十六夜の月が見ていた

「そっちだって、猫を『おまえ』って呼んでるじゃんか」

「じゃあ、『ユウヤ』って名前にしようか」

「なんで俺の名前なんだよ」

「私のことを『奈緒』って呼んでくれたら、違う名前を考えるよ」

 今さらだけど、いざとなると、ものすごく照れくさい。

 でも、猫に俺の名前を付けられても困る。

「分かったよ。これからはそう呼ぶよ」

「ホント?」と、彼女の笑顔が輝く。

 見たこともない満面の笑顔だ。

 反則だろ。

 そんな笑顔。

「ええとね、じゃあ、この子はどうしようかな……」

 奈緒がしゃがんで猫を下ろしながらしばらく首をひねっていた。

 俺はそんな彼女の様子を立ったままじっと見つめていた。

 髪の間から見える無防備なうなじが白い。

「吾輩は猫である。名前はまだない」と、奈緒は猫に語りかけるように有名な小説をつぶやいていた。

 おいおい。

 まさか、『漱石』なんて名前にするんじゃないだろうな。

「よし、じゃあ、『バジル』にしよう」と、急に奈緒が顔を上げる。

 自分のセンスのなさが恥ずかしい。

「どうしたの? 顔赤いよ」

 俺はあわてて顔の前で手を振った。

「べ、べつに、何でもないよ」

「いい名前でしょ?」

「バジルって、マルゲリータピザの上にのってる葉っぱか?」

「そうだよ。私の大好物」

「おしゃれだな」

「でしょ」と、得意顔だ。

 彼女が「バジル」と、さっそく名前を呼びかけながらなでていると、倉庫の表側をランニングの連中が通りかかって、掛け声と足音に驚いたのか猫が逃げていった。

「あーあ、行っちゃった。またね」

 それ以来、放課後彼女は倉庫裏に立ち寄って猫に餌を置いていくようになった。

 このあたりは部活動の時しか使われない区域だし、倉庫の裏側は建物に挟まれた隙間みたいなところだから、まったく人目にはつかない。

 バジルが姿を見せないときでも、翌日見に行くと餌は無くなっていた。

「私たち二人の部活だね」

 秘密を共有する俺たちの距離は急速に縮まっていった。