3,自覚した想い
年が明けると私立の受験があり、合否が発表になってから、公立の願書を提出する日がやってくる。
都会と違い、地方には名門私立なんてものは、なかなか存在していない。専願で最初から私立に決める子もちらほらいるが、多くの生徒にとっては、公立高校に行くのがスタンダードな進学コースだ。
澪はこつこつ頑張った成果か、ここにきて成績が急上昇していた。それで、親に志望校のランクを上げるよう勧められ、職員室に何度も相談に行った。
私立の試験内容が思っていたより難しかったため、公立のランクを上げても合格できるか、なかなか自信が持てないのだ。
「高清水」
その時も職員室からの帰りだった。
ふり向くと、廊下の真ん中で、明貴がこっちを見て立っていた。
「鈴城くん?」
驚いている澪に、明貴は近づいてきた。前より大きくなったように見える。視線を合わせようとすると、やや上を向く感じだ。
「南高、受けるの?」
「まだ迷ってる……」
「オレも南高に上げたくて悩んでて、先生に高清水も同じだって聞いたんだ」
あまりにも普通に話しかけてくるので、澪は戸惑った。
「偶然だね」
「うん」
明貴はちょっと笑って目をそらした。相変わらず顔立ちは可愛いのに、どこか男っぽさが漂う雰囲気になっている。
「オレ、高清水に謝らなきゃ」
明貴は目をそらしたまま、真面目な口調になった。
「二年ん時のこと?」
「うん。無視とか、ガキっぽいことしてごめん」
澪の胸がドクンと音を立てる。明貴は言いにくそうに、だけど一生懸命話そうとしていた。
「自意識過剰で恥ずかしいけど、高清水に好かれてるって勘違いしてた」
無視の本当の理由はそれじゃないかと、澪も考えたことはある。夏海に誤解されるのを避けたいのかなと。
「昇降口で森と話してるの聞いたんだ。それで、オレみっともねーって思ってさ、ずっと謝りたかった」
「そっか」
澪はにこっと笑って見せた。
「気にしてくれて、ありがとう」
明貴は白い頬をほんのり赤らめて澪を見た。
「変なこと聞くけど……オレのこと、別になんとも思ってないんだよな?」
夏海はもう他の男子と付き合っているのに、明貴はまだそんなことを気にして、わざわざ確認するのかと思うと、澪は悲しくなってきた。
たぶん夏海は、明貴がモテようが彼女を作ろうが、なんとも思わないだろう。澪だけじゃなく、まわりの誰もがそう考えているのに、明貴だけは違うのだ。どうしてそこまで一途になれるのか。
「なーんも意識してないよ」
澪は笑顔でうなずいた。そう言うしかない場面だった。
「よかった」
心底ほっとしたような態度に、澪の胸がズキンと痛む。
なぜこんな痛みを感じるのか……認めたくないが、答えは明白だ。
そんな澪の心境も知らず、明貴は晴れ晴れした笑顔を見せた。
「一緒に南高めざそうぜ」
「……うん」
「頑張ればどうにかなるって!」
どんなに頑張ってもどうにもならないことだってある――澪は目の前に立つ具体例をちらっと見て、ため息をつきたくなるのを必死でこらえた。
「そうだね、頑張ろう」
力なく笑って答えるしかなかった。
南高に願書を出した夜、澪は居間からデジタルフォトフレームを持ってきて、修学旅行のアルバムデータを読み込ませた。
丁寧に見ていき、やっとその人物が写っている一枚を探し出した。
「鈴城明貴くん」
写真の中の彼は、夏海が美月と澪を背後からおどかそうと狙っているのを、楽しそうに笑って見ている。
噂では、夏海はずっと前から、自由な校風の南高に憧れがあったという。
たしかに南高は、地域で上から二番目レベルの進学校で人気が高い。夏期講習で知り合ったという夏海の彼氏も、はじめから南高志望だったらしい。
そして明貴は、夏海と同じ高校だからという理由で、成績的には厳しめの南高を受けるのだ。澪に一緒に頑張ろうと言ったが、たぶんそのことにはなんの理由もなく、自分の発言を覚えているかどうかもあやしい。
「もう夏海ちゃんには彼氏いるんだよ?」
澪は写真の明貴に話しかける。
「なんであきらめないの?」
胸が締めつけられるように苦しい。
澪の目から涙があふれてくる。
「馬鹿みたい」
つぶやいて唇を噛む。
馬鹿なのは、澪だって同じだ。合格ラインすれすれなのに、南高に願書を出してしまった。もし落ちたら、滑り止めの私立に行くはめになるのに。
澪はあの時、口では何とも思ってないと言いながら、自分の中の恋心に気づいてしまった。
夏海を一途に想い続ける明貴を、いつの間にか好きになっていたのだ。
他の女の子に恋する姿が愛おしいなんて、どうかしていると澪も思う。
