雲の一つも浮かばぬ満月の夜だった。
ユリアンは数名の供を連れて、カースィムの都を歩いていた。
大国の婿となったからにはずいぶん不自由な生活を強いられるのだろうと思ったが、街に出るのは構わないらしい。それでも宮殿を抜けるためには面倒な手続きが必要なのだが、そうしたことの一切はもうすでに済まされているようだった。
どこに連れて行かれるのだろう。
祝祭の街は明るかった。夜だというのに広場には露天が並び、人々が飲み騒いでいる。着飾った男女が手を取り合って見つめ合う様子はあまりに開放的で、ユリアンを驚かせた。
彼を従えた一行は街の喧騒を抜けて北に向かう。商人たちの居住区を抜け、ついに城壁にぶつかってしまったが、侍従はここにユリアンを連れてくるつもりだったらしい。
「さぁ、登りましょう」
怪訝に思いながら階段を登る。
祝祭の日に不寝番を任された可哀想な番兵に声をかけ、ユリアンは歩廊に立った。
砂漠から吹きこむ熱く乾いた風がユリアンのやわらかな髪を乱す。
城壁の外はオアシス地帯。冬小麦が青々と育ち、月光を映して海のようだった。ずっと向こうには遥かにはなだらかな山並み。今は夜にうずくまって、姿を隠しているけれど。
東の空に一等大きな星が青白く瞬いていた。あれは故郷でスピカと呼ばれる星だ。フェルゼンシュタインでもカースィムでも、春に最も明るく輝く星なのですよ、とエルフリーデが教えてくれた。
ちょうど彼女の言葉を思い出していた、その時だった。
どぉん。
聞き慣れた音が、どこか遠くで聞こえた気がした。
音の発する先を求めて、ユリアンは北の方角へ目を向ける。
その宵闇の空に――、
光が、あふれて咲いた。
「あ……」
ユリアンは目を見開いた。
「花火だ」
呟くうちに、黄金の花が一つ散る。入れ替わるようにまた同じ色の花がほころんだ。そして散る前にもう一つ、また一つ。金色の花が折り重なって咲き誇る。
ユリアンは息をのんだ。
これほどまでに色彩豊かに花火を打ち上げられるのは――。
「薔薇の花を模したんだそうです」
隣で侍従が静かに微笑んでいた。
「新年祭に合わせてエルフリーデ殿が準備したと聞きました。フェルゼンシュタイン王を介してカースィムの女王陛下に奏上し、特別に打ち上げを許されたとのことで。祝宴にもふさわしい華やかさですからね」
その間も花火は続く。どぉん、どぉん、と空に轟き、黄金の薔薇が満ちていく。
「黄金の……薔薇?」
彼ははたと疑問に思った。いつものエルフリーデならもっとさまざまな色彩で華やかに空を彩るはずだ。それなのに、今宵の花火は執拗なほどに黄金の一色で……。
それは明るい黄色にも見えた。
――黄色の薔薇の花言葉は“嫉妬”です。
じとりとこちらを睨むエルフリーデの瞳を思い出す。
――嫉妬。
頬が熱くなる。
そうか、と思った。強がりで、厳しくて、不器用な彼女の本音……。
目頭まで熱くなるうちに、いぢらしい黄金の光が絶えた。
少し間をおいて、白の軌跡が一条、夜を裂いて昇る。あのひゅーっという独特の音が、遠大な距離を超えてユリアンの耳にも届いた気がした。
夜に咲きほころんだのは――身を焦がすように鮮烈な赤だった。
ひときわ大きい最初の一輪を追って、大小の花弁が咲いて散る。二重、三重と重なるそれら全てが、情熱的な赤だった。
ユリアンは唇を噛んだ。夜空に花束を見た気がした。
エルフリーデに差し出して打ち据えられた、真っ赤な薔薇だけを束ねた、あの。
赤薔薇の花言葉は――。
『あなたを愛しています』
エルフリーデの声が聞こえる。
あの日聞けなかった返事。二度と届くことのないと思っていた彼女からのメッセージ。
彼女の想いが、今、彼の眼前で夜に満ちていく。
あぁちくしょう。ユリアンは歯噛みする。
――エルフリーデを連れて逃げてしまえばよかった。
聞き分けのいいことなんか言わずに、フェルゼンシュタインのこともカースィムのことも、何もかも置き去りにして。
――やっぱり、俺はエルフリーデが好きなんだ。
どぉん、どぉん、と花雷が彼の胸をしめつける。
絶えることのない天上の光は、一途な真紅で――。
「……あれ?」
そこに純白の光が割り込んだ。
まずは小さく。やがて大きく。
夜空で色が和して映える。
あでやかな真紅を、穏やかに包んでいく白光。
夜の花束は、いつのまにかほのかな色合いに変わっていった。
朝焼けの優しい朱色のような、ほんのり紅がさした可愛い珊瑚のような。
「……乙女薔薇」
そうだ、エルフリーデには長年研究している色があった。薄紅を夜空に輝かせたいと苦心していた。艶っぽい赤紫ではなくて、優しい乙女色の花を。
「花言葉……なんだっけ」
彼女と学んだ記憶を探る。
そうだ、乙女薔薇の花言葉は――。