北地区の住人は貴族や聖職者がほとんどだが、その他にも広大な土地を持つ地主や役人、貿易商人、名のある職人ギルドの長などが住んでいる。

 なので、北地区にはもはや宮殿かと思うほどに豪華な邸宅が立ち並び、狭いスペースを活用するために高層化している他の地区の家と違って住居が低く作られている。

 到着したカタリナの家も類に違わず豪華な邸宅──だと思ったが、意外にも質素なものだった。

 北地区でよく見るような石造りでもないし、広大な庭に別宅があるわけでもない。背が低いことを除けば、俺の住んでいる家と大差ない作りだった。

「……ここでいいわ」

 玄関口まで来たとき、背中からカタリナが声をかけてきた。

 俺の背中で少し寝ていたからか、酔いつぶれていたときよりも口調ははっきりとしていた。

「送ってくれてありがとう」

 そう言って背中から降りたカタリナだったが、一歩踏み出そうとしてふらりとよろけてしまった。

「お、おい、平気か? ヤバいなら中まで運んでもいいけど」

「なっ、中っ!? だっ、だだ、大丈夫だから!(中に入ってナニをするつもりなの!? 勢いでいっちゃうの!? ううん、ダメダメ! だって掃除してないもん!)」

 顔を真っ赤にしてうろたえるカタリナ。

 いや、掃除してたらいいのかよ。なんだかんだ言って、期待してるとか?

 まぁ、それは冗談だとしても、そこまで妄想を膨らませられるなら大丈夫か。

「ピュイくんのほうこそ、大丈夫なの?」

「え? 俺? 俺は平気だ。だって全く飲んでないし」

 カタリナとサティの酒を運ぶのに忙しくて、今日は一滴も飲んでいない。

「そういうことじゃなくて、帰ってる途中で衛兵に見つかったら禁足令違反で捕まっちゃうでしょって意味よ」

 ああ、そっちか。

「確かに見つかったらヤバいかもだけど……だからといって、お前に『一晩泊めて』なんて頼めるわけないだろ」

「それは……なんていうか……ど、どうしてもっていうなら……考えてやらなくもないけど」

 カタリナが恥ずかしそうにうつむく。

 想定外の反応に俺もうろたえてしまった。

 俺は「一人暮らしの女子の部屋に泊まろうだなんて、下衆の極みね」なんて辛辣な言葉を期待していたんだけど。

 しばし俺たちの間に沈黙が流れる。

 聞こえてくるのは、吹き抜ける風で揺れる草葉の音だけ。

 その沈黙に飲み込まれそうになってしまった俺は、慌てて口を開く。

「き、気遣いはありがたいけど、だだ、大丈夫だ。衛兵の巡回ルートは知ってるし、そこを通らなければ問題ない……と思う」

 さっきみたいなポカをしなければ見つかることはない。

 遅くまで金熊亭で賭けポーカーをすることがあるから、頻繁に変わる巡回ルートの情報は定期的に仕入れているのだ。

「そ、そう」

 カタリナはどこか残念そうな顔で続ける。

「なら、いいけど……(別に、泊まってくれてもいいのに)」

「……」

 再び、重苦しい沈黙が降りる。

 これは、どう返すのが正解なのだろう。

 ここで断って帰るのは、逆に失礼だったりするのだろうか。

 でも、「掃除してないから部屋に上がるのはダメ」って言ってたし、そもそもこんな時間に女性の部屋にあがるってのは失礼にあたるんじゃないだろうか。

 街のリア充男子は、こういうシチュエーションになったら「やったぜヒャッホイ」とお邪魔するものなのか?

 マジでわからん。

「冒険者試験」

 と、ぽつりと聞こえたのはカタリナの声。

 突然放たれた文脈を無視した単語に、俺はぽかんと呆けてしまった。

「……って本当に受けるつもりなの?」

「あ、ええっと、そのつもり……だけど?」

「試験を受けるのって、わたしがお願いしたから?」

 彼女はうつむいたまま、ちらりと上目遣いで俺を見る。

 軽く悶絶してしまう。

「そ、それもある」

「……そう」

 カタリナがふと目をそらす。

(本気でわたしのこと、考えてくれてたんだ。嬉しいな)

 そして聞こえたのは、カタリナの本心。

(今日は特別な日にするって思ってたけど……こんなプレゼントをもらえるなんて思わなかった)

 カタリナの口元が、かすかに笑っているのがわかった。

 つられて頬が緩みかけてしまった俺は、さっと視線をそらす。

「べ、別にこれがお前の誕生日プレゼント……ってわけじゃないけど、喜んで貰えたならこっちも嬉しいよ」

「……誕生日?」

 ふと、カタリナが顔を上げた。

「って、どういう意味?」

「いや、今日ってカタリナの誕生日だろ?」

「え? 違うけど?」

「……は?」

「今日はわたしの誕生日じゃない」

 すっと両足の感覚が無くなったような錯覚に襲われる。

「ちょ、ちょっと待て。マジで今日ってカタリナの誕生日じゃないのか?」

「だから違うって言ってるでしょ」

「う、嘘だろ? 金熊亭に来たときバッチリメイクしてたのって、今日が誕生日だって俺にアピールしてたからじゃないのか?」

「は、はぁ!? なに言ってるの!?」

 カタリナの顔が爆発するんじゃないかと思うくらいに真っ赤になった。

「な、なな、なんでわたしがそんなことをピュイくんにアピールをしなきゃいけないのよ!? バ、バカじゃないの!? (リルーに負けないようにピュイくんの気を引こうって思ってたのは事実だけどっ!)」

 そっちかい!

