彼と出会ったのは、ほんのひと月ほど前、桜の咲く季節だった。

 私はその日も、後宮の庭園の隅にある小さな畑をいじって時間を潰していた。
 新芽の覗く土に桜の花びらがいっぱい積もって、きれいだ。

 私のお気に入りの小さな畑からは、遠くにそびえ立つ山々が見えて、畑に寄り添うように大きな桜の木がある。
 桜は、七分咲き。もうすぐ満開のころ。
 ここにいるときだけは、安らげる。

 最初こそ、雷帝の妃が畑いじりなど、と侍女たちに怒られたものだ。
 でも、すぐに怒られなくなった。私の存在など雷帝の後宮では空気に過ぎなくて、ただ存在している以上の役目をだれも期待していないのだと、みながすぐに理解したから。

 いまでは、二人か三人の侍女が形式上付き添おうとしてくるだけだ。それも、断ればすぐにわかりましたと言って去っていく。
 雷帝の妃への対応にしてはずいぶん杜撰だけれども、私のような、本来賤しい――すくなくとも、雷帝がそのように言う者に対しては相応だろう。

 その日も、私は土をいじっていた。
 もうすぐで瑠璃唐草が咲く季節になる。
 瑠璃唐草は、その名の通り美しい瑠璃色をしている。青空よりも青い瑠璃色になればいい。そう願ってお世話をしていると、自然と頬が緩んだ。

 ――ばさり。
 ふいに音がして、私は振り向く。

 黒天狗。
 視線の先に降り立っていたのは、黒い装束をまとい黒い翼を生やした、黒天狗の青年だった。まぎれもなく。

 不死の黒天狗たちは、山々の遠く向こうの穢界(えかい)に暮らす。
 どうして、翡翠郷に――。

 私は、思わず立ち上がった。

 彼は地図のようなものを右手に持って、左手をあごに添えて考え込むようにあたりを見ていたが――やがて、あっけにとられている私に気がついた。

 彼はしばらく私を見ていた。私も、しばらく彼を見ていた。

 先に口を開いたのは、彼のほうだった。

「……失礼。着地場所をずいぶんと間違えてしまったようだ。なにぶん、翡翠郷へ使いに来るのは初めてで……ご容赦を。空から着地すると場所の把握が大雑把で、よく失敗します」
「使いの方ですか」
「ええ。雷帝へ、黒天王(こくてんおう)様からの文書を届けに」
「では」

 私は、腕をいっぱいに伸ばして、雷帝のいらっしゃるであろう場所を示す。

「後宮ではなく、御所かと」
「ありがとう。なるほど、ここは後宮」

 私はなぜか、彼の穏やかな表情と黒々とした髪の毛から目を離すことができなかった。殿方のこんなに艶めいた黒々とした髪の毛を見るのは、はじめてだった。黒天狗とこんなに近くにいるのも。

 黒天狗は恐ろしい形相と伝え聞いていたけれど――そんなことはない、私たちと同じ薄橙の肌の色で、その上、彼の頬は紅色に上気してきれいだった。

 そして、黒々としたその瞳は――きらきらと光を映して、後宮にあるどんな宝玉よりも、きれいだった。

 彼の髪と彼の頬にふれてみたい、と自分でもわけがわからず思った。
 その瞳の、そばに寄って――私をめいっぱいに、映してほしい。

「ということは、貴女は雷帝の妃ですか」
「そうです。天下の雷帝さまの……十三番目の、栄えある妃です」

 私は立ち上がり、教えられている通りに――優雅に見え、雷帝のご威光を損なわないように、まともに――挨拶をした。ひらひらした水晶色の装束の裾が、風にさらわれて自然とひらひらしてしまう。

「そうですか、これはこれは。わたくし、令悧(れいり)と申します」

 彼は地図を装束のなかに突っ込むようにしまい、右手を手刀のように胸もとに当て、頭を軽く下げてから上げた。黒天狗流の挨拶なのかもしれない。

「貴女さまのお名前は?」
「私の名前? そんなもの、お聞きになってどうするのですか」

 雷帝の十三番目の妃。
 それだけで、充分なはずだ――だって、それが私のすべてなんだから。
 私のすべての……はずなんだから。

 彼はいまの質問など最初からなかったみたいに、にっこりと微笑んだ。

「雷帝さまの治められている翡翠郷は、どこもかしこも翡翠で出来ており大層美しいとか。観光もしたいので、わたくし、しばらく翡翠郷に留まります。……ご挨拶できて光栄でした、雷帝の十三番目のお妃さま」

 彼は、もう一度頭を下げると――ばっさばっさと音を立て、あっというまに飛び立ってしまった。

 天から、黒い羽が降ってくる。穢れたものだとされる黒天狗の羽……けれども私は、両手で彼の羽を受けた。忌むべきものだという感情は、不思議と起こらなかった。

 羽は、ぬくもっているように感じて……彼の温度みたい、と思うときゅっと心が苦しくなった。

 そっと、その羽を装束の懐にしまった。一枚だけ、一枚だけだから……必死に、だれかに、自分自身に、雷帝に、言い訳をして。