翌日、朝食の席で敦貴の表情が柔らかいことに気がついたらしく、米田が日本茶を用意しながら訊ねた。
「なにかよい兆しでもありましたか」
「いや、どうだろう。絹香の作る料理が思いのほかうまかったことくらいか。魚の焼き具合が絶妙だった……いや、とくに兆しはないな」
「それくらいの(たわむ)れでよいのではありませんか」
 敦貴は鼻を鳴らした。新聞を開いて目を落としたが、ページはいっさい動かない。すると米田は咳払いし、ひそやかに声を低めて言った。
「ところで、ご報告差し上げてもよろしいでしょうか」
「なにかわかったか」
 途端に敦貴は新聞をサッと下ろして訊く。米田は表情を変えずに低い声で淡々と答えた。
「沙栄様と接触した侍女が三名おりました。池野(いけの)初美(はつみ)友永(ともなが)ゐぬ、馬場(ばば)恒子。沙栄様が訪問された際、かの者たちが身の回りのお世話をしています」
「ほう」
 敦貴は三人の侍女を思い浮かべた。
 全員、長丘家では長く勤めており、仕事の質も高い。沙栄の相手をするには申し分ないが、この中で口が軽いと言えば初美か恒子だろうなとすぐに思い当たる。
 ゐぬは女性にしては寡黙で、誰とも打ち解けない性格である。以前も、腰を痛めたことを申告しなかった。
「では、初美と恒子を見張れ。どちらかふたりが私たちの関係を探っている可能性がある。いや、もうすでに嗅ぎつけていて、なにか行動を起こしているやもしれん」
「はぁ……まさか。そんなこと」
 米田は釈然としないような返事をした。長年共に働いた同僚を疑うのは良心が痛むのだろう。しかし、敦貴はそんな情を持ち合わせることはなく冷淡だった。
「お前もどうだかわからんからな……」
 敦貴はふっと笑みを浮かべた。米田は頬を引きつらせ、隠れるように視線を落とす。
「敦貴様のご性分は承知しているつもりです。では引き続き、調査をしてまいります」
「あぁ、頼む」
 米田は一礼して居間を出た。
 ひとりきりで過ごすのは清々しいのだが、なにをしたらよいかわからなくなる。読書をするのも結構だが、今は〝恋人〟の絹香のことを考える方がよいのではないか。
 絹香は、沙栄の見送りに朝早くから矢住邸へ出かけていった。行かなくてよいと言ったにもかかわらず、律儀に出かける彼女の後ろ姿を脳裏に思い起こす。そろそろ戻るだろうか。
 そういえば、絹香との文通が途絶えたままだったことに気がついた。
 絹香のことが知りたい。それは、ただの好奇心か、それとも──。
「はっ、恋慕なものか」
 自身の考えを一蹴した敦貴は素早く新聞を畳み、茶を飲み干して自室へ向かった。適当な本と手ぬぐいを持ち出して外に出る。
「どちらへ?」
 庭掃除をしていた米田が不審そうに声をかけてきた。
「西の湖畔に行く。後で飲み物を持ってきてくれ」
 それだけ告げると、敦貴は絹香の帰りを待たずにさっさと森の中へ消えた。

 ***

 改めて挨拶でもと伺ったものの、矢住邸でのもてなしに動揺を隠せない絹香は、やはり肩身が狭かった。見送りに来ただけだというのに紅茶とワッフルを振る舞われるとは思わず、大きく豪奢な吹き抜けの居間の中心でぼんやり座っていた。それだけなのに必要以上に疲れる。
 敦貴との関係が潔白であるにもかかわらず、天真爛漫(てんしんらんまん)で人を疑うことを知らぬ少女の相手をするのは大変だった。とにかく早く矢住邸から出ていきたい。行かなくてよいと引き止めてくれた敦貴の言葉に従えばよかったと後悔する。
 だが、それを察するわけがない沙栄である。
「んもう、今日戻るんじゃなかったら、絹香ちゃんと一緒に遊びたかったのになぁ。ねぇ、今度はゆっくり遊びに行きましょ。ほら、東京駅ができたじゃない。外観がとても立派ですごいらしいわよ。あなた、もう見たことあるかしら」
「いいえ、まだ見たことは……」
「だったら行きましょうよ! 百貨店もあるし、お買い物に行きたいわ。あそこのパーラーはご存知?」
