「……梓」
 優しい声が自分の名を呼び、彼の大きな手が頬を包む。
 少しひんやりとした手で頬を撫でられ、泣きそうになって熱くなった顔を冷やしてくれる。
 その仕草に甘さすら感じて、梓は戸惑いを覚えつつ鼓動を速めた。
「竜輝、様?」
 彼の手で冷えたはずの頬がまた熱を持つ。
 まるで愛しい者に触れる様な優しさに、もしかしたら婚約者と間違えているのだろうかとすら思った。
(でも、竜輝様は確かに私の名を呼んだし……)
 戸惑い、困惑する梓に竜輝はとても嬉しそうな笑みを浮かべる。
「梓……会いたかった」
「っ!」
 ドクリと、大きく心臓が跳ねる。
 招だと偽っていた事を責めるわけでもなく、ただ会えたことを喜んでくれている。
 その優しさは、五年前と変わらない。変わらずその柔らかな微笑みを向けてくれていた。
 鼻の奥がつん、と小さく痛む。
 変わらぬ優しさが嬉しくて、梓は涙を滲ませた。
 淡くなった色の瞳で真っ直ぐ見つめてくれている竜輝……だから梓も、取り繕うことのない素直な気持ちで彼の言葉に応えた。

「はい……。私も、会いたかったです」
 そうして笑みを向けると、嬉し気に細められていた竜輝の目が逆に見開かれる。
 何を驚いているのだろうと不思議に思うと、「本当か?」と呟かれた。
「え? はい。本当ですよ?」
 何故聞き返されるのか分からなくて、梓は戸惑いに涙も引っ込めて答える。
「……だが、会いに来なくなったではないか」
「そ、れは……」
 確かに、竜輝の婚約者が決まったと聞いてからずっと会いに来なかった。それで会いたかったと言われても信じられないだろう。

 理由を口にするのは躊躇うが、花嫁として貰ってくれと頼むつもりなのだ。
 ただでさえ招と偽り騙していたのだから、ここは正直に告げるべきだろう。これ以上不信を抱かせるわけにはいかない。
 そう判断した梓は揺れる心を抑えつけ、ゆっくりと答えた。
「……竜輝様の婚約者が決まったと聞いたからです。ご婚約者様がいらっしゃるのに、お部屋でお話するわけにはいかないではないですか」
 感情が昂らない様淡々と話す。でなければ、声が震えてしまいそうだったから。

 すると竜輝は梓の腕から抜け出し姿勢を正す。そうしてから梓の焦げ茶色の目を真っ直ぐに見た。
「だが、お前は挨拶そのものに来なくなっただろう? 部屋で話すのは良くないのかも知れないが、挨拶はしに来ても良かったはずだ」
「それは……」
 なんとか感情を抑えて理由を口にしたというのに、竜輝は更に追及してくる。
 感情のまま全てをさらけ出せばいいのだろうか?
(会うのが辛かったのだと、ご婚約者様に優しく微笑む竜輝様を見たく無かったのだと言えば良いの?)
 だが、そんなことを言ってしまえば婚約者を愛しているであろう竜輝の怒りを買いかねない。
 そうして巫として仕えることが出来なくなってしまっては意味がないのだ。

 何とか感情的にならずに竜輝を納得させるような言葉を選ばなければと考えるが、中々良い言い回しが思いつかず黙り込む羽目になった。
 気まずくて目を逸らす梓に、竜輝はゆっくり語り出す。
「俺は……お前に嫌われてしまったのではないかと思った……」
「え?」
 思ってもいない言葉に視線を戻すと、形の良い竜輝の眉尻が下がっていた。
「俺に婚約者が決められた途端会えなくなった。毎年自室に誘って話をするような間柄だったのに他に親しい女がいたのかと……不実な男だと思われて嫌われたのかと……」
 まさかそのように思われていたのかと驚く。
 婚約者が決まったと聞いたときは、やはり自分への優しさは誰にでも向けられるものだったのかと落ち込みはした。
 だが、不実だと思ったわけではなかったし、竜輝を嫌うなどということになるわけがない。

