ユリアンはエルフリーデと出会った夜のことを、いつだって眩い光とともに思い出す。
乾いた夏の夜だった。北の港町で琥珀や毛皮を大量に仕入れて母国に戻る途中、馴染みの隊商宿で早めの眠りについていた彼は、暴力的な騒音に起こされた。
寝床を這い出して窓の布張りを外した。どこかで悲鳴や怒号が入り乱れている。新月の夜で灯りは乏しいはずだが、向かいの建物の裏手――荷が収められた倉のあたりに松明の火が集まって明るい。
まさか盗賊の襲撃かと、ユリアンは剣を片手に部屋を飛び出した。
石畳を革靴で翔ける。ただならぬ空気に動揺広がる馬房を横目に倉の方へ。しかし異変はない。人が集まっていたのはその隣、使用人や奴隷を詰め込んだ小屋の前だった。
何かを叫び興奮した人々が円を作っている。その中心に少女が一人立っていた。
荒布一枚を身にまとい、片手に松明を灯し、彼女は地に倒れ伏した男の背を踏みつけていた。揺らめく炎に照らし出された少女の目には、獰猛な獣の気配が居座っている。
ぞくりとした。
集まった人々は、怯えと軽蔑の入り混じった視線で彼女を遠巻きにしている。
美しい、と思ったのはユリアンだけだったろう。
髪は乱れて顔は煤けていた。剥き出しの手足に肉は乏しく、身にまとった襤褸布も擦り切れている。
それでも少女は真っ直ぐ立っていたのだ。怖じることも恥じることもなく、堂々と。
彼の隣にいた男が怒鳴った。
「おい、その足をどけろ! 主人を踏みつけにするなど、許されると思うのか!?」
周囲が同調する。そうだ、死刑だ、と叫ぶのは身なりのよい男たち。一方、人垣の中には彼女と同じく荒布をまとった男女も多く、そちらはただ縮こまっているだけだった。
ユリアンは事情を理解した。これは奴隷の反乱だ。
――あの少女はたった一人で主人に叛旗を翻《ひるがえ》したのか。
察した瞬間、ユリアンは人垣から飛び出していた。
「ちょっと待て!」
少女を止めた。
けしからぬ反乱を阻止してやろう、などという気はなかった。
彼女が殺人者に身を堕とす前に救ってやりたかったのだ。
少女の視線がユリアンに射かけられた。面差しの幼さに対し、発する気配がどこまでも昏い。薄い唇から、低い声が吐き出された。
『……あんた何者だ。あたしの邪魔をするな』
異国の言葉だ。
遊牧の帝国のさらに北の言葉だろうか。その意味が通じたのは、彼が毛皮を卸す最北の商人とも付き合いがあるからだった。
やめてくれ、と少女の足下で男がうめいた。肥えた体に仕立てのいい服をまとっているが、表情にも声にも威厳がない。
「俺はフェルゼンシュタイン王国の王子だ」
周囲がどよめいた。王子の肩書は他者を威圧するのに役に立つのだが、少女だけはその名に怯む様子がない。よほど肝が座っているのか、それとも。
『はっ。わけの分からない言葉をごちゃごちゃ話しやがって』
彼女の手もとで揺らぐ炎が勢いを増して、激しい苛立ちと鋭い言葉が続いた。やはり彼女はこの地の言葉がわからないのだ。
『全部、燃やしてやる……!』
彼女が手を突き出すと、炎が猛然と勢いを増した。
その小さな手に、松明は握られておらず、ユリアンは瞠目する。手のひらから直接炎が吹き上がっていた。
夜の星々を燃やし尽くさんとするその火勢に、人垣から悲鳴が上がる。逃げ出す者も出始めていた。
けれど、
「君、すごいな!」
ユリアンだけは目を輝かせた。
思わず奴隷の少女に一歩近づく。そして使う言葉を変えた。
『まだ若いのにそのスケールの魔法を使えるなんて、とんでもない才能だ!』
少女はびくりと肩を震わせた。
『知ってる言葉……?』
大きな昏い瞳の奥に、幼い面差しにふさわしい頼りない色が微かに浮かんだ。
『よかった、俺の下手くそなノルド語が通じるか?』
こくりと頷いた仕草がいとけない。
よほど故郷の言葉が懐かしいのだろうか、先ほどまで瞳に宿していた暗い闇はどこかに引っ込んでしまったようだ。
その小さな変化に後押しされて、ユリアンはまた一歩踏み出す。
『炎以外も出せるか? 氷はどうだ?』
