいですわね……昔、ここで敦貴さんと初めて会った時のことを思い出します」
「そんなこともあったな」
「はい。あれはわたくしがまだ四つくらいのことでしたね。敦貴さんは十三歳でいらっしゃいました。わたくしがあまりにもわがままなものですから、敦貴さんが怒って口をきいてくれなくなって……悲しくて泣きわめいてしまいました」
 そう言って、沙栄は舌を小さく出した。
 敦貴はソファの背にもたれた。思えば、沙栄を泣かせたあの日から、彼女に苦手意識を持ってしまったのかもしれない。今も昔も変わらずにいるつもりだが、やはりあの頃の自分も幼かったのだと認識する。
 そうして懐古にふけると会話が持たず、沙栄が勝手に話題を変えた。
「ねぇ、敦貴さん。いま、御鍵家のお嬢様がいらっしゃるんでしょう?」
 思わず耳を疑う。
「その話は誰から聞いた?」
「敦貴さんのお母上ですわ」
「……そうか」
 敦貴は頭を抱えそうになった。おそらくあの邸で誰かが情報を漏らしているらしいことを把握する。それが誰なのか気になった敦貴は、目線だけで米田に合図した。脇に控えていた米田がすぐに外へ出ていく。東京の長丘家へ戻り、探るように手配した。
 そんなやり取りに構わず、沙栄は好奇心たっぷりにせがんでくる。
「一緒に来ていらっしゃるのですよね? わたくし、ぜひお会いしたくて参ったのですよ」
 そこまで知られているならば隠し立てする方が怪しくなる。敦貴は仕方なくソファから立ち上がった。
「少し待っていてくれ。呼んでくる」
「はい!」
 彼女の元気な声を背にし、敦貴は素早く階段を駆け上がった。
 絹香は二階の部屋でジッと息をひそめていた。そんな彼女に沙栄の相手を頼むのが、わずかに心苦しい。また、先ほど威圧的な態度をとったことが気まずく、まだ顔を合わせたくない。
 深呼吸してノックする。「はい」と声がかかり部屋に入れば、絹香は落ち着き払った様子でこちらを見ていた。微笑をたたえたその面持ちは仕事をするために気合いを入れたようである。
「すまない。沙栄が来た」
「やはりそうなのですね……まさか、こんなことが起きるとは……」
 絹香は物わかりがよく、こちらの状況を把握したように苦笑を浮かべる。敦貴は髪をかき上げ、脱力気味に口を開いた。
「しかももっと悪いことに、君に会いたいそうだ」
「まぁ……それは、想定外ですわね」
 絹香は眉間にシワを寄せて渋面になった。
「あぁ。なんでも、うちの母から君のことを聞いたらしい。この情報を漏らしたやつが長丘家にいる。だが、沙栄の様子からして、君が私の恋人役であることは知らなそうだ」
「では、わたしはどうしたらよいのでしょう?」
「おそらく話し相手でも欲しいんだろう。この別荘に泊まらせることはないから、適当に話を合わせてくれないか」
 すると、絹香は両目を細めて静かに言った。
「承知しました」
 絹香はすっと立ち上がり、表情を強張らせた。感情を押し込めて従順に尽くしてくれるのはありがたいが、彼女の心が見えなくなるとこちらが困ってしまう。
 敦貴は悟った。今、自分は人生で一番気が動転していると。

 ***

 矢住沙栄とはどんな人物か。
 絹香は先ほどあった敦貴との出来事をいったん、頭の中から放り出して務めを果たそうと居間へ向かった。
 黄色のワンピースに、ふわふわと愛らしい短い内巻きの髪型をした少女がいる。
 彼女は振り返って絹香を見た。そしてキラキラと好奇心旺盛に目を輝かせ、立ち上がるや否や駆け寄ってきた。
「絹香さーん! お会いしたかったです!」
 大きく両手を広げて絹香を包み込むように抱きしめる。
「あ、あの……!?」
「ハグです、ハグ! きゃー! 本当にお人形さんみたいにかわいらしい人!」
 あまりのはしゃぎぶりに絹香は思わず敦貴を見たが、助けてくれそうになかった。米田もいない。
「初めまして、矢住沙栄です。お話に聞いていたとおりの人でよかったわ。わたくし、長丘家の方に聞いたんですの。御鍵家のお嬢様が敦貴さんの元で花嫁修業をなさってるって。ぜひともお話がしたかったんです!」
 ペラペラとなめらかに話をする沙栄に、絹香はなんと答えたらよいか困った。気の利いた言葉も思いつかず、ただただ口の端を持ち上げて愛想笑いするしかない。
「そう、なんですか……お会いできて光栄です、沙栄様」
「やだ、沙栄様だなんて。〝沙栄ちゃん〟って呼んでくださいな。わたくしも〝絹香ちゃん〟ってお呼びしますね。うふふふっ」
「それは……あの、えーっと」
 ここは従うべきか。敦貴を見ると、彼は能面さながらの無表情を貫いていた。なにを考えているのかさっぱりわからない。
 絹香は渋々「沙栄様」とは呼ばずに「沙栄さん」と呼ぶことにした。一方で沙栄は勝手に「絹香ちゃん」と呼ぶので任せるしかない。
 沙栄は絹香をソファに座らせて、ばあやと共におしゃべりを始めた。同時に、敦貴はまるで影のようにひっそりと気配を消す。
 ──なんて人……。
 絹香は心の中で盛大に嘆いた。敦貴の非情さが恨めしい。
 話には聞いていたが、この矢住沙栄という人物は確かにかわいいものが好物であるかのような、ふわふわと夢見がちな花の乙女だった。最初はなにか企みがあって、絹香を探っているのかと思っていたが、そんな素振りはいっさいない。疑うことを知らぬ純真無垢(むく)そのものである。
 彼女は好きな菓子や物語などの話題を振ってきた。
「ワッフル、ご存知? あ、知ってるのね! おいしいわよねぇ、癖になっちゃいそう。もちろん、おまんじゅうも大好きよ。でも、(あん)が重たくって、何個も食べられないじゃない?」
 そういえば、彼女は御鍵家と同じく貿易会社の娘だ。幼い頃から西洋文化に敏感で、こういった話をする機会に飢えていたのかもしれない。
 それから外国土産の話が続き、沙栄はとくに西洋のおとぎ話が大好物らしかった。サンドリヨンや人魚姫などは絹香も一時期、憧れたので懐かしくなる。なんとなく話を合わせていると、沙栄の勢いに拍車がかかった。同志を見つけたとばかりにはしゃいでくれる。
「あぁ、やっぱり同じだわ。ほら、ばあや、言ったでしょう。絹香ちゃんはわたくしととても相性がいいのよ。絶対にそうだと思ってたわ」
 興奮気味に話す沙栄に、ばあやは淑やかに「そうですわね」とうなずく。絹香は照れ隠しに笑った。
「絹香ちゃん、笑うととても美しいわ。あぁ、素敵。もっと笑ってほしいな」
 その期待には応えられない。絹香は袖で口元を隠した。
 自分では意識していなかったのだが、人見知りのようだ。いや、沙栄のような女性に出会ったことがないからではないか。だが、それもしっくりこない。
 絹香は遠く離れた記憶を掘り起こした。
 沙栄は亡くなった母によく似ている。奇妙な安心感と戸惑いはおそらくそのせいだろう。
 懐かしさで鼻の奥がうずく。それを悟られまいと、必死に心を押し殺していた。

 それから、沙栄は敦貴との婚姻のことや敦貴との思い出を語って聞かせてくれた。そのほとんどが米田から聞いていたものや彼との文通で知ったことばかりだった。
 やはり敦貴は素顔や本心を誰かに見せたがらない性格らしいことが読み取れる。
 彼女が繰り出す言葉の端々に、敦貴への尊敬と好意がにじみ出ていた。熱烈な恋心を抱いていると確信する。
「敦貴さんはおとぎ話の王子様みたいなの。とても素敵な方でしょう? 優秀で地位もおありで、女の子の憧れですわ。そう思いますでしょう?」
 彼女は何度もそう言うが、絹香は敦貴が〝王子様〟だとは思えなかった。
 確かに敦貴はおとぎ話の王子のように美しい。だがその実、他人の心を読んで先回りし、相手の口を塞ぐ悪癖の持ち主である。意地悪とでも言うのだろうか。
 絹香はそう解釈している。それとも、敦貴は沙栄のことを本当に大事に想っていて、沙栄だけに素顔を見せているのかもしれない。
 そう考えると、自分の存在がいかにも使用人と同じ身分であるということがまざまざと思い知らされた。
 ──わたし、なんでがっかりしているのかしら。
 買い物や旅行に連れていってもらっただけで、何度も助けてもらっただけで、自惚(うぬぼ)れてしまっていたのかもしれない。律していたつもりが、いつの間にか隙だらけだったことに気がつく。
「絹香ちゃん?」
 ハッと顔を上げる。沙栄が心配そうに見ていた。いつの間にかどんよりと表情を曇らせていたようだ。
 すると、ようやく背後から敦貴が現れた。
「昼寝をしていた。君たち、随分と打ち解けているようだな」
「あら、敦貴さん! 聞いてください。わたくし、絹香ちゃんと仲良くなりましたよ!」
「そうか。それはなにより」
 そっけない態度なのは相変わらずだ。それでも沙栄は気に留めることなく話を続けようと口を開く。しかし、それは敦貴によって遮られた。
「もうすぐ夜だ。沙栄、別荘まで送ろう」
「えぇっ? もう!? まだお話したいことがたくさんあるんですのよ」
「ダメだ。父上に叱られても知らないぞ」
「それは困ります! はぁ……仕方ないですわね……絹香ちゃん、またおしゃべりに付き合ってね」
 敦貴に背中を押されながらも、沙栄は絹香に振り返って言った。畳んだパラソルを小さく振ってくる。
 その笑顔が憎めないから困る。絹香は小さく手を振り返した。沙栄の声は夕焼けの中でもよく通り、背中が見えなくなるまでなかなか気が抜けなかった。
 どうやら歩いていける距離に泊まっているらしく、敦貴が沙栄に寄り添って歩いていく。それを見届けて、絹香はソファにしなだれかかった。
 どっと疲れがあふれていく。こんなに気を張る一日は久しぶりだ。御鍵家での日々よりも格段に楽だが、別の緊張感がある。しばらく呆けたように天井を眺めて、沙栄との時間を思い返した。
 親しみやすく、男性へ素直に甘えられるかわいい女性(ひと)。きっと、世の男性は明朗快活な女性を好ましく思うはずで、沙栄はすべてを兼ね備えている。確かに敦貴と正反対な性格だが、それゆえに大事にしなければと気にかけているのも無理はない。ただ、一日相手をすると疲れてしまうことは身に()みてわかった。
「明日も来られたら身がもたないわ……」
 そうしてひとりごとを天井に投げていると、ほどなくして敦貴が戻ってきた。
「安心しろ。沙栄は明日東京に戻るそうだ」
 聞いていたのだろうか。思わず身構える。
 しかし、敦貴はなに食わぬ様子で絹香の前に座った。その顔は、夜に見せる時のような無気力なゆるみがある。
「悪かった。急にこんなことを頼んで」
 また心を読んだのかと思ったが、あまりにも素直な謝罪だったので驚いてしまう。
「沙栄は、ああして一日中ずっとしゃべっている。そのどれもが脈絡ないもので、予測不可能。対応が難しい」
「でも、未来の奥様でしょう? 避けては通れない道ですよ」
「あぁ。だから、君で慣れようとしているんだ。そもそも、女性と長時間過ごすというのは、私にとって苦難でしかない」
 敦貴は肘掛けに腕を立て、疲れたように顎をのせた。絹香をジッと見つめている。対し、絹香はなんと言えばよいかわからず、目のやり場に困っていた。
「……君はおとなしくて可憐だな」
 ふと、敦貴が呟いた。
「沙栄みたいにおしゃべりじゃなく、静かで落ち着きがある。隠しごとは多いようだがな」
「昼間のこと、怒ってらっしゃいますか?」
「いいや。ただ、気になってはいる」
 敦貴はそっけなく答えた。
 あの時、彼は真に迫る様子で絹香に問いかけた。
 足の怪我が治っていることに、敦貴が不審を抱かないはずがない。迂闊だった。どうにかこの異能を悟られない方法はないものだろうか。
 考えていると、敦貴が眠そうに窓の外を眺めていた。橙色(だいだいいろ)の太陽が差し込んでくる。(かげ)る横顔が気だるげで、なにを考えているかわからない。その横顔に不覚にも見惚れてしまう。
 一瞬、彼の頬に触れたいと思ってしまった。そんな(よこしま)な思いをすぐにかき消すと、敦貴が視線だけをこちらに向けた。
「絹香」
「はい……」
「恋慕とは、なんなのだろう?」
 敦貴の問いに、絹香はなにも答えられない。ほんの一ヶ月前は偉そうに誰かの恋物語を語っていたが、なんだかわからなくなってくる。
 恋慕とはどんなものなのだろう。これをもし恋だというのなら、確実に危ない橋を渡っている。自覚したら戻れない。だから、絶対に認めるわけにはいかない。
 彼を好きになってはいけないのだ。彼の仕草にいちいち感情を乱すのはよくない。
 絹香は平常心を心がけた。それが返答に迷っていると捉えられたのか、彼はため息をついて目を閉じた。絹香もただ座って太陽の傾きを眺め続ける。
 そんなゆるやかな時間が終わるのは、それから数分後のことだった。
「……食事にしよう。そろそろ米田も帰る頃だ」
 そういえば、米田の姿を随分と見かけていない。
「米田さんはどちらへ?」
「彼には仕事を頼んだ。沙栄に絹香のことを漏らした者を探っている」
「そうだったんですね……確かに、わたしなんかのことを長丘家の外へ知られたら一大事ですわ」
「まぁ、それもあるが。その前に君の身の安全を確保しないといけないだろう。私のわがままで付き合ってもらっているのだから、全力で君を守りたい」
 敦貴の無感情な声が強い言葉を放ち、絹香は困った。ここで頬を染めたらいけないとわかってはいても、心臓がトクンと音を鳴らして体温が上昇する。
「絹香、顔が赤いぞ。熱でもあるのか」
「違います! もう、敦貴様ってば、そういうことを平気でおっしゃるのですね。心臓が持ちませんわ」
 絹香は顔を覆った。しかし敦貴には不可解だったらしく、真剣な表情で訊いてくる。
「どういう意味だ?」
「それは……」
「私のせいか」
 なおも真剣な調子の敦貴である。絹香はたまらず早口で噛みついた。
「そうです。敦貴様のせいです。あなたのような殿方は路傍に咲く雑草に、無償で厚意を振りまいてはなりません」
 チラリと見上げると、敦貴が口元に手を当てていた。困ったように眉をひそめている。
「礼儀だと思っていたんだが、いけないことだったのか……」
「いえ、いけないことではないんですけれど。敦貴様は乙女の心をわしづかみにする力を持っています。自覚なさった方がよろしいかと」
 ──勘違いしてしまいますから。
 なんとか濁そうとするも、敦貴は生真面目に思案していた。そして涼やかに訊く。
「ふむ。それは、つまり君も私に惚れているということかな?」
「……っ!」
 絹香は頬から蒸気が出そうになるほど熱くなった。
 すると、敦貴の細い目が大きく開いた。しばらくふたりで見つめ合っていたが、いたたまれなくなった絹香はソファから下りた。
「食事の支度はわたしがします!」
 そう宣言し、台所へ飛び込む。
 彼の驚いた顔がわずかに赤らんでいた。それが意外で、とても愛しく感じる。
 ──どうして、そんな顔をするの?
 胸の奥がぎゅっと切なくなり、絹香は台所の壁をパタパタ叩いた。
 翌日、朝食の席で敦貴の表情が柔らかいことに気がついたらしく、米田が日本茶を用意しながら訊ねた。
「なにかよい兆しでもありましたか」
「いや、どうだろう。絹香の作る料理が思いのほかうまかったことくらいか。魚の焼き具合が絶妙だった……いや、とくに兆しはないな」
「それくらいの(たわむ)れでよいのではありませんか」
 敦貴は鼻を鳴らした。新聞を開いて目を落としたが、ページはいっさい動かない。すると米田は咳払いし、ひそやかに声を低めて言った。
「ところで、ご報告差し上げてもよろしいでしょうか」
「なにかわかったか」
 途端に敦貴は新聞をサッと下ろして訊く。米田は表情を変えずに低い声で淡々と答えた。
「沙栄様と接触した侍女が三名おりました。池野(いけの)初美(はつみ)友永(ともなが)ゐぬ、馬場(ばば)恒子。沙栄様が訪問された際、かの者たちが身の回りのお世話をしています」
「ほう」
 敦貴は三人の侍女を思い浮かべた。
 全員、長丘家では長く勤めており、仕事の質も高い。沙栄の相手をするには申し分ないが、この中で口が軽いと言えば初美か恒子だろうなとすぐに思い当たる。
 ゐぬは女性にしては寡黙で、誰とも打ち解けない性格である。以前も、腰を痛めたことを申告しなかった。
「では、初美と恒子を見張れ。どちらかふたりが私たちの関係を探っている可能性がある。いや、もうすでに嗅ぎつけていて、なにか行動を起こしているやもしれん」
「はぁ……まさか。そんなこと」
 米田は釈然としないような返事をした。長年共に働いた同僚を疑うのは良心が痛むのだろう。しかし、敦貴はそんな情を持ち合わせることはなく冷淡だった。
「お前もどうだかわからんからな……」
 敦貴はふっと笑みを浮かべた。米田は頬を引きつらせ、隠れるように視線を落とす。
「敦貴様のご性分は承知しているつもりです。では引き続き、調査をしてまいります」
「あぁ、頼む」
 米田は一礼して居間を出た。
 ひとりきりで過ごすのは清々しいのだが、なにをしたらよいかわからなくなる。読書をするのも結構だが、今は〝恋人〟の絹香のことを考える方がよいのではないか。
 絹香は、沙栄の見送りに朝早くから矢住邸へ出かけていった。行かなくてよいと言ったにもかかわらず、律儀に出かける彼女の後ろ姿を脳裏に思い起こす。そろそろ戻るだろうか。
 そういえば、絹香との文通が途絶えたままだったことに気がついた。
 絹香のことが知りたい。それは、ただの好奇心か、それとも──。
「はっ、恋慕なものか」
 自身の考えを一蹴した敦貴は素早く新聞を畳み、茶を飲み干して自室へ向かった。適当な本と手ぬぐいを持ち出して外に出る。
「どちらへ?」
 庭掃除をしていた米田が不審そうに声をかけてきた。
「西の湖畔に行く。後で飲み物を持ってきてくれ」
 それだけ告げると、敦貴は絹香の帰りを待たずにさっさと森の中へ消えた。

 ***

 改めて挨拶でもと伺ったものの、矢住邸でのもてなしに動揺を隠せない絹香は、やはり肩身が狭かった。見送りに来ただけだというのに紅茶とワッフルを振る舞われるとは思わず、大きく豪奢な吹き抜けの居間の中心でぼんやり座っていた。それだけなのに必要以上に疲れる。
 敦貴との関係が潔白であるにもかかわらず、天真爛漫(てんしんらんまん)で人を疑うことを知らぬ少女の相手をするのは大変だった。とにかく早く矢住邸から出ていきたい。行かなくてよいと引き止めてくれた敦貴の言葉に従えばよかったと後悔する。
 だが、それを察するわけがない沙栄である。
「んもう、今日戻るんじゃなかったら、絹香ちゃんと一緒に遊びたかったのになぁ。ねぇ、今度はゆっくり遊びに行きましょ。ほら、東京駅ができたじゃない。外観がとても立派ですごいらしいわよ。あなた、もう見たことあるかしら」
「いいえ、まだ見たことは……」
「だったら行きましょうよ! 百貨店もあるし、お買い物に行きたいわ。あそこのパーラーはご存知?」
「えぇ、そこでしたら、敦貴様と……」
 そこまで言いかけて絹香は口をつぐむ。余計なことをしゃべってしまいそうだ。幸いにも、沙栄は気づいていない様子だった。声が小さくてよかったと心から思う。
「沙栄、そろそろ出ますよ」
 玄関から沙栄の母親らしき声が聞こえる。
「はーい! ごめんね、絹香ちゃん。お見送りありがとう」
「えぇ」
 一緒に玄関を出て、沙栄が乗り込む車まで近寄る。父と母は別の車に乗って先に出たようだ。沙栄はばあやと共に車に乗り込み、絹香の手を握ったままでいる。
「また会いましょうね。きっとよ。わたくし、長丘家に遊びに行くから。約束ね」
 そう言って、彼女はかわいらしい小さな小指を立てた。戸惑う絹香の手を取り、小指を絡ませる。
「指切りげんまん」
 沙栄は笑顔で言った。ちょうどよいところで、蒸気自動車が煙を吹かす。沙栄が指を離し、絹香はさっと後ずさった。
「それじゃあ、絹香ちゃん、ごきげんよう!」
 元気よく手を振る沙栄。車は煙を吐きながら絹香を置き去りにしていく。
 だが、沙栄の手だけは一向に消えてくれない。明るい黄緑の道をどんどん過ぎていき、曲がり角へ差しかかるまで沙栄は絹香に手を振り続けていた。
 絹香は言い知れぬ奇妙な高揚感があった。友人との約束なんて、何年ぶりだろう。それに、なんの悪意もなく無邪気に人と接するのも久しぶりだった。
 おそらく、彼女の前では顔色をうかがわなくてもいいのだろう。自然体でいられたらとても楽しいはず。
 しかし、敦貴と交わしたものの重たさのせいで心に鍵がかかったままだった。
 なんのしがらみもない友人関係になれたらどんなに楽しいだろう。それも叶わぬ望みだ。
「わたしも、沙栄さんみたいになれたらいいのに」
 絹香はしばらく豪邸の前でぽつんと(たたず)んで、ため息をこぼした。

