「黒天狗は、しょっちゅう翡翠郷に来るのかしら」

 自分の部屋で侍女に髪を梳いてもらっているとき、私は彼女に訊いた。
 この侍女は、侍女たちのなかでも年が上で、なんでも知っている印象があったからだ。それに、ほかの侍女たちと違って、私に対して過剰によそよそしくはない。

 鏡越しに、彼女は顔をしかめた。

「黒天狗? どうして、また、そのような者のお話を」
「いえ……ただ、ちょっと気になったものだから」

 ふうむ、と私の髪をまとめながら彼女は唸った。

「穢界からの使いとして、たまに参ってはおりますが」

 この世界は、人間の住む浄界(じょうかい)と、ひとならざる穢れた者たちの暮らす穢界に分かれている。
 黒天狗は、ひとならざる穢れた者――もちろん、私も知っている。

「あの……このあいだ、後宮に迷い込んできた黒天狗に会ったの。彼は、黒天王からの使いだと言っていた」

 すると侍女は、思いっきり顔をしかめた。

「あらあらあら、ばっちい。大変な思いをされましたね。あとで浄めの泉の予約を取っておきますから、穢れを浄めに行きましょうね」
「……そこまで、するの?」
「お妃さまは、……翡翠郷の中心のご出身でないからご存じないのでしょうが、穢界の者と関わればかならず浄めなければならぬのですよ」
「それは、黒天狗が穢れた存在だから?」
「ええ、ええ、それはもう! 彼らは鳥を生きたまま喰らい、鉤爪で獣を狩り、争いを求める本能で生きている恐ろしい化け物どもですよ。彼らは愛し合うということを知らないのです! 永遠に生き、殺戮を繰り返し、血肉で飢えを凌ぐだけ……」

 ああおそろしい、おそろしい、と侍女は歌うように繰り返す。

 黒天狗。
 私も前なら、その言葉に疑問の余地はなかっただろう。
 おそろしい存在だと。

 そう、教えられてきたのだから。

 でも、でも……彼のことを知って、なぜだかこんなに心の奥底から求めるかのように、気になっている、いまでは。
 とても、侍女の言うようなおそろしい存在とは……思えなくて。

 この懐にある黒い羽のことが、ばれてはならない――私は懐に右手を当てて、まもるように、ぎゅっと掴んだ。