五月五日のこどもの日の朝、ミミは伸びをしてベッドから起き上がる。
「今、何時だろう」
 サイドテーブルの上の目覚ましを見れば七時前だ。
 身の回りのものをボストンバッグに詰め込んでここにやって来たが、ここは最初から自分の部屋だというくらい快適な空間だった。
 ホテルの部屋のようにトイレもバスも付いていて、ロクと一緒に暮らしていても個別で気兼ねなく過ごせる。
 寝起きの顔も、寝癖のついた髪の毛も、きっちり整えてからこの部屋を出ることができる。ロクとここで一緒に暮らせるのも、見られたくない自分を隠せるからやっていけるのだ。
 衝動で家を出てきたミミにとって、ここはとても有難い場所であるのだが、それが祖母から仕組まれたことだと気がついた今、いつかはここを出て行かなければならない日が来ることに怯えていた。
 ここにしがみ付いているから、多少変わった事があっても深く考えず、違和感があっても気にしないようにと見て見ぬふりをして踏ん張っていた。自分の想像を超えたこの見知らぬ土地は、ミミにとって夢のような世界だった。だから夢のごとく、全く知らないものが多すぎる。
 何かが抜けているのに、よくわからない。魔法のような最新設備が整った申し分のないこの部屋で朝を迎える度、ミミは自分がどこにいるのか混乱する。ここは本当に自分の居場所なのか。この先どうしていいのか。何が起こっているのか。考えると不安に襲われ苦しくなってくる。
 ずっとロクと一緒にいたいと切に願い、ミミはベッドの隣のサイドテーブルに置いていた金の懐中時計をぐっと握り締めた。
『これを預かって君に渡すようにと言付かった。これは君を守ってくれるものだ。肌身離さず持っていれば、きっといい事がある』
 ここを紹介してくれた名前も知らない初老の男性から渡されたものだった。
 頼れるものがないミミには、お守りのようにいい事があるという言葉だけを信じてしまう。
 ミミがこれを握る時、カチカチと秒針が動いているのを感じられた。
 蓋を開ければ、秒針のずれはあっても側にある目覚ましと同じ時刻を差している。
 時を告げるそれは、ずっと手にしていると生きもののように思えてきた。不思議と心が安らぎ、何かに守られていると思えてくるのだ。だから出かけるときも鞄に入れて持ち歩く。そうやって自分を励ましてミミはここで毎日を過ごしていた。少しでもロクの役に立ちたいと。
 そして探偵の助手という仕事も冒険心をくすぐられた。謎から始まるそれぞれの人生物語に関われば、ミミはこの世の中のそれぞれの秘められた思いに心奪わ れていく。些細なことから暴かれていく真相は、心に秘めた何かが引き出され、気づかなかった事と向き合うきっかけになっていく。
 ロクと知り合ってまだ間もないけれど、ミミはこれが運命のことのように思えてならなかった。
 懐中時計に思いを込めて握り締めるミミ。自分の心もロクに伝わってほしいと願いを込めていた。
「いい事があるんでしょ? だったら、ロクと……」
 その時、ドアをノックする音が聞こえ、ミミは跳ね上がる。
「おい、ミミ、起きてるか」
 ロクの声だ。
「起きてるよ」
 ドキドキと胸を高鳴らせながらミミは返事した。
「これから、ちょっと出かけてくる」
「えっ、こんな朝早くに? どこいくの?」
「ちょっとな……」
 言葉を濁して、ロクはドアの前から立ち去った。
 ミミは追いかけようと咄嗟に体が動いたが、まだ身支度をすませてない姿を晒す事が憚られてしまった。どうしようかと迷っているうちに玄関のドアが閉まる音が聞こえていた。
 ロクが出て行ったと分かったとたん、先ほどよりも辺りはもっと静寂になっていた。
 急いで身支度を済ませ、部屋から出れば、いつもの空間が寂しいものへと目に映る。ロクがいないだけで大げさだと思いつつ、ミミにとってロクと一緒にいられることの大切さが浮き彫りになっていく。
「だけど、こんな朝早くどこへ行ったのだろう」
