深夜の中庭に降りると、華奢な背中が花壇のわきに見えた。

「エルフリーデ、何やってんだ?」

 声をかけると、彼女はぴくりと肩を揺らした。
 振り返ってユリアンを認めた瞳は、驚いたというよりも迷惑そうな色だった。

「……邪魔したか? すまない」

「いえ」

 彼女はひゅっと口笛を鳴らし、指先に炎を灯した。小さなあかりがエルフリーデの(おもて)を照らす。

 ――本当に、いつでも変わらないな。

 天でも仰いで嘆きたい気分だった。

 華奢な背中を見つけて駆け降りてきた。ほんの少しの間でもエルフリーデとともにいたかったから。

 そんな彼の熱に比べて、彼女の冴え冴えとした表情が苦しい。

 まもなくユリアンがカースィムに婿入りするというのに――そしてそれは永遠の離別を意味するというのに。

 ――やはり、いつだって俺だけがエルフリーデに心奪われている。

「ユリアン様こそこんな時間にどうなさいました?」

「どうも眠れなくて」

 お前も寝付けなかったのかと尋ねると、彼女はうつむきかげんに首を振った。

「いえ、わたくしは花火の研究を進めていたのです。深夜でなければ闇の中での発色が分かりませんし、どうしても作り出せないあの色に一歩近づくアイディアがわいてきて」

 長椅子の上、器が整然と並んでいる。その中身は白い粉や赤金(あかがね)の結晶など。

 エルフリーデは、指先の炎にひとつまみの白い粉をふりかけてみせた。赤い炎があざやかな黄色に変化する。

「黄色ってことは……その白い粉は塩かな」

「正解でございます」

 続いて赤金の結晶に炎を近づける。今度は炎が緑に揺れた。

「分かったよエルフリーデ、これは銅だ」

 魔法と科学の融合、魔科学。フェルゼンシュタイン王国は、その研究の最前線だ。
 小国でありながら交通の要衝をおさえ、南北の大国に滅ぼされずにいられる理由の一端も独自の魔科学力にある。

 その研究の成果の一つである花火は、人々の楽しみであるだけでなく、高度な技術力を内外に知らしめすための格好の手段ともなっている。

「エルフリーデの花火はいつ見てもきれいだ。同じ触媒を使っても、他の魔法使いではこんなあざやかな色は出せない」

「そうでしょうか……」

 心からの賞賛も軽くいなされて、ユリアンはついに肩を落とした。

 率直に言う。

「最近、エルフリーデは俺に冷たいよな」

「……普通だと思いますが」

「まぁ確かに昔から常に愛想が悪いけど」

「ケンカを売ってらっしゃいます?」

「いいや。でも最近は本当にイライラしてる」

 否定の言葉を突きつけられる前に、ユリアンは続きを継いだ。

「この三年ずっと一緒だったんだから、そのくらい分かるよ」

 彼の声が暗闇に静かに染み入る。

「だったら……」

 エルフリーデの返答は一度そこで途切れた。不審に思って彼女の瞳をのぞきこむと、炎を映した強い眼差しが返ってくる。

「……どうぞわたくしのことなど気にかけずに、カースィムの女王のことだけお考えください」

「どういうことだよ?」

 ユリアンの声に棘が混じった。

「わたくしのことをよくご存知なのでは? 言葉通りの意味でございます」

「……本当に冷たいよ、エルフリーデは。もうすぐ俺はこの国を出る。それまでの貴重な時を少しくらい惜しんでくれたっていいだろう?」

 白い息とともにユリアンのため息が闇にのまれた。エルフリーデはうつむいて何も答えない。

 そのやるせない沈黙を破ったのは、彼でも彼女でもなかった。

「おーい、ユリアン、エルフリーデ!」

 呼ぶ声に反応して二人そろって城の入り口を見た。先ほどユリアンがやってきた扉から、長身の陰が近づいてくる。

「まったくこんな深夜にどうして中庭で喧嘩してるんだ? うるさくて敵わんぞ」

 ヨハン=フェルゼンシュタイン――ユリアンの兄で、一族第一の魔法使いだ。
 エルフリーデの所属する王立魔科学研究所(アカデミー)の所長と、魔法兵を束ねた(じょう)軍の司令官を兼任している。

「喧嘩なんかしてませんよ、兄さん」

「そうか? じゃあユリアンが一方的に君をいじめていただけかな?」

 フェルゼンシュタイン家の次男は目を細め、弟のそばに控える少女の頭を優しく叩いた。

「こんな軽装で外に出るなエルフリーデ。風邪をひいたらどうする?」

 ヨハンは自分の襟巻きを彼女の肩にかけてやった。エルフリーデは目もとを緩める。

「お気遣いありがとうございますヨハン様」

 二人のやりとりにユリアンは肩をすくめた。

「エルフリーデは俺以外には素直だよな。特にヨハン兄さんには懐いてる」

「はは、俺は上司だからな。ユリアン、()ねるなよ」

 次兄は笑って弟を小突くと、もう寝なさいとエルフリーデを城に促した。彼女は長椅子の上の魔道具を集め、おやすみなさいませと一礼して去っていく。

 彼女が城内に戻ったのを確認して、ヨハンは笑みをかき消した。庭に残された弟に厳しい眼差しを向ける。

「ユリアン、今は行動を自重しろ。深夜に解放奴隷の女と密会をしているなど外聞が悪い。お前は大国カースィムの婿となる男なのだから」

 弟は思わず舌を鳴らした。

「ヨハン兄さんまでやかましいことを。それにエルフリーデの出自を悪く言うのはやめてくれ」

「悪く言っているのではない、事実だ。それに」

 ヨハンはちくりと釘をさす。

「お前の軽薄な行動の方が、彼女を傷つけていると思うが?」

「……はぁ?」

「カースィムに婿入りすれば、お前たちはどうせ二度と会えなくなる。もうあの子に構うのはやめなさい」

 一方的にそう突きつけて、ヨハンは城内へ戻っていく。兄の背中を一人で見送りながら、ユリアンの唇をぽつりと言葉がこぼれ落ちた。

「そんなこと分かってるよ」

 ――それでも俺は、今だけでも彼女とともにいたいんだ。