 それからは、トボトボとひとりで歩いていた。徒歩二十分ほどで別荘へたどり着けるが、なんとなく近辺を散策してみる。しばらくひとりきりで風に当たっていたかった。
 手入れが行き届いたあぜ道は潮風が通り抜けていき、頬や首元をほどよく冷ましてくれる。小川が近いのか、耳をすますと清らかなせせらぎが聞こえた。見渡せば、青カエデの小さな葉があちこちにある。
 絹香は下駄をカラコロ鳴らしながら小道を抜けた。地面は固いが、どんどん海に近づくにつれてサラサラとした白砂へと変わっていく。
 分かれ道に出た。一方は狭い道、もう一方は大通りへ続く道。どちらへ行っても帰れるのだが、行きに使ったのが大通りだったので、今度は狭い道を選んだ。
 青カエデが続く細道はなんだか不思議な世界への入り口のよう。
 しばらく林道が続き、滑らないように用心深く、けれどはやる心に従って行くと唐突に開けた場所へ抜けた。
 突然の青い天空と小さな湖畔。平べったい蓮の葉があり、立派な花も開いている。岸の向こう側にある丸テーブルとパラソルへ目が行く。手ぬぐいを敷いた椅子に座っているのは敦貴だった。
 絹香はすぐさま周囲を見渡した。まさかこんなところで遭遇するとは思いもしない。
 岸をぐるりと回れば、すぐにたどり着ける。風に煽られ、絹香は彼のそばまで近づいた。開きっぱなしの本を胸に置いて居眠りしている。ここへ来てからの敦貴は疲れて帰ってきた後のように気が緩んでおり無防備だ。
「本当にお疲れなのね……」
 絹香はジッと彼の顔を覗き込んでみた。こめかみが汗ばんでいるので、持っていたハンカチーフで拭う。
 彼の寝顔は何度も見ているが、こんなにのどかで美しい場所で眠る姿も実に麗しいと思う。
「なにを見ている」
 目をつむったまま、彼の口がそう動いた。
「お、起きてらっしゃったんですか……」
「そう深く寝入っていたわけじゃない」
 敦貴は眩しそうに薄く目を開けた。そして、絹香の腕をぐいっとつかむ。突然の行動に身構えることができず、絹香はなすがまま体勢を崩した。
「少し付き合え」
 一方で彼は躊躇(ちゅうちょ)なく絹香を自分の膝の上に乗せた。絹香はまるで西洋人形のように彼の両膝の上に座っている。突然のことで絹香はなにも反応できずに固まった。
「あ、あの、付き合えとは、どういう意味でございますか?」
「ただここに座っていればいい。椅子はひとつきりだから」
「そんな……わたし、重いので、敦貴様のお膝に乗るだなんて」
「黙れ」
 有無を言わさない短い言葉に、絹香は渋々従った。顔を見ることなんかできない。しかし、横顔が近い。
「近くにいれば少しは緊張感が出るかと思ったんだが……あまり感じないな」
 どうやら敦貴は真剣に自分の恋心を試していたらしい。絹香にとってはいい迷惑であるが、それが仕事なので反論も拒否もできなかった。
 ちなみに、こちらは心臓がバクバクとうるさい。この音が彼に届いたら嫌だ。しかし、つかまれた腕から脈拍が伝わったらしく、敦貴が不審そうに訊いた。
「君が緊張してどうするんだ」
「だ、だって! こんなことされたら、誰だってびっくりします!」
「沙栄もそうだと?」
「……はい」
 ここで沙栄の名が出てくるとは思わず、絹香はわずかに怯む。
「私はそうは思わないな……沙栄なら、喜んで飛びついてきそうだ」
 その見解はおおむね正解だろう。彼の分析に絹香はすんなり納得できた。「ですね」と答えるのが精一杯で会話が続かない。頭の中で「これは仕事」と言い聞かせていると、敦貴が椅子の背にもたれた。
「君は私の理想だ」
「はぁ……理想、ですか?」
「あぁ」
 敦貴は穏やかにうなずいた。それはなんだか、部下を気遣うような調子だった。
「と、言いますと?」
静謐(せいひつ)で優雅で、手を焼くほどのわがままではないし、従順でよい」
 褒めているのかけなしているのかわからない。恋人ではなく例えば秘書や侍女であれば褒め言葉になるのだろう。彼の言葉に心がないからこそ臨場感がない。
 絹香は自身の心が曇っていくのを感じた。いけないとわかっていつつ、思いに反して心は正直だった。
「つまり、わたしは人形のようですか?」
「なに?」
 それまで柔らかだった敦貴の声が鋭さを帯びる。絹香は顔をうつむけることに徹した。
「なんでもありません」
「君を人形だと思ったことはないが……そう聞こえたか?」
 至近距離だから、絹香の呟きも敦貴の耳にしっかり届いていた。たまらなく恥ずかしい。
「申し訳ありません」
 言葉が見つからず、それだけ返した。
 大事にされている。しかし、それは愛情ではない。宝石や金銭を愛でるような感覚なのではないか。そんな卑屈さを見せてしまったことがひどく情けない。どんどん自分が醜いものになっていることを改めて感じた。
 敦貴はなにも言わなかった。彼が「そろそろ帰ろうか」と呟くまで、なんとなくそのままでいた。
 物言わぬ人形でいることを務めるかのように。それもなんだか彼への当てつけではないかと、絹香はますます自身を責めていく。そして、脳内は欲望でどんよりと渦巻いていた。
 沙栄のようになりたい。軽い羽のような人になりたい。誰にでも選ばれる存在になりたい。愛される人になりたい。だけどそんな願いは、ひとつも叶わない。
 敦貴に見えない場所でそっと自嘲した。

 今日の夕食は米田の手料理だった。絹香も食事の支度を手伝ったので、いくらか早く済ませることができた。
 デザートのメロンがとてもみずみずしく、優しい甘さに驚いた。少しだけ心が軽くなるも、夕食の後はひとりでひっそり展望台にのぼる。
 夜風が気持ちよく、静かな波音を耳に取り入れる。濃紺の景色は境界がなく、海と空が一体となっていた。遠くを見やれば、キラキラと宝石のような星がまたたいている。月のない空は、星が綺麗だ。
 北へ目を向ければちぎれた綿雲があったが、南はすっきりと晴れ渡っていた。星と星を結べば星座となるらしいがそこまでの知識がなく、ただぼんやりとバルコニーの手すりにもたれて眺める。
 すると、背後から誰かが階段を上がってくる音がした。振り返ると、ランプを持った敦貴がいた。
「あぁ、こんなところにいたのか」
「すみません。夜風に当たりたくて」
「ひとりにしてほしかった、とでも言いたげな顔をしているぞ」
 そう冷やかしながら彼はランプを掲げた。
「心を読まないでください」
「その言葉もそろそろ聞き飽きたな」
 昼間のことがあったのに、彼は意外にも親しげだ。夕食に葡萄酒(ぶどうしゅ)を飲んだからか少し酔っているのかもしれない。
 敦貴は断りも入れずに絹香の横に立った。ランプの火を消せば、再び真っ暗な世界へと戻る。しかし、徐々に闇に慣れたらお互いの顔もわかる。
「この場所で、私は初めて孤独を知った」
 ふと、敦貴が語る。その言葉があまりに突然だったので、絹香はすぐに反応できなかった。しかし、彼はまるで星に語りかけるかのように淡々と話をする。
「十三歳だった。親に決められた許嫁と初めて会ったのがここだ。沙栄はまだ四歳で、こんな赤ん坊のような子供とそのうち結婚しなくてはいけないのだと命令された。私は子爵家の跡取りであり、結婚する相手を勝手に選ばれることも承知であり、むしろ清々した」
 少し言葉を切って、敦貴は気だるげにあくびをした。それが場の緊張感をほぐしていき、絹香はとにかく静かに息をひそめて続きを待つ。
「でも沙栄を見ていると、自分がそれまで育った環境の異様さに気づかされた。当たり前のように両親と手をつないで歩き、母親に抱かれたり、父親に頭を撫でられたり、わがままを言って泣いても怒られない。そればかりか、彼女が泣けば周囲が大わらわで、とにかく拍子抜けしたものだ」
 そして、彼は絹香をチラリと見た。目が合った瞬間、敦貴は自嘲気味な笑いを飛ばす。
「知らなくていい世界を知った。生まれてすぐ、両親から引き離されて育ったから、ああして無邪気に近づいてもよい存在なのだと知らなかったんだ。そして、私は愛されていないのだと悟った」
「そんな……」
 敦貴の憂わしげな声に、絹香は胸の奥が切なくなった。なんと慰めたらよいか必死に考える。その間にも彼の独白は続く。
「だから知りたいんだ。愛情とはなんだ? 大事にされてかわいがられるのが愛情か? なに不自由なく生活できているのだから不満はないが、なにかが足りない。それが愛情ではないか……なんて、つまらぬことを考えるようになった」
「それは、つまらないものではありませんよ」
 絹香は思わず口を挟んだ。なんだか涙が出そうになった。しかし、ここで泣くべきは自分ではない。声が震えないように努める。
「つまらなくありません。当然の感情です」
「そうかな。私にはよくわからない。どんなに複雑な理論を理解しても、この不条理とも言うべき愛情は読み解けないんだ。そして、私が抱いた疑念が正当なものかどうかも」
「正当です。愛されたいと願うことに意味なんかありません。誰だって愛されたいと願うものです」
 そうでなければ報われない。彼の孤独のすべてを知ったつもりではないが、これだけは声を大にして言える。
 すると、敦貴は小さく噴き出した。
「いつになく強気だな……今はもうわかっているんだ。両親がどうしてそばにいなかったのか、どうして私をそんなふうに育てたのかも。ただ、沙栄と結婚するためには、この不条理と向き合わなければいけない。私は、両親と同じ(てつ)を踏むわけにはいかない」
 敦貴の静かで穏やかな声は、まるで絹香を慰めるようだった。
 絹香は夜闇にまぎれて目尻の涙をさっと拭った。感情が胸中でぐるぐると渦巻き、自分本意な思いが込み上げてくる。
「……わたしは、愛されたかったんです」
 自然と呟いていた。敦貴を見ずに、星に語りかけるように彼の独白を真似してみる。
「両親が亡くなるまで、わたしは愛されていました。とてもとても厚くて大きなお布団のように、ずっとわたしを包んでくれるのだと信じて疑いませんでした。でも、そんな毎日は続かず……そして、わたしは……人形になりました」
 御鍵家のために心を殺した。傷を癒やす異能のように心をごまかしてきた。
「最初は愛されようと努力しました。でも、うまくいかなかったのです。あまりにも落差のある生活が最初のうちはつらいものでしたが、毎日続けば心が麻痺(まひ)していって……」
 もう考えたくないと、ある日突然そう決めた。
 考えることをやめた後は楽だった。
「そもそもわたしは醜い生き物だから、愛されるわけがないんです」
 異能を持つがゆえに自分は醜く、弱く、ただ息をして生きるだけの傀儡(かいらい)である。そんなことを再認識し、絹香は嘆息した。手をぎゅっと握って力をこめれば、涙をこらえることができる。
「君が醜いと言ったそいつは目が節穴なんじゃないか」
 敦貴の声にはわずかに苛立ちが含まれていた。それが意外に思え、絹香は苦笑した。
「敦貴様はわたしのことを買いかぶっておられます。わたしは普通ではありません。非常識な存在なんです」
「それ以上は言うな。次、そんなことを言ったら怒るぞ」
 絹香はすぐに口をつぐんだ。敦貴をチラリと見ると、彼はまっすぐに星空へ目を向けていた。その横顔は怒っているように思えないが、優しさは十分に感じられた。
 敦貴は感情表現が下手なだけだ。そして、自分の持つコンプレックスを沙栄との結婚に持ち込みたくない。そういうことなんだろう。
「敦貴様はもう十分に沙栄さんのことを愛してらっしゃいますよ」
 絹香はきっぱりと告げた。こんなにも尽くそうと努力している敦貴の心をようやく見られた気がして悔しい反面、嬉しかった。
「そうだろうか? 私には手応えがないんだが」
 敦貴はもどかしげな声を漏らした。そんな彼に、絹香は優しく真剣に答える。
「愛情は目に見えぬものですから、手応えなんかありません。相手のことを案じ、思いやる御心があれば、それは立派な恋慕でしょう」
「では、私は沙栄を愛していけると思うか?」
 敦貴が訊く。なんだか子供の問いのようだが、絹香は毅然と答えた。
「えぇ、もちろん。ですから、その御心を忘れずにいてください。昔抱いた愛情への疑念も。愛情も麻痺しますので、お気をつけくださいませ」
「ふむ……難しいものだな」
「えぇ。とても難しいでしょう。でも、きっと沙栄さんのことが愛しくなりますよ。離れがたくなり、やがては心を通わせられます。だって、わたしにこうしてすべてを話してくださいましたし」
「そうか」
 敦貴は深くうなずいた。
「そうだったらいいんだがな……」
「大丈夫ですよ。沙栄さんは素晴らしい方です。きっと、敦貴様のそのぶっきらぼうなところも許して笑ってくださいます」
「なるほど。君は私をそう見ているわけだ」
 敦貴の不満げな声に、絹香は思わずおどけて笑う。すると、敦貴も噴き出した。夜空の下ではお互い素直になれた気がする。
 しばらく、ゆるりとした時間がふたりの間を流れた。波音が聞こえる。
「君は醜くなんかないさ」
 やがて彼は絹香の柔らかい髪をそっと()いてささやく。
「こんなに聡明(そうめい)で慈しみ深い女が醜いわけがない。それに、やはり君は美しいから」
 絹香は少し後ずさった。彼の言葉に心が揺れそうになり、礼を述べることもできなかった。
 敦貴の言葉はいつも突拍子なく飛び出してくるから心構えができない。喉から手が出るほど欲した言葉をいとも簡単に紡ぐので、つい甘えたくなってしまう。
 そんな自分を叱咤(しった)するべく、絹香は自身の頬をつねった。

 ***

 同刻。長丘邸は束の間の夏休みが入り、邸の使用人のほとんどが休暇に出ていた。主の留守を任されたのは、侍女の中でも長く勤める初美とゐぬ、数名の秘書などで、恒子は一週間の休みをもらうことになっている。
 だが彼女は故郷には帰らず、横濱に滞在していた。絹香の登場により長丘家での仕事に嫌気が差していた恒子は、誰にも相談せず次の勤め先を探している。
 電車に乗って市街地へ。石油会社が立ち並ぶその一角をうろうろとさまよう。
 ここは異国人が多い。初めて来る場所ゆえに気後れし、歩道のベンチに座ろうと向かうと、大橋で佇む素朴な顔立ちの青年と目が合った。ハンチングに(はかま)という格好が(あか)抜けない。その顔に見覚えが──古い記憶を手繰り寄せる。
「行人坊っちゃん?」
 思わず声をかけると、青年はハンチングの下から怪訝な目を向けてきた。
「どちらさん?」
「ほら、昔、お家で働かせていただいてた恒子です。覚えてます? あぁ、でも坊っちゃんはまだお小さかったから覚えてないでしょうね」
 行人は疑心の目を解き、すぐに笑顔を咲かせた。
「あぁ……あの、恒子ねえさんか。久しぶり。元気にしてた?」
 恒子は昔、長丘邸で働く前──うら若き十代の頃に彼の子守役として働いていた。行人が小学校へ上がった頃に役目を終え、長丘邸へ迎えられたのである。実に十年ほどぶりの再会だった。
「まさかこんなところでお会いできるとは思いもしませんでした……懐かしいですねぇ。ご立派になられて」
「まだまだだよ。僕なんて、全然ダメなんだ。今は家が傾いてさ、おまけに浪人して、会社社長の邸宅で書生をしてるんだよ。笑っちゃうだろ」
 行人は自嘲気味に笑い、肩をすくめた。その仕草に、恒子は気の抜けた声で「はぁ」と答える。
「そんなことがおありだったんですか」
「不景気なものさ。厄介になっている邸も、今はだいぶ立て直しているけれど、羽振りはよくないよね。それに、その家のお嬢さんが家出しちゃって。大変なんだ」
「まぁまぁ、それはそれは……坊っちゃんもご苦労なさってるんですねぇ」
『家出したお嬢さん』という言葉に既視感を覚え、なんとなく予感した。もしかすると、彼がなにかを握っているような。
「ところで、そこのお嬢さんというのは?」
「あぁ、御鍵家のお嬢さんだよ。知ってる? そこそこ大きな貿易会社の。この近くに邸があるんだけどさ。東京の華族様のところで花嫁修業しているんだよ」
 彼の顔が曇る。恒子はその瞬間を見逃さず、行人を覗き込むようにして訊いた。
「そのお嬢さんを探してらっしゃるのです?」
「あぁ、うん。まぁ……」
 言葉を濁す行人の表情に、迷いを読み取った。そして、その御鍵家の令嬢に特別な感情を抱いているらしいことも。子守をしていた経験からすぐにわかった。
 しかし、御鍵絹香を知っていることを行人に知れるのはまずい。恒子はこちらの思惑を悟られないように細心の注意を払った。
「坊っちゃんも隅に置けませんねぇ。そのお嬢さんのことを好いてらっしゃるようで」
「バカ言わないでくれ。身分違いだよ」
「それにしては未練がおありのようです。会いたくて会いたくてしょうがないといったような……哀れですわ」
 行人は唇を噛んだ。煽りすぎただろうか。うぶな青年の恋路を茶化したくなるのは相手が絹香だからではなく、ただただ単純に高揚していた。
 恒子の中で、絹香に対する評価は今のところはかなり低い。たかが着替えの手伝いさえも誰にだって敦貴の世話役を譲りたくなかった。敦貴からの要求は面倒だが、そんな彼にも信用されているのだという誇りがある。自分の役目を奪ったのが許せない。
 夜、ふたりがなにをしているのかわからないが、とても怪しく思っていたところだ。絹香がまさか家出をして長丘邸に転がり込んでいたとは。ますます疑わしくなり、悪知恵が働く。
「坊っちゃん、これもなにかのご縁です。この恒子に話してみてはどうです? そうすれば少しは心がさっぱりするでしょう」
 ひと押しすれば、彼はつらそうな表情を恒子に向けた。恥ずかしそうにするかと思いきや、行人は気まずそうに口の端を曲げる。肩を落としてため息をついた。
「僕、ひどいことを言ったんだ。それで、彼女が怒ってしまって……こんな家出、すぐに終わると思ってたんだ。旦那様も絹香さんをすぐに連れ戻すだろうって」
 行人は顔を覆ってため息をついた。その背中を恒子は労るようにさする。
「やっぱり華族には逆らえないものだよ……本当に憎たらしい。金のあるやつって、どうしてあんなに傲慢なんだろう。なんでもかんでも我が物顔でぶんどるんだ」
「まぁ……とても大変な思いをなさってるんですね。健気です」
「ありがとう。でも、僕はやっぱりなんにもできないんだ。彼女が旦那様から蔑まれていてもね。彼女と婚姻でもすれば少しは状況も変わるかなぁと思ってたんだけれど……それも難しそうだな」
 なにやら含むように言う。純朴な顔立ちの彼には不似合いな冷笑が、わずかに寒気を感じさせる。
 いったい、御鍵家でなにがあったのだろう。もう少し詳しく話を聞きたいところだ。
 しかし、これ以上踏み込むと、行人が不審を抱きかねない。
「ねぇ、坊っちゃん。この横濱と東京、交通の便がよくなったことですし、困ったことがあれば恒子にご相談なさってはいかがです? いつでもお話相手になりますよ」
「本当に? 嬉しいな。恒子ねえさんが味方だと心強いよ」
 途端に行人の表情が明るくなる。天真爛漫な少年のようで、やはりこちらの方が彼によく似合う。
 恒子も笑顔を返した。その裏では、冷めた思いを抱く。
 長丘邸を辞め、どこかに就職をしようかと思っていたところだったが、思わぬ収穫に心が弾む。あわよくば絹香の弱みを握れることにもなりそうだ。
 ──絹香様のこと、もう少し調べてみようかな。
 もしかすると、彼女を陥れることができるかもしれない。

 ***

 盂蘭盆(うらぼん)が過ぎるまではこの鎌倉で過ごすこととなったが、たびたび彼が仕事で出かけることがあり、常に一緒というわけにはいかなかった。ひとりで海まで散歩し、のんびりと優雅な生活をしていることに不満はないが退屈ではある。それに、恋人という役割が担えているのか不安を覚えることが多々ある。海を見つめるたび「これでよいのかしら」と悩み、自身の慢心さに呆れていた。
 敦貴との壁を感じることはなくなったものの、大本の目的は、敦貴が女性に愛情を傾けられるようにしなくてはならない。だが、事を起こすのは危険だ。一線を越えるわけにはいかず、かといっておとなしく侍女のように付き従うのも違う。
 敦貴は単純に他人へ心を開けないだけなのだ。あの星夜で語り合った時のように彼が自分の話をすることは(まれ)であり、沙栄にもあのくらい素直に接することができるようにしなければならない。
 もう少しで敦貴の心が開きそうなのだが、人目が気になってしまうのも悩みどころだった。長丘家内部に潜む何者かが外界へ絹香と敦貴の関係を漏らす恐れがあるので、邸へ帰ったらさらに警戒して敦貴との時間を過ごさなければならない。
 海外出張が決まり一足先に敦貴が邸へ戻ってしまうまで、とくに進展はなく、絹香はさらに落ち込むのだった。
 そうして短い夏が散っていった。

