彼と出会ったのは、ほんのひと月ほど前、桜の咲く季節だった。
私はその日も、後宮の庭園の隅にある小さな畑をいじって時間を潰していた。
新芽の覗く土に桜の花びらがいっぱい積もって、きれいだ。
私のお気に入りの小さな畑からは、遠くにそびえ立つ山々が見えて、畑に寄り添うように大きな桜の木がある。
桜は、七分咲き。もうすぐ満開のころ。
ここにいるときだけは、安らげる。
最初こそ、雷帝の妃が畑いじりなど、と侍女たちに怒られたものだ。
でも、すぐに怒られなくなった。私の存在など雷帝の後宮では空気に過ぎなくて、ただ存在している以上の役目をだれも期待していないのだと、みながすぐに理解したから。
いまでは、二人か三人の侍女が形式上付き添おうとしてくるだけだ。それも、断ればすぐにわかりましたと言って去っていく。
雷帝の妃への対応にしてはずいぶん杜撰だけれども、私のような、本来賤しい――すくなくとも、雷帝がそのように言う者に対しては相応だろう。
その日も、私は土をいじっていた。
もうすぐで瑠璃唐草が咲く季節になる。
瑠璃唐草は、その名の通り美しい瑠璃色をしている。青空よりも青い瑠璃色になればいい。そう願ってお世話をしていると、自然と頬が緩んだ。
――ばさり。
ふいに音がして、私は振り向く。
黒天狗。
視線の先に降り立っていたのは、黒い装束をまとい黒い翼を生やした、黒天狗の青年だった。まぎれもなく。
不死の黒天狗たちは、山々の遠く向こうの穢界に暮らす。
どうして、翡翠郷に――。
私は、思わず立ち上がった。
彼は地図のようなものを右手に持って、左手をあごに添えて考え込むようにあたりを見ていたが――やがて、あっけにとられている私に気がついた。
彼はしばらく私を見ていた。私も、しばらく彼を見ていた。
先に口を開いたのは、彼のほうだった。
「……失礼。着地場所をずいぶんと間違えてしまったようだ。なにぶん、翡翠郷へ使いに来るのは初めてで……ご容赦を。空から着地すると場所の把握が大雑把で、よく失敗します」
「使いの方ですか」
「ええ。雷帝へ、黒天王様からの文書を届けに」
「では」
私は、腕をいっぱいに伸ばして、雷帝のいらっしゃるであろう場所を示す。
「後宮ではなく、御所かと」
「ありがとう。なるほど、ここは後宮」
私はなぜか、彼の穏やかな表情と黒々とした髪の毛から目を離すことができなかった。殿方のこんなに艶めいた黒々とした髪の毛を見るのは、はじめてだった。黒天狗とこんなに近くにいるのも。
黒天狗は恐ろしい形相と伝え聞いていたけれど――そんなことはない、私たちと同じ薄橙の肌の色で、その上、彼の頬は紅色に上気してきれいだった。
そして、黒々としたその瞳は――きらきらと光を映して、後宮にあるどんな宝玉よりも、きれいだった。
彼の髪と彼の頬にふれてみたい、と自分でもわけがわからず思った。
その瞳の、そばに寄って――私をめいっぱいに、映してほしい。
「ということは、貴女は雷帝の妃ですか」
「そうです。天下の雷帝さまの……十三番目の、栄えある妃です」
私は立ち上がり、教えられている通りに――優雅に見え、雷帝のご威光を損なわないように、まともに――挨拶をした。ひらひらした水晶色の装束の裾が、風にさらわれて自然とひらひらしてしまう。
「そうですか、これはこれは。わたくし、令悧と申します」
彼は地図を装束のなかに突っ込むようにしまい、右手を手刀のように胸もとに当て、頭を軽く下げてから上げた。黒天狗流の挨拶なのかもしれない。
「貴女さまのお名前は?」
「私の名前? そんなもの、お聞きになってどうするのですか」
雷帝の十三番目の妃。
それだけで、充分なはずだ――だって、それが私のすべてなんだから。
私のすべての……はずなんだから。
彼はいまの質問など最初からなかったみたいに、にっこりと微笑んだ。
「雷帝さまの治められている翡翠郷は、どこもかしこも翡翠で出来ており大層美しいとか。観光もしたいので、わたくし、しばらく翡翠郷に留まります。……ご挨拶できて光栄でした、雷帝の十三番目のお妃さま」
