麦茶を飲み終える頃には、日はすっかり沈んでいた。

 まだ採点が途中だから、と研究室を追い出された僕は帰路につく。いつもと同じ車両に乗り込むと、帰宅ラッシュをずらしたせいか、人がまばらに座っていて珍しく空席が目立った。

 それでも引き寄せられるかのように、かさねが座っている前に立つ。満足気な笑みを浮かべる彼女は、「ようやく話し相手が来たか」と待ち構えていたようだった。

 事故について書かれた新聞記事の切り抜きくらいしかないことに気付いた。さすがに本人がいる前で広げるのは気が引けたので、スマホで適当なネットニュースを開く。誰が首相になったとか、衝突事故を起こした加害者が車の故障を指摘したとか。そんなニュースが流れてくるが、小説の内容よりも入ってこない。特にあの話を聞いた後でうんざりだった。

『今日は随分疲れているね、シオリくん』

 (さえぎ)っている本がないからか、いつもより顔がよく見える僕にかさねが問う。そういう彼女も、心なしか顔色が悪い気がする。

『顔色って、私は幽霊だよ? 色白く見えたって不思議じゃないでしょ?』

 ごもっとも。

 僕はじっと見つめながら眉をひそめた。いつもなら夕日が差し込んでくるから、気付いていないだけかもしれない。先生の話だと、彼女は生前、園芸部に入っていたと言っていた。太陽の日差しを浴びながら作業する部活だし、本来は小麦色の肌だったのかも。

 駅が停車すると、かさねの隣に座っていた大学生が立ち上がって扉の方へ向かっていった。
 僕が降りる駅まであと二駅もある。普段ならしないけど、僕は彼女の隣に座った。

 珍しいね、と驚かれるけど、気にせずスマホの画面をメモ機能に切り替える。彼女に見えるように傾けながら、片手で文章を打ち込んでいく。

<花が好きなの?>
『……びっくり。お話してくれるの?』
<人が少ないから今日だけ。それで?>
『うん、高校では園芸部に入っていたくらいだもの。だからシオリくんの押し花が気になったのかもね。あまり見かけないもの』
<季節限定の花だからね。君の好きな花は?>
『難しいなぁ……どれも素敵だけれど、やっぱりパンジーかしら。紫色のパンジーが好き』
<紫限定?>
『花言葉は「思慮深い」。あの人みたいでしょ?』
<忘れるんじゃなかった?>
『い、今忘れようとしてる最中なの! 好きな花でパッと思いついたのがパンジーだったし……。簡単に忘れられるほど、軽い気持ちじゃないもの』

 それはそうか。なんせ十八年以上続くの片想いだ。簡単に捨てられるものではない。

 彼女にとって、それがアイドルや俳優のような、手の届かない人間だったらどれほどよかったのだろう。傍にいてくれる身近な存在だからこそ、言いそびれたことが沢山あるはずだ。

<ごめん>
『いいの。自分で決めたことだから、心配しないでね』
<心配? 僕が?>
『してくれないの? シオリくんってそんなに薄情なの?』
<ノーコメント>
『フフッ。いいよ。こんなに初めてお話してくれてるから許す!』

 かさねはそう言って、僕のスマホを見ながら『指をすらいど?させて文章を打ち込んでるのは本当だったのね……』と感心していた。身近で見たことはなかったらしい。
 僕は彼女にある質問をしてみた。

<もし、三十秒だけ声が出せたら、君はどうしたい?>
『三十秒、か。短いようにみえて長く感じるよね』

 かさねは腕を組んで考え込む。小さく唸っているところからすると、相当悩んでいるようだった。

『……ねぇ、さっき宣言したばっかりだけど、ちょっとだけいい?』

 先程言われたのを気にしているらしい。僕が頷くと、ホッとした表情をして続けた。

『きっとね、私のことを忘れていると思うの。十八年も経っているんだから、結婚して子供がいてもおかしくない。そんな彼に、もう死んでいる私が告白したって迷惑なだけ。……それはこの間も言った通り。だから私は「幸せになってね」くらい言えたらそれで満足かな。きっと、目の前にしただけで三十秒経ってしまう気がするし』
<そっか>
『シオリくんは? 三十秒だけ話せたら……じゃないね、えっと……』

 質問を考える彼女に、僕は迷わずスマホに打ち込んで見せる。

<僕が三十秒だけ声を出せるなら、叫んでみたい>
『……叫べるでしょ? シオリくん』

 さあね、と打ち込むと、不思議そうに首を傾げた。

『そういえば、今日は本も栞も忘れちゃったの?』

 かさねはそう言って、僕の鞄を指さした。

<読みたい本がなかったから>
『でも何度も読み返している本だってあったでしょう?』
<なんで知ってるの>
『シオリくんのことならお見通しだよ』
<じゃあ僕が持ってこなかった本当の理由もわかるでしょ>
『……それは、わからない』
<かさねと話したかったから、持ってこなかった>

 僕が打ち込んだ画面を見て、途端にかさねの頬が赤くなる。画面と僕の顔を何度も見返して、今度こそ僕と目が合うと、頬を緩めた。

『私、シオリくんに見つけてもらえてよかったなぁ』

 小さな棘が、胸の奥に刺さった気がした。