「絹香」
 それは鎌倉から戻ってきて一週間ばかり経過した頃だった。短期の海外視察から帰った敦貴に呼ばれ、部屋に向かった絹香は積み重なった新品の洋書や本の山に驚いた。
「まず、帰ったらすぐこれを渡そうと思っていた。入用なら他にも取り寄せるから、遠慮なく言いなさい」
 幾重にも積み重なった本は絹香の腰元にも及ぶほどである。
「こんなにたくさん……ありがとうございます」
 深々と頭を下げると、彼は「うん」と柔らかにうなずいた。その声音がどことなく楽しそうなのはきっと気のせいだと思う。
「それで、今日はどうだった? 君の話をしてくれ」
 自ら話をしようと言い出すのもめったにない。大方、今日の仕事が早く片付いたおかげで機嫌がよいのかもしれないと推測する。
「はい。今日のお稽古はお華でした。家元によれば、筋がいいとのことでお褒めの言葉をいただきました」
「そうか。それはなにより」
「敦貴様の方はお仕事はどうでしたか?」
「とくにこれといっては。まぁ、ひと段落したところだ」
 敦貴は着物に着替えながら言った。その後ろで、絹香は背広のシワを伸ばしている。すっかり彼の着替えの世話が板についてしまったことに対し、絹香は解せないでいたが、つい世話を焼いてしまうのは性であると自嘲した。
「今は沙栄の輿入(こしい)れの方が重要でな……打ち合わせをしに本家へ行くことが多くなりそうだ」
「いよいよですね」
「あぁ」
 敦貴はため息を漏らした。どうやらまだ心の整理はつかない様子だ。絹香は口を開きかけたが、それは敦貴によって遮られた。
「ちなみに、君はもう手紙を書かないのか?」
「え?」
 思わぬ問いに、絹香は間の抜けた声で驚いた。
「書いてくれないのか?」
 敦貴がなおも訊く。
 正直なところ、もう手紙のやり取りは必要ないのではと考えていた。しかし、その考えこそも怠慢ではないか。給金をいただいている身なのに勝手に思い上がっていたことをすぐさま恥じる。
「申し訳ありません」
「いや、忙しいなら結構だ」
「急いで書きます。少々お待ちくださ――」
 慌てて立ち上がろうとすると、敦貴の手が伸びてきた。
「待て。そう慌てるな。なにも怒っているわけじゃないんだ」
「そうなのですか……てっきり、怒ってらっしゃるのではと思ってしまいました」
 正直に言うと、敦貴の眉が不審そうに曲がった。そして、ため息交じりに笑う。
「あの休暇の時に十分世話になった。だから、もっと励め。期待している」
 敦貴の声は優しく、今までになく柔らかだった。それが奇妙に思えて仕方がない絹香は胸の中がくすぐったくなり、ぎこちなく笑った。
 しかし、恋人役として他になにをしたらいいのか、次の段階がやはり思いつかない。こうなったらいっそ彼と相談するほかないだろう。絹香は咳払いし、姿勢を正して敦貴を見つめた。
「具体的にどう励めばよろしいでしょうか」
「手紙の内容はもっと君の内面を書いてほしい。赤裸々に語ってくれ。この前、星の下で語っていたように」
「……承知しました」
 少し迷う。彼に語って聞かせるような楽しい話はもうない。あるのは暗くて汚い闇。しかし、書けと命令されれば書くしかない。
 敦貴があくびをし始めたところで、絹香は部屋から下がった。彼はなんだかまだ話し足りない様子だったが「手紙を書きます」と告げれば納得してくれた。
 明日、朝一番に手紙を渡せるよう、今から書いてみる。文机に座り、しばし便箋を睨む。
 絹香は、これまでのことを振り返った。
 三歳の頃、一視が生まれた。その頃から異能は発現していたらしく、自覚したのは九歳だった。一視の世話をすると、不思議なことに彼の体調がよくなるのだ。また、転んで擦りむいても撫でればすぐに傷が消えたことで、自分が他の者と違う存在なのだと気がついていった。
 それを知りながらも両親は優しく、とても温かく絹香と一視を見守っていた。
 しかし、父の仕事がうまくいかなくなってから暗雲が見え始める。
 父の自殺。そして、母の死。叔父を始めとする親族たちで遺産や子供たちの相続をどうするかが毎日議論される。外へ出かければ新聞記者に追いかけられる。
 ようやく叔父が社長に就任した頃には一視と離れ離れになってしまい、不遇を強いられた。やがて、世間体を気にした叔父が女学校への入学を渋々ながら認めてくれたが、異能を持つということが知れた後は、ますますひどい扱いを受けるようになった。
 叔母に口答えをしてしまい、平手打ちを食らったのがきっかけだった。口の端が切れ、血が飛んだ。それを咄嗟に拭ったら傷が治る。絹香にとっては日常でも、叔母にとっては非常識であった。
『化け物』
 脳内にこびりつくあの侮蔑が背後から聞こえた気がし、絹香はすぐさま振り返った。
「……はぁ」
 動悸(どうき)がする。しばらく穏やかな日常が続いたせいか、あんなに慣れていたはずの言葉も体が受け付けないほど緊張した。
 胸を押さえて落ち着かせる。
「どうしよう。書けないわ。こんなの、書けるわけがないもの……」
 心の傷はまだ残っていた。この自身にまとわりつく不幸が、とてつもなく巨大な壁に思えて仕方ない。
「当たり障りない話をしないと……沙栄さんのようにならないと……」
 結局、絹香は叔父の家であった話の半分も書けなかった。
 ***

(中略)
 女学校への進学はあまり歓迎されませんでした。というのも、わたしが叔母へ口答えをしたのがきっかけだったように思います。今となってはなにを言って怒らせたのかが思い出せませんが。
 女学校時代はそれなりに楽しめました。恥ずかしながら、家では安心ができずにいました。それもわたしが極度に怯えていたからでしょう。
 父の死は衝撃でした。とにかく悲しく、いったいどうして父があんな死に方をしなくてはならなかったのかわかりません。それから、自然と新聞に興味を抱きました。
 しかし、父の死の真相はわかりませんでした。叔父の話によれば、やはり経済面での心配ごとがあったそうです。
 それにしても不思議なものです。父は前日まで、わたしたち家族の前では穏やかで、とてもそのようなことを考えているとは思えなかったので……。
 それでは、今回はここまでにさせていただきます。
 やはり、昔話は苦手です。つらいものが込み上げてしまいますゆえ。
 御鍵絹香

 絹香の手紙を移動中の車で読んだ敦貴は、難しい顔つきをしていた。手紙を封筒におさめ、上着の内ポケットに入れる。
 ──彼女はまだなにかを隠している。
 そう直感する。
 しかし、絹香の父親への思いがこんなにも赤裸々に語られるとは予想していなかった。書けと言ったのは自分なのだが、どうせまたつまらない報告をするのだろうと高をくくっていた。おそらく彼女も変わろうとしていることがうかがえる。あの夏の夜に見せた彼女の憂いを取り除きたい。
 彼女が秘めるものは確かに不幸そのもので、大層つらい目に遭ってきたことは明らかだった。それでもあのひどい叔父や叔母を配慮しようと心がけているようで、彼女の家族への情はとても清らかなものであると推察できる。
 その深い優しさに敦貴は感心しつつも呆れていた。家族に対して憧れもなければ情もない自分とは正反対であり、羨望すら感じる。反面、理解しがたい。ひどい仕打ちを受けてきたら、非情な性格になっていてもおかしくないだろうに。
「私は、こうはなれないな」
 絹香は「相手のことを案じ、思いやる心があれば愛せる」と言っていたが、まだまだその心構えが十分にできていないと感じていた。
「敦貴様、到着いたしました」
 運転席から米田が言う。どうやら停車したことに気がつかず、しばらく考え事をしてしまったらしい。
 今日は本家で父と会う。主に近況報告だけだが、沙栄との婚姻の話も進められるのだろう。気が重い。しかし、行かねばならない。
 絹香からもらった手紙を思い返しながら、敦貴は地へ降り立とうと足を踏み出す。すると、米田が言った。
「敦貴様」
「なんだ」
「絹香様のお父上についてを話題にしてみてはいかがです?」
「は……」
 米田の提案に、敦貴は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「毎回、義三郎(ぎさぶろう)様との会話が五分も持たないじゃありませんか。仕事の話だけでなく、たまにはこういう妙なところから攻めてみてはどうでしょう」
 まるで絹香からの手紙の内容を把握しているような言い方である。敦貴は不審を抱いた。バックミラーに映る米田の目からはなにも読み取れない。
「その助言はありがたく受け取っておこう」
「えぇ」
「だが、米田。手紙の中身まで監視しろとは言ってないぞ。それとも、誰かに聞いたか?」
「経験と勘による推察です。敦貴様もお得意の」
 米田はうつむき加減に笑った。それはなんだか、いたずらが成功したかのような子供っぽさだった。最近、彼とはこういう会話が増えた気がする。
 米田は信頼できる男だ。敦貴が子供の頃から唯一懐いた使用人だった。絹香が慕う父親や兄弟のような存在と言うにふさわしい。
 敦貴は座席に戻り、少し肩の力を抜いた。
「ちなみに、絹香の周辺で妙な動きがある者は見つかったか?」
 かねてより調査していたものである。この際だから進展を聞こう。
「はい、沙栄様への密告をしていた者は見つかりました。友永ゐぬがそうです。しかし、これに悪意はなかったようですね。問い詰めたところ、沙栄様からの圧力に耐えられなかったそうです」
 なんとなく想像がつく。沙栄のあのしつこさに、寡黙で人見知りなゐぬが耐えられるはずがない。さっさと白状し、仕事にかかりたいとでも思ったに違いない。そこまで考え、敦貴はため息をついた。
「そうか」
「しかし、絹香様の周辺はまだまだ不穏でございます。父上の自害に関する話にはなかなか黒い事情があるようです。お気をつけを」
「そのために我が父上に訊けばいいのだな。わかった。そういうことなら多少は乗り気になれる」
 敦貴は颯爽と車から降りた。そして、分厚い門をくぐり抜ける。
 長丘本家は敦貴が住む邸よりもさらに大きく、どっしりとした構えの迫力ある邸だ。切妻屋根がいっそうの風格を思わせる。
 広い庭園には秋桜(こすもす)の花が咲き乱れており、完璧なまでに手入れが行き届いている。
 玉砂利の中をしばらく歩けば、ようやく玄関が見えた。子供の頃は見上げるのもためらうほどに威圧的だったが、今は無遠慮にくぐれる。
 使用人が総出で迎え入れ、厳かに広間まで案内される。
 長い廊下を行き、ふすまを開けると父、義三郎が気難しい顔つきで座っていた。敦貴と同じくすらりとしており、白髪が混じった髪は衰えを知らない。丸メガネをかけているところを見ると、最近は目が悪くなったようだ。
「敦貴か」
「はい。お呼びくださり、誠に光栄でございます、お父様」
「まぁ、そこに座りなさい」
「失礼いたします」
 許しを得て、敦貴は静かに父の真正面に座った。
 さて、ここからが面倒だ。こちらから話しかけなければ、絶対に口を開かない父である。小学校時代、それでお互いになにも話さず日だけが暮れたことを何度か経験している。
「お久しぶりでございます。お父様の方もお変わりないようで」
 父は肘掛けにもたれかかっており、探るように息子をジッと見つめる。その目を見返し、敦貴は咳払いして話を続けた。
「お母様は今日はどちらに?」
 すかさず答えたのは、部屋に控える使用人だった。
「奥様は本日、私塾の方へ視察に」
「あぁ、なるほど。お母様も相変わらずのようですね。塾生だけでなく、講師たちも戦々恐々としているでしょうな。そろそろ控えさせた方がよろしいのでは」
 母、イツの厳格さはその辺りの私塾を凌駕(りょうが)するという噂である。母の熱心な教育方針のおかげで、敦貴も文武両道を極められたのだが──母は教育家であるが家庭には不向きな人であることは、ここにいる全員が知るところである。
 敦貴の提案に、父はただ唸るだけだった。
 呼び寄せておいてその態度はなんだと常々思うが、こんなことで憤るほど精神は薄弱ではない。
「沙栄はどうですか。最近よく、ここを訪れると聞きます。お父様、沙栄とは随分と親しくしていただいてるようですね。ありがとうございます」
「うむ……まぁ、扱いには困るが、可もなく不可もなくといったところかな」
「賑やかなことは結構ですがね。私も少々、手を焼いてます」
「御鍵の娘はどうだね」
 父にサラリと訊かれ、敦貴は目を見張った。
「あぁ……絹香のことを気にされているとは思いもしませんでした」
「突然、お前が招き入れたというから、そりゃあ気になるものだよ。そんなに矢住との婚姻が不満かね」
 核心をついた父の言葉に、敦貴は敗北を感じた。
 父に逆らっていると捉えられているのだろうか。いや、むしろ、それだけ息子のことを手厚く思いやっているのだろうか。
 沈黙を選ぶと父はニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
「構わん。そもそもお前に浮いた話のひとつもなかったことが問題なのだ」
「絹香は、そういった相手ではありません」
「さて、どうかな」
 父は機嫌よく小刻みに肩を震わせて笑った。本当に性根が曲がった男だと心の奥深くで毒づく。
 昔から父は息子の綻びを目ざとく見つけてはそれをチクチクと回りくどくからかうのが趣味なのだ。心を読まれているような錯覚をする。そして、そんな父親にそっくりな自分に嫌気が差すのも常だ。
 なにを言っても反論のかっこうになり、すなわち肯定しているに等しい。ここは黙っておくことにする。
「で、どうだね。絹香とやら、確か御鍵商社の前社長……明寛の娘だったな」
「おや、ご存知でしたか」
 敦貴は上目遣いに見た。すると父は顔をうつむけ、足の爪をいじる。
 他人に無頓着な父が数年前の事件を覚えていることは珍しいと思った。同時に、父の言動を脳内で反芻(はんすう)し解釈する。
「お父様。以前、御鍵家となにかありましたか?」
 敦貴の問いに父はなにも答えない。では、もうひと押しだ。
「明寛氏の自害は当家と関係がありますか? 例えば、金融に関する不当などで揉めた、というような。明寛氏の自害は精神不安定だったからという報道でしたが、そこまで追い詰めるなにかがあったはずですよね」
 御鍵商社が頼りにしていた金融会社は、大本をたどれば長丘家が取り仕切る会社の系列である。直接の親交はなかったものの、いわば御鍵商社も長丘家の傘下であるようなものだ。もしかすると、理事を務める義三郎が当時、なんらかの圧力を加えたことによる不幸だったのかもしれない。
 すると、父はそんな息子の考えを見抜くようにまぶたを大きく開かせた。ぎょろりと大きな目玉があらわになり、敦貴はゴクリと唾を飲む。
 やがて、父がささやくように言った。
「お前、私を疑うのか?」
「えぇ、まぁ。端的に言えば、そうなりますね」
 正直に答えると、父はまた顔をうつむけて唸った。しばらく、広間には微弱な緊張が走る。
 敦貴にはなんの勝算もなかったが、父が声を荒らげることはないと踏んでいた。百戦錬磨をくぐり抜けて華族へのぼり詰めた父、義三郎である。『すべてを疑え』と敦貴に教えてきたのは他でもない父なのだ。その教えを忠実に守っているだけのこと。
 やがて、父は鼻を鳴らして唸った。
「敦貴」
「はい」
「御鍵商社の件、後のことはお前に任せる」
 その言葉に、敦貴はわずかに怯んだ。話の筋が見えない。しかし、御鍵家とはつい最近商談をした間柄である。仕事に関してだろうか。それとも、事件の全容をもっと調べてもよいという意味か。どちらにせよ、逆らうことはできない。
「承知いたしました」
 敦貴は素直に受け入れた。
「その絹香という娘も一度、こちらへ連れてきなさい」
「はい?」
 思わず聞き返してしまう。途端に父が(たか)のような鋭い目で睨んできたので、敦貴はすぐさま言葉を改めた。
「承知いたしました。そのように取り計らいましょう」
「うむ」
 それきり、父はなにも言わずに立ち去った。ふすまが閉じられ、敦貴だけが広間に残される。
 しばらくそのままの姿勢で座っていたが、もう戻ってくる様子もないので肩の力を抜いた。まったく、実家だというのに居心地が悪い。
 それにしても、父の思惑が読めない。
 やはり、御鍵家とのトラブルがあったのやもしれない。もしくは、関わりがあるのでは。なんにせよ、任されたからには役目をまっとうしなくてはならない。
 それから数分後、茶のひとつも出ないまま敦貴は長丘本家を後にした。

 ***

 その夜、いつものように敦貴の部屋へ向かった絹香は、彼の後ろでジッと座っていた。彼は着替えてから、文机に座ったまま黙りこくっている。
 こうしていると、なんだか恋人を通り越して夫婦のようだ。母もこうして父の後ろで静かに控えていたものだ。
「絹香」
 唐突に、敦貴が言った。
「私は君の父上について調べてみようと考えている」
「はい?」
 どういう意味なのか皆目わからない。困っていると、敦貴はチラリと振り返った。
「君の手紙を読んだ。父上の死は謎がある。どうも腑に落ちない。君もそうなんじゃないかね」
 その言葉に、絹香は思案げに宙を見る。
 確かに、父の死は不思議なところがある。警察の調べや叔父の言葉に違和感があったものの、嘆き悲しんでいる暇がなかった。
 どう答えたものか迷っていると、彼は左手で畳をトントンと叩いた。「来い」という合図だろう。絹香はおそるおそる近づき、横に座る。
「君のことを知るには、まず初めの事件から遡る必要がある。どうだ、不満か?」
「いえ……ありがたいお話ですが、なんとお答えしたらよいやら」
「それにしては浮かない顔だな」
 絹香は気まずくうつむいた。
「どうして、わたしのことをお知りになりたいのですか」
 ただの恋人役でしかないのに。もうすぐお別れをする間柄なのに。心の中にまで踏み込まれては困ってしまう。そんなわずかな恨みも込めて彼を見る。
 敦貴は眉をひそめた。そして、言葉を選ぶような素振りをする。
「君が『お互いを知ることから始めた方がいい』と言った」
 それは最初に手紙でこちらから提案したことだ。しかし、絹香は納得できない。
「もう十分では」
「不十分だ。私は君のことが知りたい」
「……敦貴様のお心が、わたしにはよくわかりません」
 いったい、なにを考えているのだろう。彼の表情は相変わらず無である。いや、彼の心を知ろうとしていないのは自分じゃないか。わずかにそんなひらめきが浮かぶ。
 もっと彼に寄り添ってもいいのかもしれない。これが役目なのだから。
「では、わたしも敦貴様のことが知りたいです。なにを考えて、わたしにこうして親しくしてくださっているのか、お聞かせ願えますか?」
 すると、敦貴は目をしばたたかせた。一瞬だけ、彼の感情が浮かんだ。その瞬間を見逃さないよう、少し距離を詰める。
「敦貴様?」
 彼が黙ったのを逆手にとり、絹香は悪知恵を働かせた。
「敦貴様、恋人には正直な気持ちを打ち明けるものです。わたしはもう言いました。熱烈な感情を語るまではなくとも、たったひと言だけでもよいのです。わたしを沙栄さんだと思って、今の敦貴様のお気持ちを教えてください」
 彼が踏み込んでくるならこちらもとことん踏み込もう。絹香の意思は固かった。
 だが、絹香の勢いに比例するかのように彼はふいっと顔をそむけた。
「敦貴様」
 少し焦れる。すると、彼は静かにも苛立たしげに返した。
「別荘で、君は言ったな。『わたしは人形ですか』と」
「え? はい……」
「『人形』とは言い得て妙だと思った。もしかすると、私も同じなのかもしれない」
 言葉の意味を考える。だが、自分はともかく彼がそうだとは考えにくい。
「敦貴様が人形だなんて、そんなこと……」
「いや、そうだ。私の表情が読み取れないのは、そういうことだ。つまり私は、感情が乏しい。求められたことにしか対応できない。つまらない人間なんだ」
 それは、いつか手紙に綴られていたことでもあった。
 地位も富もあり、なに不自由なく育ったものの愛情を知らずに大人になってしまったと自嘲気味に笑う彼の姿を思い出す。きゅっと胸が切なくなり、絹香は顔を歪めた。
「そんなことおっしゃらないでください」
 慰めにもならない気休めの言葉が出てくる。それは彼を気遣ってか、自分を守るためか、今の絹香には判然としなかった。
 敦貴は()ねた子供のように頑固に背を向けた。
「君が言えと言ったんだ」
「そうですけれど……」
「はっきりしないな。そういうところは直した方がいいぞ」
 そう指摘されてしまえばぐうの音も出ない。絹香は消沈し、唇を噛んだ。
「いいんだ。こんなことで怒ったりはしない。君はよく尽くしてくれている。私の妙なわがままに付き合ってくれているだけだからな」
 敦貴はぶっきらぼうに言った。そこに含まれる彼の感情はやはり見えない。でも、なにもないわけではないのだろう。もしかすると、彼自身が心に潜めた感情の正体に気づいていないのかもしれない。
「敦貴様、もしかして本当に拗ねてらっしゃいます?」
 無礼を承知で訊いてみれば、すぐさま彼は振り向いた。
「絹香、言葉がすぎるぞ。慎め」
「すみません。つい……」
 だが、恋人役としては十分な働きだったはずだ。こうやって彼の奥底に眠る感情を(ひも)解けば、沙栄にも心を開けるのではないだろうか。
 あともうひと押しだと手応えを感じていると、敦貴はもうお開きだとばかりに立ち上がった。着物の中に腕を入れ、絹香を冷たく見下ろす。
「それで話が逸れたが、君の父上について調べるから、そのつもりで。あとは一ヶ月後の週末、君を本家に招待することになった」
「え?」
「異論は認めない」
「あ、敦貴様?」
「以上だ。下がってよろしい」
 ピシャリと言い放たれてしまえば、もうどうすることもできない。絹香は渋々下がることにした。一礼して敦貴の部屋の障子戸を閉める。
 そして、今しがた宣告されたことを頭の中で復唱する。
「本家……って、長丘家の本家? どうして……?」
 絹香はこれから身に起こることが悪いものである予感がした。絶対によい話ではない。これはもしや、彼の心に踏み込んだ罰だろうか。
 しばらく廊下で佇み、よろよろと部屋へ戻る。その途中、大きな満月の光が差し込んできた。とっぷり更けた十五夜は眩しいばかりで、思わず顔をそむけた。