「えぇ、そこでしたら、敦貴様と……」
 そこまで言いかけて絹香は口をつぐむ。余計なことをしゃべってしまいそうだ。幸いにも、沙栄は気づいていない様子だった。声が小さくてよかったと心から思う。
「沙栄、そろそろ出ますよ」
 玄関から沙栄の母親らしき声が聞こえる。
「はーい! ごめんね、絹香ちゃん。お見送りありがとう」
「えぇ」
 一緒に玄関を出て、沙栄が乗り込む車まで近寄る。父と母は別の車に乗って先に出たようだ。沙栄はばあやと共に車に乗り込み、絹香の手を握ったままでいる。
「また会いましょうね。きっとよ。わたくし、長丘家に遊びに行くから。約束ね」
 そう言って、彼女はかわいらしい小さな小指を立てた。戸惑う絹香の手を取り、小指を絡ませる。
「指切りげんまん」
 沙栄は笑顔で言った。ちょうどよいところで、蒸気自動車が煙を吹かす。沙栄が指を離し、絹香はさっと後ずさった。
「それじゃあ、絹香ちゃん、ごきげんよう!」
 元気よく手を振る沙栄。車は煙を吐きながら絹香を置き去りにしていく。
 だが、沙栄の手だけは一向に消えてくれない。明るい黄緑の道をどんどん過ぎていき、曲がり角へ差しかかるまで沙栄は絹香に手を振り続けていた。
 絹香は言い知れぬ奇妙な高揚感があった。友人との約束なんて、何年ぶりだろう。それに、なんの悪意もなく無邪気に人と接するのも久しぶりだった。
 おそらく、彼女の前では顔色をうかがわなくてもいいのだろう。自然体でいられたらとても楽しいはず。
 しかし、敦貴と交わしたものの重たさのせいで心に鍵がかかったままだった。
 なんのしがらみもない友人関係になれたらどんなに楽しいだろう。それも叶わぬ望みだ。
「わたしも、沙栄さんみたいになれたらいいのに」
 絹香はしばらく豪邸の前でぽつんと(たたず)んで、ため息をこぼした。

 それからは、トボトボとひとりで歩いていた。徒歩二十分ほどで別荘へたどり着けるが、なんとなく近辺を散策してみる。しばらくひとりきりで風に当たっていたかった。
 手入れが行き届いたあぜ道は潮風が通り抜けていき、頬や首元をほどよく冷ましてくれる。小川が近いのか、耳をすますと清らかなせせらぎが聞こえた。見渡せば、青カエデの小さな葉があちこちにある。
 絹香は下駄をカラコロ鳴らしながら小道を抜けた。地面は固いが、どんどん海に近づくにつれてサラサラとした白砂へと変わっていく。
 分かれ道に出た。一方は狭い道、もう一方は大通りへ続く道。どちらへ行っても帰れるのだが、行きに使ったのが大通りだったので、今度は狭い道を選んだ。
 青カエデが続く細道はなんだか不思議な世界への入り口のよう。
 しばらく林道が続き、滑らないように用心深く、けれどはやる心に従って行くと唐突に開けた場所へ抜けた。
 突然の青い天空と小さな湖畔。平べったい蓮の葉があり、立派な花も開いている。岸の向こう側にある丸テーブルとパラソルへ目が行く。手ぬぐいを敷いた椅子に座っているのは敦貴だった。
 絹香はすぐさま周囲を見渡した。まさかこんなところで遭遇するとは思いもしない。
 岸をぐるりと回れば、すぐにたどり着ける。風に煽られ、絹香は彼のそばまで近づいた。開きっぱなしの本を胸に置いて居眠りしている。ここへ来てからの敦貴は疲れて帰ってきた後のように気が緩んでおり無防備だ。
「本当にお疲れなのね……」
 絹香はジッと彼の顔を覗き込んでみた。こめかみが汗ばんでいるので、持っていたハンカチーフで拭う。
 彼の寝顔は何度も見ているが、こんなにのどかで美しい場所で眠る姿も実に麗しいと思う。
「なにを見ている」
 目をつむったまま、彼の口がそう動いた。
「お、起きてらっしゃったんですか……」
「そう深く寝入っていたわけじゃない」
 敦貴は眩しそうに薄く目を開けた。そして、絹香の腕をぐいっとつかむ。突然の行動に身構えることができず、絹香はなすがまま体勢を崩した。
「少し付き合え」
