「ああ、木蘭(ムーラン)様ったら……本日も大変お可愛らしいです……っ!」
 紅珊瑚の瞳をめろめろにとろけさせ、真っ白な長髪を振り乱す十六歳の少女――白 苺々(ハク メイメイ)は「はぅぅ」と今日も元気に赤く染まった頬を押さえる。
 苺々の熱視線の先には、六歳になったばかりだという幼妃(おさなひめ)(シュ) 木蘭がいた。
「可憐な剣舞用の御衣裳で、鈴の音を鳴らしながら羽衣をはためかせる様は、そう! まさに天女の御使ですわ!」
 菫色の大きな瞳と子犬の垂れ耳のようなお団子に結い上げられた黒髪が印象的な木蘭は、幼な子にはまだ重たいはずの短剣を小さな手に持ち、皇太子代理として四半刻にもおよぶ剣舞を舞い切ってみせた。
 最後の方はおぼつかない足取りではあったが、きっと皇太子宮の妃は誰も彼女の舞を凌げぬだろう。そう思えるほど、愛らしい舞だった。
「はわわわ」
 いまだ興奮覚めやらぬ苺々は感動で打ち震えながら、緋毛氈の敷かれた宴席に座す他の妃達のピリついた空気も読まずに、末席から盛大な拍手を送る。
 本日、ここ燐華(リンファ)国の後宮内に造られた〝皇太子宮〟では、この国で最も重要な祭事のひとつである『清明節の宴』が開かれていた。
 燐華国では春を祝い祖先の魂を祀る清明節に、皇帝の長子が剣舞を奉納する決まりになっている。
 なぜ剣舞を奉納するようになったかというと、昔々あやかしが跋扈(ばっこ)していた時代に、青白い燐火とともに闇夜に現れる悪鬼を初代皇帝の長子が見事な剣技で討伐した逸話に由来しているそうだ。
 以来、皇帝の長子には祓除(ばつじょ)の剣舞が受け継がれている。
 しかし、歴代の皇太子は二十歳の『成人の儀』を迎えるまで身体が弱い者が多い。
 今代の皇太子・(リン) 紫淵(シエン)も齢十八ではあったが未だ病弱で、日中はほとんど床に臥せっていると聞く。時折、体調が優れた時のみ公務の席に現れるが、素顔は決して見せず鬼の面を深々と被っていた。
 本来ならば先ほどの剣舞も皇太子が舞うべきところであったが、最近体調が芳しくない皇太子が、自ら代理に木蘭を指名したらしい。
「皇太子殿下はなぜあんな幼児に大役をお任せになったのかしら。〝淑姫〟様は剣舞の名手であらせられるのに」
「清明節の宴席は、幼児のお遊戯会ではないのにね。私は〝徳姫〟様の舞が見たかったわ。『探春の宴』で披露された桜花舞は、それはそれは素敵だったもの」
「〝賢姫〟様の天女のような歌声も、きっと燐火をおさめることができたでしょうに。なぜあの乳飲み子の剣舞だけなのかしら」
 控える女官たちは宮廷楽団の演奏に紛れて、それぞれの『推し』である妃を讃える。
 推しとは後宮で最近流行している言葉で、もともとは演劇の旅一座のお気に入りを応援する言葉からきているらしい。それが後宮ではいつの間にか『無償の愛で妃を陰ながら御支えする』という意味に転じ、女官の嗜みのひとつになっている。
 推しがいない者はすなわち『無償の愛で尊い妃を支える気がない』とされ、女官の風上にも置けない信頼ならぬ者の烙印を押される。そんなわけで、後宮では女官たちによる『推し活』なる『妃応援活動合戦』が至る所で勃発しているのであった。
「でも、あの〝白蛇(はくじゃ)〟が指名されるよりはまだましね。あやかしのような真っ赤な目が本当に不気味。ほら、見て。木蘭様から視線を離さないあの様子……」
「まあ、なにあれ。薄気味悪いわ。白い大蛇が睨めつけているみたい」
「いつも木蘭様をじっと睨みつけているわよね。呪詛でもかけているのかしら。最下級妃のくせに身の程知らずでおこがましいわ」
 女官たちは歪んだ口元を団扇で隠す。
「呪われ白家の出身ですもの、教育が行き届いていないのよ。ああ、あんな〝白蛇〟と同じ空気を吸っているのも嫌だわ」
「ちょっと、あんまり大きな声で言ったら聞こえるわよ」
「聞こえたって構いやしないわ。後宮の嫌われ者の〝白蛇妃(はくじゃひ)〟が、私たちを咎められるはずがないもの。もし皇太子殿下に進言されたとしても、お妃様の信頼が厚い私たちの方が勝つに決まっているんだから」
 クスクスと蔑み笑う女官たちの話し声が、彼女達にほど近い末席に座す苺々に聞こえていないはずがない。
 だが、しかし。
(推しである木蘭様の一挙手一投足、いいえ! 衣のはためきまでも見逃しはしません!)