 ***

 瀬島行人は御鍵邸の居間のソファに腰かけ、主の前で小さく縮こまっていた。
 向かいに座る寛治は洋酒をたしなみながら、ただただ威圧的に瀬島を見つめている。彼は何度かため息を漏らし、そのたびに瀬島はビクビクと肩を震わせる。こういうことは今までに一度もない。
「瀬島」
 ようやく寛治の口が動く。
「はい、旦那様」
「最近どうだね。大学の方は」
「えっ……えーっと、まぁ、それなりに」
 言ってすぐ曖昧な返答をしたと後悔し、姿勢を正す。
「学業の方は問題ありません。成績も伸びましたし、これもひとえに旦那様のご支援のおかげでございます」
 機嫌をとるための言葉を並べてみるも、寛治は大して興味を持たなかった。
 またも沈黙が続く。こういう空気に耐えられない。瀬島は得体の知れない恐怖に駆られ、極度に緊張してしまう。
「……あの、旦那様」
 訊いてもいいだろうか。むしろ、訊いた方がよいのだろうか。
 瀬島はこの場から逃げ出したい一心で言った。
「今日はいったい、どういう……?」
 すると、寛治はゆっくりと視線を上げて瀬島を睨んだ。
「お前、絹香を好いていただろう?」
 その問いに、瀬島は息を飲む。喉元が絞まるかと思った。そんなこちらの反応を見て、寛治は嘲るように笑った。
「やはりそうか……」
「なにを急にそんなことをおっしゃるんですか? 僕が、絹香さんを……なんて」
「とある筋から仕入れた話だ。まぁ、気にするな。そこでだ、折り入って頼みがある」
 寛治は洋酒のグラスをテーブルに置いた。
 なにを頼むというのだろう。まったく想像ができない。瀬島はゴクリとつばを飲んで続きを待つ。だが、うまく飲み込めなかった。
「僕になにをさせるつもりですか?」
「今度、絹香を呼び戻すのだ。あれの弟が十二月に九州から上京してくるというから、どうしても戻らねばならないわけだ」
「そう、なのですか……あの長丘様がお許しになられますかね」
 弟の上京で、家出娘が戻ってくる。まったく、奇妙な話だ。
 彼女が出ていってからもう随分になる。これまで頑なに戻ろうとしなかったのに、弟の上京を理由に戻ってくる。その事実を何度か反芻するうち、心に闇が広がった。
「そこでだ、瀬島」
 寛治の言葉が続き、瀬島はハッと我に返る。
「絹香の一時帰宅中、なんとしてでもあいつを引き戻せ」
「は……」
「できるだろう? あんなのを好いているような物好きなのだし」
 瀬島は悩んだ。絹香を引き戻した場合、彼女はこの叔父に蔑まれて、ボロボロな布切れみたいに痛めつけられるのだろう。しかし彼女は治癒の異能を持つ。傷くらい平気なはず──自分の手元に置けるのならかえって好都合だ。
「わかりました。では、ひとつ、僕の願いを聞いてもらえませんか」
「いいだろう。金か? それとも絹香との婚姻か? 確約はできないが、考えてやらんでもないぞ」
 その言葉もどうだか。約束したところで守る気のない軽々しさがある。
 瀬島はカラカラに乾いた口で果敢に挑んだ。
「絹香さんとの婚姻は魅力的です。ゆくゆくは僕を会社に取り立ててもらいたいと思っています」
「そうか。うむ、いいだろう」
 寛治はあっさり了承した。会社の後を継ぐという意味合いも込めたつもりだが、きちんと伝わったのか心配なところだ。
 しょせん、守る気のない約束なのだろう。それでもいい。未来よりも現在(いま)が大事だ。
 瀬島は深々と一礼した。
「ありがとうございます。なんとしてでも、絹香さんを取り戻します」
 こちらも確約のできない約束だ。
 瀬島は拳を握り、こめかみから伝う汗を袴の上に滴らせた。

 ここ最近は、あの恒子と会う機会が増えた。子供の頃に世話になった姉のような存在である恒子には、絹香についてあれこれ話していた。
「まぁ、なるほどなるほど……それはまた坊っちゃんにとって一大事ですわね」
「そうなんだ。でも、絶対にやってみせるよ」
「うまくいくといいですわねぇ」
 橋にもたれてふたりで話し込む。灰色に濁った空が川面に映っていて陰鬱だ。
 傍から見れば、どう見えるのだろう。姉と弟のように見えるのか、それとも年の離れた恋人のように見えるのだろうか。そんなことを考え、思わず笑いが込み上げる。
「あら、どうかしました?」
「いや、なんでもない。恒子ねえさんは優しいな。絹香さんはいつも鬱々としていて、それが儚げで美しいわけなんだけれど……」
「女は愛されれば愛されるほど美しくなるのですよ」
「でも、どれだけ愛を注いでも彼女は返してくれないんだ。これじゃあ、僕ばかり焦がれてしまって、なんだか歯がゆいよ」
 あの頃はそれでも楽しかった。でも、彼女が家を出ていってからは変わった。今度はこちらが愛に飢えていて、勉強もままならない。寛治たちの機嫌をうかがうように、十分気を使っていかなくてはならない。精神的に負荷がかかって非常につらい。
 そんなこちらの心情を()み取るように、恒子は顔をしかめた。
「坊っちゃんのためになれるよう、恒子もがんばりますよ。なにかお手伝いさせてください」
「そうは言うけれど、恒子ねえさんは絹香さんの半分も知らないだろう? 会ったこともないし」
「いいえ、実は絹香さんらしき女性(ひと)を知っています。探してみたんです。おそらく間違いないかと」
 恒子は至ってサラリと白状した。思いも寄らない言葉に、瀬島はキョトンと目を丸くする。
「そうなんだ……そんなことまでしてくれているなんて」
 絹香を知っている、ならばもっと彼女の話をしてもいいだろうか。例えば、彼女の持つ秘密の数々を。
 胸の内に秘めているだけではもう限界なほど、瀬島の心は消耗していた。
「絹香さんは、とてもかわいらしい目をしているんだ。目鼻立ちが整っていて、綺麗な二重まぶたで、睫毛はしっとりと柔らかく長くて、華奢で、黒髪が綺麗で」
 思わず話をすれば止まらなかった。
「それで、彼女はとても不遇なんだ。両親が亡くなって……父親は自殺して、弟とも引き離されて、挙げ句、彼女は化け物と呼ばれていて」
 どんな傷もたちどころに治してしまう。そんな彼女は、とても神秘的で不気味だ。その不気味さが魅力でもある。
 いつまでも子供らしくて無邪気で、健気で愛しい、かわいそうで幸薄な女性。それでもなお勤勉に日々を生きていく(したた)かさもある。それが絹香を構成するすべてだ。
 恒子はすべてにうなずいてくれた。まったく懐の深い女である。
「坊っちゃんは、絹香さんのことを深く愛してらっしゃるのですね」
「あぁ、そうさ。僕は彼女を愛してる。この想いは誰にも負けないよ」
 絹香を愛している。深く深く真っ暗な海溝のごとく、彼女を心から愛している。
 自分の気持ちを再確認し、瀬島は大いに満足した。

 ***

「本家に招く」という宣言どおり、きっかりひと月後の日曜日、絹香は強引に本家へと連れていかれた。
 しかし、これまで当主である義三郎に挨拶もなしで長丘別邸に仮住まいさせていただいている身である。むしろ、挨拶が遅れた。この生活もすでに五ヶ月になろうとしているのに。
 こうなってしまった以上、気を引き締めて、十分に粗相のないよう挨拶をしなくてはならない。これまでの非礼を()びなくては。
 門をくぐる頃には、さすがに腹もくくれた。
「まぁ、言わずともわかるだろうが、緊張して臨めばよい」
 敦貴の助言は役に立たないものである。絹香はぎこちなく笑みを返した。
 長丘本家の中はひんやりと寒い。十一月に入って秋も終盤に差しかかり、庭園の紅葉が美しかったが愛でる余裕などない。
 絹香は黒い羽織に、薄橙と紅葉柄の着物でこの日を迎えた。
 いつになく表情が厳しい敦貴も今日は着物姿で、紺色の袴が凛々しい。
 すぐさま広間に通された。何畳あるのだろう。そんなことを考えていられないほどに足が震えて仕方ない。だが、すぐにその緊張感が途切れる。
「あ! 絹香ちゃん!」
 この場にそぐわない突き抜けた明るさを持つ沙栄の声が響いた。広間の中に沙栄と使用人がいる。
「わー! お久しぶり! んもう、連絡してくださいって言ったのに。敦貴さん、ご機嫌麗しゅう。沙栄が参りましたよ」
 うふふふ、と彼女は含むように笑う。
 敦貴を見ると、彼は目を細めて頬を引きつらせていた。
「父は?」
 わずかに不機嫌そうな声で問う。絹香はおろおろとふたりを交互に見た。
「もうすぐいらっしゃると思いますわ。今日はお義母様も揃っていらっしゃるのですよね。楽しみです」
 沙栄は満面の笑みを向けた。絹香は信じられないとばかりに目を見開いた。敦貴の目はますますどんよりと曇っていくようで、なんだか苦労を垣間見た気がする。そんなこちらの心情を、沙栄はまったく読み取らない。
「あ、いらっしゃったわ」
 はしゃぐ沙栄が絹香の腕を取った。しがみつくように寄り添われ、とにかくそのままにしておく。
 そうこうしているうちに、敦貴の父と母が揃って広間に現れた。
 三人とも、同時に一礼する。
「よう来たな」
 敦貴の父、義三郎がそっけなく声をかけ、上座へ向かう。その後ろを、厳格そうで筋張った初老の女性が歩く。敦貴の母、イツだ。彼女はニコリともせず、着席するなり黙想した。
 絹香は緊張で頭が上げられなかった。
「ごきげんよう、お義父様、お義母様。このたびはお招きいただき、光栄ですわ」
 すかさず沙栄が挨拶する。勝手知ったる家だとばかりに振る舞うも、この場の緊張を和らげる清涼剤のようにも思えてくる。一方、敦貴は堅苦しかった。
「ご挨拶が遅れましたが、御鍵絹香嬢を連れて参りました」
 これに、両親はどちらもなにも返さなかった。
「お母様、ご機嫌の方はいかがでしょうか」
「至って良好です。敦貴さんもお変わりないようでなによりですね」
「ありがとうございます」
「あぁもう、そんなふうにかしこまらないでいいじゃありませんか。ね、お義母様」
 沙栄が口を挟む。この場にいる全員、誰も彼女に注意をしないのが、絹香は奇妙に思えた。この両親は敦貴よりも心が読めないものの、沙栄への態度はゆるやかそうである。
「それで、絹香さんといったかしら」
 思案している間に、イツから声をかけられた。絹香はいっそう恐縮し、頭を下げ続けた。
「はい。御鍵絹香と申します。このたびはお招きいただき、恐悦至極に存じ奉ります。また、これまで幾度のご無礼をお許しくださいませ」
 思わず早口になってしまい、ひやりと肝が冷える。この時間が永遠に続くような気がし、途方に暮れた。そして同時に悟る。歓迎されていないということに。
「ご、ご挨拶が遅れ、誠に申し訳ありませんでした」
「まぁ、そんなふうに謝らなくってもいいのよ、絹香ちゃん」
 沙栄のうろたえた声が聞こえる。
「お義母様も、こう見えて怒っているわけじゃないのだから。ですよね、お義母様」
「えぇ。絹香さん、頭を上げなさい」
 沙栄への返答はとてつもなく早い。
 それもそのはず。絹香は敦貴が勝手に招き入れた、いわば長丘家では部外者に当たる。沙栄は敦貴の許嫁。差は歴然としている。
「絹香」
 敦貴に隣で短くささやかれ、おそるおそる顔を上げる。
 目の前に座る敦貴の両親は、絹香をジッと品定めしていた。とても耐えられるものではない。
 義三郎と目が合う。敦貴が老いたらこんなふうになるのだろうと思うほど、その顔は(うり)ふたつだった。だが、敦貴よりも迫力がある。敦貴の目鼻立ちはイツにも似ているような気もした。
 そんなふたりを前にしても沙栄は平気な顔で落ち着き払っているから、ますますこちらの分が悪いように思える。
 すると、義三郎がボソボソと言った。
「まぁ、愛人にするにはふさわしいツラだな。大いに結構」
 絹香は息を飲んだ。恐ろしさで全身が固くなり、着物の中で冷や汗が垂れた。呼吸するのも許されないような空気を感じ、なんとなく叔父の家での記憶が脳裏をかすめる。
「あなた、沙栄さんの前でそのようなことを」
 すぐさまイツがたしなめるが、義三郎はうるさそうに手で追い払った。
「冗談じゃないか。なぁ、沙栄」
「えぇ。心得ております」
 沙栄は戸惑いつつも上品に笑い飛ばした。
 だが、敦貴も絹香も笑えなかった。同時に、絹香もこの両親をようやく俯瞰(ふかん)で見ることができた。
 ──敦貴様が心を閉じられるはずだわ。
 叔父や叔母よりも品があるのだが、情はいっさい感じられない。しかし、このふたりと常に顔を突き合わせて生活していなかっただけまだよかったのだろうか。
 この長丘家の親子関係がまったくわからない。自分が知る家族像とは遠くかけ離れており、絹香はそれきりなにも言葉を発さずにいた。
 それからのことはよく覚えていない。いないものとして息をひそめるしかなく、沙栄との会話もままならなかった。
「絹香ちゃん、ずっと緊張してしまって、かわいそうに。無理もないわ。お義父様があんなことをおっしゃるから」
 帰る間際、沙栄がいたわるように言った。
「あぁ、顔色が悪いわよ。敦貴さん、絹香ちゃんのことお願いしますね」
 玄関までついてくる沙栄が敦貴に頼む。
「無論だ」
 敦貴は憤っていた。父の失言が許せなかったのか、珍しく感情的である。
 沙栄と使用人たちからの見送りにも気を回せないまま、絹香は車に乗り込んだ。ようやく呼吸ができ、張り詰めたものを解き放つ。
「米田、出せ」
 敦貴の不機嫌が車中に充満し、しばらく気まずい時間が流れる。ようやく長丘本家が見えなくなった頃合いで、敦貴の口が開いた。
「絹香、すまなかった」
「いえ……すべて覚悟の上でした」
「ああなることは確かに想定内だったが、あんなにも直接的に……」
 確かに、本家へ行くまでに再三言われていたものが、いざ目の前にすれば体は動かないものだ。蛇に睨まれたカエルの気持ちがよくわかる。
 そして、自分の立場を今一度、確認できたことで心が潔くなる。絹香は顔を上げて敦貴を見た。
「わたしは大丈夫です。なんだか、いろいろと吹っ切れました」
「なにをどうしたらそんな答えにたどり着くんだ」
 心底意味がわからないといった様子で敦貴が呆れる。そんな彼に対し、絹香は完璧な笑顔を向けてみせる。それは、叔父から強要された世間向けの笑顔のような、心を隠したものだった。
「どうぞ、お気になさらず」
 それまで曖昧だった境界に、明確な直線が引かれた。

 長丘別邸へ戻ると、玄関前に恒子が待っていた。車が見えた瞬間から、彼女は深くお辞儀して待っている。
 先に敦貴が降り、その次に絹香が降りる。
「お帰りなさいませ」
 恒子が言葉をかける。そして、彼女は主人ではなく、真っ先に絹香の方へ顔を向けた。
「絹香様、お手紙が届いております」
 恒子が差し出す封書を、絹香はすぐに受け取った。
「ありがとうございます」
 お礼を言うも、恒子はとくに反応を見せなかった。一方で、敦貴は不審そうに絹香への手紙を見やる。
 長丘邸に世話になると報告してから、一度も手紙をよこさなかった弟である。ようやく返事が届いたことに喜ぶべきだが、今の絹香にはあまり余裕がない。
「誰からだ?」
「弟の一視です」
 その答えに、敦貴は「そうか」となにやら安堵した。
 邸に入り、絹香は着替えがてらさっそく手紙を開封した。
 その内容に、すぐさま目を見張る。そして、すべてを読み終えて部屋を飛び出した。
「敦貴様!」
 思わず居間に飛び込むと、敦貴が驚いたようにこちらを見た。
「どうした」
「あ、あの……こんな時になんですが、一視が叔父の家に滞在するようでして……」
 絹香は手紙を持ったまましどろもどろに告げた。
 木枯らしがうなじを冷やす頃。絹香は冬の始めに敦貴から贈られた桜鼠(さくらねずみ)の着物に袖を通した。その上から、椿があしらわれた長羽織をまとう。家を出た時に着ていた着物もとっくに修繕できていたが、叔父や叔母、瀬島のことを思い出すのでタンスの奥に仕舞っていた。
 早朝だったこともあり、敦貴からの見送りはなく、米田の運転で半年ぶりに横濱の家へ戻る。
 長丘邸から遠ざかるにつれ、緊張で心臓が窮屈になってきた。見慣れた景色に変わっていくも、なんだか色を失っていくように見える。
「絹香様、到着いたしました」
 丘を上がって林を抜け、あぜ道の入り口で停車する。米田は終始、静かだった。
「ありがとうございます」
 絹香は覚悟を決めて地上へ降りる。その際、米田が背広の内ポケットからなにかを差し出しながら柔らかく言った。
「敦貴様からのお手紙です」
 いつもの白い和紙の封筒が目の前に向けられる。それを見るだけで、急激に心が高揚した。
「あ、ありがとうございます!」
 絹香はすぐさま受け取った。
「行ってらっしゃいませ」
 それはなんだか、帰る場所があるような安心感を思わせる言葉だった。
「行ってまいります」
 ひと息ずれて言葉を返した。

 一視の到着は明日だ。その前に絹香がやるべきは、この家で起きていたすべての冷遇がなかったように振る舞うこと。そもそも、絹香は弟への手紙には敦貴へ送るような当たり障りのないことを並べた近況報告をしていた。ゆえに、一視はこの家で起きていた絹香への不遇をなにひとつ知らないことになっている。
 それについては、叔父も叔母も同意見だった。この事実は隠すべき問題。一視に知られれば、今利鉄鋼との取引にも影響が出る上、外部の会社にも恥をさらすことになる。体裁第一の叔父にとって、一視の上京は忌々しいことに違いなかった。
「ただいま戻りました」
 言葉をかけても、誰も出迎えることはない。おそらく居間にいるはずだ。
 絹香は息を整えて御鍵家の中へ入った。着物の内側には敦貴からの手紙を差し込んでいる。これがなんだかお守りのような効果をもたらした。
 居間にいたのは叔父と叔母、そして瀬島だった。こうして三人が並ぶことは滅多にないので、なんだか奇妙な取り合わせに思える。
 先に口を開いたのは、叔父だった。
「帰ったか」
 なにも答えずにいるのが、絹香のせめてもの抵抗だった。その態度が気に食わないのか、叔父は大きく鼻を鳴らした。
「まぁいい。お前があの長丘家に取り入って会社が(もむ)かったのは(しゃく)だが、お前のような化け物でも金になるということがよくわかったわい」
 そして「ガハハ」と高笑いする。叔母は不満そうな顔をこちらにジッと向けているだけで、とくに言葉は発しない。なにか言いたそうに口をモゴモゴさせているが、夫の前でヒステリーを起こすわけにはいかないという心構えはまだあるらしい。
 一方、瀬島は朗らかに笑っていた。絹香にとってはこちらの方が不気味で仕方がなかった。
「お帰りなさい、絹香さん。待ってました」
 彼は叔父たちの前で堂々と言った。その言い方は恋人を待ちわびていたような響きがあった。
 なぜだか家族の一員のように居座っている。彼も叔父や叔母のことを毛嫌いしていたはずだ。絹香は不審を抱きながら口を開いた。
「叔父様、部屋に戻ってもよろしいでしょうか。一視が来た時にわたしの生活感がないと不自然になりますし、部屋の掃除がしたいのです」
「あぁ、そうだな。お前の顔など見たくないし、閉じこもっておくがいいさ」
「失礼いたします」
 絹香は居間から逃げ出した。階段を駆け上がって自分の部屋に戻る。その後ろからふわりと瀬島の手が伸びてきた。
「絹香さん」
 ドアノブに手をかけた絹香の手をつかむ彼の手が冷たくて身震いする。ドアを一緒に開けるような形になり、強引に部屋へ押し入ってくる。
「瀬島さん? あなた、どういうつもり?」
「やだな。なんだよ、その言い方」
 密室でふたりきり。暗い室内で相対する彼の顔色の悪さがあまりにもひどいことに気がついた。やつれているにもかかわらず笑顔を崩さないので、その不均衡さが不気味だと感じる。
「僕も部屋の掃除を手伝おうと思ったんだ。いけない?」
 彼の手が絹香の髪を撫でる。あんなことがあったのに、彼はまだ絹香のことを諦めていないようだ。ここははっきりと告げねばなるまい。絹香は目に力を込めてまっすぐに彼を睨んだ。
「だってわたし、あなたのことは――」
「嫌いになった?」
 瀬島の目が据わる。その表情の冷たさに、絹香は声を詰まらせた。言葉を選び、あえぐようにひと言放つ。
「愛してないわ」
 思わず声が震えてしまい、瀬島は鼻で笑った。
「そうか。やっぱりあなたは長丘が好きなんだ」
「長丘様とはそういう間ではありません。彼は、わたしがこの家で不遇な扱いを受けていたから保護してくださっただけよ」
 すぐさま言い返すと、瀬島は絹香に一歩近づいた。絹香も一歩後ずさる。
「その割には随分と親しげじゃないか。君、あの男と恋愛ごっこでもやってるんだろう?」
 ベッドまで追い詰められたと同時に、瀬島が言い放った。否定も肯定もできず、ただただ沈黙を選んでしまうと、瀬島は勝ち誇って笑う。
「そうなんだ。やっぱりそうなんだ」
「違うわ」
「いいや、君は前からそうやって子供っぽく〝ごっこ遊び〟をしたがるからね、わかるんだよ」
 瀬島の圧に耐えきれず、絹香はベッドに座った。すると、彼もまた絹香を押し倒そうと近づいてくる。
 至近距離で逃げ場がない。彼は両手をついて絹香の上に覆いかぶさってくる。
 優しかった頃の彼はもういないのだと悟った。今の瀬島はすべてをいなすような貪欲さに満ちている。
 いったい、どうしてこんなことになったんだろう。彼を変えてしまったのは誰だろう。叔父か、叔母か、それとも自分か──。
 絹香は瀬島との出会いを思い返した。それはまるで走馬灯のように一気に脳内に(よみがえ)る。彼はいつでも優しく、絹香を励ますような言葉をかけていた。しかし、そのどれもが上っ面だったはずだ。
「あなたは、どうしてわたしを愛しているの?」
 思わず問う。すると瀬島は絹香を見下ろし、隣に腰掛けて冷めた表情を浮かべた。
「化け物だって言ってたじゃない。そんなわたしをどうして?」
「そりゃ、常人とは違うもの。君は異端で、お金持ちの令嬢様。それなのにかわいそうで儚げで、愛に飢えているから、僕が守ってやらなきゃ。君はなにもできないんだ。そうだろう?」
 絹香は目を見張った。そして、彼の手を振り払う。
「わたしは、あなたに守られたことはないわ。あなたは守ってくれなかった。いつも口先だけで、甘くて優しい言葉しかかけてくれなかった。そんなの、本当の愛じゃない」
 どんなにひどい目に遭おうと、もう知ったことじゃない。胸にあふれた激情を一度にぶつけたら、瀬島の目つきが変わった。
 打たれる。瞬時に思い、絹香は目をつむった。
 しかし、衝撃はいっさいなかった。彼はどんよりと曇った目で絹香をジッと見ていた。それは責めるように憎悪をにじませた目だった。空虚とも言える瞳を目の当たりにし、絹香は硬直していた体を解いた。
 おそるおそる起き上がると、彼はベッドに腰掛けたまま呆然とした。
「……ひどいよ」
 やがて、彼はぽつんと言った。言葉の白々しさに寒気がするも、彼の異様なまでの顔色の悪さから考えを改める。
 ──どうして、あなたが傷ついているの……?
「瀬島さん……」
 声をかけると、彼は涙を浮かべていた。大粒の(しずく)が目からこぼれ落ちていく。
「僕は、君を愛してるんだ。それなのに……君は、僕のことをわかってくれない。なんでだよ。どうして、わかってくれないんだよ」
 情けなく涙を流す男を前にすると、なんだか気持ちが冷静になっていく。『愛してる』と言葉だけをかけられても心がひとつも動かない。この薄情さに辟易(へきえき)したが、なにより彼をここまで変えたのが自分であるのだと確信してしまった。
 瀬島はさめざめと泣くばかりだ。彼もまたどうすることもできないのだろう。その愛情が歪んでいようとも、一途に絹香を想っていたことには変わりない。
 彼の想いを受け止めることはできないが、その心に巣食う闇を少しでも打ち払えたら……どうやったらそれができるだろう。
 絹香は咄嗟に、瀬島の心臓に手を当てた。
「……あなたはわたしなんかじゃない、別の素敵な人と幸せになるべきよ。優しいあなたに戻って」
 手のひらに力を込めると、熱が一気に駆け巡った。
 ゐぬへ施した癒やしの力が、もしかすると彼の心にも届くかもしれない。そんな願いを込めて精一杯の癒やしを伝える。凍りついて固まった心を溶かすようなイメージをして。
 すると、震えていた瀬島の肩が徐々に落ち着きを取り戻した。
「絹香さん……」
 彼はゆっくりとまどろみに落ちていった。そして、絹香の胸の中へ倒れ込む。静かに寝入っていく彼の頬は少しだけ血色を取り戻していた。
「瀬島さん、ごめんなさい」
 小さく耳元で呼びかけるも、彼はしばらく目を覚まさなかった。

