十六夜の月が見ていた

 温水プールと第二体育館の間にさしかかったときだった。

「呼んだ?」と、彼女が急に立ち止まった。

 は?

「いや。どうした?」

「なんか急に名前を呼ばれたから」

 いや、俺は呼んでないぞ。

 ていうか、一緒に歩いてるのにわざわざ呼ぶ意味がないだろ。

 それに俺は下志津奈緒と話すときに、名前を呼んだりはしない。

 いつも『おい』とか、『おまえ』だ。

 ――ナーオ。

 あれ?

「ねえ、聞こえるよね」と、彼女があたりを見回す。

 たしかに奈緒と聞こえる。

 ――ナーオ。

 体育館の横に倉庫がある。

 彼女が建物の間にそっと入っていく。

 裏側に回ったとき、何かが動く気配がした。

 ――ナーオ。

「猫か?」

「シッ!」と、彼女が口に人差し指を立てる。

 倉庫のコンクリート土台に通風用の穴があって、そこから猫が顔を出していた。

 しゃがみ込んだ彼女がそっと手を差し出す。

「おいで」

 ――ナーオ。

 それほど警戒する様子もなく、猫が彼女へと寄ってきた。

 白地に灰色の模様が入った子猫だった。

「どこから来たんですか?」

 ――ナーオ。

 猫は彼女の手の甲に頭を擦り付けている。

「人を怖がらないみたいだけど、飼い猫じゃなさそうだな」と、俺は後ろから声をかけた。

 首輪がついていないだけで、根拠はない。

「一人で寂しくないんですか?」と、彼女がそっと猫の背中をなでる。

 ――ナーオ。

 なんだか会話が成立しているような気がしてくる。

「おまえは私の名前を呼んでくれるのね」と、猫を抱き上げた彼女が俺の方を向いた。「この人はね、私のことを『奈緒』って呼んでくれないんだよ」

 急に何を言い出すんだよ。

「冷たいでしょ」と、猫の腕を持ち上げながら俺に向かって引っ掻くようなそぶりをする。「おまえは優しいのにね」

 ――ナーオ。

 猫を味方につけやがって。