彼は、もう一度頭を下げると――ばっさばっさと音を立て、あっというまに飛び立ってしまった。
天から、黒い羽が降ってくる。穢れたものだとされる黒天狗の羽……けれども私は、両手で彼の羽を受けた。忌むべきものだという感情は、不思議と起こらなかった。
羽は、ぬくもっているように感じて……彼の温度みたい、と思うときゅっと心が苦しくなった。
そっと、その羽を装束の懐にしまった。一枚だけ、一枚だけだから……必死に、だれかに、自分自身に、雷帝に、言い訳をして。
数日後、雷帝の寝所に呼ばれた。
前に呼ばれたのは、ふた月前。皇后さまと二番目のお妃さまがご懐妊されて以来、三番目以下のお妃たちが呼ばれる頻度が増えたというから、そろそろかと思ってはいたけれど……呼ばれた朝から、ずっと憂鬱だった。
夜。私は、神秘的だと褒め称えられる珊瑚色の衣装に身を包み、侍女たちに連れられしずしずと寝所に向かう。この衣装。私からすれば、神秘的というよりは単なる悪趣味。
磨きあげられた翡翠で出来上がった後宮の建物。炎に照らされて美しいはずなのに、冷たいところだと、私はずっと感じてしまう。
雷帝の寝所に到着すると、侍女たちはすっと離れていった。彼女たちはこのまま、部屋の前でひと晩待機するのだ。
「来たか。十三番目よ」
雷帝の寝所ももちろん、翡翠ばかりで出来ている。
私は黙って進み、跪いて頭を下げる。雷帝は横に来るよう命じ、私はそのようにする。雷帝は私に仰向けになるよう命じ、私はそのようにする。雷帝は命じ……私は、そのようにする……。
雷帝の御顔がすぐそばにある。類いまれなる雷術の才能と、翡翠で貿易をする高い経済的才能に恵まれ、翡翠郷と呼ばれるこの国を一代で栄えさせた、天下の皇帝の……格好いいとも魅力的とも、ついぞ思えない中年の男性の顔。
雷帝は命じる。私はそのようにする。雷帝は命じる。私はそのようにする。……けっして、ご機嫌を損ねないように。
「皇后と二番目は、大事なときだ。我の欲望をそのままぶつけるわけにはいかん。そこで、おまえの出番というわけだ。我の道具となれて、嬉しいだろう? 辺境の氷の里の、田舎娘が」
言われるがままに、私の故郷をまるごと滅ぼした男の、道具となる。
……私の故郷は。
翡翠郷から見たらたしかに辺境といえるところにある、小さな小さな里村だった。
冬になるとすべてが凍りつくような場所だった。だから貧しかったけれど、だからこそみんなで手を取り合って、ぬくもりを大事にする……そんな村だった。
私は代々村長をつとめる家のひとり娘で、いずれは村を継ぐと決まっていた。未来の村長として、村のことをいっぱい勉強して、食べものに困らないよう畑を耕した。みんなの心が明るくなるよう、花を村に増やした。花いっぱいの、村にしたかった。
惜しむらくは、村に伝わる氷術の才能が私にはあまりなかったことだけれど……近年は氷術の血じたいが薄まっているから、とお父さんもお母さんも、家族同然の村のみんなも励ましてくれた。
それよりも、氷乃華ちゃんにはコツコツ努力できる才能と、花を愛でるきれいな心があるんだから、大丈夫だよって――みんな、笑って。
そんな私の優しい故郷は。
ある日突然、雷帝に滅ぼされた。
領地拡大のためだったという。
雷帝が自由気ままに降らせる残酷な雷に、私たちはなすすべもなく――ほとんどが殺された。私はいわば人質として、滅ぼした村の記念品として――強制的に、雷帝の妃となったのだ。
私の故郷のひとたちが命ほしさに私を差し出したなどと、実際とぜんぜん違う話さえも後宮に流れ出して。
生贄婚だと、後宮のひとたちは噂しているらしい。
「おまえには多少、氷術の血が流れているのだったな」
「……はい」
「我との子が欲しいか? ん? 雷と氷は相性がいいやもしれん。案外、術の才能のある子が産まれてくるやもしれぬ……しかし、そうはさせぬぞ? 我は、それなりの身分の相手としか子をもうけないと決めているのだからな。残念、残念だったなあ――子がいれば成り上がれたかもしれぬ。故郷の敵討ちも、できたやもしれぬのにな! 悔しいだろう、氷術の才能もろくになく、賤しき出自の無能な女よ!」