 一方で彼は躊躇(ちゅうちょ)なく絹香を自分の膝の上に乗せた。絹香はまるで西洋人形のように彼の両膝の上に座っている。突然のことで絹香はなにも反応できずに固まった。
「あ、あの、付き合えとは、どういう意味でございますか?」
「ただここに座っていればいい。椅子はひとつきりだから」
「そんな……わたし、重いので、敦貴様のお膝に乗るだなんて」
「黙れ」
 有無を言わさない短い言葉に、絹香は渋々従った。顔を見ることなんかできない。しかし、横顔が近い。
「近くにいれば少しは緊張感が出るかと思ったんだが……あまり感じないな」
 どうやら敦貴は真剣に自分の恋心を試していたらしい。絹香にとってはいい迷惑であるが、それが仕事なので反論も拒否もできなかった。
 ちなみに、こちらは心臓がバクバクとうるさい。この音が彼に届いたら嫌だ。しかし、つかまれた腕から脈拍が伝わったらしく、敦貴が不審そうに訊いた。
「君が緊張してどうするんだ」
「だ、だって! こんなことされたら、誰だってびっくりします!」
「沙栄もそうだと?」
「……はい」
 ここで沙栄の名が出てくるとは思わず、絹香はわずかに怯む。
「私はそうは思わないな……沙栄なら、喜んで飛びついてきそうだ」
 その見解はおおむね正解だろう。彼の分析に絹香はすんなり納得できた。「ですね」と答えるのが精一杯で会話が続かない。頭の中で「これは仕事」と言い聞かせていると、敦貴が椅子の背にもたれた。
「君は私の理想だ」
「はぁ……理想、ですか?」
「あぁ」
 敦貴は穏やかにうなずいた。それはなんだか、部下を気遣うような調子だった。
「と、言いますと?」
静謐(せいひつ)で優雅で、手を焼くほどのわがままではないし、従順でよい」
 褒めているのかけなしているのかわからない。恋人ではなく例えば秘書や侍女であれば褒め言葉になるのだろう。彼の言葉に心がないからこそ臨場感がない。
 絹香は自身の心が曇っていくのを感じた。いけないとわかっていつつ、思いに反して心は正直だった。
「つまり、わたしは人形のようですか?」
「なに?」
 それまで柔らかだった敦貴の声が鋭さを帯びる。絹香は顔をうつむけることに徹した。
「なんでもありません」
「君を人形だと思ったことはないが……そう聞こえたか?」
 至近距離だから、絹香の呟きも敦貴の耳にしっかり届いていた。たまらなく恥ずかしい。
「申し訳ありません」
 言葉が見つからず、それだけ返した。
 大事にされている。しかし、それは愛情ではない。宝石や金銭を愛でるような感覚なのではないか。そんな卑屈さを見せてしまったことがひどく情けない。どんどん自分が醜いものになっていることを改めて感じた。
 敦貴はなにも言わなかった。彼が「そろそろ帰ろうか」と呟くまで、なんとなくそのままでいた。
 物言わぬ人形でいることを務めるかのように。それもなんだか彼への当てつけではないかと、絹香はますます自身を責めていく。そして、脳内は欲望でどんよりと渦巻いていた。
 沙栄のようになりたい。軽い羽のような人になりたい。誰にでも選ばれる存在になりたい。愛される人になりたい。だけどそんな願いは、ひとつも叶わない。
 敦貴に見えない場所でそっと自嘲した。

 今日の夕食は米田の手料理だった。絹香も食事の支度を手伝ったので、いくらか早く済ませることができた。
 デザートのメロンがとてもみずみずしく、優しい甘さに驚いた。少しだけ心が軽くなるも、夕食の後はひとりでひっそり展望台にのぼる。
 夜風が気持ちよく、静かな波音を耳に取り入れる。濃紺の景色は境界がなく、海と空が一体となっていた。遠くを見やれば、キラキラと宝石のような星がまたたいている。月のない空は、星が綺麗だ。
 北へ目を向ければちぎれた綿雲があったが、南はすっきりと晴れ渡っていた。星と星を結べば星座となるらしいがそこまでの知識がなく、ただぼんやりとバルコニーの手すりにもたれて眺める。
 すると、背後から誰かが階段を上がってくる音がした。振り返ると、ランプを持った敦貴がいた。
