「はあ……」

朝陽は今日もため息をついている。

ああは言っていたものの、「あいつ」こと、「かつみ」との関係は良好そうだ。
あいつの話をする朝陽は楽しそうだし、時々けなしたり毒づいたりするけど、それも面白半分、冗談半分。
本気はゼロだ。
「悔しい」と言ったあの日、あの顔の朝陽を、私はもう忘れかけていた。

それなのに、今日はまた激しく落ち込んでいる。
ため息の種類も、明らかに落ち込みのサインだ。

「何?またため息?あいつとなんかあった?」

私の質問に、朝陽は何も答えない。
その代わり、うつろな目を私の方にゆっくりと向けた。

「あのさあ、うちの学校のテニス部の本田って知ってる?」
「本田?」

テニス部で「本田」と言ったら、もうあの人しかいない。
本田君とは中学は違うけど、テニスの試合で見かけることが多かったし、練習試合でうちの学校に何度か来たこともある。
本田君はテニスが上手かった。
それだけじゃない。
イケメンですらりと背も高くて、引き締まった体に学校指定のダサい白のテニスウエアまぶしいほどよく似合っていた。
爽やかでキラキラしていて、絵に描いたような王子様。
そんな王子様を、女子たちが野放しにしておくわけがない。
本田君は他校の生徒だったけど、うちの中学でもファンは多かった。
本田君が試合に出ると、テニスコートを囲むフェンスの外側を女子たちが取り囲み、張り付いて見ていた。
中学生だけでなく、高校生、大学生、保護者の方々、先生まで、ファンの年齢層も広かった。
いつも黄色い歓声が上がっていて、本田君はフェミニンなはにかみ顔で、その声援に応えていた。

__そういえば、朝陽と同じ学校にいるんだ。

同じテニス部の先輩や同級生が話しているのを聞いたことがあったし、中学で同じテニス部だった友達も、他校であるにもかかわらずその情報を持っていたことを思いだした。

実は以前、一度だけ声をかけられた。
連絡先を教えてほしいと。
だから完全に面識がないというわけではない。
だけどその時はまだスマホなんて持ってなかったし、持っていても教える気はなかった。
友達には散々、「もったいない」とか「羨ましい」とか言われけど、私はどこ吹く風だった。
後ろ髪惹かれたりはしない。
だって彼はたとえイケメンであっても、私の幼馴染みにはなりえないから。
恋愛対象外、恋人候補外だ。
誰もがうらやむ完璧王子に連絡先を聞かれたんだから、朝陽に言ったら嫉妬してくれるかな……なんて期待した。
だって、幼馴染みの恋に嫉妬はつきものでしょ?
それなのに、

__「……だれ?」

それが当時の朝陽の答えだった。
まあ、他校のテニス部の顔も知らない人気のすごさも知らない男子の名前を出されて、当然の反応だったとは思うけど。
幼馴染みとしてちょっとは嫉妬してほしかった。
他の男子に連絡先聞かれたんだから。
それって、私に気があるってことでしょ?
まあ、朝陽にはわからないか。
それ以来、私たちの話題に本田君が持ち出されることはなかった。

それがどうしたことだろう。
もしかして、今さら嫉妬だろうか?
そもそも朝陽がそんなこと覚えているとも思えないけど、淡い期待を抱いて答えを返した。

「本田君って、私が中3の最後の試合の時、連絡先聞いてきた人じゃん。朝陽にも話したでしょ?」
「……そう、だっけ?」

案の定、完全に忘れている。
だけどその声は低く重かった。

「え?何?本田君となんかあった?」

本田王子と地味男子代表の朝陽に接点があるとは思えない。
何も答えない朝陽の顔を、フェンスの隙間から覗き見た。
その表情に、私ははっとした。
いつも伏せられた目元が、きりっと鋭くなっていた。
私の方に向けられたその目は、氷のように冷たかった。

「やっぱ、凪咲から見ても、本田ってかっこいいの?」
「え? うーん……まあ……そうだなあ」

ほんとは何とも思わないけど、濁しながら肯定しておく。
爽やかイケメン王子というのは確かだし。
ここは本田君の名誉のため、そして幼馴染みの嫉妬を獲得するため。
だけど、朝陽の返事は「ふーん」とただそれだけだった。
返事としては微妙で、私としては物足りない。
だけどその厳しい目つきは変わらない。
その目のぎらつきに、私の胸の鼓動が不穏な動きをする。
朝陽の顔が怖いからじゃない。
そこには、私の知らない朝陽がいたからだ。

「うちの学校の部室棟の近くにさ、テニスコートがあるんだよ。ボールが飛んでこないようにフェンスがしてあってさ。ほら、中学の時もそうだったじゃん。そこからは、男子テニス部が見えるんだよ」