私を罵りながら、どんどん、どんどん雷帝は興奮していく。……こういう趣味の、ひとなのだ。
……痛い。早く、終わってほしい。
かりにも権力者の妃として不適切だとわかりつつも、思う。
遊女が羨ましい。
彼女たちは、その報酬として金銭を受け取れるのだろうから。そしてその金銭で、私よりはまだ――未来を描けるのだろうから。
……雷帝との子がほしいなどと、微塵も思わないけれど。
でも。だから。
私は一生、雷帝の欲望のはけ口となるだけ。
翡翠でできたお城に閉じ込められて、どこにも行けずに――老いて、いずれはだれにも忘れられて、死んでいくだけ。
……普段は懐にしまっている黒い羽は、雷帝に呼ばれたから、部屋の引き出しにしまってきた。
部屋に戻ったら、私は真っ先にあの羽を取り出して、胸に押し当てて羽の存在を感じとるだろう。
彼の髪の毛のように艶めいてぬくもりを感じるあの羽は、いつのまにか私のおまもりになっていた。
あの日、彼に会ったとき、なぜだか他人のような気がしなかった。
そんなわけないのに、もっと前から……知っていたような、気がした。
あのひとは、ほかのひとたちと何かが違った。……澄んで、力強かった。
あのひとは、いまどこでどうしているのだろう。
しばらくは翡翠郷に留まると言っていたけれど。
もういちど、また――会いたい。後宮から出られない私は、探しに行くこともできないけれど――。
「黒天狗は、しょっちゅう翡翠郷に来るのかしら」
自分の部屋で侍女に髪を梳いてもらっているとき、私は彼女に訊いた。
この侍女は、侍女たちのなかでも年が上で、なんでも知っている印象があったからだ。それに、ほかの侍女たちと違って、私に対して過剰によそよそしくはない。
鏡越しに、彼女は顔をしかめた。
「黒天狗? どうして、また、そのような者のお話を」
「いえ……ただ、ちょっと気になったものだから」
ふうむ、と私の髪をまとめながら彼女は唸った。
「穢界からの使いとして、たまに参ってはおりますが」
この世界は、人間の住む浄界と、ひとならざる穢れた者たちの暮らす穢界に分かれている。
黒天狗は、ひとならざる穢れた者――もちろん、私も知っている。
「あの……このあいだ、後宮に迷い込んできた黒天狗に会ったの。彼は、黒天王からの使いだと言っていた」
すると侍女は、思いっきり顔をしかめた。
「あらあらあら、ばっちい。大変な思いをされましたね。あとで浄めの泉の予約を取っておきますから、穢れを浄めに行きましょうね」
「……そこまで、するの?」
「お妃さまは、……翡翠郷の中心のご出身でないからご存じないのでしょうが、穢界の者と関わればかならず浄めなければならぬのですよ」
「それは、黒天狗が穢れた存在だから?」
「ええ、ええ、それはもう! 彼らは鳥を生きたまま喰らい、鉤爪で獣を狩り、争いを求める本能で生きている恐ろしい化け物どもですよ。彼らは愛し合うということを知らないのです! 永遠に生き、殺戮を繰り返し、血肉で飢えを凌ぐだけ……」
ああおそろしい、おそろしい、と侍女は歌うように繰り返す。
黒天狗。
私も前なら、その言葉に疑問の余地はなかっただろう。
おそろしい存在だと。
そう、教えられてきたのだから。
でも、でも……彼のことを知って、なぜだかこんなに心の奥底から求めるかのように、気になっている、いまでは。
とても、侍女の言うようなおそろしい存在とは……思えなくて。
この懐にある黒い羽のことが、ばれてはならない――私は懐に右手を当てて、まもるように、ぎゅっと掴んだ。
さらに、数日後。
桜がいよいよ満開に近づいていて、花びらの嵐を太陽の光とともに眩しく受けながら、瑠璃唐草やこれからの季節の花々の手入れをしていたとき。
ばさり――と、音がした。
ずっと、求めていた音だったから。だからこそ、錯覚かと思った。
でも、錯覚ではなかった。
たしかに、彼が、令悧という名の黒天狗が――そこに、立っていた。
「氷乃華さま」
私は思わず立ち上がり、口に両手を当てる。
「どうして、私の名前」
