階段を上っていると、ちょうど美緒が下りてきた。

「爽太、何してんの? 理科室に移動だってよ」

「ああ、そう」と、ぼんやりした返事をする僕を不思議そうに見ながら美緒が行ってしまう。

 今だろ。

 言わなくちゃいけないのは今だろ。

 僕は彼女を呼び止めた。

「美緒!」

 彼女が振り向く。

「好きだ!」

 美緒の顔が輝く。

 それは僕の知らない美緒だった。

 満面の笑みを浮かべて、泣きそうな顔で、花開くように、隠すことなく感情豊かに僕を見つめる美緒だった。

 こんな美緒を見たことがなかった。

 と、その瞬間、僕は背中を突き飛ばされたような気がした。

 それが恐怖心なのか、恥ずかしさなのか、自信のなさなのか、自分でも分からなかった。

 急に怖じ気づいてしまったのだ。

 僕の口からこぼれ落ちたのは、自分でも信じられないような一言だった。

「……って、タカシ先輩が言ってた」

 晴れやかだった美緒の表情が曇る。

 それもまた僕の知らない美緒だった。

 つまらないことでケンカをしたときにも見たことのない表情だった。

「そっか」

 頬をゆがめるように笑みを浮かべて美緒がうなずいた。

 言わなくちゃ。

 何か言わなくちゃ。

 僕が言いたかった本当のことを言わなくちゃ。

 でも、何も出てこなかった。

 言いたいことがいっぱいありすぎてどれから言えばいいのか分からなかった。

 でも、それは一言で済むはずだった。

 そして、それは、今さら僕が言えば言うほど嘘になる言葉だった。

 ――好きだよ、美緒。

 僕は言葉を飲み込んでしまった。

「じゃあね」

 くるりと背を向けて去っていく美緒を僕は呼び止めることも追いかけることもできなかった。

 僕は嘘つきだった。

 美緒を守るどころか、傷つけたのだ。

 僕は美緒を悲しませたこと、そしてそれよりもむしろ寂しがらせてしまったことを後悔した。

『爽太のことが好きって言ったの私だけってひどくない?』

 彼女の言葉が何度も何度も心の中で響く。

 美緒は嘘なんかつかなかった。

 何も隠したりしなかった。

 いつも僕のそばにいて、本当のことしか言わなかったのだ。

 開けっぴろげで、おおらかで、彼女は僕らのいた島そのものだった。

 そんな美緒の無邪気さも、もう僕のものではなくなってしまったのだ。

 あの日、美緒は先輩のカノジョになった。