さらに、数日後。
桜がいよいよ満開に近づいていて、花びらの嵐を太陽の光とともに眩しく受けながら、瑠璃唐草やこれからの季節の花々の手入れをしていたとき。
ばさり――と、音がした。
ずっと、求めていた音だったから。だからこそ、錯覚かと思った。
でも、錯覚ではなかった。
たしかに、彼が、令悧という名の黒天狗が――そこに、立っていた。
「氷乃華さま」
私は思わず立ち上がり、口に両手を当てる。
「どうして、私の名前」
「ずっと、気になっておりました。ここで会ってから。なぜ、一度会っただけの貴女がこんなにも気になるのか……わかりません。でも、気になって気になって、仕方なくて……仕事の合間、貴女さまのお名前を、必死で突き止めたのですよ。教えてくれなかったから」
「私の名前など、知っても意味がないと言いましたのに」
「俺は、知りたかった。次に会うときは、真っ先にお呼びしようと思っていた」
一歩、二歩……彼はこちらに歩み寄ってくる。
畑との境目は、足で踏まずに――その場に、しゃがみ込んだ。
植物の芽を踏まないための、気遣いが感じられた。
彼は、私に聞く。
「こちらで、なにをされているのですか」
「……とても言えないようなことです。恥ずかしいことです」
「見た限り、お花を相手にしているように見受けられますが」
頬が、熱くなった。
花を育てているなんて、とても言えないようなことで、恥ずかしいこと。
鉱物は永遠で、よっぽど美しいのに――わざわざいずれ枯れて散る花を育てるなんて馬鹿げていると、雷帝の後宮に来てから私は何度、陰で表で言われただろうか。
「いいですね」
彼の顔は、しかし、予想に反してとても穏やかなものだった。
「俺も、花は大好きです」
「……ほんと、ですか」
私は、彼に話した。
花が大好きなこと。
だから、後宮に嫁いできてからも、ずっとずっと――花を育てていたこと。
彼も話してくれた。
天狗の一族は山で暮らしているから、花々を大事にするのだということ。桜の季節には花の下で宴会を開き、花見と呼ばれる行事をすること。
「しかし、育てるという発想はなかった。天狗は、なにひとつ育てないのです」
「子ども以外には、なんにも?」
「……われわれ天狗は、子をもちません。まず、他者と愛し合わないのですから」
侍女の言葉が、よみがえってきた。
――彼らは愛し合うということを知らないのです! 永遠に生き、殺戮を繰り返し、血肉で飢えを凌ぐだけ……。
「失礼だとは、承知なのですが……」
私は、侍女に言われた言葉を彼に伝えた。
彼は気分を害したようすもなく――そうですね、と頷いていた。
「俺たちは、永遠に生きますし、殺戮を繰り返しますし、血肉で飢えを凌いでおります。しかし……永遠に生きるということを除けば、それは人間も同様では?」
「そうですね……言われてみれば。人間は獣を殺して飢えを凌ぎ、そして……争いを……」
故郷の優しいみんなの顔が、脳裏に浮かんだ。
……いまはもう、殺されて、みんないない。
「……貴女の故郷は、雷帝に滅ぼされたようですね。貴女の名前を城下町で探ったら、ついでの土産と言わんばかりに、何人かの人間が喜々として教えてくれましたよ」
「もう、昔のことです。雷帝の御威光を考えれば仕方のないことで、いつまでも引きずっている十三番目の妃は幼いと……みなさん、おっしゃっていたかと」
「そんなことはありません。なぜ、傷つけられた貴女のほうが卑屈なのですか。そんなのは、利益のために貴女の村を襲った、雷帝のほうが悪いに決まっている。氷乃華さまは、なんにも悪くない」
雷帝のほうが悪い、なんて。
私が、なんにも悪くないなんて――。
故郷が滅ぼされてから、はじめて、言われた。
「そう、でしょうか」
ぽたり、と。
気がついたら、目からしずくが垂れていた……情けない、情けないと思ってぬぐおうとして、懐に手を伸ばしたら――彼の黒い羽が、ひらりと落ちてしまった。
あわてて、拾い上げる。
彼は驚いた顔をしていた。
「その羽は、俺の……」
「……勝手に、申し訳ありません。めぐり会えた記念に……とっておきたかったのです。いつも、肌身離さず……」
彼は、私にそっと白い布を差し出してくれた。刺繍のなされた、清らかな布だった。涙を拭くにも、ぴったりだった。
彼は、私が泣きやむまで――ずっと、となりにいてくれた。
肩を並べて、寄り添って。だれよりもそばで、体温を感じる距離で……。
「こんなに、あたたかくしていただいたのは初めてです……ありがとうございます。あの、こちらの布。汚してしまって、申し訳ありません。かならず、洗って返しますから」
「そのつもりだった。だから、貸した。汚れのことは気にしなくていいが……」
彼は、真剣な顔をしていた。
「貴女といると、心が安らぐ。貴女のとなりにいたい。次も、かならず、会いたい。……何度でも」
その身体にいますぐ抱きついて、髪を頬をさわって、抱きしめあいたかった。
けれど私が実際にしたことと言えば、私も、とただ微笑んで返すだけのことだった。
令悧――私、きっと、貴方のことが好き。
黒天狗かどうかなんて、関係ない。
ううん。……黒天狗である貴方のことが、こんなにも好き。
穢れた者だという気持ちなんか、みるみるうちに、溶けていく。
硬い雪が、太陽の光で解けていくかのように。
令悧。令悧……令悧。
何度でも、名前を呼びたい。
願わくは、その唇にふれてみたい。
でも、私は雷帝の妃。
貴方は、穢界からの使いの黒天狗――。