 いや、そっちなんかい!

 あまりの衝撃で、2回言っちゃったわ!

 なんだよ!? 完全に俺の勘違いだったってことか!?

 いやまぁ、誕生日アピールするためにおしゃれするって、変だなとは少し思ってたけどさ!

 というか、何が「十中八九、誕生日だな(ドヤァ)」だよガーランドのやつ! 全っ然違うじゃないか!

 基準がリルーだからか、本当にあいつの女性に関するアドバイスは参考にならないな!

「……ちょっと待て」

 そして俺は、恐ろしいことに気づいてしまう。

 今日がカタリナの誕生日じゃなかったってことは、つまり、金熊亭で大金はたいて祝ったのは無意味だったということだ。

 大量の酒と料理の支払いは、完全に無駄金だった。

 マジでふざけんな! なんで俺がくだらない女子メンの飲み比べ代なんて支払わなきゃならんのだ!

 ああ、畜生! 

 それもこれも、カタリナが突然妙な行動を取ったからだ。

 俺の気を引こうとしていたお前の作戦は、大成功だよ!

「あの」

 と、怒りに任せて小言のひとつでもぶつけてやろうかと思ったとき、不意にカタリナが口を開いた。

「わ、わたしの誕生日」

「え?」

「わたしの誕生日は、白山羊月の12日だから」

 突然の告白に、俺の頭は真っ白になってしまった。

 ぶっとんでしまった頭で、カタリナの言葉を反芻する。

 白山羊月──丁度、2ヶ月後。

 冒険者試験がある月だ。

「な、何よその顔」

 俺の反応を見て、不服そうに唇を尖らせるカタリナ。

「一度しか、教えないんだから」

「あ、うん……わかった。覚えとくよ」

 俺の頭の中は引き続き大混乱だった。

 誕生日を教えてくれたってことは、俺に祝って欲しいってことなのか?

 いやいや、単純に間違って覚えていた誕生日を訂正したかっただけってことも考えられる。

 でも、それだったらわざわざ日にちまで教える必要はないはず……だけど。 

 一体どっちなんですかカタリナさん。

 そこらへんをはっきりさせたくて、心の声を聞いてみたのだが──

(ピュイくんにわたしの誕生日、教えちゃった……えへへ)

 カタリナの心の中はフワフワお花畑だった。

 うん、可愛い。

 けど、これはどっちなんだろう。

 全然わからん。

 心の中に「あなたは俺に祝ってほしくて誕生日を教えくれたんですか」と尋ねられたらどれだけ楽だろう。

 読心スキルって、こういうときにかゆい所に手が届かない。

 ほんと、マジで使えない。

 出口が見えない思考の迷宮に迷い込んでしまった俺は、しばらく答えを模索してみたが──うまく考えがまとまらなかったので、ひとまず保留することにした。

 なんていうか、今日は色々あって疲れた。

 こういう日は、さっさと家に帰って寝るに限る。

「じゃあ、とりあえず俺は帰るわ」

「……うん、また明後日ね」

 カタリナは控え目に小さく手を振った。

 恥ずかしそうに、少しだけ、はにかんで。

「お、おう、またな」

 妙にドギマギしてしまった。

 なんだこれ。

 確かに、明日はオフ日だから次にカタリナと会うのは明後日になる。

 だけど、雰囲気的に次に会える日を待ち遠しく思ってる恋人同士みたいだ。

 変な妄想が膨らみ、顔が熱くなってしまう。

 カタリナの顔を直視できなくなった俺は、逃げるようにカタリナの前から立ち去った。

 しかし、彼女の家の敷地から出る瞬間、不意に足がとまりかけた。

 なんだか、無性に振り返りたくなってしまったからだ。

 カタリナはまだ扉の前に立っているかもしれない。

 名残惜しそうに、俺のことを見ているかもしれない。

 そんなカタリナが見たいと、願ってしまう。

「……ああ、クソ」

 俺はそんな想いを振り払い、急いでその場を離れた。

 なんなんだ、これは。

 このモヤモヤは、なんなんだ。

 これじゃあまるで、カタリナのことが──。

「……はぁ。酒、飲みたい」

 こういう日こそ、全てを忘れさせるために、浴びるくらいの酒が飲みたい。

 星が煌くヴィセミルの夜空を見上げながら、俺は心の底からそう思ったのだった。