「そんな……竜輝様を嫌うなんてこと、ある訳ないです。だって、私は……」
 そのまま想いを口に出しそうになって止まる。
 言ってもいいことなのか……。伝えれば彼の負担になるのではないか。
 伝えなければ、自分を巫として娶ってもお役目だからと割り切ることも出来るだろう。
 だが、言ってしまえばこの優しい(あるじ)は無理をしてでも寄り添おうとしてしまうのではないかと悩む。
 やはり気持ちは押し殺して話を進めた方がいいのかも知れないと考えていると、竜輝は手を伸ばし梓の髪を撫でた。
「……そうか、嫌われたわけではなかったのだな」
 嬉し気に細められた目に胸が締め付けられる。
 この眼差しを……この優しさを自分以外にも向けているのかと思うと嫉妬が胸に広がり苦しくなる。
 押し殺そうと思ったばかりだというのに、すでに殺しきれない想いが溢れてしまっていた。
 溢れるままに言葉にして伝えたくなって、喉の奥で押し留める。
 そうして苦しんでいると、竜輝の優しい眼差しの奥に揺らめく炎が見えた気がした。

「……ああ、やはり隠し通すなど無理な話だったのだな……」
 独り言のように呟く竜輝に梓は目を瞬かせる。彼は何のことを言っているのだろうか、と。
「梓」
「はい」
 髪から手を離し、また改めて真っ直ぐに真剣な眼差しを向けてくる竜輝。そんな彼に呼ばれた梓も、真面目な話を聞くように姿勢を正した。
「俺は、お前を望む」
 主からの言葉を聞き洩らさないようにと身構えていた梓だったが、告げられた言葉に数秒思考が停止する。
(私を……望む?)
「……えっと……それはどのような意味で……?」
 言葉からして求められているのは分かるが、停止した頭では理解が追いつかない。
 そんな梓に竜輝は真面目な顔を緩め微笑むと、もっと直球で伝えた。
「梓、俺はお前が好きだ。だから俺の妻になってくれ」
「つ、ま……?」
 直球に告げられても、すぐに理解出来なかった。
(つまって……妻? 竜輝様の、お嫁さん……?)
 ゆっくり頭の中で繰り返し、求婚されたのだとやっと気づく。
 確かに自分は巫として竜輝の花嫁になろうと決めた。
 だがそれは愛されない花嫁。お役目の為だけの妻だ。
 なのに竜輝は自分を愛し気に見て好きだと言った。好きだから妻になってほしい、と。
 純粋に嬉しいと感じるが、疑問は尽きない。

(え? ちょっと待って、どういうこと?)
 疑問は多くあるが、とりあえず一番不思議に思ったことを聞く。
「ですが、その……ご婚約者様は? かのお方を愛しているのではないのですか?」
 そう。龍は一途で、一人を愛しぬく。竜輝のその一人は婚約者ではないのだろうか。
 ずっとそう思ってきたのだが、竜輝ははっきりと否定した。
「俺が愛しているのは梓だけだ」
「っ!」
 少しムッとしたように断言され言葉を失う。
 好きだと、愛していると言われて胸が熱くなった。
「その……婚約者は砂羽の妹なのだが、彼女は俺にとっても妹のような存在なんだ。家族愛に近い愛情はあるが、異性に対してのものではない」
「……」
 続けられた言葉に絶句する。
 婚約者が決まったと聞いたときから、竜輝の想い人はその婚約者なのだと思っていた。
 だが、彼の言うことが本当ならば自分の勘違いということになる。
「周囲が仲が良いから丁度良いと言って勝手に決めてしまったんだ」
「……」
 どうやら本当らしいと知り、尚更言葉が出なくなった。

