金熊亭を出たとき、ヴィセミルの街は淡い黄昏に包まれていた。

 夕陽は城壁の向こうに見える山に隠れ、空はすっかりぶどう酒のような色に染まっている。

 待ちゆく人々の姿もなく、目につくのは街を巡回している衛兵くらいだ。

「おい、お前ら」

 その衛兵が俺たちをじろりと睨んでくる。

「早く家に帰れ。そろそろ鐘が鳴る時間だぞ」

「あ、はい、すみません」

 衛兵に怒られ、俺は深々と頭を下げた。

 ヴィセミルの1日は、ルイデ像広場にある鐘の音で終わる。

 その鐘が鳴ったあとは酒場での飲み食いはおろか外出も禁止で、それを破った者は「禁足令違反」で処罰されてしまうのだ。

「……随分と長い時間、飲んでたんだな」

 ガーランドが空を見上げてささやいた。

 その背中ではモニカが寝息を立て、傍らでは目が座ったままのサティが、まるで船を漕いでいるみたいに揺れていた。

 カタリナとサティの飲み比べは、サティの勝利で終わった。 

 カタリナが桶の中に顔を突っ込んでいる間もサティは淡々と(ガーランドにウザ絡みしつつ)ジョッキを空け、13杯という圧倒的な数を叩き出した。

 その小さい体のどこに13杯分の酒が入っているのか不思議すぎる。

「モニカとサティは俺が責任を持って自宅に送る。ピュイはカタリナを頼むぞ?」

「おう」

 俺たちに残された最後の仕事は、酔いつぶれた女子メンバーを自宅まで届けることだった。

 モニカとサティは東地区に住んでいるらしいので、同じ東地区に住んでいるガーランドが送り届けることになり、家は逆方向だと言うカタリナは俺が送ることになった。

「それでは、またな」

 そう言って、モニカを背負ったガーランドと、頭を揺蕩わせているサティが薄暗闇の中に消えていった。

 静寂に包まれた金熊亭の前に残されたのは、俺と──うなだれているカタリナのふたりだけ。

「う〜……」

 地面にへたりこんでいるカタリナが、アンデッドモンスターのようなうめき声を上げる。

 俺にハグを求めてきてからずっと桶の中に顔を突っ込んでいたが、いまだ酔いが覚めていない。

 店を出るときになんとかチュニックは着させたが、胸当ては「苦しいから着たくない」と言うので俺が持っている。

「じゃあ、俺たちも帰るか」

「ふぁい……」

 カタリナはゆっくりと立ち上がると、おぼつかない足取りで歩き出す。

 どうしようか迷ったが、転んで怪我をされては困るので、彼女の腕をそっと掴んだ。

「それで、カタリナの家って、何処なの?」

 尋ねると、カタリナはぼんやりとした顔で俺を見た。

「え? あ〜……ん〜と……北地区?」

「いいとこ住んでんだな」

「そんなことないわよ。いたって普通よ。普通、フツウ……フフフ」

 何が面白いのか艷やかに笑うカタリナ。

 それがあまりにも色っぽい仕草だったので、ついドキッとして彼女の腕を掴んでいた手を離してしまった。

 すぐにカタリナはふらつきはじめ、茂みの中に尻から突っ込んでしまう。

「あ、すまん! 大丈夫か?」

 慌てて駆け寄る俺。

「だ〜いじょうぶだってば」

 にまにまと笑うカタリナは俺の手をとってゆっくりと立ち上がると、またしてもフラフラとあるき出す。

 そして、近くの小屋の前で立ち止まり、こちらを振り向いた。

「ここがわたしの家よ。じゃあねピュイくん」

「そこは豚小屋だ」

「……はれっ?」

 うつろな目で豚小屋と俺を交互に見るカタリナ。

「はれ? はれれ? わたしの家は? どこ?」

「知らん」

 どんだけポンコツになってんだよコイツは。

 ああ、畜生。普段のカタリナからは想像できないくらい、可愛いじゃないか。

「ん〜……」

 カタリナはしばらくぽかんとしたあと、ひょこひょことこちらに歩いてきた。

 そして、ぱっと両手を広げる。

「ピュイたん、だっこ(だっこして)」

 肉声と心の声のダブルパンチ。

 俺は心の中で吐血した。

「せっ、せめておんぶにしてもらえませんかね?」

「うん、いいよ」

 ニコニコと満面の笑みを浮かべるカタリナ。

 ああもう、いちいち反応が可愛いな!