なのに、一度自覚してしまったら、明貴の姿を目にするたびに、甘く切ない感情がこみ上げてきて困った。
そばに行きたい。
声を聞きたい。
話したい。
そんな欲が、むくむくわいて止まらなくなる。
夏海しか見えていない彼が相手じゃ、恋が成就するはずないのに。
「大好きだよ、あきちゃん」
夏海の口調を真似て言ってみる。
もし自分が明貴の幼なじみだったら、他の男の子なんか相手にしないで明貴だけを見るのにと思うと、切なくてたまらない。
だけどどんなに想っても、彼の幼なじみは夏海であって、澪ではない。
あの廊下での会話があってから、明貴はたまに澪に話しかけてくるようになった。
クラスは違っても、受験前でなにかと顔を合わせる場面も多い。話題はほとんど受験と勉強についてだったが、普通にやりとりできるのは、澪にとって嬉しいことだった。自分を相手に、感情豊かに話し続ける彼を見ていると、幸せな気持ちで胸がいっぱいになる。
「高清水といると時間忘れるよな」
「話したらすっきりした。ありがとな」
「聞いて欲しいことあるんだけど」
そんなささいな言葉に、つい特別なものを感じそうになったりもする。ありえない展開を夢みそうにもなる。
だが、澪が明貴と話せるようになったのは、自分の恋心を否定したからで、もし「やっぱり好き」なんて口にしたら、軽蔑されてしまうだろう。そしてまた遠ざかって、存在を無視されるに違いない。彼にとっては、夏海以外の女の子から向けられる好意は、迷惑でしかないのだ。
「鈴城くんは、ずっとこんな気持ちでいたのかな」
何年も、毎日毎日、夏海だけを想って、ただ見つめて。
そんなの絶対耐えられないと澪は思った。
明貴はすごい。
自分には無理だ。
「あきらめないと……」
澪は自分に言い聞かせる。
何度も、何度も、あきらめろと命じる。
なのに想いも涙も、止まりそうになかった。
明貴の気持ちは、今の澪になら全部わかる。ふり向きもしない夏海より、ずっと深く理解してあげられると思う。つらかったねと背中をなでて慰めたい。
でも、本人には口が裂けても言えないのだ。
恋が、こんなにつらいものだなんて、誰も教えてくれなかった。
せめて……きみの片想いが実る日が来ますように。
澪は両手を合わせ、天に祈りをささげるかのように、いつまでも願い続けた。
年が明けると私立の受験があり、合否が発表になってから、公立の願書を提出する日がやってくる。
都会と違い、地方には名門私立なんてものは、なかなか存在していない。専願で最初から私立に決める子もちらほらいるが、多くの生徒にとっては、公立高校に行くのがスタンダードな進学コースだ。
澪はこつこつ頑張った成果か、ここにきて成績が急上昇していた。それで、親に志望校のランクを上げるよう勧められ、職員室に何度も相談に行った。
私立の試験内容が思っていたより難しかったため、公立のランクを上げても合格できるか、なかなか自信が持てないのだ。
「高清水」
その時も職員室からの帰りだった。
ふり向くと、廊下の真ん中で、明貴がこっちを見て立っていた。
「鈴城くん?」
驚いている澪に、明貴は近づいてきた。前より大きくなったように見える。視線を合わせようとすると、やや上を向く感じだ。
「南高、受けるの?」
「まだ迷ってる……」
「オレも南高に上げたくて悩んでて、先生に高清水も同じだって聞いたんだ」
あまりにも普通に話しかけてくるので、澪は戸惑った。
「偶然だね」
「うん」
明貴はちょっと笑って目をそらした。相変わらず顔立ちは可愛いのに、どこか男っぽさが漂う雰囲気になっている。
「オレ、高清水に謝らなきゃ」
明貴は目をそらしたまま、真面目な口調になった。
「二年ん時のこと?」
「うん。無視とか、ガキっぽいことしてごめん」
澪の胸がドクンと音を立てる。明貴は言いにくそうに、だけど一生懸命話そうとしていた。
「自意識過剰で恥ずかしいけど、高清水に好かれてるって勘違いしてた」
無視の本当の理由はそれじゃないかと、澪も考えたことはある。夏海に誤解されるのを避けたいのかなと。
「昇降口で森と話してるの聞いたんだ。それで、オレみっともねーって思ってさ、ずっと謝りたかった」
「そっか」
澪はにこっと笑って見せた。
「気にしてくれて、ありがとう」
明貴は白い頬をほんのり赤らめて澪を見た。
「変なこと聞くけど……オレのこと、別になんとも思ってないんだよな?」
夏海はもう他の男子と付き合っているのに、明貴はまだそんなことを気にして、わざわざ確認するのかと思うと、澪は悲しくなってきた。