「ずっと、気になっておりました。ここで会ってから。なぜ、一度会っただけの貴女がこんなにも気になるのか……わかりません。でも、気になって気になって、仕方なくて……仕事の合間、貴女さまのお名前を、必死で突き止めたのですよ。教えてくれなかったから」
「私の名前など、知っても意味がないと言いましたのに」
「俺は、知りたかった。次に会うときは、真っ先にお呼びしようと思っていた」
一歩、二歩……彼はこちらに歩み寄ってくる。
畑との境目は、足で踏まずに――その場に、しゃがみ込んだ。
植物の芽を踏まないための、気遣いが感じられた。
彼は、私に聞く。
「こちらで、なにをされているのですか」
「……とても言えないようなことです。恥ずかしいことです」
「見た限り、お花を相手にしているように見受けられますが」
頬が、熱くなった。
花を育てているなんて、とても言えないようなことで、恥ずかしいこと。
鉱物は永遠で、よっぽど美しいのに――わざわざいずれ枯れて散る花を育てるなんて馬鹿げていると、雷帝の後宮に来てから私は何度、陰で表で言われただろうか。
「いいですね」
彼の顔は、しかし、予想に反してとても穏やかなものだった。
「俺も、花は大好きです」
「……ほんと、ですか」
私は、彼に話した。
花が大好きなこと。
だから、後宮に嫁いできてからも、ずっとずっと――花を育てていたこと。
彼も話してくれた。
天狗の一族は山で暮らしているから、花々を大事にするのだということ。桜の季節には花の下で宴会を開き、花見と呼ばれる行事をすること。
「しかし、育てるという発想はなかった。天狗は、なにひとつ育てないのです」
「子ども以外には、なんにも?」
「……われわれ天狗は、子をもちません。まず、他者と愛し合わないのですから」
侍女の言葉が、よみがえってきた。
――彼らは愛し合うということを知らないのです! 永遠に生き、殺戮を繰り返し、血肉で飢えを凌ぐだけ……。
「失礼だとは、承知なのですが……」
私は、侍女に言われた言葉を彼に伝えた。
彼は気分を害したようすもなく――そうですね、と頷いていた。
「俺たちは、永遠に生きますし、殺戮を繰り返しますし、血肉で飢えを凌いでおります。しかし……永遠に生きるということを除けば、それは人間も同様では?」
「そうですね……言われてみれば。人間は獣を殺して飢えを凌ぎ、そして……争いを……」
故郷の優しいみんなの顔が、脳裏に浮かんだ。
……いまはもう、殺されて、みんないない。
「……貴女の故郷は、雷帝に滅ぼされたようですね。貴女の名前を城下町で探ったら、ついでの土産と言わんばかりに、何人かの人間が喜々として教えてくれましたよ」
「もう、昔のことです。雷帝の御威光を考えれば仕方のないことで、いつまでも引きずっている十三番目の妃は幼いと……みなさん、おっしゃっていたかと」
「そんなことはありません。なぜ、傷つけられた貴女のほうが卑屈なのですか。そんなのは、利益のために貴女の村を襲った、雷帝のほうが悪いに決まっている。氷乃華さまは、なんにも悪くない」
雷帝のほうが悪い、なんて。
私が、なんにも悪くないなんて――。
故郷が滅ぼされてから、はじめて、言われた。
「そう、でしょうか」
ぽたり、と。
気がついたら、目からしずくが垂れていた……情けない、情けないと思ってぬぐおうとして、懐に手を伸ばしたら――彼の黒い羽が、ひらりと落ちてしまった。
あわてて、拾い上げる。
彼は驚いた顔をしていた。
「その羽は、俺の……」
「……勝手に、申し訳ありません。めぐり会えた記念に……とっておきたかったのです。いつも、肌身離さず……」
彼は、私にそっと白い布を差し出してくれた。刺繍のなされた、清らかな布だった。涙を拭くにも、ぴったりだった。
彼は、私が泣きやむまで――ずっと、となりにいてくれた。
肩を並べて、寄り添って。だれよりもそばで、体温を感じる距離で……。
「こんなに、あたたかくしていただいたのは初めてです……ありがとうございます。あの、こちらの布。汚してしまって、申し訳ありません。かならず、洗って返しますから」
