いつものように9時ごろ外に出ようと、玄関の扉をそっと開けた。
半分開いたドアの隙間から、朝陽がいつものように階段に座っている姿がちらりと見えた。

__あ、いる。

ほんの二日ぶりに見るのに、すごく久しぶりに会えたような気がして、なんだか胸が高鳴った。
朝陽は頭を抱えて、体を揺すって、「はあ」とため息を漏らしていた。
掌で目元や顔をごしごしとこすっては、「はあ」とため息を繰り返す。
その様子は、いつもと違った。
そこから感じるのは、「焦燥感」。
最近現代文の授業で知ったこの言葉の意味は、辞書を引いて明確な意味を知らなくても、何となく嫌な感じが伝わってくる。
今の朝陽には、その言葉の響きや漢字そのものがぴったりだった。
今日はやめておこうと家の中に戻ろうとした時、指の隙間から私の方にちらりと視線をやる朝陽と目が合った。

「凪咲?」

小さく呟かれた名前にどきりとした。
二日ぶりに聞く声は、朝陽の声じゃないような気がした。
低くて大人びていた。

「今日は、出ないの?」

朝陽は色っぽい声で私に聞いた。
その声にドキドキしながらも、私は外に引き返した。
声だけで心拍数が上がってしまったのを誤魔化すように、急いで階段に腰かけた。
そして平静を装った。
朝陽が座る階段の傍らには、よく見る京都土産が置かれていた。

「今日、帰ってきたんだね。おかえりー。おっ、生八つ橋。食べていい?」
「……うん」

小さくて短い返事だったのに、朝陽の低い声はお腹の辺りにしびれるように響いた。

「てか自分にお土産って、寂しくない?」
「自分にじゃない。うちに買ってきたんだよ」
「なんで一人で食べてんの?」
「やけ食い」

__生八つ橋8枚、やけ食い?

ただならぬ状況に、私は八つ橋を取りに行こうと上げかけた腰をもう一度おろした。

「修学旅行、楽しかった?」
「うん、まあ」
「私にお土産はないわけ?」
「ごめん」
「お土産話は?」
「……」

朝陽は何も言わない。
ただ思い出話をすればいいだけなのに。
なぜか気まずくて、この空気を払拭するように私は勢いよく立ち上がって、フェンス向こうの園田家の敷地を踏んだ。
そして朝陽の隣に座って、生八つ橋に手を伸ばした。
私の指先が、もうあとほんの少しで生八つ橋の柔らかな皮に触れそうになった時、朝陽が口を開いた。

「僕の席だったんだ」
「……え?」
「バスの席、彼女の隣は、僕が座るはずだったんだ。それなのに、あいつが座ったんだ。じゃんけんでみんなで決めたのに。そこは僕が座る席だったのに、あいつが座ったんだ。だから僕は、彼女の前の席に座ったんだ。あいつが座るはずの席に」

何かの呪いでも唱えるように、朝陽はおどろおどろしい低い声を口から垂れ流す。
そんな空気に巻き込まれた私は、生八つ橋に伸ばした手を引っ込めた。

「そんな、席ぐらいで……」
「そうだよ、席ぐらいでこんな落ち込んで、バカみたいって思うでしょ。でも僕だって、必死なんだよ。恥ずかしいくら必死なんだよ」

朝陽の声の勢いに、思わず体がすくんだ。
人間からこんなに激しく、大きな声が出るんだと、びっくりしている。
しかも、朝陽から。

「でも、まだ付き合ってるかどうかもわかんないんでしょ?」

そう言った私の声は、かすれて震えていた。

「そんなんわかるよ。付き合ってなかったら、部活中に目を合わせあったりしないでしょ。わざわざ教室まで会いに行かないでしょ。バスの中で頭寄せ合って寝たりしないでしょ。二人はもう、付き合ってんだよ」