「あぁ、こんなところにいたのか」
「すみません。夜風に当たりたくて」
「ひとりにしてほしかった、とでも言いたげな顔をしているぞ」
 そう冷やかしながら彼はランプを掲げた。
「心を読まないでください」
「その言葉もそろそろ聞き飽きたな」
 昼間のことがあったのに、彼は意外にも親しげだ。夕食に葡萄酒(ぶどうしゅ)を飲んだからか少し酔っているのかもしれない。
 敦貴は断りも入れずに絹香の横に立った。ランプの火を消せば、再び真っ暗な世界へと戻る。しかし、徐々に闇に慣れたらお互いの顔もわかる。
「この場所で、私は初めて孤独を知った」
 ふと、敦貴が語る。その言葉があまりに突然だったので、絹香はすぐに反応できなかった。しかし、彼はまるで星に語りかけるかのように淡々と話をする。
「十三歳だった。親に決められた許嫁と初めて会ったのがここだ。沙栄はまだ四歳で、こんな赤ん坊のような子供とそのうち結婚しなくてはいけないのだと命令された。私は子爵家の跡取りであり、結婚する相手を勝手に選ばれることも承知であり、むしろ清々した」
 少し言葉を切って、敦貴は気だるげにあくびをした。それが場の緊張感をほぐしていき、絹香はとにかく静かに息をひそめて続きを待つ。
「でも沙栄を見ていると、自分がそれまで育った環境の異様さに気づかされた。当たり前のように両親と手をつないで歩き、母親に抱かれたり、父親に頭を撫でられたり、わがままを言って泣いても怒られない。そればかりか、彼女が泣けば周囲が大わらわで、とにかく拍子抜けしたものだ」
 そして、彼は絹香をチラリと見た。目が合った瞬間、敦貴は自嘲気味な笑いを飛ばす。
「知らなくていい世界を知った。生まれてすぐ、両親から引き離されて育ったから、ああして無邪気に近づいてもよい存在なのだと知らなかったんだ。そして、私は愛されていないのだと悟った」
「そんな……」
 敦貴の憂わしげな声に、絹香は胸の奥が切なくなった。なんと慰めたらよいか必死に考える。その間にも彼の独白は続く。
「だから知りたいんだ。愛情とはなんだ? 大事にされてかわいがられるのが愛情か? なに不自由なく生活できているのだから不満はないが、なにかが足りない。それが愛情ではないか……なんて、つまらぬことを考えるようになった」
「それは、つまらないものではありませんよ」
 絹香は思わず口を挟んだ。なんだか涙が出そうになった。しかし、ここで泣くべきは自分ではない。声が震えないように努める。
「つまらなくありません。当然の感情です」
「そうかな。私にはよくわからない。どんなに複雑な理論を理解しても、この不条理とも言うべき愛情は読み解けないんだ。そして、私が抱いた疑念が正当なものかどうかも」
「正当です。愛されたいと願うことに意味なんかありません。誰だって愛されたいと願うものです」
 そうでなければ報われない。彼の孤独のすべてを知ったつもりではないが、これだけは声を大にして言える。
 すると、敦貴は小さく噴き出した。
「いつになく強気だな……今はもうわかっているんだ。両親がどうしてそばにいなかったのか、どうして私をそんなふうに育てたのかも。ただ、沙栄と結婚するためには、この不条理と向き合わなければいけない。私は、両親と同じ(てつ)を踏むわけにはいかない」
 敦貴の静かで穏やかな声は、まるで絹香を慰めるようだった。
 絹香は夜闇にまぎれて目尻の涙をさっと拭った。感情が胸中でぐるぐると渦巻き、自分本意な思いが込み上げてくる。
「……わたしは、愛されたかったんです」
 自然と呟いていた。敦貴を見ずに、星に語りかけるように彼の独白を真似してみる。
「両親が亡くなるまで、わたしは愛されていました。とてもとても厚くて大きなお布団のように、ずっとわたしを包んでくれるのだと信じて疑いませんでした。でも、そんな毎日は続かず……そして、わたしは……人形になりました」
 御鍵家のために心を殺した。傷を癒やす異能のように心をごまかしてきた。