 ***

 その夜、敦貴は自室で静かに考え事をしていた。
 今朝渡した手紙を、彼女は読んでくれただろうか。あの家でまた嫌な思いをしていないだろうか。彼女はもう帰ってこないかもしれない。だが、もしまたひどい仕打ちを受けていたら助けなければ。
 そこまで考えて、敦貴はため息を嘲笑に切り替えた。
「……まったく、柄でもない」
 いつもの時間に絹香が部屋にいないだけで、どうにも上の空だ。そんな自分が腑抜けのようにも思えて苛立つ。無意識に彼女の身を案じてしまうなど、それこそ本当に恋慕しているようではないか。
「敦貴様」
 障子戸の向こうから女の声が聞こえてくる。
「入れ」
 声をかけると、侍女が入ってきた。寡黙で気難しい顔つきの使用人──ゐぬである。
「見つかったか?」
 ただそれだけを問うと、彼女は静かにうなずいた。
 米田は今、絹香の様子を見守ってくれている。なにか動きがあればすぐに連絡するよう言いつけていた。
 そのため、この家を探る人物が他に必要だった。侍女長の初美も候補にはあったが、寡黙なゐぬが適任だと決めたのが八月のことである。絹香を鎌倉に残して先に帰宅した際、秘密裏に指示を出していた。
 ゐぬは予想どおりよい働きをしてくれた。この邸で不穏な動きをする不届き者を捕まえたのは彼女の手柄でもある。
「それで、裏は取れたか?」
「はい。休日になると横濱へ顔を出していた模様です。学生と見られる青年と何度か会っていました。その瞬間を捉えました」
「なにを話していた?」
「絹香様のことです」
 ゐぬはためらいがちに答えた。
「その青年は、絹香様を好いているようでして……そこで聞いたのは、絹香様が御鍵家で受けていた仕打ちの数々でございました。また、絹香様がそのような仕打ちを受けるに至った理由も」
 敦貴は「ふむ」と唸った。
 青年というのは瀬島行人だろう。そして、絹香のことを深く知る人物でもある。六月の商談パーティーの時に見たが、彼は敦貴に敵対心むき出しで睨んでいた。
「その、絹香様はどうやら〝異端〟であるそうです」
 ゐぬは伏し目のまま、声を絞り出した。
『異端』──それが絹香の秘密。
 異端と呼ばれる存在はいるのだと聞く。だが、文武両道を極めた敦貴にとってそれは驚異とも感じず、単純に研究材料としてはうってつけだと思っていた。そんな存在が身近にいるという事実に、だんだんと動揺していく。
 ──絹香が、異端だと……。
「あの、敦貴様」
 ゐぬの強張った声が敦貴の思考をかいくぐる。
「実は、私も絹香様が異端であることはなんとなく気づいておりました」
「なんだと」
 敦貴は振り向いた。自分でも驚くほど声が上ずった。そんな主の驚愕に、ゐぬも面食らったようで緊張気味に姿勢を伸ばす。
「しかし、そう決めつけるのは失礼ですので、発言を控えておりました。お許しくださいませ」
 彼女は自身に起きた不思議な体験を話して聞かせた。
 腰を痛めた際、絹香に助けてもらったことを申告しなかったのは、彼女のおかげで完治したからだった。
「私は絹香様に救われました。どんな傷もたちどころに癒やしてしまう、あのお力は、確かに奇妙なものです。正直に申しますと、人によっては不気味に捉えられてもおかしくありません。しかし、私はあの方のお力は仙女様のような、清らかで美しいものだと思います。そんな方が冷遇されているのは我慢なりません」
 ゐぬは力強く言い放った。そして、熱を込めて続ける。
「恒子は厄介です。絹香様のことがお嫌いなのでしょう。恒子はおそらく敦貴様の世話係という立場を誇っていました。しかし、その立場を奪われたことが我慢ならないのです。私は敦貴様と絹香様のご関係については深く知りたくありません。しかし、恒子はそうではありません」
「もういい。わかった。後のことは私がなんとかする」
 敦貴はイライラと話を切った。ゐぬはすがるように主を見たが、すぐに表情を冷静に戻し、一礼した。
「出すぎた真似をいたしました」
「いや、いい。下がってよろしい」
「かしこまりました」
 ゐぬはすぐに引き下がった。障子戸が閉じられ、彼女が去る音を聞く。無音となった空間で、敦貴はただ頭の中で状況を整理した。
 絹香はやはり特異ななにかを持っていた。それは常人とは言いがたい不気味で奇妙な力だった。非科学的でありえない。
 しかし、彼女が足首をひねった後、すぐに治癒していたことや、夏に見せた挙動不審な言動──『正直に言いなさい』と脅したら怯えて黙り込んでしまったこと、すべてが当てはまる。
 絹香は凡人ではない。常軌を逸した異端であり、しかしそれはとても優しく、温かみのあるものである。そもそも彼女を理解できるはずがなかったのだ。
 数年前、とある霊能者と博士が世間を賑やかした。霊能力と呼ばれる非科学的な能力を持つ者がいたのだ。結局、霊能者はインチキであると世間が認めたものだから有耶無耶(うやむや)になっている。それゆえに、絹香は蔑まれていたのだろうか。
 また、このことと絹香の父親の死はなにか関係があるのだろうか。もし彼女が当時、その能力を開花させていたとしたら母の病気も治すことができたのではないか。
 しかし、彼女はできなかった。能力が弱かったのか、それとも彼女自身が気づいていなかったのか。どちらも当てはまりそうだ。
 そうなると、彼女はこの能力さえあれば両親の死を回避できたかもしれないという自責の念に囚われているのではないか。
 絹香の心がようやく明瞭に見えてきた気がする。
 敦貴は顔を上げた。顎に手を当てて考え事をしていたせいで、どうやら体が固まってしまったらしい。時計を見やると、すでに日を(また)いでいた。
 とにかく、不穏な動きをする恒子のしっぽをつかんで、どうにか対処しなくては。悪意は早めに摘んでおくに限る。絹香への確認はその後だ。

 ***

 御鍵絹香様
 先日は父が失礼なことを言い、本当に申し訳なかった。
 あのような物言いは昔からそうです。私や母も、そんな父の残酷な言葉に振り回されて散々な目に遭いました。しかし、あれは私には君を侮辱するつもりはなかったのだと感じます。言い方はともかく、彼なりに君を気遣っていました。
 そんな父から、御鍵明寛氏の件を任されております。やはり父上の自死は不明な点が多い。
 その真相を解明すべく、私は方々から情報を仕入れています。君はおそらく嫌な顔をするのでしょうが、これは君のためでもある。君の支えになれたらと思います。
 さて、叔父上殿は君を再びぞんざいに扱い、大事にしないだろうと推察します。君の健やかな生活を脅かすような真似はさせないと誓った身でありますので、私からも十分配慮するよう伝えてあります。
 君は弟御との邂逅(かいこう)をただただ楽しめばよいのです。姉弟水入らずの再会ですので、私からの見送りは控えさせていただきますことをご容赦ください。
 では、毎度ながら短文で失礼いたします。
 貴姉のご健闘をお祈りしております。
 長丘敦貴

 急いで書いたのであろう走り書きのような手紙だった。絹香は部屋でひとり、敦貴からの手紙を読みながら待っている。いつもと同じく短いのに、この生真面目な文章を見るだけで心が落ち着くから不思議だ。
 ほどなくして御鍵邸では使用人たちがいっせいに庭園に並んで一視の到着を待っていた。
 表が賑やかになり、ふと窓の外を見た。どうやら一視と今利家の当主が邸に到着したらしい。
 絹香は急いで手紙を封筒へ入れ、懐に仕舞った。そして、叔父たちの歓迎の声を耳で聞きながら階段を駆け下りる。
「一視!」
 絹香は思わず声をあげた。
 八年ぶりに見る弟はすっかり背が伸びて、大人びた顔つきをしていた。絹香に似たまっすぐな黒髪と、利発そうにすっきりとした目元がこちらを見る。
「姉さん」
 声も低くなっていて、落ち着いた雰囲気だった。彼の体に合った焦げ茶色の背広がとても似合っている。
「お久しぶりです。姉さん、すっかりお綺麗になられましたね」
「あなたはとても凛々しくなったわね。立派だわ。すごく、会いたかった……」
 絹香が一視の手を握ると、彼はくすぐったそうに笑う。あの幼い一視の面影が残っている。それだけでも嬉しく、ただただ感激してしまう。
 そんな姉弟の再会に水を差すのは叔父の咳払いだった。
「絹香、今利様に失礼だ。わきまえなさい」
「失礼いたしました」
 すぐさま謝罪し、絹香は一歩後ろへ引く。そして、一視の背後に立つ老紳士、今利に深くお辞儀する。
「ようこそ、おいでくださいました」
 美しく丁寧な挨拶を心がけると、今利は嬉しそうに笑った。
「いやぁ、すっかり見違えましたな。絹香さん、ますます七重さんに似てきましたね」
 今利はおおらかで、とても愛嬌のある人だった。母の七重の遠縁に当たるというが、葬儀の際にしか会ったことがなかった。
 絹香は鍛えてきた微笑みを向けた。
「さぁ、中へどうぞ。長旅でお疲れでしょうし、ゆっくりしていってくださいな」
 叔母が中へ案内する。こちらもニコニコと完璧な作り笑いである。これにいっさいの疑心を抱くはずもなく、今利と一視は御鍵邸へ足を踏み入れた。

 瀬島は居間で使用人たちと一緒に客人へのもてなしの準備をしていた。それからは、叔父と今利を相手に学業の話について語り合う。
 彼は昨日よりも顔色が一段とよかった。しかし、絹香に対しては冷たかった。一視の前で妙な動きをすることはなく、おとなしいものだ。
 絹香も叔母と同席していたが、会話に入ることは許されない。
 ただ一視がいるだけで、この家の空気が軽く感じられる。いや、叔父たちはそうはいかないのだろうが、絹香にとっては居心地のいい空間だった。ここで粗相さえしなければ、穏便に時間が過ぎ去ってくれる。
 もし一視もこの家に引き取られていたら、叔父たちとも打ち解けていたのだろうか。そんなありもしない空想を思い浮かべてしまう。
 一視は今利や叔父たちの会話に混ざるでもなく、ただそこに黙って座っていた。チラチラと姉を見るところ、本当は絹香と話がしたいのだろう。体が成長し、たくましくなったとはいえ、姉から見ればまだ幼く愛しい弟であった。
 絹香と叔母は距離を空けて静かに茶を飲んでいた。いっさい、目を合わせずにいる。
 しかし、そんな穏やかな空間も今利の発言で一気に冷えた。
「そういえば、絹香さんは長丘家で花嫁修業をされているようですな」
 これに、叔父が絹香を睨む。その一瞬の攻撃が、絹香の心臓を握りつぶした。
 事情は今利家にも一視にも事前に伝えてあった。ゆえに、この話題は避けられないものだが、叔父は触れられたくなかったらしくぎこちない笑みを浮かべていた。
「えぇ、まぁ。なにしろわがまま放題に育ててしまったからか、縁談の話もなく……ですので、取引を再開していただいた長丘様の元で花嫁修業をさせることに」
「存じておりますよ。しかし、絹香さんは気立てもよいし、どこに出しても恥ずかしくないと思います。あの時、明寛氏の遺言で一視のみ預かるよう仰せつかったわけですが……私は、絹香さんも引き取るつもりでいたんですよ」
 そう言って今利が絹香に笑いかけた。蓄えた白い髭の下では慈愛に満ちた笑顔がある。心が震え、絹香は思わず茶器を落としそうになった。
「そうだったんですか……」
 それだけ言うのがやっとだった。
 この人に引き取られていたなら、どんなに幸せだったろうか。こんなに落ちぶれた今があまりにも無様で、誰の目にもさらしたくないという衝動に駆られる。次第に視線が下へ向き、絹香は笑うこともできなかった。
「姉さん?」
「あ、ごめんなさい」
 一視の声でハッと現実に引き戻される。
 叔父と叔母の責めるような視線が痛い。今は、幸せにあふれた令嬢になりきらねばならない。その使命を思い出し、絹香は精一杯の偽物の微笑みを向けた。しかし、気の利いた言葉はなにひとつ出てこなかった。
 気まずくていたたまれなかった絹香はひっそりと席を立ち、洗面台に引っ込んだ。放心状態のまま顔を洗う。
 ぼんやりと嵐の予感がする。一視が帰った後、叔父と叔母に罵られるのだろうと想像すれば、ますます気が滅入った。
「はぁ……」
 唐突に脳裏をよぎるのは敦貴の顔。彼の元へ帰りたい。そんな思いがあふれ、慌ててかき消す。
 ──どうして敦貴様のことを考えているの……。
 どこへ行っても居場所がないと感じ、絹香はなかなか洗面所から出られなかった。
 あの空間に戻ると自分の劣等感がどんどん浮き彫りになっていくような気がし、うまく笑えなくなる。そうなると、叔父たちに迷惑がかかる。今利に不審を抱かせ、一視にもすべて知られてしまう。それが一番恐ろしい。とくに一視に知られるのが耐えられなかった。
「──姉さん」
 背後から声がする。鏡を見ると、一視がドアを開けて立っていた。
「ノックはしたんだけれど」
「あ、ごめんなさい……気がつかなかったわ」
 急いで振り返って笑うも、やはりうまく笑えている気がしない。横目で鏡を見ると、ひどく狼狽した自分の姿が映っていた。こんなにも繕うのが下手だったろうか。
 一視はかろうじて絹香よりも背が低かった。しかし、子供の頃とは違って目線はぐんと近い。彼は心配そうに顔をうかがってきた。
「具合でも悪いんですか?」
「いえ、違うの。嬉しくて、涙が出そうになっただけ」
「本当ですか? とてもそんなふうには見えませんよ」
 一視は気遣うようでも、責めるようでもある言い方をした。自分との邂逅に不満があるのかと、そんな表情をしている。
 その厳しい圧のある口調に、やはり大人びたことを認識させられる。どことなく父の面影もあり、八年という年月で磨かれた一視の風格を見せつけられ、絹香は言葉を詰まらせた。
「姉さん、今日はどうせゆっくり話すことができないだろうから、ここで少し話しませんか」
「えぇ……」
 断ることができず、絹香はうつむき加減に笑った。
「またそんな笑い方をするんですね。姉さんは変わってしまいました」
「そうかしら。わたしはなにも変わってないはずよ」
 一視の呆れたような口調に、絹香は目を合わせず反論した。
「いいえ、昔はもっと強くて凛々しくて、優しかった。今は、なんだか誰かの目に怯えていて、しおらしく見えます。手紙にはそんな素振りなどいっさい見せなかったのに」
 現にそのとおりで、的を射ている。しかし、指摘されなければ気づこうともしなかった。
 絹香は自分の不甲斐なさを呪った。乾いた笑いが喉の奥から飛び出していく。
「わたしは……あなたに心配をかけたくなかったのよ。わたしが泣くわけにはいかないから」
「それはわかっています。あなたは昔からそうだ。でも、僕はもうあの頃のように弱くはありません。守ってもらわなくて結構です。自分の身くらい、自分で守れます」
 身震いしそうなくらい冷ややかな拒絶を絹香は感じた。一視は不信感たっぷりに眉をひそめる。
「情けない……なんですか、その顔は。あの頃の姉さんはどこに行ったんです? 僕の憧れていた姉さんを返してください」
「わ、わたしは弱いの。あなたが思っているほど強くない。誰かにすがってないと生きていけないのよ」
 追及に耐えきれず卑屈な言葉を口走る。それが決定打となり、一視の目が非難がましく細められた。
「そんな言葉は聞きたくありませんでした。幻滅ですよ」
 厳しい言葉は刃のごとく、絹香の心臓を切り裂く。一視はため息をついた。
「そもそも、長丘様の元に身を寄せているというお話も、僕は納得していません。嫁入り前の娘が男性の家で厄介になるなど、意味がわかりません。姉さんは御鍵家の格を、これ以上さらに落とすつもりですか?」
 一視の声は厳しい。きっと姉への羨望が強く、それゆえに失望感も強かったのだろう。こんなことを言うために上京してきたわけではないのだろうが、幻滅のあまり責めるしかないのだ。
「ごめんなさい」
 絹香は小さく呟いた。
「謝罪すれば許されるとでも?」
「でも、他に言葉が見つからないわ」
「はぁ……しっかりしてください。姉さんはいずれ御鍵家を背負うんですよ。叔父様の跡目を継ぐのは姉さんだ」
「まさか。女の身の上で、そんなことあるわけないわ。あなたが継ぐのよ」
 言葉の意味がわからず、絹香は戸惑いの声をあげた。そんな姉に構わず、一視は強情に言い放つ。
「いいえ、今の御鍵家に僕の居場所はありません。それに、お父様は僕じゃなく姉さんを叔父様にお預けになられた。僕は最初から期待されていなかったんです」
「そんなはずないわ。いずれはあなたが継ぐために、だからわたしは叔父様の元で、あなたの居場所を守ろうと……」
 しかし、自分の言葉に違和感を持った。どんどん消えていく自信が声になってあらわとなり、一視はさらに不機嫌な目で絹香を睨みつけた。
「では、仮にそうだとして。叔父様を支えずに勝手に家を空けたのは誰ですか」
 絹香は息を止めた。反論などできるはずがなく、またこれまで一視が持っていた劣等感や怒りを直に受け、ぐっと唇を噛む。
 それでも絹香は涙をこぼすまいと務めた。弟の前で泣いてはいけない。でも、もう心が壊れてしまいそうだ。
「……一視、あまり席を外しているといけないから、早く戻りなさい」
「わかりました。姉さんも早く戻ってください」
「えぇ」
 一視は諦めたようにその場を去った。ドアの前で一瞬だけ立ち止まり、さっさと出ていく。その後ろを追いかける気はなく、絹香は洗面台にもたれた。ゆるりと肩を落とすと張っていた気力が一気に消え失せた。我慢していた涙があふれてくる。
「……どうしてよ」
 白い器に透明の涙が流れ、視界がどんどん曇っていく。まるで水の中に放り込まれたかのように、景色が潤んでいく。
「どうしてうまくいかないの……どうしてわたしは……」
 どんな理不尽にも耐え、周囲からの要望に応えてきた。あれこれとたらい回しにされても、懸命に生きようと努力した。それなのに、たった少しの反抗がここまで周囲の信用を裏切ることになるとは思いもしなかった。
 理不尽だ。ただただ理不尽だ。これまでの人生があぶくとなって(つい)える。
「もう疲れたわ……」
 泣くことすら体力を奪う。かがんでいると、胸に仕舞っていた敦貴からの手紙が床へ落ちていった。
 そういえば、彼だけはすべてを受け止めてくれるような優しさがあった。だが、その優しさに甘えているだけなのかもしれない。これは愛ではない。瀬島が絹香にすがっていたような、そんな偽物の愛情を思わせる。
 弟への情ももしかすると、自分自身を正当化するためだけの()()だったのかもしれない。他人を思いやっているつもりが、いつの間にか自身を支えるための道具にすり替えている。それはなんだか寄生虫のようだ。
 敦貴のことを考えてしまうのは、つらいことから逃げようとしているだけなのかもしれない。そんな自分が情けなくなり、彼に会うのも恥ずかしく、どうしようもない喪失感に襲われた。
 ──わたしは、どうしたらいいの……。
 行き場がない。だったらいっそ、死んでしまえば楽になれるだろうか。
 絹香は洗面台にカミソリを見つけた。
 楽になりたい。父もそれを願って引き金を引いたのだろうか。すべてを捨てて楽になれば、永遠の幸せを手に入れられると。
 震える手でカミソリをつかむ。どこを切れば死ねるのかわからないまま、当てずっぽうに左の首筋へ刃を当てる。
 呼吸が乱れていく。恐怖と緊張が全身を巡る。これを一気に滑らせば、あとは簡単に意識を手放せる──。
「絹香さん!」
 突然、ドアから瀬島が飛び出した。ぐいっと手をつかみ上げられ、カミソリを床に落とす。
「なにを考えてるんだ!」
「離して!」
 声をあげると、彼は絹香の口を塞いだ。こんな騒ぎが居間に漏れたら大ごとだ。
 絹香は抵抗できず、涙を流したままでいた。瀬島は(あわ)れむように見つめている。それがますます惨めになり、絹香は静かに床へ崩れ落ちた。
「しっかりしてください、絹香さん。一視さんをひとりにするつもりですか? 彼はこの家のことをなんにも知らないから、ああ言っただけだろう」
 まさか瀬島から説得されるとは思わなかった絹香は、目を見開いて息を飲んだ。ドアの向こうで聞いていたのか。それとも叔父の差し金で見張っていたのか。
 おとなしくなったとわかると、瀬島は絹香の口を解放した。新鮮な空気が肺の中へ流れ込み、絹香は声を押し殺して泣いた。
「絹香さん」
 彼は遠慮がちに言った。口を開きっぱなしで後が続かない彼に、絹香はだんだんと苛立ちを覚えた。
「いい気味でしょう?」
「そんな、まさか」
 慌てて繕う瀬島だが、絹香は不審感たっぷりに口角を上げて彼を一瞥(いちべつ)した。
「嘘よ。信じられないわ」
 だが、瀬島は挑発に乗ることなくうなだれた。それがますます腹立たしい。どうして死なせてくれなかったのかと、理不尽に責め立てたくなる。
「わたしは、こうして叔父様たちの人形として生きるしかないの。だって、そうでしょう? 敦貴様との契約ももうすぐ終わるもの……」
 敦貴の名を紡ぐだけで涙があふれる。
 長丘家での生活は穏やかで温かかった。例え役目だとしても、彼のそばで恋愛ごっこをするのが楽しかったと、今ならそう思う。そして、幸福だった。敦貴との手紙のやり取りも、心を通わせるのも、かけがえのない時間だった。できることならこんな幸福を味わいたくなかった。もう誰にも愛されない生活に戻ることなどできない。
「一視はもう家族がいるの。だったら、もういいじゃない。わたしなんかいなくても、あの子はきっとやっていけるわ」
「それ、本気で言ってるの?」
 瀬島は唸るように訊いた。だが、怯むことなく口は勝手に言葉を紡ぐ。
「本気よ。だって、そうだもの。あなただって、わたしのことを愛してるって言いながら、助けてくれなかったじゃない」
「あぁ、そうだよ。僕はどうしようもなく卑劣で臆病だからね」
 彼は自嘲気味に言った。そこには苛立ちも含んでいた。対し、絹香も怒りが湧く。こんなに心が激しく揺れるのは久しぶりだ。
 しばらく互いに睨み合う。心をぶつけ合っても意味がないのに、理性はどこかへ姿をくらました。
「……あなたは、長丘との生活が幸せだったんだね」
 瀬島が諦めにも似た冷ややかな声を落とす。その言葉を肯定することはできず、絹香は強情に黙りこくっていた。
「だったら、行きなよ。そっちに飛び込んでしまえばいい。あなたの居場所は、きっと彼のところだ」
「違うわ」
 絹香は首を横に振った。
「だって、敦貴様には許嫁がいらっしゃるもの。わたしのことなんか、なんとも思ってないわよ」
 感情的になるあまり口調がとがる。そんな絹香を、瀬島は一視と同じような諦めの息を投げつけた。
「確かに一視さんの言うとおり、絹香さんは変わったよ……前はそんなふうに卑屈なことを言う人じゃなかった」
「そうさせたのは誰よ」
「あぁ、僕だろうね。そして、この家の環境があなたを変えた……僕はね、それでも前を向いて生きるあなたが好きだったんだ」
 瀬島は冷めきった目で絹香を見下ろし、カミソリを回収した。その際、落ちていた手紙も見つけた。一瞬ためらうも拾い上げて絹香に渡すと、彼は静かに洗面所から出ていった。
 残された絹香は()れた顔を再び洗い流し、鏡を見つめた。
 青白い頬と泣きはらした目が不細工だ。心が汚れている証拠だろうか。だが、いつまでも清廉ではいられない。心はすでに崩壊している。いつの間にかひび割れていて、粉々に砕けていくようだった。
 それを拾い集めるのはもはや困難であり、放置するに限る。しかし、もしかすると瀬島の心を救ったように、自分の心も修復できるのかもしれない。
 絹香は自身の胸を撫でた。心に熱を送るようなイメージをすると、敦貴の手紙が熱を帯びた。
 お守り代わりの手紙を開く。そこには、敦貴の言葉がしっかりとしたためられている。
『君の支えになれたらと思います』
 何度読み返しても、この一文が絹香の胸を穿(うが)つ。それは、まるで彼を欲するように。今すぐに会いたいと乞い願うような、身の程知らずな恋慕で。
 飛び込んでしまってもいいのだろうか。でも、そんなことは許されない。
 絹香は手紙を仕舞った。いくらか心が落ち着いていることに気がつき、思わず天井を仰ぐ。
「わたしは、敦貴様のことが──」
 皆までは言えない。それを口にすると、不幸がいっそう増すだろうから。
 あふれそうになった想いを、心の奥深くに閉じ込めた。
 ***

