朝陽が「あいつ」と呼ぶので、私も「あいつ」と呼ぶ。
私は友達でもないのに。
だけど朝陽も、「あいつ」の名前を言わなかった。
いつも「あいつ」だった。
「あいつ」はクラスは違うけど、サッカー部が同じで、サッカーがめちゃめちゃ上手いそうだ。
だけど目立ったりすることが嫌いで、いつもアシスト役に回ることが多いらしい。
ボールを運んで、シュートを決められそうな人にパスを回して、自分では決してシュートを打たない。

「でも、それがあいつっぽいんだよね」

あいつの話をするとき、朝陽は楽しそうに話す。

「僕が言うのもなんだけど、あいつ、見た目もパッとしないし、教室でも部活でも目立たないようにしてて、存在感薄くて……、なんていうか、空気みたいなんだよね。いるのにいないふりが上手いっていうか」

「ほんと、朝陽に言われたくないよね」と直球で返すと、朝陽は唇を突き立てて目を細める。
その顔が私のお気に入りだ。
いつもなら「うるさいなあ」とか言って小さな反撃をしてくるんだけど、今日の朝陽はすぐに穏やかな表情をとり戻した。

「なんか、僕と似てるんだよね。空気感が」

__似てる…空気感。

忘れかけていた「彼女」が、私の脳裏をかすめていった。
朝陽の顔をもう一度見直すと、朝陽は珍しく活き活きとした顔を夜空に向けていた。
星の煌めきがその顔に映りこんだかのように輝いて見えた。
その表情に見とれていると、「はあ……」と、朝陽はいつものため息を漏らした。
それと同時に、煌めきが散っていく。

「何よ。自分と気の合う友達ができて嬉しいんじゃないの? 朝陽には珍しいというか、貴重な地味トモができたってことでしょ?」
「地味トモって……」
「それとも何? あいつとの間に、なんか問題でもあったりするの?」
「問題ではないけど……」

朝陽はそう言って、今度は切ない表情を空に向けた。
夜空の星に何か問いかけるような目は、星の煌めきを反射させない。

「完全には、似てないんだよね、これが」
「どういうこと?」
「あいつ、実はすごく頭良いんだよね。この間の学力テスト、総合で8位だよ」
「へえ。朝陽は?」
「僕は、76位。真ん中よりちょっと下」

朝陽らしくパッとしない成績だ。

「それに、あいつ運動神経も良くて、体力テストの成績すごく良くってさ。50メートル走は7秒台前半だし、シャトルランは余裕で100回超えてたし」
「へえ。すごいね、それは。で、朝陽は?」
「僕は、全部平均記録より、良かったり悪かったり」

やっぱり、朝陽らしい。
褒めるところもなく、けなすところもなく。

「僕と一緒にいるけど、ほんとは誰とでも仲良くできるんだ。学校で目立つ奴とか、学校で人気のある人とか。そんな人たちとも気さくに話したり、話し合わせたりできるんだ」
「人当たりが良いんだ」
「そうなんだよね。でも、基本目立つのが嫌いだからさ。シャトルランも、ほんとはまだ余裕だったけど、一人残ると目立つじゃん。だから途中でやめたんだよ」
「へえ。私はそういうの、好きじゃないけど。朝陽は、そんなことしないでしょ?」
「しないというか、そもそもそこまでいかないからね。とにかく、成績が良くても、運動神経が良くても、サッカーが上手くても、人から話題にされないというか。話題にされないようにしているというか。ほんとに、いるのにいないふりをするのが上手いんだよ」

「部活に遅れてきても、いなかったのにいたふりするのも上手いし」と朝陽はおかしそうに笑って付け足す。
だけどまたすぐに、寂しげな顔に戻ってしまう。

「あいつは、ほんとにすごいんだ。雰囲気や空気感は僕と似ているし、僕も一緒にいるのは楽しいよ。居心地がいいというか。あいつが僕と一緒にいてくれる理由なんて、それしかないと思うし。地味で目立たない僕といる方が、楽なんだと思う。だけど、時々、あいつは自分とは違うんだって思い知らされると、なんて言うか…」

言いよどむ朝陽に、私はその気持ちを代弁してあげるつもりだった。

「寂しい?」

それなのに朝陽は、「いや……」と言って少し考えてから、強い眼差しで言った。

「悔しい」

見たことのないその表情に、体がぞくぞくと震える感覚がした。

「あいつは、僕と似ている。だけど、どこか違う。しかも、全然違う。それを、悔しいって思う時があるんだ。かつみのくせにって」

その時初めて、「あいつ」の名前を知った。

「かつみ……」

私もその名前を、ぽつりと闇の中に放ってみた。