数日、経った。
 桜はほとんど散り終わり、すっかり緑色となった。
 瑠璃唐草が咲きはじめた――もうすぐ満開の、空の色のような花畑になるだろう。その景色を、ふたりで見ることを。そして故郷の村も、この季節は瑠璃唐草でいっぱいにする夢を――私と令悧は、ふたりで楽しみにしていたのに。

 黄昏どきだ。
 紅と闇の陰影が、深い。

 約束通りに私に逢いに来た令悧に、私はもっとも言いたくないことを、言わなければならない。

 私の身体の黒焦げた傷は、見た目にはすべて治ったけれど、表面の皮膚の下でいまでも身体が裂かれそうなほど痛んでいる。……懲罰用の雷は、見た目にはすぐにきれいに治せるように、特殊な治療薬が常備されているそうだ。

「……氷乃華? どうした。元気がない」
「令悧……あの、あのね……私たち、もう……」

 会えない。
 そのひとことを、言えばいい。
 それだけ言って、令悧に背を向けさえすれば――令悧の命は、助かるかもしれないのだ。

 なのに、なのに、それなのに。
 言えない。どうしても、言えない。
 言ったあとの令悧の顔を想像すると――胸が、全身の痛み以上に張り裂けそうで。

 ……ぼろぼろぼろ、と涙があふれてきてしまった。
 令悧は駆け寄ってきて、私の全身を包み込むように抱きしめてくれる。

 ああ。この場所こそが。私が本来、いるべきところなのに。

「……れっ、令悧、あのね、あのね」

 私は、すべてを彼に打ち明けていた。
 いけないことだと、わかりつつ。
 だから私は、愚かなのだと――自分のなかで無間地獄のように、苦しく、いつまでも延々と繰り返しながら。

 令悧は、すまないと謝ってくれた。なんども。
 痛い思いをさせてしまってすまない、と。
 令悧が謝ることなんか、なんにもないのに。
 彼は、唇を噛み締め――とても、とってもつらそうだった。

 ふたりで、体温を分かち合うように抱きしめあって。
 ……令悧は、令悧のほうの事情を語り出した。

「どうせ、俺も死なねばならなかった」
「……どういう、こと?」
「黒天王様に、話をした。愛する者ができたから、任を解いていただけないかと――答えは、否。それどころか俺のしたことは、天狗の戒律に反するのだという」

 黒天狗は、愛し合わない生き物だったわけではない。
 黒天王に力を分け与えられ、永遠に生きるその代わりに、けっして他人を愛さないという業を背負った生き物だったのだ。

「俺は、本当は烏だったらしい。それも、死にかけの。黒天王様は死にかけている烏に力を分け与え、命を助ける代わりに、黒天狗として使役する」

 白鳥ならば白天狗となり、雀ならば茶天狗となるが、それは白天王や茶天王といった別の者の管轄らしい。

「命を助けられた恩が魂に刻み込まれているから、普通は、天狗たちは天王を裏切ることはない――天王よりもだれかを愛するというのは、裏切りとみなされるのだと説明された。だから令悧、おまえは失敗作だったと、黒天王様に言われたよ。ひとを愛してしまった以上、おまえはもう不死の黒天狗ではない。儚い、ただの烏に戻るのだと……」

 猶予を、与えられたのだという。
 愛する者に会って、別れを告げ、愛を振り切ることができれば――黒天狗のままでいられるようにしてやろう、と。

 猶予は、今晩を越し、日が昇る瞬間まで。

「すまない。まさか、俺は人間ではなく、人型でさえなく――単なる烏だったとは」
「令悧が天狗だって烏だって、なんだっていい。令悧は、令悧なんだから」
「……氷乃華なら、そう言ってくれると思っていた」

 令悧は、優しく――しかしとっても疲れたように、笑った。

「しかし、烏などである俺に縛りつけておくわけにはいかない。烏の寿命は、ひとに比べれば短い……とても、氷乃華の一生を支えられない。どうせ死なねばならないというのは、そういう意味だ。氷乃華はどうか別の道を選んで、幸せになってくれ」
「天狗には、寿命がなかったのでしょう」
「……ああ。そうだが」
「あなたは、寿命がなかった身でありながら、寿命のある身である私を愛してくれた。今度は逆のことを、私がしたいだけ」

 私はその胸に、必死にしがみついていた。
 ……つらそうに唇を噛み締めうつむく大好きな令悧の顔を、真正面から見据えながら。

「いっしょに、生きましょう。残された時間が、わずかだっていい。あなたが烏のすがただっていい……あなたとふたりで過ごせれば、なんだっていい」
「……俺も、そうしたかった。だが……烏などになってしまっては。それに、俺たちは雷帝の怒りを……買っている」
「私たちは、私の故郷の村で暮らすの。満開の桜のもとで花見をして、瑠璃唐草を育てて……そして、そして……」

 言いながら、涙があふれてきた。
 ああ、私たちの想い出は、――春のものだけだ。

 わかっている、……ほんとうは。
 もう、夢でしかなくなったってこと。

 私たちはどう考えたって、もう、現世では結ばれない。
 添い遂げることは、できない――。

 わかっていたから、だから、……だから。

「さいごまで夢をいっしょに見ましょう」
「氷乃華がそう、望むのであれば」

 私は涙のなか、令悧の頬に両手を添えて、そっと、花畑に倒れ込ませるかのように導いた。
 瑠璃唐草の花畑の上で、私たちははじめて、横になって全身で抱き合う。

 日は、もうすぐ暮れる。
 どうせ見張られているのだろう。
 けれど……闇は、私たちの罪をすこしは、覆い隠してくれるだろう。

 私たちは、口づけをした。二度めの。そして、おそらく、今宵が最後の。

「たとえ烏の身となり命を終えるとしても、氷乃華に別れを告げこの想いを断ち切ることなど――できるわけがない」

 令悧は、苦しそうに、しかしきっぱり、言い切った。

 私も……雷帝に殺されるか、あるいは、死ぬよりつらい生き地獄の極刑とやらに処されて、おしまいなんだろうから。
 だから、いちばん求めることを――したい。

「お願いがあるの」

 私は、彼の髪にふれ、頬を撫でながら、そっと言った。

「あなたと、契りたい。お願い……私のほんとうの夫は、あなたなの」
「そして私のほんとうの妻は、あなただ。来世は、かならずともに」

 彼は、静かに言って、私の頭をそれはそれは愛おしそうに撫で、私に口づけをして――私の願いを、受け入れてくれた。

 あの、遠い山々からいまにもすがたを消そうとしている太陽が暮れきったら、いますぐに来世が始まってしまえばいいのに。

 身体にも、心にも、魂にも、刻み込みたい。
 そして来世では、どうかただの氷乃華と令悧として出逢い、恋して、契って、普通に、ふつうの夫婦になれますように。

 ……現世でも、そうなれたら、よかったのにな。

 薄闇が本物の闇に変わっていくなか、とろりとした濃い闇に、かばわれるように包まれて……私たちは、契りあった。