 部屋に呼び寄せた使用人は、いっさい顔を上げることはなかった。うなじの白髪が見えるほど、彼女は深く深く両手をついて許しを乞う。
「恒子、貴様には失望した」
 敦貴は冷酷無慈悲になじった。
 大胆にも恒子は絹香の部屋でなにかを物色していた。大方、瀬島への土産か絹香の弱みを探っていたのだろう。その場面を待ち構えていたかのごとく、米田とゐぬが彼女を取り押さえた。
 そうして今、敦貴から尋問を受けている。本家へ余計な情報を漏らしたこと、外部の人間──瀬島行人と無断で接触し、絹香の情報を探っていたこと。恒子の行いがすべて明るみになった以上、彼女に逃げ場はなかった。
「申し訳ございませんでした」
 一方、敦貴は爽やかな笑みを浮かべて恒子を見下ろしていた。
「謝罪だけでは足りない」
 声を荒らげることなく、ただただ優しく猫撫で声で言う。それがかえって恐ろしさを増すのか、恒子はカタカタと震えていた。
「私の世話係という役目を絹香に奪われたのがそんなに気に食わなかったか? そんな役目に矜持でもあったのか? まったく、バカなヤツだ。そんなつまらんことで思い上がるな」
「申し訳ございません……処罰はいくらでもお受けいたします」
 今にも泣きそうに怯える恒子だが、見苦しく釈明するわけでなく潔く罪を認める。それに対し、敦貴は底冷えしそうな低い声で返した。
「クビにしたところで、それは貴様の望みどおりになろう。この私を()めるなよ」
 恒子はハッと顔を持ち上げた。驚愕の色を浮かべている。
「どうして、それを……」
「貴様の目的はここを辞めること。わざと問題を起こして、他の邸に泣きつくつもりだったのだろうが、絹香の秘密を知った以上はここから出ることは許さない」
「そんな……っ」
 恒子はこぼれそうなほど目を開き、わなわなと唇を震わせた。
「処罰は降格だけに留めておく。あぁ、もちろんわかっているだろうが、絹香の秘密は他言禁止。以上だ。下がってよろしい」
 そう無慈悲に言い放つも、恒子は放心し動こうとしない。
 まったく、好奇心というのは異端よりも不気味で、質の悪いものだ。同時に自己嫌悪も広がる。
 敦貴は横目で恒子を一瞥しながら外へ出る。この後、大事な用事があるのだ。急がなければ、絹香がまた暗闇に囚われてしまう。
「お、お待ちください、敦貴様! どうか私めを解雇してくださいまし! お願いします! お願いします!」
 すがりつく恒子を手で払いのける。廊下で待機していた米田が彼女を取り押さえ、それでもわめき散らす恒子の怒号を背中に受けながら、敦貴は颯爽と秘書を従え横濱へ急行した。

 北風がいよいよ張り切る時期。落ち葉を巻き上げる石畳で、外套(がいとう)をなびかせて歩く敦貴は矢住外貿のビルディングへ到着した。そこで社長の矢住──沙栄の父親と対面予定だ。
 (れん)()造りの洋館は広々としていて、高価な調度品が廊下や階段に飾ってある。全体的に重めの色を使った内装であり、敦貴は大きな応接間に案内された。
 しばらくソファに座って待っていると、社長が明るい笑いを携えて駆け込んできた。中肉中背、少し額が禿()げ上がった男が気取った黒い背広姿で現れる。
 敦貴は腰を浮かせたが「いやいや」と気遣われ、そのままでいる。
「やぁ、敦貴さん。ようこそ、我が社へおいでくださいました」
「ご無沙汰しております、社長。急に押しかけてしまい、申し訳ありません」
「敦貴さんからの連絡ならどんな仕事も放り出せますよ。まぁ、外国へ出張中は物理的に不可能ですがねぇ」
 矢住は陽気で豪快に笑いながら、向かいの席に座った。こういうところが沙栄にも影響しているのだろう。力でねじ伏せるのではなく、真心で人望を集める気質なのだ。少々話が長くなるのが玉に(きず)だが。
 ここで、もたもたと世間話に花を咲かせる暇はない。矢住が調子よく口を開く前に敦貴は口火を切った。
「さっそく、本題に入らせてもらいます」
「あぁ、はい。話には聞いていますよ。御鍵商社のお話でしたなぁ。なんでも御鍵家のお嬢様をお邸に招いたそうで。さすがは敦貴さん、懐が広くていらっしゃる」
「そう大層なことではありません」
 敦貴は素早く答えた。無駄話が苦手な敦貴の気質を知っている矢住は、それ以上探ることはなかった。
 そもそも事前に訊きたいことを書面で送っていたので、矢住もすぐに表情を切り替えた。
「あの古い事件については確かに、あなたも無視することはできませんでしょう……実に胸が痛む話です。あの頃、私はまだ起業したばかりでしたから、噂の触りだけしか聞いてなかったんですがね。いやはや、身につまされる事件でした」
「そうですね。なんとも許しがたい、とても悲劇的な事件でした」
 平然と話を合わせておけば、矢住はわずかに緊張をゆるめた。
「あれほどの悲劇はありませんよ……御鍵商社の前社長はとても気のいい方で、新参の私にも丁寧に愛想よくしてくださった。めったにいませんよ、あんな人。社員にも慕われていて、最も勢いのある会社でした」
 矢住は少し言葉を切った。陽気さが嘘みたいに消沈し、口が重くなる。
 やがて、彼は天井を仰いで言った。
「しかしどうも、前社長の明寛氏と現社長の寛治氏はあまり仲がよくなかったらしいのです。こう言ってはなんだが、寛治氏が明寛氏を殺したのではないかと、そんな尾ひれまでついたものですよ。いまだに黒い噂が絶えません」
 敦貴は誰にも悟られないようゴクリと唾を飲んだ。平静そのもので黙って続きを促す。
 矢住氏は()まった息を吐き出すように、静かに声を低めて言った。
「しかし、警察の調べでは自殺だったから、そんな恐ろしいことはなかったと思いたいですがねぇ。だが、寛治氏が不正を働いたのは間違いありません。しかし、業界への不審や疑惑は避けるべきでした。義三郎様のご尽力でなんとか収束したようですが……」
 そうして、チラリと敦貴を見やる。矢住の確かめるような視線にも、敦貴は無表情を貫いた。
「えぇ。公になれば、それこそ国全体が混乱することでしたから。父の判断は正しくなくとも、間違いはありません」
 さも知っているかのごとく装えば、矢住はわずかに安堵した。そして、顔を綻ばせる。
「まぁ、そんなところでしょうな。義三郎様が御鍵家の内情のどこまでを把握されていたかは存じませんが、今の御鍵商社や業界全体を救ったのは間違いなく、長丘家のお力添えの賜物でしょう」
 父、義三郎が『任せる』と言ったのは、このことが原因か。御鍵家とのつながりはやはりあったのだ。
 寛治氏が行った不正を長丘家がもみ消し、事態を収束させた。だが、正義感の強い前社長、明寛氏は自責の念から死を選んだ。
 御鍵家の内情──寛治氏の裏切りは確実だ。そのことを苦に、家族を捨てて死を選んだというのだろうか。
 矢住から話をたっぷり聞き出した後、敦貴は行きよりもさらに険しい顔つきで矢住外貿を後にした。
 吐く息が白い。すっかり冬模様の空を見上げることもなく車に乗り込んだ。秘書が運転する車が濡れた石畳を走っていく。頭の中で、御鍵家での事件のエピソードをひとつずつつなぎ合わせていく。
「すまない、御鍵商社へ向かってくれ」
 ふいに運転席へ声を投げる。寛治へは連絡を取っていないこともあり、秘書は面食らった様子で慌ててハンドルを切った。
 車の中で揺られながら、これからどうするか考える。ふと先日届いた書簡を思い出し、懐から引っ張り出す。差出人は意外な人物だったこともあり、目を通すのを後回しにしていたのである。
 素早く読み進めた後、敦貴は「ほう」と感心の声を漏らした。

 ***

 一視の滞在中は絹香もいくらか自由がきく。ただ、長丘家へ戻るまでの時間がとても長く感じていた。
 絹香は、敦貴への手紙を投函するか迷っていた。外へ出ようと思い立つも、足がなかなか向かない。ここ一週間、食事以外では部屋に閉じこもるばかりだった。
 ──わたし、いつもこうだわ。
 敦貴はいつだって絹香をリードしてくれた。少々強引で大胆なところはあるが、絹香が嫌がれば引いてくれる。そして、愛情を育てようと熱心に考えている。それに比べて、自分は感情に左右されるばかりで情けない。
 出せない手紙にため息を落とすのももう幾度目か。
 燃える暖炉の火をもってしても冷え込む自室で物思いに耽っていると、唐突に扉をノックされた。
「はい」
「絹香さん、お客様です」
 それは瀬島の声だった。彼は事務的に告げるだけで、部屋に入ろうとはしなかった。彼の足音が去った頃、絹香は扉を細く開けた。確かに、階段下で賑やかな談笑が聞こえてくる。
 身なりを整えて部屋から出る。階段を下りていくと、そこにはこの陰鬱な家にふさわしくない美しい色合いの花が立っていた。とても優しく、満開の笑顔を咲かせる花──矢住沙栄だ。
「あ、絹香ちゃーん!」
 黒い手袋で覆った手を全力で振ってくる人懐っこさに、絹香は腰が抜けそうになった。
 今日の彼女は紫の羽織に、矢羽根模様の着物だった。髪の毛が短いから、うなじがとても寒そうだ。
 慌てて階段を下り駆け寄ると、沙栄の後ろに仏頂面の一視が控えていた。
「沙栄さん!? いったいどうしたんですか」
「絹香ちゃんに会えるかなぁと思って、この辺りを散策していたの。そうしたら、偶然通りかかられた弟様に心配されまして。ね、一視さん」
 楽しげに笑う沙栄の憎めない笑顔に、一視は品よく微笑んだ。しかし、多くは語らずにいるので顛末(てんまつ)がわからない。
 すると、沙栄は「くしゃんっ」と小さくくしゃみをした。
「まぁ、大変。体が冷えているわ」
 彼女の肩に手を置くと、長いこと外気に触れていたと思しき冷たさに驚く。
「姉さん、矢住様を早く暖炉の元へ」
 一視が間に入る。あれ以来、互いに会話もままならなかったので、話しかけてくれたのが少し嬉しい。
「えぇ、そうね。沙栄さん、わたしの部屋へおいでくださいな」
「はい! 嬉しいわ。失礼いたします」
 それから三人で階段を上がった。その場にいた使用人たちが驚きの目を向けていたが、とにかく腫れ物に触るかのようにただ静かに素通りしていく。
「ごめんなさいね、うちの人たちはみんな人見知りで」
 笑ってごまかしながら、絹香は沙栄を連れて自室へ向かった。すると、一視がおもむろに声をかける。
「では、僕はここで」
 丁寧に一礼する一視の表情は幾分か和やかだった。彼はしばらく沙栄ばかり見ていたが、ハッとして踵を返し客間へ戻っていった。
「申し訳ありません、沙栄さん。弟も人見知りのようです」
 絹香は苦笑を浮かべた。対し、沙栄はなにやら含むように笑って一視の後ろ姿を見つめていた。
「いえいえ。とても素敵な弟様ですわ。それにしても絹香ちゃんにそっくりの美形さんだわ。わたくし、ピーンとひらめきましたの。この方はきっと絹香ちゃんのご兄弟なのだわって」
 その鋭さたるや。絹香は舌を巻きながら笑って受け流した。
「叔父の邸ですので、居間を使うのが少しはばかられまして……こんなところで申し訳ありません。いま、お茶を用意しますね」
「えぇ、お願いします」
 沙栄は部屋を見回しながら朗らかに言った。
 窓辺に置かれた小さなソファとテーブルを初めて使う。
「暖炉の前であたたまってくださいな。わたしはお茶のご用意をいたしますので」
 そう言うや否や絹香は急いで台所へ向かい、紅茶を用意した。確か、英国紅茶が彼女の好物だったような。夏のことを思い出しながら、客用の茶葉とミルクをティーセットと共に盆にのせる。慣れた手つきで再び二階へ駆け上がり、自室で待つ沙栄に笑いかけた。
「お菓子を用意できなくて、ごめんなさいね」
「いいえ、とんでもないわ。急に押しかけたのはこっちだもの。お父様の会社が近いから、よく出入りしているのだけれど……絹香ちゃんがご自宅に戻ってると聞いて、つい無断で来ちゃったの」
「まぁまぁ、それは……ご連絡くだされば遣いを出しましたのに」
 呆れ半分に笑えば、沙栄は人差し指を「チッチ」と振った。
「〝サプライズ〟をしたかったの。そうしたら、道に迷ってしまって……一視さんがお声をかけてくださらなかったら、諦めて帰るところでした」
 絹香は、沙栄が座る横で茶の支度をした。その手際のよさを、沙栄は()(ぜん)とした様子で見つめる。
「絹香ちゃんって、なんでも自分でなさるのね」
「えっ……」
 思いがけない言葉にドキリとし、危うく湯をこぼすところだった。そんな絹香に構わず、沙栄は感心げに微笑んでいる。
 叔父たちからの強要で、台所仕事を長くしていたせいか、使用人のように思われたかもしれない。だが、それは杞憂だった。
「敦貴さんの元で花嫁修業をしていたら、立派なレディになれるのかもしれないわね……あぁ、わたくしもそうしたらよかった」
 いつも元気いっぱいな彼女がわずかにしおらしさを見せるので、絹香は手元が狂いそうになるのを抑えた。なんとか美しく移し替える。
「どうぞ」
「ありがとう」
 沙栄は嬉しそうにカップを手に取った。絹香も一緒にカップを取り、熱い紅茶を口につける。しばらく無言で茶を嗜んでいると、沙栄の表情がわずかに憂いを帯びていることに気がついた。
 そういえば、彼女とは長丘本家で会ったのが最後だった。あの震え上がるような場所で、沙栄は明るく努めていたものの混乱と疑心でいっぱいだったに違いない。
 一緒に茶を飲み、ホッとひと息つく。すると、沙栄の口元も柔らかになった。
「おいしいわ。とても落ち着く。体がぽかぽかしてきたわ」
「それはよかったわ。沙栄さんの体になにかあっては心配ですもの」
「あら、それは絹香ちゃんだってそうよ。あの後、とても心配してたんだからね」
 あの後、というのはやはり本家でのことだろう。避けては通れない話だと悟り、絹香は表情を作ることを諦めてうつむく。
 それが気落ちしているように見えたか、沙栄は気遣うように明るく言った。
「お義父様もお義母様も神経質なのよね。そういうところが、わたくしも少し苦手なのよ。これ、内緒にしておいてね」
 取り繕ってくれる沙栄だが、絹香は顔が上げられずにいた。すると彼女は顔を覗き込んできて、そっと手を握る。
「絹香ちゃん、あのね。どうしても訊きたいことがあるの」
「なんでしょうか……」
 こわごわ視線を上げてみると、沙栄は真剣な眼差しで絹香を見つめていた。
「敦貴さんのことなんだけれど……その、ほら、お義父様が言っていたような関係ではないのよね?」
「えっ」
 外よりも幾分暖かいはずなのに、冷水を浴びせられたように全身から熱が引いていく。
「いえ、いいのよ。だって、おかしいと思ったもの。あの敦貴さんが女性を家に招くなんて、どんな心境の変化かしらと。実はね、あの方はわたくしのことがお嫌いなんです」
 そうきっぱりと言われ、絹香は言葉を発することができなかった。一方、沙栄もこの気まずい空気を繕うと顎をつまんで訝りながら話を続ける。
「うーん、お嫌いなのかしら……それもよくわからないの。わたくしが生まれた時から敦貴さんと結婚するのが決まっていて、それはそれで素敵だと思っていたのだけれど……これでいいのかしらと迷うことがあってね」
 彼女は嘆息し、絹香の手を離した。ソファの背にもたれて天を仰ぐ。
「きっと、わたくしは敦貴さんのお嫁さんになれないわ」
「そんな、なにをおっしゃるの、沙栄さん」
「あら、おかしなこと言ってる?」
 沙栄は眉をしかめて笑った。その笑顔に絹香はどう返したらよいか困り果てた。本当のことを話せば、きっと沙栄は前向きに敦貴との婚姻を考えるはずだ。
 だが、敦貴との契約で恋人役の仕事は他言禁止とされている。沙栄に漏らすなどもってのほかだ。
「敦貴様は、沙栄さんを大事に思っておりますよ」
 感情を殺して言葉を吐く。当たり障りないことだけを告げるも、心の奥底でチリチリとくすぶる恋心が胸を焦がす。
 沙栄は訝る素振りもなく「そうね」と大きくうなずいた。
「でもね、こうして不安になってしまうのは、きっとわたくしの心が整理できていないからなのよ。うまく言えないんだけれど……一度でいいから、わたくしも自由にお相手を選べたらよかったのにって」
 その切実な言葉が、絹香の胸にサクッと突き刺さった。
 自由に選べたら──行き場のない無謀な憧れでしかないことは承知だが、願わずにはいられない。それは沙栄も同じなのだ。
 彼女は再び絹香の手を取った。
「うふふ。絹香ちゃんのおててはあったかいのね」
「え、えぇ……昔から体温が高いの」
 それはきっと異能のせいだろうが、口が裂けても言えない。そんな心情をつゆ知らず、沙栄は自分の頰に絹香の手を当てがった。
「あぁ、安らぐわ。なんだかお母様の手みたい」
 冷えてかじかんだ手を、絹香もたまらずぎゅっと握りしめた。意識せずに熱が伝わり、沙栄の手も次第に体温を取り戻していく。
「ねぇ、絹香ちゃん」
 ふと、沙栄がひっそりと呟く。
「敦貴さんのこと──」
 しかし、その続きは聞こえなかった。
「ううん。ごめんなさい。気にしないで」
 絹香は言葉の向こう側を無意識に探ったが、彼女は隠すように手を離した。おもむろに窓へ足を運ぶ。
「まぁ、雪だわ」
 彼女の声に、絹香も立ち上がり横へ並んだ。白い産毛のような雪がちらちらと下へ舞い降りていく。
「どうりで寒いと思ったのよ」
 その言葉の割に彼女は浮き足立って笑う。その無邪気な笑顔に、絹香は目を伏せたくなった。
『ごめんなさい』とすら言えない自分の立場がなんとも歯がゆく、また相反するように胸が焦がれて苦しかった。
 敦貴への想いがどんどん膨らんでいく。そんな自分を許してほしい──と。
 窓枠に積もる雪は羨むほどに純粋な白だった。
 二週間ばかりの滞在の後、一視は今利と共に九州へ帰った。結局、一視との和解はできぬままで、また束の間の平穏も終わる。
 一視が帰った途端、絹香は叔父に呼ばれた。しかも、なぜか瀬島も同席させられる。いったい、彼らはどんな密約を交わしたというのだろうか。ソファに座る叔父は洋杖を持って上機嫌だった。
 絹香は瀬島とも顔を合わせぬように心がけていた。彼もまたあの洗面所の一件から、口をきこうとしない。そんな気まずい空気を読み取ることはない叔父は、なんだか下卑た笑いをしながらふたりを見ている。
「絹香。私は少し考えを改めたぞ」
 いつもは憎々しげに口を開く叔父だが、今日は不気味なほど機嫌がいい。今利の滞在中はなにかと精神的にくるものがあったらしく、彼もまた会社にこもりがちであった。
 絹香は首をかしげた。すると、叔父は口の端を吊り上げて言った。
「お前と瀬島くんを婚姻させることにした。この瀬島くんは、どうやら私の跡を継ぐ気らしい」
「なっ!」
 絹香は思わず立ち上がった。一視という存在がありながら、どうしたらそんな発想になるのだろう。意味がわからない。
「叔父様、御鍵商社は一視が継ぐのだと、母の葬儀で取り決めたことではありませんか! そのために一視は学業に励むことを優先として、今利様の元で励んでいるんです。お忘れになったわけではないでしょう?」
「まぁ、待て。そう怒るな。いいかい、絹香」
 叔父は至って安穏に笑った。
「あれは義姉の意向であって、兄の遺言ではない。一視は今利鉄鋼を継ぐと言ったのだ。一視の意思を汲まないでどうする。今利様もその方がいいとおっしゃった上で、私が決めたのだ」
「なんですって……」
 あまりにも衝撃的な展開に、絹香は心臓の震えが止まらなかった。怒りとも恐れとも違う、なにか巨大な感情の波が押し寄せる。
 だが、思い返せば一視もそのようなことを言っていた。
 ──跡目を継ぐのは姉さんだ。
 あれはそういうことだったのか。
「お待ちください、旦那様」
 瀬島が割って入る。すると、叔父の目つきが鋭くなった。途端に瀬島の喉がごくんと動き、彼はなにも言えなくなる。
「もう決めたことなのだ。そして、お前は瀬島くんと共に会社を継ぐ。それでよいな」
「よいわけがありません。わたしはそのようなことを望んでおりません。一視が継ぐのだとばかり……」
「黙れ」
 にべもなくピシャリと言われれば、口を塞がらざるを得ない。
「私の会社だ。私が跡目を考えて話してやっているのに、なんだ、その態度は」
「いいえ、御鍵商社は父の会社です! 明寛の娘として、こればかりは譲れません!」
 絹香は強情に粘った。すると、叔父の口髭が大きく歪んだ。瞬間、絹香は思い切り床へ叩きつけられた。憤慨した叔父の顔が真っ赤に染まっており、絹香を冷たく見下ろす。
「この恩知らずめが! あの無様な兄は、すべてを捨てて死を選んだのだ! 哀れなお前をここまで育ててやったのに、なんたる不孝者だ! 恥を知れ!」
 大声で罵られれば体は無意識に震え上がった。しかし、叔父の暴言は許しがたいものであり、絹香は初めて叔父を睨みつけた。
「わたしはともかく、父を侮辱するのは許せません!」
「貴様……!」
 杖が振り下ろされる。絹香は目をつむり、顔をそむけた。その瞬間、瀬島の声がふたりの間に割って入った。
「これ以上はおやめください、旦那様。今の絹香さんには後ろ盾があります。このことが彼に知れたら、会社どころじゃないでしょう」
 彼はおどおどとしながら立ち上がり、絹香の前に立った。一方で叔父は目をしばたたかせている。
「フン、長丘家か……しかし、こいつには化け物の血が流れておる。怪我をしたところでなんら問題はない」
「えぇ、そうです。彼女は異端です……そんな秘密を抱えるには僕には荷が重すぎました。このことをうっかり知人にしゃべってしまいましたよ」
「き、貴様、私を脅すのか。この身の程知らずが……書生の分際で……!」
 叔父は驚愕の表情でわめいた。そんな叔父に瀬島は果敢にも睨み返した。そんな彼の姿を見て、絹香は困惑する。
「瀬島さん……」
「ごめんね、絹香さん。僕は君を愛していたよ。でも、僕じゃ君を幸せにできない」
 彼の声は震えていて、どうしても臆病だった。
 一方、叔父も震えていた。こちらは怒りで頭が沸騰しかけていた。しかし、長丘家の名を出されれば困るらしい。叔父はどうしても長丘家には逆らえない立場にいる。
 そんなヒリつく空気の中、唐突に玄関チャイムが鳴り響いた。使用人が台所からバタバタと玄関へ走る。そして、すぐに戻ってきた。
「旦那様! あ、あの……長丘様が……!」
「なんだと」
 叔父は首をすくめた。絹香も瀬島も同時に振り返る。使用人は終始オロオロとしており、その場で立ち止まっている。
「なにをしているのだ。さっさと通せ」
 叔父は観念したのか、使用人に命じた。そして、疲れたようにどっかりとソファへ身を投げる。
 すぐさま使用人が居間へ敦貴を通した。渋い茶色の背広に身を包んだ彼は、相変わらず涼しげな表情で外套と帽子を使用人に預けた。
「突然の訪問、失礼する」
「なんの用だね」
 叔父は忌々しげに言った。だが、言葉が尻すぼみ、先ほどまでの勢いがない。
「絹香を迎えに。彼女がまた危険にさらされているのだと手紙をもらったのさ」
 彼は絹香を見てから、瀬島に目配せした。コートの内ポケットから折り畳まれた書簡を出す。差出人は【瀬島行人】とあり、叔父と絹香は同時に驚愕した。
 瀬島は目を伏せて、口を真一文字に結んだ。
「うちの侍女がこの瀬島くんにあれこれと吹き込んだそうで、その件について話そうと機をうかがっていたんだが、先に彼から話を持ちかけられた。『絹香さんを助けてくれ』と」
「なっ、なんだと……! 瀬島! 貴様、裏切ったな!」
 叔父はもう繕うのをやめ、大声でわめき散らした。どうやら彼らの密約はいつの間にか敦貴によって阻まれていたらしい。絹香は呆気にとられるばかりで、瀬島と敦貴を交互に見やる。
 そんな面々を前にして、敦貴は一歩前に進み出て叔父へ詰め寄った。
「そもそも、私が送った提案書の返事もまだもらっていない。知らないとは言わせないぞ」
「…………」
「御鍵商社は長丘家のものとなる。そう事前に伝えたはずだ、御鍵寛治」
 敦貴の言葉に、絹香は目を丸くして叔父と敦貴を交互に見た。
「叔父様、どういうことですか?」
「やはりなにも伝えていなかったらしい。どこまでも卑しく醜い男だな」
 敦貴の冷たい言葉が突き刺さる。叔父の顔色は今や、紫色に変色していた。その目には葛藤が垣間見れる。
 絹香はゆるりと立ち上がった。
「説明してください」
「あぁ。君にもきちんと伝えておかねばなるまい。瀬島くん、君の同席も許そう」
 急な名指しに戸惑う瀬島だったが、敦貴の佇まいから発せられる圧に耐えきれないらしく静かに従った。
「叔母上はいないのか」
「お部屋にいます。呼びましょうか」
 絹香が訊く。しかし、敦貴は手で制した。
「いや、いい。後で、叔父上殿がたっぷり話してくれることを期待する」
 そうして、彼は淡々と話し始めた。八年前の真実を。