「最初は愛されようと努力しました。でも、うまくいかなかったのです。あまりにも落差のある生活が最初のうちはつらいものでしたが、毎日続けば心が麻痺(まひ)していって……」
 もう考えたくないと、ある日突然そう決めた。
 考えることをやめた後は楽だった。
「そもそもわたしは醜い生き物だから、愛されるわけがないんです」
 異能を持つがゆえに自分は醜く、弱く、ただ息をして生きるだけの傀儡(かいらい)である。そんなことを再認識し、絹香は嘆息した。手をぎゅっと握って力をこめれば、涙をこらえることができる。
「君が醜いと言ったそいつは目が節穴なんじゃないか」
 敦貴の声にはわずかに苛立ちが含まれていた。それが意外に思え、絹香は苦笑した。
「敦貴様はわたしのことを買いかぶっておられます。わたしは普通ではありません。非常識な存在なんです」
「それ以上は言うな。次、そんなことを言ったら怒るぞ」
 絹香はすぐに口をつぐんだ。敦貴をチラリと見ると、彼はまっすぐに星空へ目を向けていた。その横顔は怒っているように思えないが、優しさは十分に感じられた。
 敦貴は感情表現が下手なだけだ。そして、自分の持つコンプレックスを沙栄との結婚に持ち込みたくない。そういうことなんだろう。
「敦貴様はもう十分に沙栄さんのことを愛してらっしゃいますよ」
 絹香はきっぱりと告げた。こんなにも尽くそうと努力している敦貴の心をようやく見られた気がして悔しい反面、嬉しかった。
「そうだろうか? 私には手応えがないんだが」
 敦貴はもどかしげな声を漏らした。そんな彼に、絹香は優しく真剣に答える。
「愛情は目に見えぬものですから、手応えなんかありません。相手のことを案じ、思いやる御心があれば、それは立派な恋慕でしょう」
「では、私は沙栄を愛していけると思うか?」
 敦貴が訊く。なんだか子供の問いのようだが、絹香は毅然と答えた。
「えぇ、もちろん。ですから、その御心を忘れずにいてください。昔抱いた愛情への疑念も。愛情も麻痺しますので、お気をつけくださいませ」
「ふむ……難しいものだな」
「えぇ。とても難しいでしょう。でも、きっと沙栄さんのことが愛しくなりますよ。離れがたくなり、やがては心を通わせられます。だって、わたしにこうしてすべてを話してくださいましたし」
「そうか」
 敦貴は深くうなずいた。
「そうだったらいいんだがな……」
「大丈夫ですよ。沙栄さんは素晴らしい方です。きっと、敦貴様のそのぶっきらぼうなところも許して笑ってくださいます」
「なるほど。君は私をそう見ているわけだ」
 敦貴の不満げな声に、絹香は思わずおどけて笑う。すると、敦貴も噴き出した。夜空の下ではお互い素直になれた気がする。
 しばらく、ゆるりとした時間がふたりの間を流れた。波音が聞こえる。
「君は醜くなんかないさ」
 やがて彼は絹香の柔らかい髪をそっと()いてささやく。
「こんなに聡明(そうめい)で慈しみ深い女が醜いわけがない。それに、やはり君は美しいから」
 絹香は少し後ずさった。彼の言葉に心が揺れそうになり、礼を述べることもできなかった。
 敦貴の言葉はいつも突拍子なく飛び出してくるから心構えができない。喉から手が出るほど欲した言葉をいとも簡単に紡ぐので、つい甘えたくなってしまう。
 そんな自分を叱咤(しった)するべく、絹香は自身の頬をつねった。

 ***

 同刻。長丘邸は束の間の夏休みが入り、邸の使用人のほとんどが休暇に出ていた。主の留守を任されたのは、侍女の中でも長く勤める初美とゐぬ、数名の秘書などで、恒子は一週間の休みをもらうことになっている。
 だが彼女は故郷には帰らず、横濱に滞在していた。絹香の登場により長丘家での仕事に嫌気が差していた恒子は、誰にも相談せず次の勤め先を探している。
 電車に乗って市街地へ。石油会社が立ち並ぶその一角をうろうろとさまよう。
