「ユリアン様、今日は花言葉の試験をいたします」

 午後の緩い日差しが入り込むユリアンの自室。いつもの木机に色とりどりの花が重なって並ぶ。エルフリーデは机の前に羊皮紙の束を抱えて立ち、彼は彼女と向かい合うようにして座っている。

 こうやってカースィムの婿としての知識をユリアンが学ぶのは半年ほどの日課で――そして今日が最後の日だった。

「もちろん、ちゃんと覚えてきましたよね?」

「おいエルフリーデ、指に炎を燃やしながら言うな! 怖いんだよ!!」

「蜜と鞭を使いこなせと、国王陛下が」

「あのやろうっ!!」

 父親を罵倒してから、気を取り直してユリアンは背すじを伸ばした。

「いいよ、どんな問題でも」

 では、とエルフリーデは手もとの羊皮紙に目をやった。繊細な黒髪が動きにつられて肩からこぼれる。

「女王陛下の誕生日を祝う花束を作ってください」

 彼は立ち上がり、少し思案すると、濃紺のヤグルマギクを束ねた。

「この花がいいだろう。女王は春に生まれた。その季節にカースィムでも手に入り、しかも花言葉は“優美”だから」

 エルフリーデは頷く。

「では、女王が病に伏せった時に見舞う花束は?」

 次の問にも唸りながら手を動かす。

「うーん……オリーブを中心に束ねるべきかな。花言葉は“安らぎ”で、優しい白の可愛らしい花だから」

 そうやって試問が続いた。用意された花々が麻布で束ねられ、優雅な贈り物ができあがっていく。

「では最後に。愛を伝える花束は?」

 それなら、とユリアンは迷わず真っ赤な薔薇だけを集めて束ねた。

「これが一番だろ」

 そう言って彼は真紅の花弁に目線を落とす。しばらく眺めてから、強い決意とともに顔をあげた。

 立ち上がり、机の脇を抜け、何事かと瞬くエルフリーデの前に立つ。

 少女の瞳を真っ直ぐに見つめ、ユリアンははっきりと告げた。

「エルフリーデ、受け取ってほしい」

 あでやかな真紅の花束が彼女の眼前に差し出された。

 二人の間で、大輪の赤薔薇が咲き誇る。

 その花言葉は――、

 “あなたを愛しています”。

 エルフリーデの手もとからばさばさと羊皮紙がこぼれていく。

「や……」

 彼女は花束を差し出す主人を睨んだ。

「やめてください!」

 思わず手が出た。彼女の白い手に打ち据えられて、花弁が部屋に赤く散る。

「冗談にしても性質(たち)が悪すぎます……! あなた様は」

「俺はカースィムの婿になる、分かってる。でも」

 エルフリーデの怒声を遮って、ユリアンは冷静だった。

「大事なことだから」

 そう言いながら彼はエルフリーデに近づく。彼女の前にひざまずいて視線を合わせると、半ば散った薔薇の花束をもう一度差し出した。

「エルフリーデ、俺は君を本当に愛している」

 そう告げると、右手の花束はそのままに、小柄な彼女を抱きしめた。

「愛してる」

 耳もとでもう一度ささやかれた言葉に、エルフリーデの唇が震えた。

 ――ひどい……。

 喉の奥でそう叫んだ。

 ――どうしてあなたはいつだって真っ直ぐなんだろう。

 エルフリーデは懸命に目を逸らしていたのに。目を逸らし続けていたかったのに。

 ――私を冷たいとおっしゃっるあなたは、私のことを何も分かってはいらっしゃらない。

 まぶたを閉じると、初めてユリアンと出会ったあの夜の花火が弾けて輝く。

 貧しい農村に生まれ、常に腹を空かせていた。魔力を持て余して人を傷つけ、挙げ句の果てに彼女は人買いに売られてしまった。売って小金を手にしたのは彼女の実の親だ。

 親には“あれ”と呼ばれていた。それで自分の名前を忘れてしまった。

 ユリアンと出会ったあの夜も、彼女の所有者であった肥えた商人に殴られ(ねや)に連れこまれそうになっていたのだ。

 彼女にとって、世界は無明の闇そのものだった。

 ――そんな私に、あなたは新しい名前を与えてくれた。

 エルフリーデ、と。

 ユリアンはその美しい名でいつだって親愛をこめて彼女を呼んでくれたのだ。

 ――ユリアン様……あなたはご存知ないのでしょう?

 その日々がどんなに眩く尊いことか。

 ――私にとって、あなたは光そのものなのです。

 月のない夜を満たした、あの日の花火の輝きのように。

 受け止められなかった。ユリアンとの別離を。
 彼がいなくなったら、エルフリーデの世界はまた闇に閉ざされてしまう。

 だから必死に目を逸らしていたというのに。

 ――なのに、あなたは私に容赦なく突きつけるのですね。

 “愛している”なんてあまりに率直な言葉で、彼女の秘めた心を剥き出しにしてしまう。

 エルフリーデには分かっていた。解放奴隷ごときが王子である彼と結ばれることはないのだと。どんなに側近くに支えても、エルフリーデは彼の従者にしかすぎない。

 頬をひとすじ、熱いものが伝っていく。

 ――それでも、ずっとお側にいられると思っていたのに。

 そんなささやかな希望ですら、大国の思惑に打ち砕かれてしまった。

 ――あなたは、永遠に私のもとを去ってしまう。

 彼女はついに腕に力をこめ、激情のままユリアンを突きとばした。

「愛しているだなんて! そんなこと軽々しくおっしゃらないで!!」

 激昂するイシュを見つめる王子の瞳は揺らがない。いつもと同じ穏やかなヘーゼルの色だった。

 ――ほら、あなたこそ、なんて冷たい。あなたはもう私との別れを受け入れてしまっている。

「軽い気持ちじゃない。俺はエルフリーデを愛してる。それを知っていてほしいんだ。君は……」

 でも、とユリアンの言葉をエルフリーデはさえぎった。

「あなたはどうせカースィムに行ってしまうのに!」

 王子は静かに首を振る。

「フェルゼンシュタインのためだから」

「そんなこと……」

 彼女にだって分かっている。

 フェルゼンシュタインは小国だが、交易の要衝をおさえ魔科学の先進国でもある。大国カースィムは人質のように王子を婿にとって、小国の利を手に入れたいのだ。

 フェルゼンシュタインにしても悪い話ではない。南の大国との姻戚(いんせき)同盟は、北の騎馬遊牧民の帝国を大いに牽制(けんせい)するだろう。

 だけど、だけど。

 エルフリーデは両手で顔を覆った。

 ――どうしてユリアン様なの。

 涙とともに嗚咽(おえつ)がもれる。王子は五人もいるのに、それなのに。

 ――この人は、私の光の全てなのだ。

 失うなんて。

 そんなこと――耐えられるわけがない。

 こぶしを握る。

 エルフリーデは覚悟を決めた。