切なさで壊れてしまいそうな朝陽の声は、閑静な住宅街に十分響き渡った。
こんな声を荒げる朝陽を見るのは初めてだった。
こんな表情の朝陽を見るのは初めてだった。

__どうしてそんな顔するの?
その恋の相手は、私じゃないのに。
朝陽の隣は、私じゃなきゃダメなのに。
そんな顔していいのは、私と恋をする時だけなのに。

息ができないほど、胸が震えていた。
半開きになった口から、短い呼吸が何度も吐き出される。
切なさと苦しさに、思わず顔がゆがむ。
体の奥底からふつふつと湧きだす感情に抗うように、両手のこぶしをぐっと握った。
だけど、抑えきれなかった。
震える体が、さっと体重移動した。
八つ橋に伸ばそうとしていた手が、出会った頃から変わらない、不格好なもさもさ頭をそっと自分の胸に抱き寄せたがった。
きゅっと力を込めた指先が、いつぶりかに触れる朝陽の感覚を、私の体の全神経を巡って伝えてくる。
それは、私の中の幼い朝陽の記憶を塗り替えていく。

__私が、いるじゃん。

そう言いたかった。
だけど、そう言っていいのかわからなかった。

__私がいるじゃん、だから、何?

どこかでそう問う自分が、その言葉をぐっと飲みこませた。
ほんの少し体重移動しただけなのに、私の呼吸は激しく乱れていた。
心臓は張り裂けそうなくらいドクドクと動いた。
血液が異様な速さで巡って体中を熱くしていく。
こんな余裕のない姿、こんな動揺した心音、私らしくなくて、恥ずかしすぎる。
見られたくない。
それでも私は、朝陽の頭を大事に抱え続けた。
私の胸の動きに合わせて、朝陽の頭も動いた。
ごわついた髪質に絡まる指先は、小刻みに震えていた。 

「……するよ。付き合ってなくても、こういうこと」

震えながら動く私の口元と鼻先を、朝陽の髪の毛がくすぐる。
まだお風呂に入っていない朝陽から漂う香りは、いつもと違っていた。
これが、京の香りだろうか。
また私の知らない、朝陽。
知らない朝陽を見つけるたびに、私の心臓は焦りと不安でやかましく変な動きをする。
だけど今の心臓の高鳴りは、ただそれだけじゃない。
切なさ、苦しさ、焦り、不安、それから……

その先を考え始めた瞬間、胸の音が急に大きくなった。

「別に、普通だよ、こんなの」

胸の谷間あたりに張り付く小さな耳に、この鼓動が伝わらないように、笑って言ったつもりだった。
だけど胸の高鳴りも、その速さも、収まるどころか、強く加速するばかりだ。
自分が何かに押しつぶされそうで、思わず頭を抱える腕にも指先にも力がこもった。
苦しさに息が詰まったその瞬間、朝陽がばっと私の体を突き放した。

「なっ、何やってんだよ」

園田家のポーチの灯りに、朝陽の顔が照らされた。
朝陽は顔を隠すように手で口元を覆って、私から視線をそらしていた。
そのまま家の中に入ろうとする背中に、私は声が震えるのをなんとか抑えて言った。

「じゃあもう、諦めたらいいじゃん」

その言葉に、玄関の取っ手に伸ばした朝陽の手がぴたりと止まった。

__言ってよ、いつもみたいに。「……だよね」って。

私に向けられた自信なげな背中から、震えた切ない声が放たれた。

「簡単に諦められてたら、とっくに諦めてるよ。でもしょうがないじゃん。どんどん好きになるんだから。あいつが好きだってわかってから、もっと好きになっていくんだから。それでも彼女が、好きなんだから」

その答えに、私の胸がさっと何かで切り付けられたように痛んだ。

「八つ橋、全部食べていいから。おやすみ」

早口でそう言って、朝陽はドアの向こう側に消えていった。
朝陽に突き放された胸の上あたりが、まだじーんと痛かった。
その部分を、私はそっとなでた。
階段に置かれた生八つ橋が目に入った。
暗闇の中で、明かりに照らされてキラキラと輝く生八つ橋。
キラキラの正体は、一体何だろう。
薄い皮をそっとつまんで口に入れた。
人ん家の前で八つ橋を食べるって、ちょっと非常識だけど、まあいいか。
朝陽の家の前だし。
幼馴染みの、家の前だし。
皮はすっかりパサついていた。
鼻をずずっと吸いながら、それでも柔らかさを残す皮を咀嚼する。
味はよくわからなかった。
だけど、ニッキの香りだけが、詰まった鼻孔を開いていった。
私だってやけ食いしたい気分なのに、8枚の生八つ橋は、あっという間になくなった。