 ここは異国人が多い。初めて来る場所ゆえに気後れし、歩道のベンチに座ろうと向かうと、大橋で佇む素朴な顔立ちの青年と目が合った。ハンチングに(はかま)という格好が(あか)抜けない。その顔に見覚えが──古い記憶を手繰り寄せる。
「行人坊っちゃん?」
 思わず声をかけると、青年はハンチングの下から怪訝な目を向けてきた。
「どちらさん?」
「ほら、昔、お家で働かせていただいてた恒子です。覚えてます? あぁ、でも坊っちゃんはまだお小さかったから覚えてないでしょうね」
 行人は疑心の目を解き、すぐに笑顔を咲かせた。
「あぁ……あの、恒子ねえさんか。久しぶり。元気にしてた?」
 恒子は昔、長丘邸で働く前──うら若き十代の頃に彼の子守役として働いていた。行人が小学校へ上がった頃に役目を終え、長丘邸へ迎えられたのである。実に十年ほどぶりの再会だった。
「まさかこんなところでお会いできるとは思いもしませんでした……懐かしいですねぇ。ご立派になられて」
「まだまだだよ。僕なんて、全然ダメなんだ。今は家が傾いてさ、おまけに浪人して、会社社長の邸宅で書生をしてるんだよ。笑っちゃうだろ」
 行人は自嘲気味に笑い、肩をすくめた。その仕草に、恒子は気の抜けた声で「はぁ」と答える。
「そんなことがおありだったんですか」
「不景気なものさ。厄介になっている邸も、今はだいぶ立て直しているけれど、羽振りはよくないよね。それに、その家のお嬢さんが家出しちゃって。大変なんだ」
「まぁまぁ、それはそれは……坊っちゃんもご苦労なさってるんですねぇ」
『家出したお嬢さん』という言葉に既視感を覚え、なんとなく予感した。もしかすると、彼がなにかを握っているような。
「ところで、そこのお嬢さんというのは?」
「あぁ、御鍵家のお嬢さんだよ。知ってる? そこそこ大きな貿易会社の。この近くに邸があるんだけどさ。東京の華族様のところで花嫁修業しているんだよ」
 彼の顔が曇る。恒子はその瞬間を見逃さず、行人を覗き込むようにして訊いた。
「そのお嬢さんを探してらっしゃるのです?」
「あぁ、うん。まぁ……」
 言葉を濁す行人の表情に、迷いを読み取った。そして、その御鍵家の令嬢に特別な感情を抱いているらしいことも。子守をしていた経験からすぐにわかった。
 しかし、御鍵絹香を知っていることを行人に知れるのはまずい。恒子はこちらの思惑を悟られないように細心の注意を払った。
「坊っちゃんも隅に置けませんねぇ。そのお嬢さんのことを好いてらっしゃるようで」
「バカ言わないでくれ。身分違いだよ」
「それにしては未練がおありのようです。会いたくて会いたくてしょうがないといったような……哀れですわ」
 行人は唇を噛んだ。煽りすぎただろうか。うぶな青年の恋路を茶化したくなるのは相手が絹香だからではなく、ただただ単純に高揚していた。
 恒子の中で、絹香に対する評価は今のところはかなり低い。たかが着替えの手伝いさえも誰にだって敦貴の世話役を譲りたくなかった。敦貴からの要求は面倒だが、そんな彼にも信用されているのだという誇りがある。自分の役目を奪ったのが許せない。
 夜、ふたりがなにをしているのかわからないが、とても怪しく思っていたところだ。絹香がまさか家出をして長丘邸に転がり込んでいたとは。ますます疑わしくなり、悪知恵が働く。
「坊っちゃん、これもなにかのご縁です。この恒子に話してみてはどうです? そうすれば少しは心がさっぱりするでしょう」
 ひと押しすれば、彼はつらそうな表情を恒子に向けた。恥ずかしそうにするかと思いきや、行人は気まずそうに口の端を曲げる。肩を落としてため息をついた。
「僕、ひどいことを言ったんだ。それで、彼女が怒ってしまって……こんな家出、すぐに終わると思ってたんだ。旦那様も絹香さんをすぐに連れ戻すだろうって」
 行人は顔を覆ってため息をついた。その背中を恒子は労るようにさする。
「やっぱり華族には逆らえないものだよ……本当に憎たらしい。金のあるやつって、どうしてあんなに傲慢なんだろう。なんでもかんでも我が物顔でぶんどるんだ」