 ピュア・カタリナの顔を見るのが恥ずかしくなったので、背中を向けてかがみ込んだ。

 すぐに、ドサッとカタリナが体を預けてくる。

 俺の顔がさらに熱くなった。

 カタリナは胸当てをつけてないので、その……なんていうか、彼女の柔らかいアレがむにゅっと俺の背中に当たっているからだ。

 意識するなピュイ。

 今、お前の背中にあたっているのは、おっぱいではなくただの脂肪の塊だ。

「フフフ、なんだか楽しい」

 よいしょと立ち上がると、背中のカタリナがくすぐったそうに笑った。

「こんなに飲んだの、久しぶりかも」

「そ、そうか、そりゃ良かったな」

 しっかりと誕生日を祝えなくて心苦しかったけど、楽しんでくれたのなら何よりだ。

 そういえばと、プレゼントを用意していなかったことを思い出す。

 明日はオフ日だし、何か適当なものを買いに行ってやるか。

「お前、何か欲しい物ってある?」

「え? 干し芋?」

「ちがう。欲しい物」

「ん〜、今は特にないかな。こうしてピュイくんにおんぶしてもらってるだけで幸せだもん」

「……っ」

 畳み掛けるようにデレてくるカタリナに、頭の中が痒くなってしまう。

「わたし、本当にピュイくんと出会えてよかった。だって、ピュイくんは優しいし、かっこいいし……わたしを何度も助けてくれる、頼りがいがあるリーダーだもん」

「あ〜……ええっと、あ、ありがとう」

 そう思ってくれるのは嬉しいけど、それくらいでやめてもらえませんかね。

 誰かに聞かれでもしたら、もうヴィセミルを歩けなくなってしまうから。

 俺は恥ずかしさを必死に押し殺しながら、北地区へと向かった。

 街を吹き抜ける夜風が、俺の火照った頬をなでていく。

「……ねぇ。わたしのことどう思ってる?」

 カタリナが不意に意味深な質問を投げかけてきた。

 一瞬ドキッとしてしまったが、散々致死級のデレを食らったせいなのか、そこまで動揺することはなかった。

 俺は努めて冷静に返す。

「そりゃあ、頼れる仲間だと思ってるよ」

「そういうんじゃなくて」

「……」

 沈黙。

 激しく脈打つ自分の心臓の音が聞こえる。

 前言撤回。やっぱり動揺を隠せません。

 俺は近年まれにみる速さで、頭をフル回転させる。

 これは、何と答えれば正解なのか。

 「なんだよ、ひどいな。仲間だと思ってたのは俺だけなのか?」なんて冗談を言いたいところだけど、そんなふうにごまかすのは、なんだかカタリナに悪い気がする。

 とはいえ、「好きだ」なんて言えるわけがない。

 正直に言おう。カタリナは可愛い。

 見た目は綺麗だし、辛辣なくせに心の中は乙女で萌えるし、妙なところでポンコツだし。

「あなたはカタリナのことが好きですか? 嫌いですか? 二択でお答えください」と問われれば、「好きだ」と答えるだろう。

 けれど、フリー回答で気持ちを聞かれて「好きだ」と答える勇気は俺にはない。

 ……いや、ちがう。

 勇気があっても「好きだ」なんて言うわけがない。

 ──と思う。多分。

「……」

 妙に意識してしまったからか、さらに鼓動が早くなってしまった。

 耳の先まで熱くなっていく。

 ちょっと待て。

 もしかして、俺ってカタリナのこと──好きなのか?