勢いに負け、少女が少し後退った。その隙に足蹴にされていた男がまろび逃げる。肥えた体を揺すって仲間の群へ駆けこんだ男は、遠巻きに少女を指差した。
「この奴隷女め! よくも俺に恥をかかせてくれたな! お前など死刑だ、殺してやる!」
わめく男に人垣の奴隷たちが震えた。彼らは完全に萎縮している。当の少女の瞳はまた光を失って、呪うように男を見返している。
よほどひどい主人なのだろうと判じ、ユリアンは決意を固めた。
「死罪! 主人に手を挙げた奴隷は死罪だ!!」
「待ってくれ」
ユリアンは罵声を制し、懐の中を探って金貨を数枚取り出して肥えた商人に示した。
「この子を俺に譲ってくれ」
「は?」
顔を歪める男に近づいて、ユリアンはその手もとに金貨を押しこんだ。
「これで十分だろ?」
その光沢と枚数を素早く勘定して、商人は肉のつきすぎた頬を持ち上げた。
「殿下は気前がよくていらっしゃる。こんな反抗的で野蛮な奴隷女をこれほどの大金で? はは、変わり者ですなぁ」
その嫌味にユリアンは頭をかいた。
「変わり者かぁ……よく言われる」
人の身分や出自に頓着しない自分は、この国の王族としては異質なのだと理解はしていた。
彼は王家の末端にかろうじて括り付けられている程度の存在だ。市井に混じって過ごすことが多く、視線はどうしても民の方を向いてしまう。
今はこの孤高の少女のことしか考えられなかった。
彼女の方に向き直った。その小さな右手から凍えるように炎が消えた。唐突に生まれた夜の闇の中から、大きな二つの瞳がユリアンを伺っている。
不安定な女の子だ。
途方もない強さ、孤独、絶望、気高さ。そんなものを小さな体にもてあましている。
放っておけない。
彼はそっと手をさしのべた。心細い新月の夜でも、なるべく優しく見えるよう、穏やかに微笑んで。
『さぁ、これでもう君は奴隷じゃない。俺と一緒に行こう』
しかし彼女は答えない。先ほどまでの威勢の良さはかき消えて、怯えるように身じろいだ。
『君の名前は?』
『……わからない……忘れてしまった』
微かな返答がユリアンの胸を締め付けた。自分の名さえ失ってしまった彼女のこれまでを思う。
だが過去は変えられない。彼に変えられるのは少女の歩むこの先の行方だけだ。
『じゃあ、俺が新しい名をあげよう』
少しの間逡巡し、ユリアンは笑った。
『……エルフリーデ。エルフリーデにしよう。大いなる力をもつ不思議な妖精、エルフリーデ。君にぴったりだと思う』
『エルフ……リーデ……』
彼女がぽつりと繰り返したその時だった。
ひゅーっという独特な音が、ユリアンの背後で空気を裂いた。
その場の誰もが音に導かれて夜空の遠くを探る。
その視線の先で――、
――特大の光が咲いた。
純白の光が夜を駆け上がり、天の一点で弾けて広がる。一拍遅れて、どぉん、と爆発音がとどろいた。
「花火だ!」
ユリアンは思わず歓声をあげた。そうだ今日はフェルゼンシュタインでは女神祭が行われているのだ。
間を空けずまた白い軌跡が昇り、今度は黄金が弾けた。大きく空に羽ばたいて、柳のようにしなだれて消える。
「今年もきれいだな」
そう言ってユリアンが視線を戻すと、エルフリーデと名付けられた少女は口をぽかんと開けていた。黒い瞳は夜空の花々を灯して輝いている。
『きれいだろ? 花火だよ』
『……花火?』
『初めて見た?』
うん、と素直に頷いた少女に、気に入ったのかと尋ねる。彼女はまたこくりと首を縦に振った。
『すごく……きれい』
呆然とこぼした彼女に、彼はもう一度向き合った。彼の背後では花火の上がる音が続いている。
『君は魔法が使えるんだから、きっと花火も上げられるようになる』
その言葉が、少女の瞳の奥にまで光を灯したのがわかった。大きな双眸がユリアンの視線をしっかりと捉える。
おいで、と彼はもう一度手を差し伸べる。その手に、煤けた小さな手が伸びておそるおそる重なった。
ユリアンは微笑む。
大切にしよう。この少女が、今日ユリアンの手を取ったことを決して後悔しないように。
『花火のこと、美しいもの全て、なんでも教えてあげるから』