「まぁ……とても大変な思いをなさってるんですね。健気です」
「ありがとう。でも、僕はやっぱりなんにもできないんだ。彼女が旦那様から蔑まれていてもね。彼女と婚姻でもすれば少しは状況も変わるかなぁと思ってたんだけれど……それも難しそうだな」
 なにやら含むように言う。純朴な顔立ちの彼には不似合いな冷笑が、わずかに寒気を感じさせる。
 いったい、御鍵家でなにがあったのだろう。もう少し詳しく話を聞きたいところだ。
 しかし、これ以上踏み込むと、行人が不審を抱きかねない。
「ねぇ、坊っちゃん。この横濱と東京、交通の便がよくなったことですし、困ったことがあれば恒子にご相談なさってはいかがです? いつでもお話相手になりますよ」
「本当に? 嬉しいな。恒子ねえさんが味方だと心強いよ」
 途端に行人の表情が明るくなる。天真爛漫な少年のようで、やはりこちらの方が彼によく似合う。
 恒子も笑顔を返した。その裏では、冷めた思いを抱く。
 長丘邸を辞め、どこかに就職をしようかと思っていたところだったが、思わぬ収穫に心が弾む。あわよくば絹香の弱みを握れることにもなりそうだ。
 ──絹香様のこと、もう少し調べてみようかな。
 もしかすると、彼女を陥れることができるかもしれない。

 ***

 盂蘭盆(うらぼん)が過ぎるまではこの鎌倉で過ごすこととなったが、たびたび彼が仕事で出かけることがあり、常に一緒というわけにはいかなかった。ひとりで海まで散歩し、のんびりと優雅な生活をしていることに不満はないが退屈ではある。それに、恋人という役割が担えているのか不安を覚えることが多々ある。海を見つめるたび「これでよいのかしら」と悩み、自身の慢心さに呆れていた。
 敦貴との壁を感じることはなくなったものの、大本の目的は、敦貴が女性に愛情を傾けられるようにしなくてはならない。だが、事を起こすのは危険だ。一線を越えるわけにはいかず、かといっておとなしく侍女のように付き従うのも違う。
 敦貴は単純に他人へ心を開けないだけなのだ。あの星夜で語り合った時のように彼が自分の話をすることは(まれ)であり、沙栄にもあのくらい素直に接することができるようにしなければならない。
 もう少しで敦貴の心が開きそうなのだが、人目が気になってしまうのも悩みどころだった。長丘家内部に潜む何者かが外界へ絹香と敦貴の関係を漏らす恐れがあるので、邸へ帰ったらさらに警戒して敦貴との時間を過ごさなければならない。
 海外出張が決まり一足先に敦貴が邸へ戻ってしまうまで、とくに進展はなく、絹香はさらに落ち込むのだった。
 そうして短い夏が散っていった。

「絹香」
 それは鎌倉から戻ってきて一週間ばかり経過した頃だった。短期の海外視察から帰った敦貴に呼ばれ、部屋に向かった絹香は積み重なった新品の洋書や本の山に驚いた。
「まず、帰ったらすぐこれを渡そうと思っていた。入用なら他にも取り寄せるから、遠慮なく言いなさい」
 幾重にも積み重なった本は絹香の腰元にも及ぶほどである。
「こんなにたくさん……ありがとうございます」
 深々と頭を下げると、彼は「うん」と柔らかにうなずいた。その声音がどことなく楽しそうなのはきっと気のせいだと思う。
「それで、今日はどうだった? 君の話をしてくれ」
 自ら話をしようと言い出すのもめったにない。大方、今日の仕事が早く片付いたおかげで機嫌がよいのかもしれないと推測する。
「はい。今日のお稽古はお華でした。家元によれば、筋がいいとのことでお褒めの言葉をいただきました」
「そうか。それはなにより」
「敦貴様の方はお仕事はどうでしたか?」
「とくにこれといっては。まぁ、ひと段落したところだ」
 敦貴は着物に着替えながら言った。その後ろで、絹香は背広のシワを伸ばしている。すっかり彼の着替えの世話が板についてしまったことに対し、絹香は解せないでいたが、つい世話を焼いてしまうのは性であると自嘲した。