 叔父と叔母が執拗(しつよう)に絹香を憎むのは必然だったのかもしれない。それが正当であるとは思いたくないが、同情に値すると絹香は冷静に考えた。
 叔父、寛治は兄の明寛を恨んでいた。それは、明寛が許嫁である照代をないがしろにし、七重と結婚したことから始まった。
 明寛の許嫁であった照代は、やがて寛治の妻となる。しかし、その頃の照代はすでに精神を病んでいた。許嫁からの裏切りが彼女の心を蝕み、悪女と変えた。誰彼構わず暴言を吐き、乱暴になった彼女を寛治は嫌った。
 それから、寛治は順風満帆な明寛からすべてを奪おうと目論んだ。
 違法な商品の密輸を裏で取引し、社長にサインさせる。明寛はそれがなんであるか知らなかった。巧妙に細工された書類だったが、このことが水面下で発覚した後、明寛は親しくしていた長丘義三郎に事件の収束を依頼した。しかし、明寛は弟の裏切りに失意のまま死を選んだ。
 叔父はすべてを手に入れた。しかし、(めい)を引き取ることまでは予想外だったという。
 憎き兄の子供、絹香である。叔母に至っては、元許嫁を奪った女の娘である。
 この事実を暴かれて、叔父はもうなにも言えなかった。絹香も責めるどころか呆然とするだけだった。叔父の表情がすべてを物語っており、それが真実であると信じざるを得なかった。
 絹香は敦貴に連れられるまま、いったん、長丘邸に戻っていた。自室の文机にジッと座っている。
 これまでの不幸はきっと生まれながらのもので、尊敬していた父と母への憧憬までもが色あせていくようだった。
 誰かを犠牲にしてまで愛を貫くのは正しくない。ふたりの物語に憧れを抱いていた自分が情けなく思う。
「幸せって、なに……?」
 御鍵家を後にする際、瀬島に言われたものをふと思い出す。
『絹香さんは、そろそろ幸せになるべきだ』
 でも、その幸せはなんなのだろう。両親はいない。弟を頼ることはできない。唯一の生きがいであった父の会社も失くした今、なにを支えに幸せをつかめばいいのだろう。ここからひとりで生きていくのはあまりにもつらく、心にこたえるものが多い。
「……絹香」
 障子戸の向こうから敦貴が控えめに声をかけてきた。普段とは逆の構図に、絹香は違和感を抱く。
「入ってもいいか」
「はい、どうぞ」
 静かに答えると、敦貴はゆるやかな和服で現れた。彼もわずかに気落ちしているようだった。
「大丈夫か?」
「大丈夫、と言えば嘘になります……周囲が目まぐるしくて、少し疲れてしまいました」
 正直に告げると、彼は気まずそうに唸った。珍しく遠慮がちに部屋へ入り、その場に座る。視線が交わると、彼は切なそうに眉をひそめた。
「そんな顔をしないでくれ。まるで心がないみたいだ」
 その言葉にハッとする。茫然(ぼうぜん)()(しつ)とはまさにこのことか。
 絹香はぼんやりとした目で敦貴を見つめた。
「心があると、このつらさに耐えられません。感情に振り回されていると、わたしはわたしを保っていられませんもの」
「君にはそうなってほしくない」
 敦貴は絹香の肩に手を置いた。いつも上げている前髪が哀しそうに垂れており、その隙間から彼は真剣に絹香を見つめる。その視線に優しさを感じた。
 絹香は直視できず、うつむいた。
「敦貴様のお心が、やはりわたしにはわかりません。恋人という役目であるだけのわたしに、どうしてここまでのことをするんですか」
「それは……」
「長丘家のためですか? 過去の事件の清算をするためにわたしを利用したんですか?」
「違う」
 しっかりと強い否定だった。それゆえに絹香はますますわからなくなる。
「いっそ、そうだとおっしゃってください。でなければ、いったい、どうして」
「君の憂さを取り除きたかった」
 敦貴は静かに言った。その声はどこか焦燥を含んでいる。
「だから、調べたんだ。君のことを知りたくて、ただただ好奇心のおもむくままに……こんなにも巨大なものを抱えていたとは思いもしなかった」
 おもむろに、敦貴は頭を下げた。
「なっ、なにを……敦貴様、やめてください!」
「いや、謝らせてくれ。すべてを知った上で、さらに君を救いたくなった。その一心だったが……そんな顔をさせたかったわけじゃない」
 すべて、という言葉に絹香は怯んだ。まだ明らかになっていない秘密がひとつある。だが、瀬島が恒子に異能のことを話したという事実があり、これを敦貴が知らないはずがない。
 絹香はゴクリと覚悟を飲み込んだ。すると、敦貴はうなだれたままひと息ついた。
「絹香、私は君を愛しているんだと思う」
 その告白は(しょく)(ざい)じみていた。本来ならば泣いて喜ぶべき場面だが、到底受け入れられるものではない。ふるふると首を振って彼の心を否定する。
「嘘です、そんなの、信じられません」
「嘘じゃない」
 敦貴は焦れるように言った。
「これが恋慕なのだと、君が教えてくれたんじゃないか。こんな感情になるのは初めてだ。君のことばかり考えてしまう」
「そんな、どうして……」
 絶対に好きになってはならない関係だったはずだ。だが、彼の優しい言動やここまでの尽力がすんなりと腑に落ちる。同時にとてつもない罪悪感に襲われる。敦貴の胸に飛び込んでしまいたいのに、できない。
「……わ、わたしは、敦貴様の恋人役です」
 絹香は喉の奥で騒ぐ本音を隠そうと躍起になった。彼の愛を受け入れたくてたまらないのに、言葉はなおも嘘をつく。
「わたしは敦貴様を愛していません。これが恋慕だなんて……敦貴様の心も一時的なものですよ。あなたは、わたしのような不幸者を哀れんでいるだけです」
「どうして私の感情を君が語るんだ。これが偽物だとでも?」
「だって、わたしは……敦貴様の横に並ぶのもおこがましい存在です。わたしは、醜いから……」
 ふいに敦貴の指が絹香の口に押し当てられる。
「やめろ。そんなふうに言うな。言わないでくれ」
 肩をつかみ懇願する彼の目が少しだけ揺れていた。
「言ったろう、すべて調べたと。君が異能を隠していることを、私は知っている」
「…………」
 胸の中がざわざわとさざめいた。
 そんなこちらの衝撃もいとわず、彼は絹香の背後にある文机に手を伸ばした。ペーパーナイフを持ち、なにをするかと思えば自らの手を切り裂く。
「敦貴様!?」
 思わず悲鳴にも似た声をあげると、彼は憂いげな目で傷ついた手を向けた。
「治せるんだろう?」
 畳に血が滴る。それを止めるように、絹香はしっかりと彼の手のひらを包んだ。傷口をなぞるように熱を共有する。
 みるみるうちに彼の手は傷跡ひとつない滑らかさを取り戻した。
 この奇跡的な瞬間に、敦貴はわずかに両目をきらめかせていた。一方、絹香は自身への嫌悪で胸が詰まりそうだった。
「……気味が悪いでしょう?」
「いいや」
「だって、常人とは違います。手を触れるだけで傷を治してしまう。なにもなかったように。まるで、化け物みたいで……」
「君は化け物なんかじゃない。美しくて心清らかな人間だ」
 敦貴はいつになく強い口調だった。いつも冷静な彼にしては感情がこもった熱い言葉だ。
「異端は昔からある話だ。研究者だっている。それらを否定しない。おそらく君の能力は、心の負荷や恐れが招いている可能性がある。父上と母上が死に、己を責めたことが能力を強めたんじゃないだろうか」
 理路整然とした論破に絹香は頭が混乱した。
 そんな都合のいい話があるのだろうか。こういう不可思議な能力は理不尽であり、論ずることは不可能ではないか。急に言われても納得できるはずがない。
「そういう話は、今は必要ないな」
 敦貴はもどかしげに息をついた。
「君といるだけで心が安らぐんだ。知らなかった感情を教えてくれた。それが異能によるものか、君の心によるものかはともかく、私は君を愛しいと思っている。この気持ちに偽りはない。信じてくれ」
「…………」
 彼の言葉が優しく沁みる。凍りついていた心を溶かしてくれる。それはまるで、自分が誰かに施す癒しのごとく。
 絹香は肩を震わせた。我慢していた涙を抑えることができない。せき止められない感情が一度にあふれ、涙の粒が畳を濡らしていく。
「ありがとう、ございます……」
 敦貴が涙を拭ってくれるから、その手にますますすがりつきたくなる。
 ──わたしも、敦貴様が好きです。でも……。
 唐突に沙栄の顔を思い出す。もし、ここで彼の気持ちを受け入れてしまったら、沙栄はどうなるのだろう。つい先ほど聞いた両親の恋物語の結末が脳裏をよぎり、心に再び鍵をかける。
「わたしは、恋人役です。ようやくそのお務めを果たせたようで、嬉しいです」
「絹香──」
「申し訳ありません。敦貴様が女性(ひと)を愛することを覚えてくださって、わたしはとても嬉しいです」
「…………」
 敦貴は言葉をなくした。そんな彼に対し、絹香は心からの笑顔を送った。己を律するため、敦貴と潔く別れるために笑い続けている。
 やがて敦貴は表情を曇らせ、悔しそうに顔をしかめた。
「……君は、今後どうするつもりだ?」
 静かに問われ、絹香は窓の外にある庭園を見つめた。雪がしんしんと降り積もっていく。
「そうですね……もうあの家には帰れませんし、どこか遠くのお屋敷で取り立ててもらえたらと。もともとひとり立ちするつもりだったのです」
 幻想的な夢物語ではある。なにも持たぬ女の身ひとつで世の中を渡り歩けるはずがない。しかし、自分で切り開いた道ならば一生悔いはない。
 敦貴は肩を落とした。そして、元の冷淡な表情に切り替える。
「そう言うだろうと思ったよ」
 どうやらここまでお見通しだったらしい。敦貴は懐に入れていた紙を出し、絹香に手渡す。広げてみると、それは今利からの手紙だった。
「今利家に行きなさい。もうすでに話は通してある。弟御にも話はつけた。だから、安心して行くといい」
 叔父の話をした時から薄々気づいていたが、まさかそこまで配慮してくれていたとは知らず、彼の懐の深さと愛情に心がまた揺れてしまう。なにからなにまで世話をかけてしまった。
「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
 絹香は深々と頭を下げて感謝した。

 長丘敦貴様
 最後のお手紙になります。
 不躾ながら、お伝えしたいことがあります。
 わたしもあなたが好きです。とてもとても、あなたをお慕い申し上げております。
 後ろ髪を引かれるような、細く美しい線のような目尻が好きです。
 まっすぐな指が好きです。凛として涼やかな声が好きです。
 凍っていたわたしの心を溶かしてくれた、優しい言葉が好きです。
 まさか、最後のお手紙が本物の恋文になってしまうとは思いもしませんでした。ですから、これはわたしの心の奥に潜めておきます。
 もっとたくさんのことをお伝えしたかったのですが、契約上、この恋情は例えあなたにだって言えません。
 もし、来世があるのならばあなたと共に過ごしたい。
 それが、わたしの唯一の願いです。
 化け物だと罵られ、惨めだったわたしを助けていただき、ありがとうございました。人間であるとおっしゃってくださり、ありがとうございました。
 その言葉だけで報われました。また少しだけ、自分を好きになれそうな気がします。
 それが今できるわたしの精一杯の恩返しです。感謝は尽きません。返しきれないと思います。だから、たくさん笑って生きてゆこうと思います。あなたのために。
 それでは、長々とお付き合いくださり、誠にありがとうございました。
 あなたに会えて、本当によかったです。
 さようなら。どうか、末永くお元気で。
 御鍵絹香

 手紙の返事をしたためたものの、封筒に入れて自分の胸に仕舞った。
 絶対に出せない手紙を書いてしまった。しかし彼への気持ちがあふれて止まらず、文字に換えなくては心を隠すことができなかった。
 絹香は翌日、少ない荷物をまとめてひっそりと汽車へ向かった。旅立ちに見送りは不要だと前日に敦貴を説き伏せたので、ひとり寂しく長丘邸を去る。
 彼からもらったものすべてを置き去りに曇った寒風の中を歩けば、鼻の奥がツンと痛んだ。
 駅舎で汽車を待つ間、早朝にもかかわらず三人家族の姿が目の端を横切っていく。父親と母親、小さな娘。母親の腹が大きく膨らんでいたから、すでに四人家族なのだろう。
 在りし日の記憶と重なって見え、絹香はぼんやりと両親のことを思い浮かべた。
 父と母の大恋愛は、叔父たちを不幸にした。そうまでして手に入れた恋は、幸せだったのだろうか。知らず知らずのうちに誰かを傷つけていたのではないだろうか。それをわかった上で、家族となったのだろうか。
 父はよく言っていた。
『誰かのために尽くし、信念を貫け』と。
 母は口癖のように繰り返した。
『誰かを守れるように強くなりなさい』と。
 その言葉を胸に生きていたが、今にして思えば、これらは両親の贖罪のように感じて、肩に重たくのしかかってくる。
 もし両親と同じく敦貴と共に生きる道を選べば、沙栄を不幸にしてしまうだろう。すでに瀬島を不幸に突き落とした。いずれ、自分だけでなく敦貴も破滅するのではないだろうか。
 もうこれ以上、誰にも迷惑をかけたくない。だったら、潔く身を引くのも愛のうちではないか。そう自分に言い聞かせる。
 唐突に、思考の中を警笛が駆け抜けた。その煩わしい音に、ハッと顔を上げる。急いで汽車の中へ進み、一度も振り返らなかった。