「ええっと……」

 そんなことはないと自身に言い聞かせ、当たり障りのない適当な言葉を探した。

 だが、これと言って良い言葉は浮かばなかった。

 消せども消せども、頭の中に現れるのは「好き」の二文字。

 俺は意を決する。

 カタリナさん、明日の朝になったら全て忘れててくれと、心の中で祈りながら。

「な、なんつーか……お前のことは、すっ、すっ、好き──」

 と、言いかけたときだった。

「……す〜……す〜……」

 背中から聞こえてきたのは、可愛らしい寝息。

 腹の奥底からマグマのような怒りがフツフツとこみ上げてくる。

 こ、この女っ……! なんなんだよ、もうっ! 

 他人の頭をかき回すだけかき回して、さっさと寝落ちしやがった!

 ああ、畜生!

 真剣に悩んでた俺がバカみたいじゃないか!

 さっきの豚小屋の中に捨ててきてやろうか!

 ……と、やるせない怒りに身を震わせていたときだった。

「おい、お前」

 俺の耳に、尖った男の声が飛び込んできた。

 声の方を見ると、松明を持ったふたりの衛兵が立っていた。 

「こんな時間に何を出歩いている? もうすぐ鐘が鳴る時間だぞ」

 面倒なヤツらに見つかった、と思った。

 まだ鐘は鳴ってないけど、いつ鳴ってもおかしくない時間だ。こうしていちゃもんをつけられている間に、鳴ってしまう可能性もある。

 そうなったら、禁足令違反で捕まってしまうのは確実だ。

 ここはことを荒立てず、さっさと立ち去るのが吉か。

「すみません、ちょっと連れを送っているところでして」

「連れ? ああ、その背中の女か」

「はい。ちょっと酔いつぶれてしまって」

 そう答えると、衛兵のひとりが近づいてきて、値踏みでもするようにカタリナの顔をまじまじと見る。

「へぇ、中々いい女じゃないか。どこの娼婦だ?」

「……違いますよ。仲間の冒険者です」

 苛立ちを覚えてしまったが、ぐっと抑えた。

 なんだこいつ。

 いきなり娼婦とか、失礼すぎるだろ。

「しかし、酔って男に背負ってもらうとは。ずいぶんと良い身分の女だな」

 衛兵のひとりが呆れるように言った。

 すると、カタリナの顔を見ていた衛兵が笑いながら続ける。

「まったくだ。一体どんな教育を受けたらそんな生意気なことができるんだ? 親の顔が見てみたいぞ」

「聞くまでもないだろ。どうせ南地区に住んでるような、下品で低俗な親だろうよ」

「だろうな。あいつらは教育も受けられんような貧乏人だからな。ま、その女くらいの容姿だったら、バカでも情婦として拾い手はありそうだが」

 ふたりの衛兵が卑下た笑い声を上げる。

「ほら、さっさと行け。冒険者だかなんだか知らんが、俺たちの手をわずらわせるんじゃないぞ」

 そう言って立ち去ろうとする衛兵たち。

「……ちょっと待ってください」

 俺は彼らを引き止めた。

「今の、取り消して貰えますか?」

「何?」

 衛兵たちが俺を睨んだ。

 ここで衛兵たちを引き止めるのは、賢い選択ではない。

 鐘が鳴るまで時間がないし、衛兵とのトラブルを避けるためにも「なんでもないです、すみません」と謝って立ち去るのがベストだ。

 だが──頭ではわかっていても、俺には立ち去ることなどできなかった。

 カタリナを侮辱されたことが、どうしても許せなかったからだ。

「彼女の両親が低俗だとか、情婦としてなら拾い手があるとか……こいつを侮辱しまくった言葉を取り消せって言ってんだよ。このクソ衛兵ども」

「……なんだと?」

 衛兵たちの目の色が変わる。


 そのとき──遠くから、1日の終わりを告げる鐘の音が聞こえた。