「そのつもりだった。だから、貸した。汚れのことは気にしなくていいが……」
彼は、真剣な顔をしていた。
「貴女といると、心が安らぐ。貴女のとなりにいたい。次も、かならず、会いたい。……何度でも」
その身体にいますぐ抱きついて、髪を頬をさわって、抱きしめあいたかった。
けれど私が実際にしたことと言えば、私も、とただ微笑んで返すだけのことだった。
令悧――私、きっと、貴方のことが好き。
黒天狗かどうかなんて、関係ない。
ううん。……黒天狗である貴方のことが、こんなにも好き。
穢れた者だという気持ちなんか、みるみるうちに、溶けていく。
硬い雪が、太陽の光で解けていくかのように。
令悧。令悧……令悧。
何度でも、名前を呼びたい。
願わくは、その唇にふれてみたい。
でも、私は雷帝の妃。
貴方は、穢界からの使いの黒天狗――。
桜が満開に近づく季節、私と令悧は毎日のように逢引きをした。
いろんなことを、しゃべった。翡翠郷のこと、私の故郷のこと。天狗のこと、令悧自身のこと。
いっしょに花々の手入れをした。花が好きという令悧の言葉は、ほんとうだった。
令悧は、十六歳の私とほとんど同じか少し上に見えるが、もっと長く生きているようだった。やはり黒天狗には、死ぬということが、ないようだった。変化のない日々で無駄に年を重ねているだけ――と、彼は笑っていたけれど。
令悧は笑うと爽やかで、真剣な顔をするとすごく大人びて格好いい。
優しくて、あたたかくて、ときには切ないほど色気を見せる彼のとなりが、私のもっとも望む理想郷になるまで――桜が散るまでの時間も、かからなかった。
満開となった桜の下で。
肩を寄せ合って、青空のもと、話をした。
「……令悧はどうして、私のことが好きなの?」
「いくらでも言えてしまうぞ。いいのか? 花を育てる白く美しい両手、白銀に輝く髪、碧く深い瞳、桜の咲いたような唇と頬、思慮深い表情、賢く聡いところ、努力家であるところ、花を愛でる心、まれにしか見せてくれない幾万の花より可憐な尊い尊い笑顔、そして笑うとあどけないところ……」
「や、やっぱりもういい」
照れてしまう、喜びでどうにかなってしまう……こんなに褒められたことなんて、いままでの人生、なかったから。
「なんだ、まだまだ序の口なのに。つまりは、すべてだ――氷乃華のすべてに、俺は惹かれている」
「……私も」
理由なんて、説明できない。
ただ、いくらでも好きなところを挙げられて、言い換えればすなわちすべてが大好きな、このひとこそが――私の、運命のひとだったんだと思う。
「……どうして、令悧と先に出会わなかったんだろう。令悧が、私のほんとうの運命のひとだったはずなのに」
言葉にすると。
令悧に、抱き締められた。
……彼のあたたかい体温と、古木を思わせる良い香りが、すぐそばに。
「いまからでも、遅くない。運命に、してやろう。俺たちの手で」
「……え?」
「雷帝のもとを離れ、俺とともに往こう。俺も、黒天王さまにお話をして、使いの任を解いてもらおうと思う。受け入れてもらえるかはわからないが、全力を尽くす。どんなかたちであれ、ぜったいに、かならず……氷乃華とともに、生きる」
「令悧……」
「結婚式は、氷乃華の故郷で挙げないか?」
「でも、私の村は、もう廃墟に」
「もう一度、俺たちで氷乃華の村をやりなおすんだ。氷乃華が村長となり……だとすると、俺は副村長となるのか? 生き残った者がいないか全力で探し、見つけ、呼び戻そう。ゆかりのある人びとを、村に呼ぼう。氷乃華の育った、愛した故郷を……俺と氷乃華で、よみがえらせよう。氷乃華が、その美しい手で、花々を育てているように」
私は、胸がいっぱいで。
感謝の言葉も、愛してるって言葉も、何万回言っても足りない気がして。
令悧、とその美しい響きの名前を呼んで――懐に入り、そっと、……口づけを、した。
抗えなかった。これが、世界でいちばん――自然なことのような気さえ、した。
令悧は、私の背中にそれはそれは愛おしそうに両手を回して、口づけに応えてくれて――。
その瞬間、世界はどこまでも透き通って静かで、完璧だった。
