久しぶりの3年2組の教室。生徒たちは私の長期欠席をどう思っているんだろう。
教室の扉を開ける際、自然と手が震えた。どうしよう。私、まともにみんなの顔を見られるのだろうか。
「あ、先生!」
ガララっと、教室の扉を開けると、明るい声が聞こえてはっと声の主を見た。
花野さんだ。隣にいた古田さんも「久しぶり!」と手を振ってくれていた。
他の生徒も、次々と私の方に寄ってくる。ほとんどが女子生徒だったけれど、男子も遠くから「センセ、今日のテストやばかったわ!」と叫んでいる。
すとん、と心がすっぽりと収まる心地がして、じわりと胸が熱くなった。私はこれまで、何をしていたんだろう。自分の殻に閉じこもって、生徒たちをほったからかしにして。それでも彼らは私を受け入れてくれている。ふがいない私を、先生だと認めてくれているのだ。
「……心配かけてごめんなさいね。みんな、元気だった? テストはどうだった? 『檸檬』の問題は解けた?」
「ばっちりです」
花野さんが胸を張って答える。彼女は成績も良いし、嘘ではなさそうだ。
「えー、やっぱり凛はすごいよ……。あたしなんか昨日一夜漬けだったわ」
古田さんはげんなりした様子。他の子たちもそれぞれに中間テストと戦って開放感に満ちた顔をしていた。
「先生」
女子たちに囲まれていたところに、長谷君がやってきて声をかけてくれた。一瞬、どきんと心臓が跳ねた。彼のことを意識するとどうしても、唯人の面影がチラつくのだ。
「後で話したいことがあります」
「フー!」とか「ええ!」とか、周りの女子、男子たちが冷やかしの声を上げた。
「……ええ、分かったわ」
彼は単に、この間のことを話たいだけなんだろう。それを何か勘違いしている思春期の若者たち。
私も、彼と話をしなければならないと思っていた。そうでなければ、この先私は彼の先生でいられる気がしないから。