 仕事ならば、助手の自分をつれていく。それをしないのなら、私用で出かけたということだ。目的もはっきりといわずに、朝早くにでかける用事とはなんなのだろう。
 ミミはそれを探りたくて、ロクの部屋のドアの前に立った。
 勝手に人の部屋に入るのは憚れるが、好奇心が抑えきれない。
 ドアノブに恐る恐る手が伸びていく。ドキドキと心臓が高鳴って、体に熱がこもっていった。大きく息を吸った後、ミミはドアノブを掴んだ。
 ゆっくりとまわそうとしたとき、それは固定されて動こうとしない。
「あっ、鍵が掛かっている」
 そう知ったとき、ミミは一抹の悲しさが心に湧いてくる。自分を信用していないといっているのも当然だ。
 「なんでよ!」と怒りつつも、黙って入ろうとしている行為はまさに信用の置けない行為だ。
ずるい事をしているのに、信用されていないと思われて怒るのは矛盾しているのだが、そこが複雑な乙女心というものだ。ガチャガチャとドアノブに触れながら、ミミは自己嫌悪に陥った。
「こういうときはお菓子作りでもして気分を紛らせよう」
 気分を切り替えたとき、先に温かいものを飲んで、何かを食べたくなった。
 キッチンの隅に置かれたコーヒーマシーン。銀色に輝く四角い装置に目が行く。何かの実験道具かと思うくらい、ミミにはちんぷんかんぷんだった。
 ロクに淹れてもらったラテを飲んで以来、ミミは泡立ったミルクが癖になって大好きになってしまった。
 飲まず嫌いだったコーヒー。ロクが変えてくれた嗜好は自分が変わる第一歩のような気がしていた。
 思った事をつい口にして、生意気な態度になってしまうミミ。厳しいしきたりに抑制されて反発し、我がままに育ってしまったけども、それが結局は世間知らずなだけだったと悟っていた。
「ああ、ラテが飲みたいな」
 優しい泡のミルクがたっぷりのコーヒーを頭に浮かべるも、自分では淹れられないので、仕方なくミミは紅茶で我慢する。ラテが頭によぎりながらケトルをコンロに置いた。
「ロク、早く帰ってこないかな」
 ティーパックを箱から出し、マグカップにいれてお湯が沸くのを待っていた。あくびが出て口を大きく開けてしまう。
 袋に数枚残っていた食パンを一枚取り出し、それをトースターに差し込んだ。適当にダイアルを合わせてスイッチを入れて放っておいた間、冷蔵庫からバターを取り出す。
 その時、電話のベルが鳴り響く。
 ロクからだと思ったミミはスティックバターを握り締めたまま壁際の台へと走っていく。そこに置いてあった電話の受話器を取った。
「もしもし」
 耳に当ててもまだ電話のベルが鳴り響き、ミミは持っていた受話器を見つめた。
 家の電話は全てお手伝いさんや家族が先にとり、外からの接触を制限されて電話すら自由に使えないミミは操作の仕方がよくわからない。
 ボタンがいっぱいある中、落ち着いてじっくりと見れば通話と書かれたボタンがあるのに、慌しく鳴るベルの音が焦りを招き、反対側に持っているバターが邪 魔で指が動かず、そこにトースターが「ポン!」と音を立てパンが焼きあがれば、驚いて肩が揺れ、その拍子に手が滑って受話器を落としてしまった。
「あらららら」
 受話器を落としただけなのに、しゃがんで取ろうとしたとき台に額を強くぶつけ、「痛!」と叫んでしまう。
 ベルは足元で鳴り響き、ぶつけた部分をバターで覆いながら、痛みにもだえて受話器に手を伸ばす。
 痛さは怒りに変わって、受話器に腹を立ててしまう。
「んもう」
 やっと通話のボタンを見つけて押した。
「もしもし」
 涙目に答えるミミ。
 ――……。
 相手の声が聞こえない。
「もしもし?」
 ――……。
 受話器の向こうに誰かがいるのは分かるが、何も話そうとしない。
「あの、どちら様でしょうか?」
 ――……あなたこそ誰なのよ。
 気分を害した、ミミを責めるような言い方だった。
「誰と言われても」
 ――そこで何してるのよ。
「ええ? ここに住んでいるんですけど」
 ――嘘、嘘よ!
