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 四月に入った。夕方の帰宅ラッシュに入った駅前は、真新しい制服に身を包んだ新入生が楽しそうに談笑しながら行き交っている。

 いつものように改札を通ろうとすると、電光掲示板が信号確認のため普段より十分ほど遅れているのだという。
 時間潰しなら特に問題はない。僕は改札を通ってプラットホームに向かった。急行電車が発車したタイミングだったようで、平日にも関わらず人が点々としている。どこかポッカリと穴が空いたような、寂しい光景が映っていた。

 かさねが電車の車両からいなくなって一ヵ月が経つ。

 たった三十秒という時間の中で、ずっと内に秘めていた想いを自分の声で伝えて消えてしまった。心残りを解消し、成仏したのならばそれでいい。想いを伝えたいという彼女の願いに、寄り添えたならそれで良かった。――良かったはずなのに、僕は未だにこの違和感を拭えずにいた。

 電車を待つ間、プラットホームに置かれたベンチに座って本を開く。普段は選ばないジャンルの小説を読んでいるせいか、小説の内容よりもそればかり考えていた。

 すると、ベンチに誰かがやってくる気配がした。気になって顔をあげると、洒落込んだ服装の木嶋先生が小さな花束を抱えて立っていた。

「やぁ、久しぶりだね」

 突然のことで驚いて、スマホを出すよりも先に慌てて会釈をした。

 木嶋先生は先月の離任式で退職された。しばらくはゆっくりして、少し離れた児童館で勉強を教える指導員として働くという。かさねが消えた直後はちょうど引き継ぎで忙しくしていて、こうやって二人きりで顔を合わせるのも久々だった。

 僕はポケットからスマホを取り出して打ち込み、画面の文字を大きく設定してから先生に向けた。

<お久しぶりです。お元気そうですね>
「そうだね。私も君が元気そうで安心したよ。たまにこの時間帯の電車に乗っていたんだが、そうか、君は各駅停車に乗っていたね。引っ越してからは急行が便利になってしまったから、すっかり忘れていたよ」

 退職後の新しい勤務地となる児童館の最寄り駅は、様々な路線が繋がっていることもあって、急行電車が停まる大きな駅だと聞く。その近い場所にあるアパートに引っ越した先生は、この駅に来ることも、各駅停車に乗ることも極端に減った。

<今日はどこか出掛けていたんですか?>
「まあ、いろいろとね。そうだ、君も来てくれるかい?」

 先生は返答も待たず、ふらっと歩き出した。
 僕は読みかけの本を鞄にしまうのも忘れて、抱えたまま後を追う。何も聞かずについていくと、プラットホームの端で立ち止まった。すぐ近くにある柱の影に、抱えていた花束をそっと置く。
 紫色のパンジーを中心に組まれた小さな花束をみて、消えてしまった彼女へのプレゼントだと悟った。

「私は毎年、誕生日になると彼女の好きな花を渡していたんだ。本当はここに献花するのは注意されてしまうんだが、この日だけは多めに見てもらっている。駅長とは飲みに行くほど仲が良いんだ」

 今日は久々に飲みに行く約束をしたそうで、向こうが仕事を終えるのを待っているらしい。その駅長も、今月いっぱいで定年退職するという。

「当時は駆け出しの駅員でね、かさねのことで世話になった人なんだ。あの人がいたから、今もこうして花を手向けることができる。……君にも、ちゃんと礼をしたいな。成人したらメシにでも行こうか」
<もう二年頑張れってことですか?>
「さすがに高校生を連れ回すのは不味いだろう。それに、君と私は秘密を共有した仲じゃないか。酒を飲みながら、昔話にも付き合ってくれたっていいだろう? ……いや、君はお茶の方がいいのか」
<ペットボトルの麦茶で充分です>
<僕でよければ、いつでも聞きますよ>

 僕が打ち込んだ文章を見て、先生はまたメガネを外して目を細める。フォントを変えたり、級数を上げたりしているけど、スマホだとこれが限界だ。それでも先生は読み終えると、「楽しみにしている」と笑ってくれた。

 視界の端でパンジーの花束が風で揺れる。鮮やかな紫色が夕日に照らされて輝いていた。

 僕は知っている。かさねが紫色のパンジーが好きなのは、あなたに似合うからだと言っていたことを。
 これを伝えたら、先生はまた悲しい顔をするのだろうか。

 そんなことを考えていると、またジワジワとやるせなさが襲い掛かってくる。肺を握り潰そうとするような圧迫は、吐き気がして思わず胸を抑えた。「間違えてはいけない」――頭の中で、誰かが叫んでいるような気がした。

「――大丈夫かい?」

 ハッとして顔を上げると、先生がじっとこちらを見ていた。

 あの日――先生は僕を見て「残酷」だと言った。
 恨まれてもしかたがないことをしたと自覚したのは、かさねが消えた後だ。そんな自分に声をかけるのは、ただの親切心か、同情か。思わず目を逸らしてしまった。
 すると見かねたのか、先生は小さく深呼吸をしてから口を開いた。

「これは今まで言っていなかったんだが、君が同じ電車に乗っているのを、実は随分前から知っていたんだよ」
「…………?」
「時間帯が違ったから、滅多に会わなかったけどね。でも君は学校でも本を読んでいただろう? 大事そうに使っている、押し花の栞が印象的だったんだ。研究室で名前が出てこなかったのは申し訳なかったけどね」

 ――『シオリくんだけは押し花だったから珍しいなって思って。色褪せているのは、ずっと使っている証拠だもの』

 本から中途半端にはみ出した栞を指をさす。かさねも同じことを言っていたのを思い出して、途端に心臓が重くなった。
 彼女はもういない。――その事実はずっと前からわかっていたはずなのに、言葉にするだけでこんなにやるせない気持ちになるなんて思わなかった。

 僕は躊躇いながらも、震える手を抑えながら打ち込んだ文章を先生に見せた。

<僕は、どこで間違えましたか>