朝陽は丁寧に、だけど淡々と説明を始めた。

「そこには本田がいて、いっつも女子たちがキャーキャー言ってるんだよね」
「うん」
「それって、どういう意味だと思う?」
「どういう意味って、普通に考えて、本田君に気があるってことでしょ?」
「だよね」

朝陽は自嘲気味に笑う。

「じゃあ、キャーキャー言わずに後ろの方でゴミ箱持って、ただ静かに立ってテニスコート見てるだけの女子は、どうなの?」
「え? ゴミ箱?」
「そう、ゴミ箱。掃除当番でゴミ捨ての仕事があるじゃん。ゴミ捨て場って、校舎からかなり離れたところにあるんだよね。だから面倒で誰も行きたがらないんだよ。でも、彼女は率先して行くんだよ。そのテニスコートの前を通るために」

「女子って変わってるよね」と、朝陽はおかしそうに笑って言う。
だけど私には、朝陽が一体何の話をしているのか、よくわからなかった。

__「彼女」って、あの一目惚れの「彼女」だろうか。

「それってやっぱり、そういうことかなあ?」
「え?」
「彼女は、本田のことが、好きなのかな」

朝陽の学校には行ったことないけど、サッカー部の部室から、テニスコートの本田君を見つめる彼女の背中を切なげに見つめる朝陽の姿が、一瞬で私の脳裏に描かれた。
胸の苦しさに耐えられず潤み始める瞳、噛み締める唇。
そんなところまでリアルに想像できて、私の胸までちくりと痛む感じがした。

__もしかして、朝陽は……

「どう思う?」

 ぽつりと投げかけられた朝陽の声で、ようやく私は自分の口が半開きになっていたことに気が付いた。
その口を慌てて閉じると、かさかさした唇同士が触れ合った。
何かを探すように、私の目があちこちに泳ぎだす。
探しだしたその答えを、私は慎重に朝陽に投げ返した。

「あの……朝陽は、まだ、彼女のことが、好きなの?」

私の質問に朝陽の目が一瞬大きく見開いた。
そして慌てたように答える。

「えっと、凪咲に言ったら、まだ諦めてなかったのかって怒られると思って……。隠してたわけじゃないけど、でも……」

朝陽は言いよどむ。
そして真っ暗闇のどこか一点をまっすぐ見つめて答えた。

「いつの間にか、目で追ってるんだよ。探してるんだよ、彼女の姿を。彼女は別にかわいくもないし美人でもないって言ったけど、毎日彼女の姿を目で追ってると、知らなかった彼女のことがいろいろわかってきて、なんていうか……かわいく見えるんだよ、すごく。いつの間にか僕にとって、特別な存在というか」

__とくべつ……

その言葉を発した瞬間の朝陽の表情に、私はどきりとした。
かっこいいとかそんなんじゃなくて、上手く言えないけど、私が見たことない、男子の顔。
そしてその「とくべつ」という言葉が、私の胸に冷たい影を落とす。

「わかってるよ、僕がこんなこと言うのは似合わないってことぐらい。それに、こんな僕だから、話しかけたりすることはないし、連絡先だって聞けないし、告白なんて絶対無理だし。でも、進展なんてなくてもいいんだ。ただ、彼女を見てるだけで。会話って呼べなくても、授業中のほんの少しのやり取りで良いんだ。彼女の声が間近で聞けたら。「園田君」って、事務的にでも呼んでくれたら」

朝陽の心が高揚していくのが、暗がりの中で分かった。
その部分だけ、ほんわりと暖かな空気を放っているようだから。

「やっぱり僕、彼女のことが、好きなんだ」

私の知らないうちに、朝陽の中で、彼女への想いが育っていた。
そして、私の知らないところで、私の知らない朝陽がどんどん生まれていく。
切なさで苦しそうに顔ゆがめる朝陽に、私の心臓がどくどくとうるさく鐘を鳴らした。

「本田君と朝陽とじゃ、勝負にならないよ」

それが私の、精一杯のアドバイスだった。
彼女を諦めさせようとか、意地悪とか、正直それもちょっとはあったかもしれない。
だって、朝陽の「とくべつ」は、幼馴染みの私でないといけないんだから。
私以外の人との恋愛で傷つくなんて、絶対、イヤ。
他の女子に、この場所は譲れない。
人生の途中から出てきた、一目で恋に落ちた女子になんて。
だけど、純粋な忠告でもあった。
負け戦。
どう頑張っても、叶わない恋だ。
私じゃなくてもそう言うだろう。
私の忠告に対して、朝陽は苦しそうにさらに顔をしかめた。
だけどすぐにその緊張を緩めて、弱々しくふっと笑って言った。

「……だよね」