たぶん夏海は、明貴がモテようが彼女を作ろうが、なんとも思わないだろう。澪だけじゃなく、まわりの誰もがそう考えているのに、明貴だけは違うのだ。どうしてそこまで一途になれるのか。
「なーんも意識してないよ」
澪は笑顔でうなずいた。そう言うしかない場面だった。
「よかった」
心底ほっとしたような態度に、澪の胸がズキンと痛む。
なぜこんな痛みを感じるのか……認めたくないが、答えは明白だ。
そんな澪の心境も知らず、明貴は晴れ晴れした笑顔を見せた。
「一緒に南高めざそうぜ」
「……うん」
「頑張ればどうにかなるって!」
どんなに頑張ってもどうにもならないことだってある――澪は目の前に立つ具体例をちらっと見て、ため息をつきたくなるのを必死でこらえた。
「そうだね、頑張ろう」
力なく笑って答えるしかなかった。
南高に願書を出した夜、澪は居間からデジタルフォトフレームを持ってきて、修学旅行のアルバムデータを読み込ませた。
丁寧に見ていき、やっとその人物が写っている一枚を探し出した。
「鈴城明貴くん」
写真の中の彼は、夏海が美月と澪を背後からおどかそうと狙っているのを、楽しそうに笑って見ている。
噂では、夏海はずっと前から、自由な校風の南高に憧れがあったという。
たしかに南高は、地域で上から二番目レベルの進学校で人気が高い。夏期講習で知り合ったという夏海の彼氏も、はじめから南高志望だったらしい。
そして明貴は、夏海と同じ高校だからという理由で、成績的には厳しめの南高を受けるのだ。澪に一緒に頑張ろうと言ったが、たぶんそのことにはなんの理由もなく、自分の発言を覚えているかどうかもあやしい。
「もう夏海ちゃんには彼氏いるんだよ?」
澪は写真の明貴に話しかける。
「なんであきらめないの?」
胸が締めつけられるように苦しい。
澪の目から涙があふれてくる。
「馬鹿みたい」
つぶやいて唇を噛む。
馬鹿なのは、澪だって同じだ。合格ラインすれすれなのに、南高に願書を出してしまった。もし落ちたら、滑り止めの私立に行くはめになるのに。
澪はあの時、口では何とも思ってないと言いながら、自分の中の恋心に気づいてしまった。
夏海を一途に想い続ける明貴を、いつの間にか好きになっていたのだ。
他の女の子に恋する姿が愛おしいなんて、どうかしていると澪も思う。
なのに、一度自覚してしまったら、明貴の姿を目にするたびに、甘く切ない感情がこみ上げてきて困った。
そばに行きたい。
声を聞きたい。
話したい。
そんな欲が、むくむくわいて止まらなくなる。
夏海しか見えていない彼が相手じゃ、恋が成就するはずないのに。
「大好きだよ、あきちゃん」
夏海の口調を真似て言ってみる。
もし自分が明貴の幼なじみだったら、他の男の子なんか相手にしないで明貴だけを見るのにと思うと、切なくてたまらない。
だけどどんなに想っても、彼の幼なじみは夏海であって、澪ではない。
あの廊下での会話があってから、明貴はたまに澪に話しかけてくるようになった。
クラスは違っても、受験前でなにかと顔を合わせる場面も多い。話題はほとんど受験と勉強についてだったが、普通にやりとりできるのは、澪にとって嬉しいことだった。自分を相手に、感情豊かに話し続ける彼を見ていると、幸せな気持ちで胸がいっぱいになる。
「高清水といると時間忘れるよな」
「話したらすっきりした。ありがとな」
「聞いて欲しいことあるんだけど」
そんなささいな言葉に、つい特別なものを感じそうになったりもする。ありえない展開を夢みそうにもなる。
だが、澪が明貴と話せるようになったのは、自分の恋心を否定したからで、もし「やっぱり好き」なんて口にしたら、軽蔑されてしまうだろう。そしてまた遠ざかって、存在を無視されるに違いない。彼にとっては、夏海以外の女の子から向けられる好意は、迷惑でしかないのだ。
「鈴城くんは、ずっとこんな気持ちでいたのかな」
何年も、毎日毎日、夏海だけを想って、ただ見つめて。
そんなの絶対耐えられないと澪は思った。
明貴はすごい。
自分には無理だ。
「あきらめないと……」
澪は自分に言い聞かせる。
何度も、何度も、あきらめろと命じる。
なのに想いも涙も、止まりそうになかった。
明貴の気持ちは、今の澪になら全部わかる。ふり向きもしない夏海より、ずっと深く理解してあげられると思う。つらかったねと背中をなでて慰めたい。
でも、本人には口が裂けても言えないのだ。
恋が、こんなにつらいものだなんて、誰も教えてくれなかった。
せめて……きみの片想いが実る日が来ますように。
澪は両手を合わせ、天に祈りをささげるかのように、いつまでも願い続けた。