翌日、ご機嫌な竜輝がいつものように書類に目を通している側で、梓は変わらずスーツに身を包み控えていた。
 神和ぎが梓であることはまだ竜輝と砂羽しか知らない。
 竜輝はすぐにでも公言し梓を花嫁として迎えようと思っていたらしいが、砂羽がそれを止めたからだ。
 梓が初めから巫として嫁いで来ていればなんの問題もなかったのだが、身を偽って覡の側近として仕えに来てしまった。
 そんな状態で実は招ではなく梓だった。側近ではなく花嫁だったということになればただでさえ混乱を招く。
 そしてその混乱は口うるさい古老達に付け入る隙を与えてしまうとのことだった。
「彼らのことです。妾として自分の孫を宛がおうとしたり、下手をすれば竜輝様の心など無視して梓殿を引き離そうとしかねませんからね」
 ため息交じりに言われたが、竜輝も苦々しい顔をして否定はしなかったので間違ってはいないのだろう。
 そういった理由から、今はまだ男装を続け招の振りをしていた方がいいという事だった。

 ただ、そうなると梓には一つ不安があった。
「ですがその……そうなると竜輝様の変化はおかしいと思われるのではないでしょうか?」
 今の竜輝は、髪と目の色が本来の濃い金髪と翠色に戻っていた。肌の鱗も消え去り、元の人の姿を取り戻している。
 覡は側に仕えることで自然と龍の神気を取り込み人の世に行き渡らせるのだ。このように一晩で元に戻ったとなると、不審に思う者も出てくるのではないだろうか?
 まさか一夜を共にしただけでここまで変化が出るとは思わなかっただけに、やらかしてしまったような気分になる。
「……まあ、その辺りは仕方のないことです。竜輝様ほど龍のお姿に近付いた方も珍しいので、戻るときは早いのだなという認識を周囲に植え付けていくしかないですね」
 そんな大雑把な方法で良いのだろうかとも思ったが、他に良い案がある訳でもないため黙って任せることにした。

「計画成功の知らせは招殿に送りましたので、うまい具合に入れ替わるしかないですね」
 そのための細かな暗躍は砂羽に任せるしかない。
「すみません……よろしくお願いします」
 自分が身を偽らずにいれば必要のなかった手間を任せることになる。心から申し訳ないと思いつつも、よろしく頼んだ。
「いいえ。その代わり、私が動き回っている間竜輝様のお手伝いを引き続きお願いいたします」
「あ、はい。それはもちろん」
 当然ながら、自分の出来ることはするつもりだった梓は強く頷いた。
 そんな梓を無言で見つめた砂羽は、胡乱な目を竜輝に向ける。
「竜輝様、これから二人きりになる時間も多いとは思いますが……」
「ああ、そうなるな」
 鼻歌でも歌い出しそうにご機嫌な竜輝はにこにこと笑顔で砂羽に応える。
「……まだ周囲には梓殿だと知られるわけにはいかないのです。陸み合うのもほどほどになさって下さいね?」
「……努力する」
 釘を刺した砂羽に真面目な顔で答えた竜輝だったが、すぐにふやけた表情になってしまう。
 なかなか引き締まらない主に軽くため息を吐いた砂羽は、「梓殿もそういうことでお願いします」と言い残し部屋を出て行った。

「……全く、砂羽は口うるさいな。あれは俺の母親か?」
 砂羽の姿が見えなくなった途端愚痴を口にする竜輝。
 梓は少し困ったように眉尻を下げながら苦笑する。
「でも気をつけなければならないことは確かですから」
 そう言って注意を促すが、幸せそうに()む竜輝には届いているのかいないのか。
「まあいいだろう。……おいで、梓」
「……竜輝様、今は招と。知られないようにと注意されたばかりではないですか」
 やはり届いていなかったのかともう一度気をつけるように言いつつ、梓は言われるままに彼に近付いた。
「今は二人だけなのだから良いだろう? やっと想いが通じ合ったのだ。俺はお前を愛でたくて仕方ない」
「っ! でも……あっ」
 竜輝の言葉を嬉しく思いつつ、それでも今は駄目だと口にしようとした。だが、腕を引かれ彼の胸へと飛び込むような形になる。
 梓を受け止めた竜輝はそのままぎゅうっと柔らかな体を抱き締めた。
「嫌われたと思い一度は諦めようとしたのだ。それが諦めなくても良くなったのだから多少浮かれても仕方のないことだろう?」
「多少……ですか?」
 これは多少どころでは無いと思うが、と疑問を口にする。
 仕事中だというのにこの様に抱き締めるのだ。かなり浮かれているのではないだろうか?
「……まあ、相当浮かれているとは思う」
 渋々認めた竜輝に梓はクスリと笑い、彼の鮮やかな緑の目が見えるように顔を上げた。
「今私は招で、竜輝様はお仕事中です。こういうことは後に致しましょう?」
「……」
 少なくとも今は駄目だと告げたが、竜輝は無言でじっと梓を見下ろすだけ。
「竜輝様?」
 何を思っているのかと小首を傾げると、彼の口元がふっとほころんだ。だが、その翠の目には僅かな意地の悪さを感じる。
「口づけを」
「え?」
「梓が口づけをしてくれれば、仕事を頑張ろう」
「な……」
 まるで駄々っ子のような交換条件。
「してくれないのか?」
 でも、その誘いは梓の中に甘く響く。
 トクリと、鼓動がわずかに早まった。
「……触れるだけですよ?」
 愛しい人の願いに抵抗する術はなく、甘い囁きに誘われるまま梓は竜輝の頬に手を添える。
 もはや鱗はなく、肌理(きめ)の細かい肌はするりと梓の手を受け入れた。
「ああ……それでいい」
 梓の手に頬を預け、彼は優しく妖艶に微笑んだ。
 その微笑みに引き寄せられるまま、顔を近付ける。
 吐息に恥じらいが顔を出したが、思い切って唇を触れ合わせた。
 すると背に回されていた竜輝の腕に力が入り、また強く抱き締められる。
 その様子に梓は思った。

(触れるだけの口づけで終わってくれるかしら?)

 と――。