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 ほとんど会話せず、かさねが一方的に話しているのを聞くフリをするようになって、気付けば二月の後半に差し掛かっていた。
 僕から問いかけたことは一度もない。唯一のやりとりはネリネの検索結果を見せたときだけで、それからは本に没頭するフリをして彼女の話を聞いていた。

『私ね、気になる人がいるの』

 雨が降りそうな曇天の空が広がる、ある日の夕方のこと。
 電車に乗れば、かさねがいつもの座席に座って今か今かと待ち構えていた。やけに気合が入っているように見えたから、なにかあったのかと首を傾げると、唐突のカミングアウト。思わず開いた本を落としそうになった。

『私だって女の子だもん。気になる人や、好きな人がいたって不思議じゃないでしょ?』

 そうかもしれないけど、そんなに意気込んで言うことではないと思う。

『その顔はどうでもいいってこと? ちょっとくらい話を聞いて』

 いつも聞いてますけど。

『この車両は三時間後にもう一度路線(ここ)を走るんだけど、その時に必ず、右後ろにある扉に寄りかかっているスーツ姿の男の人がいるの。メガネをかけていて、シオリくんと同じように電車に乗っている時は本を読んでるんだ。その人を見ているとね、懐かしくて、胸が締め付けられる感じがする。私が生きていた時にどこかで会ったことがあるのかなって、気になっちゃった』

 なっちゃった、って言われても。

 こればかりはかさねが思い出さないと、僕からは何もできない。手を貸す気もないけど。

 すると、かさねは僕の顔色を見て呆れられたのかと思ったのか、『ご、ごめんね!』と慌てた様子で僕に言う。

『こんな話、あなたにしてもダメだよね。……でも、あの彼がマサオミくん(・・・・・・)なのかなって期待しちゃう自分がいるの』

 マサオミ?

 出会ってから今日まで話を――強制的に――聞かされてきたが、かさねの口から“マサオミ”なんて名前の人物は聞いたことがない。そもそも、覚えているのは自分の名前と、事故当時のことだけだと言っていたじゃないか。

『最近思い出したんだけどね、マサオミくんっていう、私と二十も年が離れた先生がいて、同じ電車で帰っていたの。彼と一緒にいる時間は本当に楽しくて、その日に嫌なことがあっても全部忘れさせてくれるくらい、温かい気持ちにさせてくれるの。……私はいつの間にか、優しくて真っ直ぐな彼が好きになっていた』

 走行する窓の外の景色に目を向けて、懐かしそうにかさねは続けた。

『でも先生と生徒の恋愛ってご法度でしょう? まだ学校が違ったからバレなかったけど、私が彼の隣を歩けば、周りは厳しい目で見た。マサオミくんは、私のことを妹だっていつも言っていたから、一方的な片想いだったと思う。それでも私は告白しようって決めた。振られても構わない、妹として見られていたとしても、私が彼を好きなことに変わりはないから』

 しかし、彼女は事故に遭ってしまう。誰かに押されて線路に落下。すぐに立ち上がろうとしたが、電車はすぐそこまで迫ってきていた。

『私は言えなかった。好きもごめんも言えないまま、私は死んだ。……でも、もういいの。ただ私は、聞いても得をしないこの話を誰かに話したかっただけよ』

 だから、今の話は忘れてね。

 かさねはそう言って、悲しそうに笑った。