「ちょっと、あの、落ち着いて」
 訳がわからないまま、電話は切れた。
 ツーツーという音がミミの耳元で聞こえていた。
「何よ、もう」
 腹立ちまぎれに強く受話器を置いて、バターを握り締めた。
気を取り直して、パンを取りにキッチンに向かえば、それは黒っぽく焦げていた。
「なんで、こげこげなの」
 パンを食べる気が失せて、バターを冷蔵庫にもどせば、握り締めすぎて変形した形になって冷蔵庫の扉の棚に置かれた。
「お茶だけでいいや」
 コンロの前に立ってお湯の湧き具合を確認すれば、火がついてない。
「ああー! ガスが!」
 ガス爆発の危機に焦り、慌ててガススイッチに手を触れれば、それはまだ点火されていない『止』の位置だった。
「あれ? 火をつけるの忘れてた?」
 それでよかったと安心し、「ん?」と思ってケトルの蓋を開ければ水が入っていない。
「うわぁ、水も入れてなかった」
 ミミは数々の失態に驚きショックを受ける。
 ついてないと思ったその時、ふと電話の内容に違和感を抱いた。
 あれは女性の声だった。ミミがここに住んでることに衝撃を受けて腹を立てたあのやりとり。それらが今になってミミの不安を駆り立てていく。
「まさか」
 今まで考えなかったことの方がおかしかった。それはロクに恋人がいる――かも。
 朝、出かけたのも恋人と会う約束をしていた。相手は待ち合わせ時刻に痺れを切らしてここに電話を掛けて確認する。そしてミミの声を聞き、一緒に住んでいると知って激怒したに違いない。
「そんな」
 織香に目が行くことを心配していたが、それよりももっと考えるべきだった。
 ミミの目に映るロクは、線の細い頼りなげな風貌だが、そこが中性的で整った容姿でもあり、はっきりってかっこよく見える。
 お菓子に例えたら、シンプルな苺ショートケーキ。でも実際はその中に味わいのあるクリームのコクと、しっとりとした柔らかな触感のスポンジがさりげなくケーキの味を引き立てている。
 ありきたりの定番のかっこよさの中に真のものが秘められ、それが素朴すぎて却って目立たない。 それでも一口食せば、明らかに普通のものと違う繊細さ。まだ自分が最高の定番ケーキだと気づいてない苺ショートケーキ――それがミミのイメージだった。
 他の人が聞けば分からないたとえだろうが。
 だが、あの女性からの電話の真の意味がわかると、その苺ショートケーキに余計なチョコレートがかかって、別のケーキになっていく。
「ロク、あなた真っ白じゃなかったの?」
 泣きたくなるような、落ち着かなさ。そわそわとしながら、ミミはスツールに腰掛けた。
「落ち着け」
 ロクに問い質したら、きっと感情に流されて怒りをぶつけてしまう。思うようにならなかったとき、感情を露にするのはミミの悪い癖だ。
「そんなところを見せたら、簡単に嫌われてしまう。でも、どうしよう」
 こういうとき、無になるのがいい。ミミは立ち上がり、冷蔵庫の前に立つ。
 そして扉を開けて、冷蔵庫の中を確認する。
 今自分が作れるもの。
 卵と牛乳をみたとき、ミミの頭の中にはカスタードプディングが浮かんでいた。