「その翌年の年始めの挨拶のときに梓に会えたら、事情を説明し想いを伝えて求婚するつもりだった」
「え⁉」
 言葉が出ないと思ったが、予想もしていなかった話に驚きの声を上げる。
「そして梓さえ良ければ周囲にそれを話して、従妹との婚約を解消し梓を婚約者にするつもりだった」
「それは……」
 今度は別の意味で言葉が出なくなる。
 それでは、勘違いせずまた彼に会いに行っていれば自分の願いも叶っていたということだ。
「だが、お前とは会えず俺は嫌われたのだと思った」
 だからその後竜輝の方からも連絡を取ろうとはしなくなったらしい。
 招が竜輝に仕えることをとても喜んでいたこと、時が経ち婚約を解消するのが更に難しくなってきたこと。
 それらの理由もあって、このまま想いを封じてただ龍としての役目を果たそうとしていたのだそうだ。
 どうやら、自分達はお互いに勘違いをしていたようだ。

「……私が竜輝様を嫌うなど、ありえません。初めてミズメの木の庭で言葉を交わしたあのときから、私は竜輝様が好きなのですから」
 全てを話して求婚してくれた竜輝に、梓も想いを返す。
 互いにしていた勘違いを無くすために、言葉を重ねる。
「竜輝様の婚約者が決まったと聞いて、あなたの想い人はそのご婚約者様だと思いました。……だから会うのが辛かったのです。ご婚約者様に優しく微笑む竜輝様を見たく無かった」
「俺の想い人は梓だけだ」
 梓の言葉に竜輝は強くはっきりと主張する。
 そんな彼に、梓は泣きたくなるくらいの嬉しさを覚え微笑んだ。
「……はい。竜輝様、どうやら私達は互いに勘違いをしていたようです」
「……そのようだな」
 梓の言葉に同意した竜輝も仕方なさそうに微笑む。
 そうして一度目を閉じると、また真剣な目で梓を見つめた。

「初めて梓に会ったとき……挨拶のときに目が合った瞬間から、俺はお前に惹かれた。だから庭に向かったお前を追いかけたし、もっと話したい、もっと近づきたいと思って部屋に誘ったのだ」
 勘違いを無くすため、言葉を重ねる竜輝。彼は全ての想いを話してくれる。
「梓を好きだと、愛しいと思う心は年々増していく一方だった。……だが、招の俺への心酔っぷりを見ると梓が欲しいとは言えなかった。そのせいで妹のようにしか思っていない従妹を婚約者に決められてしまったんだ」
 竜輝の言葉の一つ一つを身に沁み込ませるように聞いた。
 もう勘違いはしたくない。その思いから、彼の言葉を真っ直ぐに受け止める。
「嫌われたと思っていた。だから想いを封じて龍としての役目を全うしようと思っていた」
 だが、と続ける竜輝は両手を伸ばし梓の頬に触れる。
 その存在を確かめるように包み込み、溶けてしまいそうなほど幸せそうな笑みを浮かべた。
「こうして会って、触れて。それが無理だということを知った。……想いを隠し通すことなど出来ない。お前に俺以外の男が触れるなど考えただけで嫉妬に狂いそうになる」
 涼やかにも思える淡緑の目に、確かな炎が宿る。
 その熱くなった眼差しで、彼はもう一度告げた。

「梓、俺はお前が好きだ。……神和ぎとしてのお前を必要としているし、何より俺以外の男と結婚して欲しくない。俺の花嫁として、嫁いできてくれるか?」
「竜輝、様っ」
 改めてされた求婚に胸が熱くなる。
 憧れ、諦めたはずの想い。夢に見て、所詮夢は夢だと消えてしまったはずの願い。
 それが夢で終わらず諦めなくてもよいものなのだと、やっと実感した。
「私も、ずっと貴方を想っておりました。想いを封じて忘れようとしたけれど、こうして再び会えたら想いは溢れて来てしまって……」
 頬を包まれ、顔をそらせない梓は真っ直ぐ竜輝の神秘的なほど美しい顔を見つめる。
 少しずつ早くなっていく鼓動に、胸が詰まって言葉を紡げなくなってしまう前に応えた。
「竜輝様、貴方が好きです。その求婚、喜んでお受けいたします」
 頬にある彼の手に重ねるように手を添える。
 重ね、交わる想いを確かめ合う。
 無言で見つめ合い、言葉よりも雄弁に語る瞳が交わる。
 互いが互いを求めているのを感じて、自然と唇が触れ合った。