「お待たせしてごめんね」
放課後、私は必要最低限の事務仕事を終え、彼と待ち合わせしていた社会科資料室を訪れた。彼は先に教室で待っていてくれていた。私は、職員室で淹れてきたレモンティーを2つ、テーブルの上に置いた。
「大丈夫です」
前回と同じようにぺこりと頭を下げる長谷君。
「この間は、いきなりあんなことになってごめんね。私、あなたのお兄さん、唯人さんの婚約者だったの」
私の告白に、彼はかなりびっくりした様子で、私の目をじっと見つめた。
そりゃ、そうだろう。
目の前にいる教師が、自分の兄の婚約者だったなんて突然言われても受け入れられないのが普通だ。
「……そっか。そうなんですね。知らなかったです」
なんでか彼は少し悲しそうな表情を浮かべ、手慰みにレモンティー入ったカップをすっと指でなぞる。
「ごめんなさい。私も、この前知ったの。あの人、長谷君のことはあまり教えてくれなかったから」
「いや、大丈夫です。びっくりしただけですから」
それから少しの間、沈黙が続いた。私も彼も、お互いの心を予測するけれど、言葉が出てこない。彼は何を望んでいるのか、私は彼に何を言いたいのか。自分の心すら手の中にないような気がして。
教室の中で古い書物の独特な香りが、いつもよりも強く感じられた。大好きなレモンティーは、いつもより酸っぱくて苦い。
「……俺、本当は」
不意に、彼が重たい空気を打ち破るように口を開いた。唇の皮が乾燥して少しむけていた。
「吉岡先生のことが、好きだったのかもしれないです」
今までに見た彼の、どんな彼よりも純粋で、心からの言葉が思わずに溢れでたような必死さがあって、私はとても苦しいと思った。
「兄貴が守れなかった先生のことを、俺は守りたいと思うんです」
中学3年生の男の子が言う台詞にしては大人びていて、でもきっと本当の大人は、こんなに美しく純な気持ちを言葉にはできないんだろうと思うと、やっぱり彼は思春期の男の子で。
私は、頭を埋め尽くす唯人の顔と、目の前にいる彼の弟の言葉とを、交互に胸に刻み付ける。
「……ありがとう。とても、嬉しい。先生も、長谷君のことが好き。でもそれは、男の子としてじゃない、かな。先生にとって長谷君は、大切な生徒だから」
彼の顔に、落胆する気持ちが広がってゆくのが、ありありと伝わってきた。心がつままれたように痛い。純粋な少年の心を傷つけてしまった自分が、痛い。
「それにね。唯人はちゃんと守ってくれてたよ。先生のこと、心から愛してくれた」
だけど、彼に伝えたかった。
あなたのお兄さんは、とても優しくて愛に溢れた人だったこと。
私はもう、かわいそうじゃない。唯人と会えて幸せだったこと。
「長谷君には、その気持ちを大切にして欲しい。私のわがままだけれど。いつか、その優しい気持ちで誰かを愛して欲しい」
少し、重すぎただろうか。
10歳も年の離れた少年に、私の言葉は響くのだろうか。
彼は何も言わずに目を伏せて、身体を硬らせていた。感情を表に出すことができない。そんなもどかしさを、確かに15の私も抱いていた。彼は子供だけれど、子供ではない。大人になる途中のサナギだ。
「梶井基次郎の『檸檬』、長谷君も好きだって言ってくれたよね。私もあの話が大好きなの。檸檬は、私にとって不安を吹き飛ばす幸せの象徴みたいなものだから」
将来への漠然とした不安を抱えていた際に唐突に現れる美しい「檸檬」。きっとあの話の主人公だって、異質の輝きを放つ檸檬に、心を揺り動かされたはずだ。
私は物心がつくまで、レモンの酸っぱさを知らなかった。
甘いお菓子に使われたレモンが大好きで。でも、酸っぱいレモンを知ってから、私の人生はようやく動き出したのだ。
「そう、ですね」
腑に落ちたかどうかは分からないけれど、長谷君はふっと肩の力を抜き、表情を緩めた。
「……決めました。明日からちゃんと、授業を受けます」
予想とは違う答えが出てきて、私はちょっと拍子抜けしてしまったのだけれど。それでも、彼が前を向いて歩き出そうとしてくれていることが嬉しかった。
「ありがとう。『檸檬』、一緒に復習しましょう」
「はい。あ、でも」
酸っぱくて苦くて甘いレモンティーを啜る。今はこのなんとも言えない味わいが心に染み入る。
「諦めたとは言っていませんから」
いたずらっ子の笑みを浮かべる彼が、いつになく眩しい。中学3年生。子供だと思っていた彼らが、どんどん成長し、蝶になり羽ばたいてゆく。
「分かったわ。私も、あなたを最後まで見守ることを諦めない」
立ち止まってはいられない。
私だって、長谷君をなんとかして志望校に合格させてみせる。まだもうちょっと先だけれど。
いつか、唯人が言っていた。私は木陰なんだと。疲れた時に休める場所なのだと。私だって、同じだった。唯人といるだけで心が癒されて幸せだった。
失ってしまったものは戻らない。でも、心の中では守っていける。新しく大切なものをつくることだってできる。唯人が残してくれたものは、未知との遭遇なのだから。
ねえ、唯人。
私はなれているんだろうか。昔憧れていた「大人の女性」に。生徒たちから憧れる、井上先生や瑠璃子先生のような温かな人に。
まだ、分からない。分からないからこそ、追い求めるのだ。

私は、立ち上がって資料室の窓を開けた。5月の温かい風に、ほこりが舞っている。「わっ」と手で鼻を覆う。と同時に、まだカップに残っていた彼のレモンティーから爽やかな香りが漂ってきた。同じように席を立つ彼。すでに私よりも背が高い。隣並んでグラウンドの方を見下ろしながら、私はぽんと軽く彼の背中を押した。

【終わり】