……夢ものがたりであるかもしれないとは、思っていた。
でも、信じたかった。
せめて、いまだけでも――夢ものがたりをほんとうのこととして、感じていたかった。
雷帝の怒りが届いたのは、桜の木々が緑色に変わりつつあるころだった。
まだ太陽が世界の真上に昇っている時間帯。
寝所に侍らされる以外の用件で、雷帝に呼び出されるのは――嫁がされて以来、初めてのことだった。
一面、翡翠色の冷たい世界。
玉座に悠然と腰かける雷帝。
周りには、雷帝に仇なす者はだれでも即座に排除する精鋭の武官たち。
「馬鹿げた噂があってな。十三番目の妃、知っているか」
「……どういった噂でしょうか」
「黒天狗と仲睦まじく遊ぶ雷帝の妃がおるなどと。ありえないのだが」
はっ、と雷帝は吐き捨てるかのように笑った。
だれかが、見ていた。
見られていた……。
隅とはいえ、後宮の庭園だ。そして私は、かりにも雷帝の妃。
……見られている、はずだった。
当たり前、当たり前のことなのだけれど――雷帝の後宮の孕む粘っこい監視体制に、頭がくらくらした。
「そのような者がいたら、どうすればいいと思う? 十三番目の妃よ」
「……すみやかに、仇なす者として、排除を」
します、とまで言い切れなかった。――語尾が、震えて。
「うむうむ。そうであるよな。排除とは――この場合、だれを?」
「皇帝の妃を」
「それと?」
黒天狗を、と言うのが正解なのだろう――しかし、言えなかった。
どうしても、言えなかった。
「お答えせぬか!」
武官のひとりが、いきり立つ。
彼らも、皇后や二番目の妃たちに対しては、こんな無礼な態度を取らない。私が十三番目の、賤しい出身だと思っているから、思い切り無礼な態度を取るのだ。雷帝も、そう望んでいる。
「よい、よい」
雷帝はやたらに上機嫌な、ふりをして――武官を片手で制した。
「この者は、どうやら死にたいらしい……賤しい村でも、故郷は故郷。滅んでしまったのち生きることに悲観するあまり、自殺を希望したのだ」
ねっとりと粘つく、張り付いた作り笑いで、雷帝は私を見る。
「我の問いに正しく答えないとは大罪。覚悟はできているな? かりにもおまえは我の妃。死に方くらい、選ばせてやろう。あるいは、生き地獄を選んでもよいぞ? 死罪に値するかそれ以上辛い極刑を、我が翡翠郷では、用意しているゆえ」
そうだ、と雷帝はもったいぶって言った。
「おまえの代わりに、泥棒烏を処刑してもいい。おまえの手でかの者の命を断ち切ることができれば、褒美をやろう。もう一度、我の寝所に侍らせてやろう……どうだ? 悪い話では、ないだろう?」
――殺して、ください。
そう叫べれば――どんなにか、よかっただろうか。
けれど、私はそう言えなかった。
雷帝の手で、私は両親や親しいひとたちを殺されている。
無残で、一方的に、蹂躙されて――。
死にたくは、ない。
死にたくは、なかった。
自分の気持ちを、いまさらのように自覚して――ああ、ひたすらに、令悧に会いたい。
こんな、冷たい翡翠の床ではなく。
彼のあたたかい懐のなかで――号泣したい。
びりり、と。
全身が跳ねて、……痛みが走った。
雷帝が、土下座する私の背中に向けて雷を落としたのだった、――比喩ではなく。
雷帝は、自由自在に雷を操れる。
「……うあっ……いたっ……」
全身をかかえて、転げ回る。
涙が、出てくる。
みんな、みんなみんなみんな。こんな痛い目に遭って――死んでいったのか。
「ちょっと撫でる程度の威力よ。情けない」
雷帝は言う。まわりの武官たちはくすくすと嘲るように笑う。
ちょっと、撫でる程度の威力、……これが?
うそでしょう――?
「言っておくが、おまえの両親や故郷の者は、こんなものよりずっとずっと痛み苦しんで、死んだ。我の雷術の力があれば、ひとの命と痛みなど、たやすく扱える。今回は灸を据えてやっただけだ、賤しき村の出身の、愚かな田舎娘よ。おまえが道化になればなるほど、俺はおまえに灸を据える。そして民は学ぶのだ……愚かな行為は慎もう、と」
またしても、全身が跳ねた。
痛い、痛い、――痛い痛い痛い!