 ***

 絹香が出ていってからは、邸の中が寒々しく感じた。敦貴は仕事に没頭するようになり、以前よりいっそう口数が減った。そんな主を、使用人たちは不審に思っていた。
「絹香様のことを大事に思ってらっしゃったんじゃないかしらねぇ」
 侍女長の初美が洗濯物を干しながら言った。それを聞いていたゐぬは「そうでしょうかね」ととぼける。一方で、降格となった恒子は庭先を掃除し、誰とも目を合わせなかった。
 米田は相変わらず無愛想な主の送り迎えに徹し、絹香についてはいっさい触れなかった。しばらくは邸内で妙な噂が飛び交うだろうが、そろそろ沙栄との婚姻も近い。無駄口を叩く暇があったら、花嫁を迎え入れる準備を急がねばなるまい。
 二月、凍えるような寒さが引き続き、霜焼けが痛い時期に差しかかれば、否が応でも周囲が慌ただしくなる。
 敦貴はその日、沙栄との婚姻準備のため本家へ顔を出していた。
 矢住家も呼び寄せ、式の段取りなどを決めていく。その際、沙栄を敦貴の邸に住まわせるという流れになった。
「構いません。そのようにいたしましょう」
 敦貴はすぐさま了承した。
「沙栄もよいか?」
 義三郎の言葉に、沙栄はわずかに肩を強張らせた。
「はい……敦貴さんがよろしいのであれば……」
 そう言いながら敦貴の顔をうかがってくる。敦貴は表情ひとつ変えず、沙栄に目を向けた。
 すると、沙栄はなにやら意を決したように立ち上がった。
「沙栄?」
 矢住の妻が怪訝そうに娘を見上げる。
「あ、あの、敦貴さんとふたりきりでお話してもよろしいでしょうか! ほら、これから夫婦になるのはわたくしたちですから。ね、敦貴さん!」
 早口でまくしたてる沙栄に、全員が困惑した。肘掛けに体を預けていた義三郎がゆっくりと前のめりになる。
「敦貴」
 半ば命令のような口調の父に呼ばれ、敦貴は素直に従った。すっと立ち上がり、沙栄を部屋の外へ連れ出す。
 ふたりは長丘本邸の中庭にある小池まで黙々と向かった。白雪のせいか、庭園は色のない寂しさを感じる。
 凍えそうなほど冷たい池の中を(にしき)(ごい)がゆうらりと漂っており、その様子を沙栄は慈しむように眺めた。
「冷えますわね」
 沈黙を破る沙栄の声は、いつになく淑やかで静かだ。
「ねぇ、敦貴さん。本当にわたくしとの婚姻をお望みですか?」
「あぁ」
「そうでしょうか……心ここにあらずといった様子ですわよ」
 彼女の指摘に、敦貴はようやく沙栄をまっすぐに見つめた。彼女もまたしっかりと敦貴の目を捉えている。
「まぁ、そんな顔をしないでくださいまし。あなたに憂い顔は似合いません」
 沙栄はピシャリと冷静に言った。普段はやたら浮かれ調子な彼女なのに、大人びた口調で話すのが新鮮だ。敦貴は居住まいを正した。
「すまない」
 咄嗟に出た謝罪は果たしてなにに対するものだろうか。彼女を失望させたことか、あるいは絹香と契約を結んでいたことか。胸中を巡る罪悪感の重さに辟易していると、沙栄が明るく笑い飛ばした。
「うふふふっ、申し訳ありません。敦貴さんからそのようなお言葉をいただく日が来るなんて……わたくしを泣かせた日、あなたは謝らなかったというのに」
 敦貴は沙栄と初めて会った日の光景を脳内に紡ぎ出した。あの頃の傲慢さが今ならよくわかる。
 なおも黙る敦貴に、沙栄は呆れたようにひと息ついた。
「敦貴さん。実を申せば、わたくしはあなたのことが好きではないのかもしれません」
 次から次へと繰り出される言葉に意表を突かれ、敦貴は眉をひそめた。一方で沙栄は小首をかしげて茶目っ気たっぷりに笑う。
「なんと申せばよいのでしょう……わたくし、敦貴さんのことをとても尊敬しているのですよ。わたくしを迎えに来てくれる王子様のように思っていたのです。いつまでも夢を見ていたかったんです」
 沙栄の言う王子様に憶えがある。あの日、敦貴は沙栄を見下ろしてこう言い放った。
「〝私は君の王子にはなれない〟と、そう言ったな」
「はい。それが幼いわたくしの心を砕きました」
 彼女が泣いた理由が今ならはっきりとわかる。想いが通じないというのは、とてもつらく身を裂かれるほどに悲しい。
「現実は残酷です。夢は夢のまま、花は散る前が美しい。散ってしまえば、残るのは虚しさだけ」
 沙栄はたおやかな笑みのまま言った。
「そうか……あの日に、君の恋慕は散ったのだな」
「えぇ、散ってゆきました。今、まさにそのことを確信いたしました。敦貴さんは絹香ちゃんがお好きなのでしょう?」
 唐突な言葉に敦貴は沙栄を凝視した。すると彼女は「やっぱり」と唇を舐めながら呟いた。
「絹香ちゃんがいなくなってからのあなたは、しおれたお花のようでした。とても見ていられません」
 それは叱咤にも似ており、敦貴はひたすら反省するばかりだった。沙栄を失望させまいとあれこれ画策した挙げ句の果てがこれではますます立つ瀬がない。
「沙栄……すまなかった」
「よしてください。わたくしも、敦貴さんが許嫁だと言い聞かされて育ったものですから、あなたに壮大な夢を抱いていただけなんです。だから、つらくはありません」
 きっぱりと言い放たれてしまい、敦貴はもううつむくのをやめた。
 厄介な許嫁だと決めつけていた己の心を恥じ、同時に彼女がこれほど強かな女性に育っていることにただただ感心した。沙栄もまた敦貴との障壁が薄らいだことを悟ったようで、無邪気に破顔する。
 それから、彼女はいたずらっぽく人差し指を立てて提案した。
「どうします? お義父様にはわたくしから破談をお伝えしますが」
「そんなこと、君にさせられない」
「まぁ、今さらなにをおっしゃるの」
 沙栄は頬を膨らませて顔を上げた。
「ここはこの沙栄に任せた方が賢明ではありませんこと? 敦貴さんにはお立場もありますし、その方がいろいろと都合がよろしいでしょう」
「しかし……」
「好いてもいない女に情を移すものではありません。それが優しさだと思ったら大間違いです」
 煮え切らない敦貴に、沙栄はピシャリと言い放った。その強い口調にうっかり気圧(けお)されてしまう。だから沙栄が苦手なのだ。年下のくせになんでも知ったような口をきく。
 不甲斐なく迷っていると、沙栄は敦貴の手を取って優しく上目遣いに言った。
「大丈夫です。わたくしは愛されてますから、お父様も怒らないでくださるわ。お仕事の方も順調ですし、もし傾いたとしても敦貴さんがしっかり守ってくださるでしょうし、ね」
「……まったく、君というやつは」
 敦貴はため息交じりに苦笑した。社会では敵なしの冷酷無情が聞いて呆れる。それでも、初めて抱いたこの感情をむざむざ忘れられるはずもない。
 敦貴が沙栄の頭を撫でると、彼女は頬を赤らめた。やはり無理に背伸びをしているようだ。
「君はいい妻になれる」
「えぇ、そうでしょうとも」
「今まで慕ってくれてありがとう、沙栄」
「こちらこそ、ありがとうございました。ひとときの夢、誠に楽しゅうございました」
 沙栄は丁寧に頭を下げた。
「よいご報告をお待ちしておりますわ」
 ほどなくして、沙栄の意向により矢住家との婚約が解消された。表向きは、沙栄が「好きな人ができたんです!」と押し切った形になり、このことは新聞でも報じられることとなった。
 矢住家はこの大どんでん返しに慌てふためいていたが、長丘家の沈着冷静な対応により世間からのバッシングを受けずに済んだ。その裏で御鍵商社の買収も行われたが、これについては地方新聞が小さな記事にした程度であり、大きな事件になることはなかった。
 そんな折、敦貴は気が進まなかった絹香の部屋に入った。いつまでも心の整理がつかずにいたので、使用人に片付けを頼まずそのままにしている。
 この部屋の主がいなくなってからひと月半しか経っていないのに、随分と遠い昔のことのように思える。
 沙栄から婚約を解消された挙げ句、背中を押されたにもかかわらず、絹香を迎えに行くという気にどうしてもなれない。彼女にこの想いは伝わらなかった。ゆえに迷ってしまう。彼女を迎えに行ってもよいのだろうかと。
 敦貴は絹香が使っていた文机に目を落とし、ゆるゆるとその場に座り込んだ。彼女と文通をしていた時間がたまらなく恋しい。
 黒い文箱を開ける。なにも書いていないまっさらな紙が置き去りにされており、冷たい紙面をそっと撫でた。ところどころに筆跡が残っている。
 でこぼこした文字の欠片。絹香の丸い文字を思い起こされ、便箋をつまんでジッと眺める。そこにしたためられているのは……。
 その文字を読み取り、敦貴は弾かれるように立ち上がって廊下に出た。自室の方へ向かいながら、手紙を陽に透かす。
「……米田、いるか」
 従者の名を呼びつける。
「いかがいたしました?」
「至急、駅まで車を出してくれ」
 コートと帽子を取り、玄関へ向かう。その後ろを米田が慌てて追いかける。
「敦貴様、お待ちください。そのような格好ではなりません」
 声をあげて物申す米田の声に、敦貴はハッと振り返った。部屋着の上からコートを羽織っていたことに気がつく。そんな自分にうんざりしながら、敦貴は自室へ舞い戻った。

 ***

 九州の広い空はいつまで経っても晴れがなく、灰色を帯びるばかりだった。少しは温暖な地域だろうと思っていたのに、関門海峡からくる潮風はいっそうの冷たさを運んでくる。
 こちらへ来てすぐ、一視には深々と頭を下げられた。
『申し訳ありませんでした』
 絹香の顔を見るなり謝罪した。横濱から帰る間際、すべてを敦貴から聞いたという。
 知らなかったとはいえ、姉を一方的に責めるような言い方をしたことを大いに悔やんでいたらしい。そして、敦貴からの申し出をもちろん受け入れた。そして、今利も同じ意見だったことが幸いした。
 根は真面目で、心優しい弟である。慣れない土地で気を張っていたからか、ついあんな口をきいてしまったのだとポロポロとこぼしていたが、どちらも本音なのだと思う。
 そんな弟を絹香はしっかり抱きしめた。
 会社はなくならないが、父の面影はいっさいなくなる。いずれは社号も変わり、生まれ変わるのだろう。その代わり、長丘家がしっかり取り仕切ってくれることを約束してもらったので未練はない。
 絹香は今利家でしばらく休養し、やがて近所の子供たちに手習いを教えることになった。「きぬかせんせい」と呼ばれるのが楽しく、くすぐったく、それはそれでささやかな喜びでもある。
「ねぇ、きぬかせんせい。このおはなし、しってる?」
 鉄鋼工場の片隅でストーブを()いたその場所で、ふくふくとした小さな女の子が絹香にべったりと張りついたまま言う。
 五、六歳の子供たちばかりで、まだまだ親に甘えたい盛りだ。絹香は優しく頭を撫でながら話を聞く。
「なにかしら?」
「あのね、せんせいのおてては〝まほうのて〟でしょ? むかーし、むかしに、おんなじてをもつひとがいたのよ」
「そうなの?」
「うん。そのひとはねぇ、せんせいみたいにやさしいおててだったんだって! でも、きゅうにその〝まほう〟がなくなっちゃったの。だいすきなひととむすばれたからじゃないかって、おかあちゃんがいってたよ」
「えー、そうじゃないよ。おおけがしたおとこのひとをたすけたから〝まほう〟がきえちゃったんだよ」
 すかさず、横にいた女の子が口をとがらせる。
「あたしがきいたのはね、そのとき、いっぱい〝まほう〟をつかったからきえちゃったって」
 どれもこれも似たような話だ。だが、次から次へと〝そのひと〟の話が子供たちの口から飛び出していく。
 ふと、母の顔を思い出した。確証はないが〝そのひと〟と母の顔が重なる。
 ──まさかね。
 絹香は女の子の頬を両手で触った。すると、女の子はくすぐったそうに笑う。
「あったかーい」
「あ、ずるーい! あたしもせんせいのおてて、さわらせて!」
「わたしもー!」
「はいはい、順番ね」
 こうしていると、心が穏やかになれる。
 しかし、空いた穴が完全に塞がったわけではないことを自覚していた。
 先日、長丘家と矢住家の婚約解消が新聞に取り上げられていたと小耳に挟んでいたので、ふたりの身を案じている。
 いったいどうなっているのだろう。そのことだけが気がかりだ。

 工場の終業時間になり、絹香も帰路につく。すっかり冷え込んだ外は薄群青で、そろそろ春の訪れも近いのではと期待する。だが、気温は厳しいものだ。
 川辺をゆうらりと歩いていると、自転車とすれ違った。仕事帰りの青年や、急ぎ足の女性ともすれ違う。笑い合いながら行き交う人を避け、ひとりで黙々と歩いていく。
 気を緩めると彼のことばかり心配になってしまう。今すぐに忘れられずとも、ゆっくり前を進んでいけばきっと忘れられるはず。
 だから、まったく身構えていなかった。いきなり背後から声をかけられるなんて思いもしない。
「絹香」
 そう呼ばれても瞬時には反応できなかった。
「絹香」
 再度呼ばれてようやく気づき、おそるおそる振り返る。
 のどかな夕暮れに立つその男性(ひと)は、以前と違って随分と柔らかく、いつにも増して麗しい。そして、どこか晴れやかな表情をしていた。
「敦貴様……」
 名を口にしようとすれば、声がかすれた。驚きで喉がうまく機能しない。
 目の前に、敦貴が──恋焦がれてもなお突き放した彼がいる。
 彼もまた、なにを言ったものか困っているようで、しばらく無言で絹香を見つめていた。
「君が出しそびれた手紙をもらいに来た」
 それだけ絞り出し、敦貴は絹香に一歩近づいた。
 手紙──最初で最後の恋文。あまりにもつたなくて、つまらなくて、恥ずかしくて身の程知らずの出せなかった手紙。その在処を知っているなんて思いもしない。
 でも、そんな細かいことはどうでもよかった。ここに彼がいることが、とても嬉しい。隠していた思いが込み上げてくる。
「て、手紙を受け取って、どうなさるんですか」
 ひと息ひと息、区切って訊く。すると、彼は迷いなく告げた。
「君と共に生きたい。来世なんか、待っていられない」
「……よろしいのですか? こんなわたしでも」
「あぁ。何度も言わせるな」
 絹香は一歩、彼に近づいた。そのたびに心が解けていく。すると気持ちがはやり、足が前へと進んでいく。もう止められない。気がつけば、敦貴の胸の中に飛び込んでいた。
 彼もまた絹香をしっかり抱きとめてくれる。
 こんな幸せなことがあるだろうか。絶対に叶わないと思っていた恋が今、みるみるうちに熱を帯びていく。頭の中でパッと火花が散り、絹香は泣き出した。
「愛しています……ずっと、そう言いたかった」
 その言葉をすくい取るように、敦貴は絹香の唇に触れた。絹香も迎えに行き、溺れるような口づけを交わした。
 幸せをつかむにはなにかを踏み台にしなくてはいけない。臆することなく突き進むには、(きょう)(じん)な心が必要だ。父と母はそれを乗り越えられなかった。しこりを残したままでいたから、足元をすくわれた。
 だが、絹香は両親を恥ずべき存在にはしたくなかった。彼らの愛は本物だった。その証が自分であり、一視である。これは一視とも意見は合致していた。
 しかし、彼は両親の物語のようにはなるまいと、ますます実直に勉学へのめり込んでいく。女性へみだりに愛をささやくなんてもってのほかであると突っぱねているらしい。
「あんなかわいらしいお顔をしていながら、気難しく『恋愛はくだらない』とおっしゃるのよ。まったく、どうしてあんなにわからず屋なのかしら。いったい、誰に似たんでしょうね」
 うららかな日差しの強い鎌倉の別荘のバルコニーで、沙栄が不満たっぷりに言った。絹香は顔をうつむけた。持っていた紅茶のティーカップが震える。
「なんだか心当たりがあるわ……」
「えぇ、そうでしょうとも。強情なところばかり似てしまって、本当に嫌になっちゃうわ」
 沙栄の刺々しい口ぶりに、絹香はますます縮こまった。
「一視にはよくよく言って聞かせます」
「うふふふ、冗談よ。一視さんには、わたくしがしっかりと教育を施して差し上げますから、お姉様はゆっくりのんびりとお過ごしくださいな」
「そ、そう? でも、まったく安らげないわ」
 すっかり萎縮していると、沙栄はケラケラと愉快そうに笑った。
 敦貴との再会から数ヶ月が過ぎ、季節が陽気になるにつれ周囲は目まぐるしく動いていた。敦貴に連れられて東京へ舞い戻ったものの一視の進学などの手続きもあり、ろくにくつろぐ時間もない。
 叔父と叔母は変わらずあの地で過ごしているらしい。今はもう隠居しており、すっかり表に姿を見せない。たまに顔を出す程度で大した付き合いはなくなった。
 瀬島は敦貴の援助で、実家から大学へ通うようになった。卒業までは面倒を見てもらえることになり、彼は別れも告げずに千葉(ちば)の実家へ戻っていった。
 そんな折、一番変わったのは沙栄だろう。なんと彼女は今、新たな恋が芽生えているという。
「まさか一視を気に入ってもらえるとは思いませんでした……」
「あら、わたくしはあの冬の日からずっと一視さんが気になっていたのよ。寒くて震えるわたくしにそっと手を差し伸べてくれるなんて……紛れもなく王子様でした」
 目を輝かせる沙栄だが、すぐに不満そうに頬を膨らませる。
「なかなかうまくいかないものね」
 一視の素っ気なさにはほとほと呆れるものだが、つい最近まで自分も同じように強情を張っていたから、偉そうに説教をできる身ではない。
「でも、恋は追いかけてこそ楽しいものよ。一視さん、こっちに来られてからはますますかっこよくなられて、とてもひとつ年下の男の子には思えないわ。なんでも知ってるし、すぐに覚えちゃうし。でも、やっぱり恋には興味を示さないのよね……」
「一視は照れ屋なんです。許してあげてください」
 弟の名誉のため、控えめにお願いする。と、沙栄は興奮気味に立ち上がった。
「まぁ、照れ屋ですって!? もしそうなのだとしたら、もっと押してもいいかしら? 押したら落ちてしまうかしら? うふふ、これは燃えるわね」
 そうして、沙栄は豪快に紅茶を飲んだ。その姿を見て思わず笑うと、沙栄は恥じらうように「ごほん」と咳払いした。
「まぁ、わたくしの話はともかく。絹香ちゃんはどんなご様子?」
 どうやらこれが本題なのだろう。沙栄の強い瞳には逆らえず、絹香はしどろもどろに答えた。
「えぇっと……お義父様に、ようやく認めてもらえました」
「まぁ! やったぁーっ!」
 沙栄が両手を上げて喜ぶ。その声が山の中をこだまし、海にまで及ぶ。絹香は恥ずかしくなって顔を覆った。
「よしてよ、そんな大声で……まだ、本決まりってわけではないのよ」
「でも、それはもう決まったも同然よ! あのお義父様に認めてもらえるだなんて、とてもとてもすごいことよ!」
 まるで我がことのように喜ぶ沙栄である。一方で、絹香は不安を隠しきれずに目を伏せた。
「でも、お義母様はわからないわ……」
「あら、お義母様は、ああ見えて女の子には甘々なのです。それはもうチョコレイトのごとく、とろとろに甘いのよ」
「そうかしら? お義父様よりも強敵な気がして、今から目眩がするのに」
「大丈夫! そりゃ、教育や教養にはとても厳しい人だけれどね、絹香ちゃんは礼儀正しいから問題ないわ。それに、絹香ちゃんがつらい目に遭っていたら、あの敦貴さんが黙ってないもの」
 それは想像に難くない。絹香は少し前向きになり、拳を握った。
「沙栄さんが言うのなら、大丈夫なのかもしれないわね」
「えぇ、自信を持って。わたくしも力になるわ」
 頼もしい沙栄が、ふいに絹香の白い手を取る。
「式が楽しみねぇ。絹香ちゃんなら白無垢は絶対に似合うし、でも西洋式のドレスもかわいいでしょうね。ふわふわの純白のドレス、素敵じゃない?」
「気が早いわ……」
「善は急げよ。こういうことは男性に任せず、要望をしっかり固めてねだるの。計画的にいきましょう!」
 沙栄の助言に、絹香は真剣にこくこくうなずいた。でも、やっぱり恥ずかしい。敦貴との婚姻が整う日がもうすぐ近い。考えただけで途方もない幸せを感じ、心がいっぱいいっぱいだった。顔から火が出そうだ。
「君たち、あんまりはしゃいでると、バルコニーから落っこちるぞ」
 背後から敦貴が呆れたようにのんびりと現れた。
「あら、噂をすれば、ですわね」
 そう言って、沙栄はおもむろに席を立った。
「ここから先はおふたりで、ごゆっくりお話くださいませ」
 絹香の肩をぽんと叩き、茶目っ気たっぷりに片目をつむる沙栄は敦貴に一礼してバルコニーから退散した。
 そんな彼女の背中を見送ってから、敦貴が椅子に腰掛けた。
「それで、なんの話をしていたんだね」
「女の話です。敦貴様はご興味ないかと」
 恥ずかしいので言葉を濁すと、敦貴は頼りなく眉を下げた。それがなんだか悲しげだったので、絹香は慌てて手を振る。
「大したお話ではないのですよ。たわいもないものです……式の着物のご相談でして……」
「ほう」
 たちまち敦貴は前のめりになり、興味深そうに絹香の顔を覗き込んだ。
「それで?」
「はい……純白のドレスか白無垢のどちらにしようかと……」
 すると、敦貴は深く考え込み、真剣な顔で絹香をジッと見つめた。
「白無垢だな」
 短く簡潔に答えられ、絹香は顔から火が出そうになった。一気に体温が上がった気がしていると、彼は不敵に笑って続けた。
「一等のものを仕立てよう。君が望むなら、ドレスも用意する。素材はシルクだな。絹香の名にふさわしい」
「ちょっと、敦貴様……?」
「どうした、気に入らないか? 足りないならもっと用意するが。それとも、恥ずかしくて言葉が出ないか? 君はいつもそうだな。恥ずかしがり屋にもほどがある」
 そこまでひと息に言われてしまえば、返す言葉はひとつしかない。
「こ、心を読まないでください……!」
 絹香は顔を覆って不甲斐ない声をあげた。
 敦貴の控えめな笑い声が降り注ぎ、ちらっと顔を覗かせると彼の細長い指が絹香の手に触れた。とても温かい手で包まれ、絹香も笑みをこぼす。
 やがて爽やかな風が髪をさらい、優しい時間がゆるやかに流れていった。
 愛する人がそばにいるだけで、不思議と胸がいっぱいになってくる。
 それは、焦がれて乞い願った幸せそのもの──。

【完】

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