と、燃える苺々の耳には、女官たちの悪意のこもった話し声などまったく入っていなかった。
 元宵節(げんしょうせつ)に皇太子宮の封が解かれ、『八家八姫』の慣例に従って〝選妃姫(シェンフェイヂェン)〟――妃としての位を決めるために月一度開かれる試験に臨むことになった苺々だが、実のところ次期皇帝にもその妃という地位にも興味がない。
 彼女はただ、出会った瞬間に胸を撃ち抜かれた〝朱 木蘭〟を、後宮内ならば全力で推せる(・・・・・・)と聞いてやって来たのである。
 苺々は美しい刺繍、美味しいお茶菓子、そして庇護欲をそそられる可愛いらしいものに目が無いのだ。
「木蘭様は、きっとおねむなのですね。まだ六歳であらせられるのに、あんなに素敵な舞をご披露されたのですもの。ご立派です……っ!」
 木蘭は幼くても〝妃〟らしくぴんと背筋を伸ばしていたが、春の陽気に照らされて眠たくなってしまったようだ。空席の上座に最も近い〝貴姫〟の席に着いた途端、こくりこくりと船を漕ぎ始める。
「ふわぁぁ……癒しのすべてがここに……!」
 苺々は見事な木蓮の刺繍が入った絹の団扇を、胸元でぎゅうっと握る。
 これは推し活の一貫で、苺々が木蘭を想って自分で刺したものだ。
 燐華国の三大刺繍と呼ばれている『白州刺繍』の技法で刺された紫木蓮の図案は緻密で、花や葉が朝露に濡れているかのように瑞々しく見える。その技法は白州特産の絹糸を使うことででさらに昇華されており、色鮮やかな絵画のごとく芸術的で美しかった。
 本当はこの団扇を両手に一本ずつ持ち、ぶんぶん振り回したいくらいの気持ちなのだが、最下級といえど妃は妃。礼儀作法を重んじ、「応援しています」と珠玉の一本を胸元に掲げるに留めている。
 その時、ふと青黒い(もや)が漂い始めた。煙りのようなそれは、四方八方からもくもくとやってきて、ひたすら幼い少女へ向かって集まっていく。
「……あら? あらあら? 木蘭様の周囲に、よくないものが」
 苺々は目を見開き眉根を寄せる。あれは人々の胸に宿る悪意や口から放たれた悪意が力を持った姿だ。その名を〝呪靄(じゅあい)〟という。
 皇太子妃たちや女官たちから向けられた悪意が木蘭に集まり、靄の形をとっている。これが酷くなれば木蘭は大病にかかり、床に伏せるようになるだろう。
 呪われ白家と呼ばれる白家出身の苺々には、生まれつき悪意を視ることができる眼と、それを祓う異能が備わっていた。
「呪靄でしたら、まだここからでも祓えますわね」
 苺々は長い上衣の(たもと)から簡易裁縫道具箱にしている漆塗りの小物入れを取り出すと、針と糸を持ち、手元の団扇にせっせと刺繍していく。
 特殊な針で異能を操り、その刺繍の中に呪靄となった悪意を封じ込めるという破魔の術だ。
 すでに木蓮の花が幾重にも咲き誇る団扇に、新たな木蓮の蕾を刺し終えた瞬間――木蘭の周囲にあった青黒い靄が霧散した。
「よかった……。本日も推しの健やかな日常を守ることが叶いましたわ!」
 苺々は緊張と早業刺繍でかいた汗を「ふう」と拭う。
 まさか悪意に害されそうになっていたとはつゆ知らず、幼妃はとうとう睡魔に耐えきれなくなったのか、ゆらゆらしたのちぱたりと倒れる。
 この団扇に刺繍された木蓮の花の数だけ、木蘭は強い悪意に晒され、呪われ続けている。とても異常で危険な状態だ。
(う〜〜〜っ。それでも、わたくしはこうして影からこっそり推し活をすることでしか、木蘭様をお守りできませんッ)
 簡易裁縫道具を袂に仕舞い、苺々は涙をのむ。
 呪われ白家出身である後宮の嫌われ〝白蛇妃〟が進言したところで、犯人扱いされて終わりなのは目に見えている。投獄されたり、後宮から追放されたりしたら祓うことすらできない。
「それならこうして静かに推し活を嗜んでいた方が、ずっと推しのためになるというものです……!」
 ふんすと鼻息荒く胸を張った苺々は、今日も満足げな微笑みを浮かべる。
 視線の先では、木蘭付きの上級女官が慌てて幼妃を揺り起こしていた。