「もうすこし、撫でまわしてやろうか。愛を込めて」
「やっ、やめてくださっ、も、もうしわけ――ああっ!」
雷帝の雷が、容赦なく落ちる。
あまりの痛みに、意識が、かすむ。
……懐から、令悧の羽がこぼれ落ちた。
朦朧とする意識のなか、私は、その羽に手を伸ばして――ぴしゃん、とすぐに手に雷が落ちて、呻いて、叫んで、許しを乞うて、それでも――雷帝の怒りが収まることは、なかった。
「おまえの口から、泥棒烏に告げるのだ。穢れた民とは付き合えぬ、と。そうすれば、そうだな……おまえと泥棒烏の命だけは、助けてやろうか」
「……ありがとうございます……ありがとうございます、ありがとうございます……」
私はこわれたように繰り返した。
……私は、愚かだ。
それは、間違いない。
だけど。
雷帝の妃であるというのが、どういうことなのか。
ほんとうの意味で、私はいま、理解していた。
私は完全に雷帝の所有物なのだ。
ほかの男性と寄り添うことも、口づけをすることも、添い遂げることも、当然――ゆるされることはない。
たとえ、雷帝はまったく私のことを愛してなどいなかったとしても。
……だから。
私はこれからやはり、生涯愛されることはない。
私をいつでも愛おしく見つめ、好きなところはいくらでもあると、すべてが大好きだと言ってくれる彼だけが――私のむなしい生涯で唯一、私を愛してくれたひとになるのだろう。
数日、経った。
桜はほとんど散り終わり、すっかり緑色となった。
瑠璃唐草が咲きはじめた――もうすぐ満開の、空の色のような花畑になるだろう。その景色を、ふたりで見ることを。そして故郷の村も、この季節は瑠璃唐草でいっぱいにする夢を――私と令悧は、ふたりで楽しみにしていたのに。
黄昏どきだ。
紅と闇の陰影が、深い。
約束通りに私に逢いに来た令悧に、私はもっとも言いたくないことを、言わなければならない。
私の身体の黒焦げた傷は、見た目にはすべて治ったけれど、表面の皮膚の下でいまでも身体が裂かれそうなほど痛んでいる。……懲罰用の雷は、見た目にはすぐにきれいに治せるように、特殊な治療薬が常備されているそうだ。
「……氷乃華? どうした。元気がない」
「令悧……あの、あのね……私たち、もう……」
会えない。
そのひとことを、言えばいい。
それだけ言って、令悧に背を向けさえすれば――令悧の命は、助かるかもしれないのだ。
なのに、なのに、それなのに。
言えない。どうしても、言えない。
言ったあとの令悧の顔を想像すると――胸が、全身の痛み以上に張り裂けそうで。
……ぼろぼろぼろ、と涙があふれてきてしまった。
令悧は駆け寄ってきて、私の全身を包み込むように抱きしめてくれる。
ああ。この場所こそが。私が本来、いるべきところなのに。
「……れっ、令悧、あのね、あのね」
私は、すべてを彼に打ち明けていた。
いけないことだと、わかりつつ。
だから私は、愚かなのだと――自分のなかで無間地獄のように、苦しく、いつまでも延々と繰り返しながら。
令悧は、すまないと謝ってくれた。なんども。
痛い思いをさせてしまってすまない、と。
令悧が謝ることなんか、なんにもないのに。
彼は、唇を噛み締め――とても、とってもつらそうだった。
ふたりで、体温を分かち合うように抱きしめあって。
……令悧は、令悧のほうの事情を語り出した。
「どうせ、俺も死なねばならなかった」
「……どういう、こと?」
「黒天王様に、話をした。愛する者ができたから、任を解いていただけないかと――答えは、否。それどころか俺のしたことは、天狗の戒律に反するのだという」
黒天狗は、愛し合わない生き物だったわけではない。
黒天王に力を分け与えられ、永遠に生きるその代わりに、けっして他人を愛さないという業を背負った生き物だったのだ。
「俺は、本当は烏だったらしい。それも、死にかけの。黒天王様は死にかけている烏に力を分け与え、命を助ける代わりに、黒天狗として使役する」
白鳥ならば白天狗となり、雀ならば茶天狗となるが、それは白天王や茶天王といった別の者の管轄らしい。
「命を助けられた恩が魂に刻み込まれているから、普通は、天狗たちは天王を裏切ることはない――天王よりもだれかを愛するというのは、裏切りとみなされるのだと説明された。だから令悧、おまえは失敗作だったと、黒天王様に言われたよ。ひとを愛してしまった以上、おまえはもう不死の黒天狗ではない。儚い、ただの烏に戻るのだと……」
猶予を、与えられたのだという。
愛する者に会って、別れを告げ、愛を振り切ることができれば――黒天狗のままでいられるようにしてやろう、と。
猶予は、今晩を越し、日が昇る瞬間まで。
「すまない。まさか、俺は人間ではなく、人型でさえなく――単なる烏だったとは」
「令悧が天狗だって烏だって、なんだっていい。令悧は、令悧なんだから」
「……氷乃華なら、そう言ってくれると思っていた」
