翌日、学校を終えた僕は真っ先に駅に向かい、プラットホームで木嶋先生を待った。

 もうすぐ三月に入るとはいえ、つんと鼻が痛むほど冷え込んでいる。待合室があれば、多少は寒さをしのげるのに。仕方なく自販機で買った缶コーヒーで(だん)を取って、読みかけの本に没頭する。

 しばらくして顔をあげると、スマホの画面に表示された時計が十七時に変わるところだった。
 屋根や建物の合間を縫って差し込んだ夕日が、向こう側のプラットホームを照らす。なんともノスタルジックな景色に、僕は読み終えた本を仕舞いながら魅入っていた。つい最近、この駅にも急行電車が停車するようになり、多くの人がその電車に合わせて乗り込むことが増えた。だからこの人気の少ない、寂れた光景を見るのは久々だった。

 息をするのを忘れるほど魅入られていると、視界の端に入った改札口に繋がる階段から、ちょうど木嶋先生が登ってくるのが見えた。息を整えながら僕のところまでくると、辺りを見渡した。

「……随分人が減ったな。これからサラリーマンの帰宅ラッシュが始まる前兆、といったところか。ああいや、こんなに人がいない駅を見ること自体珍しくてね。教員免許を取って三十年近くになるが、電車の中はほとんど読書で暇を潰していたから、感傷に浸ってしまった」

 先生は夕日が当たる線路のほうを向いて、眩しそうに目を細めた。ふと、その横顔から彼女のことを思い出す。寂しそうに微笑んだ顔が、どこか似ているような気がした。

 しばらくして、プラットホームに各駅停車の電車が到着すると、僕らは乗り込んだ。入ってすぐ、追い越すようにして仕事を終えたであろうサラリーマンが座席にどかっと座ると、すぐさま大口を開けて仮眠に入る。これで席はすべて埋まってしまった。

 向こう側の扉の端に木嶋先生が背を向けると、僕は扉の前に立った。隙間からひんやりとした空気が流れ込んできいて、思わずぶるっと震えた。

「大丈夫かい? 寒かったら、奥の方へ……ああ、わかった。そんなに首を振らなくても大丈夫だ」

 取れてしまうぞ、と苦笑する。
 僕は思わず首に触れた。よかった、まだついてる。

「いつも私が帰っている時間だと結構人が乗っているから、つい癖で扉の前に来てしまう。十五分しか乗らないから気が緩むんだろうな。本がないと、乗っている時間が長く感じてしまう」

 僕も同じことを思っていた。
 たった十五分くらい立っていられるし、ぼーっと外を眺めていれば時間は過ぎる。それでもなぜか電車だけは体感が変わる。だから多くの人が電車に乗るとすぐ、最寄り駅に着くまでの個人空間を創り出すのだと、自分が走行中に本を読み始めるまで気付かなかった。

 ついさっき僕らを追い越して座席に座ったサラリーマンがまだ動き出してもいないのに仮眠を取り始めたのも、きっと最寄り駅に着いたあと、待っている家族のために家まで走るから体力を温存したいのかもしれない。わからないけど。

 先生はさらに続けた。

「……十八年前まで私も、電車に乗っている十五分間があっという間だった。何度か降り損ねたこともある。……それさえも楽しかった」

 ふう、と大きな溜息をつく。

「やれやれ。昔のことなのに、君と話すとつい口が勝手に動く。こんなに虚しくなるのも久しぶりだ。忘れていようと思っていたのに、ずっと引きずってばかりじゃないか」

 先生は小さく笑った。
 僕はその方が人間らしいと思う。どれだけ嫌な思い出も全部忘れて、関わった人たち全員の記憶から無くなってしまえば、どれほど楽だっただろう。それができないから人間だと、願うたびに思い知らされる。神様は意地悪だ。

 そう伝えようとしてスマホの画面を開くけど、途中まで打ち込んで止めた。こんなことを言ったって、先生はまた飲み込むだけだ。伝えるだけ無駄な気がして、書きかけた文章をすべて消した。

 電車がゆっくりと動き出す。すると、僕の隣に誰かが立った。

『今日はここにいたのね、シオリくん』

 目を向けなくてもわかる。だって僕のことをそう呼ぶのは、彼女しかいないのだから。

『いつもの電車にいなかったから会えないのかなって思ってたけど……彼と一緒だったんだね』

 彼女が一歩踏み出して、先生の傍に行く。じぃっと見つめて、顔や体格、指先まで食い入るように見ていく。真っ直ぐに見入る彼女は、とても柔らかい表情をしていた。

『……十八年、だもんね。雅臣くん(・・・・)

 呟いたかさねの声に気付かないまま、先生は僕に問う。

「そういえば、私に会わせたい人はどこにいるんだい? 電車に乗ってしまったのだから、降りる駅で待ち合わせしているのか?」

 先生に言われて、僕は首を横に振る。

<会わせたい人は、先生の隣にいます>

 不思議そうに首を傾げる先生に、かさねは泣きそうになるのを堪えて、僕を見た。

『なんで……シオリくん、何をしようとしているの……?』
「隣に? ……その人は、君とどういう関係だい?」
<電車で出会いました。まさか、うちの学校の先輩だと思わなかったんですけど>
『学校……シオリくんの学校の先生? 今も先生を続けているの?』
「先輩って、生徒なら学校でもよかったんじゃないか?」
<二十年ほど前に在学していた先輩です。学校が統合する前にあった、女子校の生徒さん>
『それって……』
「……なるほど、そういうことか。在学していた、と過去形でいうのには、何か訳があるようだね」
<事故に遭ったようで、無事卒業できたかわからないんです>

 僕がそこまで答えると、先生は小さく唸った。その隣でかさねがわなわなと震えている。

『シオリくん、いつ調べたの? 私が死んだ事故のことも、雅臣くんのことも』
<ちょっと前から調べてた。……君の話を聞いたら、気になって>
『どうして……あの話は忘れてって言ったじゃない』
<どうして?>
『聞かないでよ。私は、忘れるって……決めたの』
<十八年以上も抱えてきたのに、言葉にしない方がダメだ>
<きっと、今日が終わってもずっと後悔し続ける>