桜がいよいよ満開に近づいていて、花びらの嵐を太陽の光とともに眩しく受けながら、瑠璃唐草やこれからの季節の花々の手入れをしていたとき。
ばさり――と、音がした。
ずっと、求めていた音だったから。だからこそ、錯覚かと思った。
でも、錯覚ではなかった。
たしかに、彼が、令悧という名の黒天狗が――そこに、立っていた。
「氷乃華さま」
私は思わず立ち上がり、口に両手を当てる。
「どうして、私の名前」
「ずっと、気になっておりました。ここで会ってから。なぜ、一度会っただけの貴女がこんなにも気になるのか……わかりません。でも、気になって気になって、仕方なくて……仕事の合間、貴女さまのお名前を、必死で突き止めたのですよ。教えてくれなかったから」
「私の名前など、知っても意味がないと言いましたのに」
「俺は、知りたかった。次に会うときは、真っ先にお呼びしようと思っていた」
一歩、二歩……彼はこちらに歩み寄ってくる。
畑との境目は、足で踏まずに――その場に、しゃがみ込んだ。
植物の芽を踏まないための、気遣いが感じられた。
彼は、私に聞く。
「こちらで、なにをされているのですか」
「……とても言えないようなことです。恥ずかしいことです」
「見た限り、お花を相手にしているように見受けられますが」
頬が、熱くなった。
花を育てているなんて、とても言えないようなことで、恥ずかしいこと。
鉱物は永遠で、よっぽど美しいのに――わざわざいずれ枯れて散る花を育てるなんて馬鹿げていると、雷帝の後宮に来てから私は何度、陰で表で言われただろうか。
「いいですね」
彼の顔は、しかし、予想に反してとても穏やかなものだった。
「俺も、花は大好きです」
「……ほんと、ですか」
私は、彼に話した。
花が大好きなこと。
だから、後宮に嫁いできてからも、ずっとずっと――花を育てていたこと。
彼も話してくれた。
天狗の一族は山で暮らしているから、花々を大事にするのだということ。桜の季節には花の下で宴会を開き、花見と呼ばれる行事をすること。
「しかし、育てるという発想はなかった。天狗は、なにひとつ育てないのです」
「子ども以外には、なんにも?」
「……われわれ天狗は、子をもちません。まず、他者と愛し合わないのですから」
侍女の言葉が、よみがえってきた。
――彼らは愛し合うということを知らないのです! 永遠に生き、殺戮を繰り返し、血肉で飢えを凌ぐだけ……。
「失礼だとは、承知なのですが……」
私は、侍女に言われた言葉を彼に伝えた。
彼は気分を害したようすもなく――そうですね、と頷いていた。
「俺たちは、永遠に生きますし、殺戮を繰り返しますし、血肉で飢えを凌いでおります。しかし……永遠に生きるということを除けば、それは人間も同様では?」
「そうですね……言われてみれば。人間は獣を殺して飢えを凌ぎ、そして……争いを……」
故郷の優しいみんなの顔が、脳裏に浮かんだ。
……いまはもう、殺されて、みんないない。
「……貴女の故郷は、雷帝に滅ぼされたようですね。貴女の名前を城下町で探ったら、ついでの土産と言わんばかりに、何人かの人間が喜々として教えてくれましたよ」
「もう、昔のことです。雷帝の御威光を考えれば仕方のないことで、いつまでも引きずっている十三番目の妃は幼いと……みなさん、おっしゃっていたかと」
「そんなことはありません。なぜ、傷つけられた貴女のほうが卑屈なのですか。そんなのは、利益のために貴女の村を襲った、雷帝のほうが悪いに決まっている。氷乃華さまは、なんにも悪くない」
雷帝のほうが悪い、なんて。
私が、なんにも悪くないなんて――。
故郷が滅ぼされてから、はじめて、言われた。
「そう、でしょうか」
ぽたり、と。
気がついたら、目からしずくが垂れていた……情けない、情けないと思ってぬぐおうとして、懐に手を伸ばしたら――彼の黒い羽が、ひらりと落ちてしまった。
あわてて、拾い上げる。
彼は驚いた顔をしていた。
「その羽は、俺の……」
「……勝手に、申し訳ありません。めぐり会えた記念に……とっておきたかったのです。いつも、肌身離さず……」
彼は、私にそっと白い布を差し出してくれた。刺繍のなされた、清らかな布だった。涙を拭くにも、ぴったりだった。
彼は、私が泣きやむまで――ずっと、となりにいてくれた。
肩を並べて、寄り添って。だれよりもそばで、体温を感じる距離で……。
「こんなに、あたたかくしていただいたのは初めてです……ありがとうございます。あの、こちらの布。汚してしまって、申し訳ありません。かならず、洗って返しますから」
「そのつもりだった。だから、貸した。汚れのことは気にしなくていいが……」
彼は、真剣な顔をしていた。
「貴女といると、心が安らぐ。貴女のとなりにいたい。次も、かならず、会いたい。……何度でも」
その身体にいますぐ抱きついて、髪を頬をさわって、抱きしめあいたかった。
けれど私が実際にしたことと言えば、私も、とただ微笑んで返すだけのことだった。
令悧――私、きっと、貴方のことが好き。
黒天狗かどうかなんて、関係ない。
ううん。……黒天狗である貴方のことが、こんなにも好き。
穢れた者だという気持ちなんか、みるみるうちに、溶けていく。
硬い雪が、太陽の光で解けていくかのように。
令悧。令悧……令悧。
何度でも、名前を呼びたい。
願わくは、その唇にふれてみたい。
でも、私は雷帝の妃。
貴方は、穢界からの使いの黒天狗――。