令悧は、優しく――しかしとっても疲れたように、笑った。
「しかし、烏などである俺に縛りつけておくわけにはいかない。烏の寿命は、ひとに比べれば短い……とても、氷乃華の一生を支えられない。どうせ死なねばならないというのは、そういう意味だ。氷乃華はどうか別の道を選んで、幸せになってくれ」
「天狗には、寿命がなかったのでしょう」
「……ああ。そうだが」
「あなたは、寿命がなかった身でありながら、寿命のある身である私を愛してくれた。今度は逆のことを、私がしたいだけ」
私はその胸に、必死にしがみついていた。
……つらそうに唇を噛み締めうつむく大好きな令悧の顔を、真正面から見据えながら。
「いっしょに、生きましょう。残された時間が、わずかだっていい。あなたが烏のすがただっていい……あなたとふたりで過ごせれば、なんだっていい」
「……俺も、そうしたかった。だが……烏などになってしまっては。それに、俺たちは雷帝の怒りを……買っている」
「私たちは、私の故郷の村で暮らすの。満開の桜のもとで花見をして、瑠璃唐草を育てて……そして、そして……」
言いながら、涙があふれてきた。
ああ、私たちの想い出は、――春のものだけだ。
わかっている、……ほんとうは。
もう、夢でしかなくなったってこと。
私たちはどう考えたって、もう、現世では結ばれない。
添い遂げることは、できない――。
わかっていたから、だから、……だから。
「さいごまで夢をいっしょに見ましょう」
「氷乃華がそう、望むのであれば」
私は涙のなか、令悧の頬に両手を添えて、そっと、花畑に倒れ込ませるかのように導いた。
瑠璃唐草の花畑の上で、私たちははじめて、横になって全身で抱き合う。
日は、もうすぐ暮れる。
どうせ見張られているのだろう。
けれど……闇は、私たちの罪をすこしは、覆い隠してくれるだろう。
私たちは、口づけをした。二度めの。そして、おそらく、今宵が最後の。
「たとえ烏の身となり命を終えるとしても、氷乃華に別れを告げこの想いを断ち切ることなど――できるわけがない」
令悧は、苦しそうに、しかしきっぱり、言い切った。
私も……雷帝に殺されるか、あるいは、死ぬよりつらい生き地獄の極刑とやらに処されて、おしまいなんだろうから。
だから、いちばん求めることを――したい。
「お願いがあるの」
私は、彼の髪にふれ、頬を撫でながら、そっと言った。
「あなたと、契りたい。お願い……私のほんとうの夫は、あなたなの」
「そして私のほんとうの妻は、あなただ。来世は、かならずともに」
彼は、静かに言って、私の頭をそれはそれは愛おしそうに撫で、私に口づけをして――私の願いを、受け入れてくれた。
あの、遠い山々からいまにもすがたを消そうとしている太陽が暮れきったら、いますぐに来世が始まってしまえばいいのに。
身体にも、心にも、魂にも、刻み込みたい。
そして来世では、どうかただの氷乃華と令悧として出逢い、恋して、契って、普通に、ふつうの夫婦になれますように。
……現世でも、そうなれたら、よかったのにな。
薄闇が本物の闇に変わっていくなか、とろりとした濃い闇に、かばわれるように包まれて……私たちは、契りあった。
明け方とともに、黒天王の術が解けたのだろう、私の愛するひとは烏となった。
私は、彼を胸にいだこうとしたけれど――彼はそれを振り切るかのようにぱっと飛び立ち、明け方の空へ吸い込まれるように高く高く飛翔し、しかし、すぐに、その身には雷が落ちて、あっけなく、地へと堕ちた。
私たちの想い出の、瑠璃唐草の花畑へと。
雷帝はおそらく、彼がその雷に灼かれるところを私に見せた上で、花畑の上に落とそうとしたのではないか。
見せしめのように。意地悪く。
そんなことをしたって、私たちの愛はなんにも変わりないのに。
私は、烏の骸を抱き上げた。
黒い煙をあげ、ぐったりとして、目を閉じて……彼は、たしかに命を終えていた。
雷に灼かれて、さぞ熱かっただろう。
その亡骸も、なるべくそのままに美しく、あってほしい。
だから。
久方ぶりに使う氷術を、ちょっとだけ発揮させた。
指先から、ものを冷やせる氷術。
小さなものを冷やすことしかできないから、ろくに役に立ったことのない術だったのだけれど……生涯ではじめて、すこしだけ役立ったのかもしれない。
あなたの亡骸は、妻である、私のもの。
背後から慌ただしくも整然とした足音が聞こえる。
私の罪を問い、掴まえに来たのだろう。
もうすぐ、……いまにも、夜が明ける。
私は、これから重罪人。
でも、大丈夫。きっと大丈夫。
……私は、あなたの妻だから。
来世では、また結ばれるのだから。
強く、受け入れよう。
処刑を。
現世での間違った定めを、強く生き抜いて――来世、令悧に頭を撫でてもらって、褒めてもらおう。
来世で――早くまた、あなたに会えるといいな。
タン。……タタン。
どなたかの、早朝の琴のお稽古が始まる。
骸を抱き上げ、嘴に、そっと口づけた。