「今は沙栄の輿入(こしい)れの方が重要でな……打ち合わせをしに本家へ行くことが多くなりそうだ」
「いよいよですね」
「あぁ」
 敦貴はため息を漏らした。どうやらまだ心の整理はつかない様子だ。絹香は口を開きかけたが、それは敦貴によって遮られた。
「ちなみに、君はもう手紙を書かないのか?」
「え?」
 思わぬ問いに、絹香は間の抜けた声で驚いた。
「書いてくれないのか?」
 敦貴がなおも訊く。
 正直なところ、もう手紙のやり取りは必要ないのではと考えていた。しかし、その考えこそも怠慢ではないか。給金をいただいている身なのに勝手に思い上がっていたことをすぐさま恥じる。
「申し訳ありません」
「いや、忙しいなら結構だ」
「急いで書きます。少々お待ちくださ――」
 慌てて立ち上がろうとすると、敦貴の手が伸びてきた。
「待て。そう慌てるな。なにも怒っているわけじゃないんだ」
「そうなのですか……てっきり、怒ってらっしゃるのではと思ってしまいました」
 正直に言うと、敦貴の眉が不審そうに曲がった。そして、ため息交じりに笑う。
「あの休暇の時に十分世話になった。だから、もっと励め。期待している」
 敦貴の声は優しく、今までになく柔らかだった。それが奇妙に思えて仕方がない絹香は胸の中がくすぐったくなり、ぎこちなく笑った。
 しかし、恋人役として他になにをしたらいいのか、次の段階がやはり思いつかない。こうなったらいっそ彼と相談するほかないだろう。絹香は咳払いし、姿勢を正して敦貴を見つめた。
「具体的にどう励めばよろしいでしょうか」
「手紙の内容はもっと君の内面を書いてほしい。赤裸々に語ってくれ。この前、星の下で語っていたように」
「……承知しました」
 少し迷う。彼に語って聞かせるような楽しい話はもうない。あるのは暗くて汚い闇。しかし、書けと命令されれば書くしかない。
 敦貴があくびをし始めたところで、絹香は部屋から下がった。彼はなんだかまだ話し足りない様子だったが「手紙を書きます」と告げれば納得してくれた。
 明日、朝一番に手紙を渡せるよう、今から書いてみる。文机に座り、しばし便箋を睨む。
 絹香は、これまでのことを振り返った。
 三歳の頃、一視が生まれた。その頃から異能は発現していたらしく、自覚したのは九歳だった。一視の世話をすると、不思議なことに彼の体調がよくなるのだ。また、転んで擦りむいても撫でればすぐに傷が消えたことで、自分が他の者と違う存在なのだと気がついていった。
 それを知りながらも両親は優しく、とても温かく絹香と一視を見守っていた。
 しかし、父の仕事がうまくいかなくなってから暗雲が見え始める。
 父の自殺。そして、母の死。叔父を始めとする親族たちで遺産や子供たちの相続をどうするかが毎日議論される。外へ出かければ新聞記者に追いかけられる。
 ようやく叔父が社長に就任した頃には一視と離れ離れになってしまい、不遇を強いられた。やがて、世間体を気にした叔父が女学校への入学を渋々ながら認めてくれたが、異能を持つということが知れた後は、ますますひどい扱いを受けるようになった。
 叔母に口答えをしてしまい、平手打ちを食らったのがきっかけだった。口の端が切れ、血が飛んだ。それを咄嗟に拭ったら傷が治る。絹香にとっては日常でも、叔母にとっては非常識であった。
『化け物』
 脳内にこびりつくあの侮蔑が背後から聞こえた気がし、絹香はすぐさま振り返った。
「……はぁ」
 動悸(どうき)がする。しばらく穏やかな日常が続いたせいか、あんなに慣れていたはずの言葉も体が受け付けないほど緊張した。
 胸を押さえて落ち着かせる。
「どうしよう。書けないわ。こんなの、書けるわけがないもの……」
 心の傷はまだ残っていた。この自身にまとわりつく不幸が、とてつもなく巨大な壁に思えて仕方ない。
「当たり障りない話をしないと……沙栄さんのようにならないと……」
 結局、絹香は叔父の家であった話の半分も書けなかった。