「ユリアン様……わたくしと二人で逃げてください」

 秘めて、押し込めて、心の底に沈めて――決して明るい陽のもとにはさらさぬと固く決意していた望みを、彼女はついに解き放ってしまった。

 ――私は、ユリアン様を誰にも渡したくない。

「二人だけで、どこか遠くに」

 ――ユリアン様と一緒にいたい。

「エルフリーデ……」

 ユリアンが息を呑んだ。
 痛いほど張りつめた沈黙が二人にのしかかる。

 エルフリーデが見つめる先で、彼は口を開いた。

「俺は……」

 言いかけて、彼はとっさに唇を噛んだ。言葉の続きを殺してしまう。

 一拍置いて話し出した王子の口調は、子どもを諭すようだった。

「一緒に逃げるなんて、そんなことできるはずもない。俺が消えればカースィムは大国の威信をかけてこの国に攻めこむ。それが分かっているからフェルゼンシュタインは必死で俺たちを探す。全軍を投入してでも見つけ出すだろう」

「大丈夫です」

 エルフリーデは両手を広げて前方へ突き出した。広げられた十本の指に、順々に息をふきかける。

 あっ、とユリアンが声を漏らした。彼女の指先に力がほとばしる。

 小指には燃え盛る炎。薬指に渦巻く暴風。中指には稲妻が走り、人差し指では小さな水流が蠢く。親指の先端には黒い闇がぽっかりと浮かんでいた。

「同時に……五つの魔法……」

 ユリアンが息を呑むのが分かった。エルフリーデは明瞭に言い放つ。

「フェルゼンシュタインが全軍でもって私たちを捕らえようとしても――」

 エルフリーデには自信があった。

「私が返り討ちにします」

 彼女は稀代の魔法使い。この力があれば、たとえフェルゼンシュタイン軍が束になっても、あるいはカースィムが攻め込んできたとしても、決して簡単に捕らえられたりはしない。

 ――いいえ、行きつく先が破滅でもいい。

 ユリアンとともにいられるならば。
 ユリアンと離れずに済むならば。

 ぐっと力を込めて彼を見る。もう涙はひいていた。向かい合った愛する人は固く口を結んで、微動だにしない。

 風が吹いた。彼の右手の赤薔薇がはらりと揺れる。

 ふっと、彼は笑った。

「返り討ちなんて、エルフリーデにはそんなことできないよ」

 カッと頭に血が上った。ひどい(あなど)りに反論をしようと身を乗り出しかけて、続く彼の言葉に体が止まった。

「だってフェルゼンシュタイン軍の司令官の一人はヨハン兄さんだよ」

「あっ……」

 彼女の指先が震えた。

「すごく可愛いがってもらってるだろ。エルフリーデだって、兄さんと一緒にいるときは表情が柔らかい。ちょっと()いちゃうくらいに」

 ユリアンの言葉は続く。

「このライラック、イザベラが用意してくれたんだよな。彼女、“リーデを大事にしろ”っていつもしつこかった」

 彼が指し示したのは、小さな紫が寄り合って咲く華やかな一輪だった。お節介な友人のイザベラが恋人にねだって遠方から手に入れてくれたものだ。

 優しい友人だ。中庭でユリアンに会った夜――エルフリーデが悲しみを持て余して途方に暮れていたあの冷たい夜も、彼女は一晩中エルフリーデの手を握っていてくれた。

 そのぬくもりは、魔法で生み出したどんな炎よりも温かった。

「ライラックの花言葉は、“友情”だよな?」

 ユリアンのその一言がとどめだった。

 エルフリーデの全身から力が抜ける。指先の魔法を維持する力も失って、その場にくずおれた。

「王国軍を返り討ちにする。それはエルフリーデにとっては不可能ではないかもしれない。でも、できないだろ?」

 丸まった彼女の背に、そっとユリアンが手を添える。

「俺が婿入りを拒否したらフェルゼンシュタインは滅ぼされる。ヨハン兄さんも親父もイザベラも死んでしまう。よくて奴隷だ」

 そんなこと耐えられないだろ、と彼はエルフリーデの頭を撫でた。

「……俺にも、耐えられないんだよ」

 言い添えた言葉の響きは繊細だった。

「ずっと自分勝手に生きてきた。でも、どう足掻いたってフェルゼンシュタインは俺の故郷だ。大切な人がたくさんいる」

 そして、と彼の声が滔々(とうとう)と続く。

「一番大切なのがエルフリーデ、君なんだ」

 彼女が顔をあげると、そこには凪いだ笑顔があった。あきらめと、途方もなく大きな慈しみに満ちたユリアンの顔が。

 彼女の両の頬に優しく手が添えられた。王子がそっと顔を寄せる。

「愛してるよ、エルフリーデ」

 ユリアンの少し荒れた唇が、彼女の額に触れた。

「君は愛されている。それを忘れないで」

 もう一度エルフリーデを抱きしめて、彼はささやいた。

「さようなら」