「それにしても吉乃、あんた本当によく無事で帰ってきてくれたね」
ふたりの様子を見計らって声をかけたのはクモ婆だ。
吉乃は慌ててクモ婆に向き直ると、今回無事に帰ってこられた理由を話した。
「実は、咲耶さんから御守りにと、とんぼ玉を持たされていたのです」
「とんぼ玉を?」
「はい。とんぼ玉を入れた小さな巾着を、こっそりと首から下げて着物の下に忍ばせて持っておりまして。そのおかげで、どうにか大事に至らずに済みました」
そう言った吉乃が咲耶から渡されたとんぼ玉を取り出して見せると、クモ婆は興味深そうにそれをマジマジと眺めた。
「なるほどねぇ、これには咲耶殿の神力が込められているんだね」
「そのようです。私もさっきまで知らなかったんですが、これがあれば咲耶さんには私の居場所がわかるみたいで」
吉乃がチラリと咲耶を見れば、視線に気付いた咲耶は吉乃に応えるようにとても優しい笑みを浮かべた。
「そういうわけだ。とりあえずこれさえ吉乃が持っていれば、今回のようなことがあっても俺がすぐに護りに行ける」
咲耶の言葉を聞いた吉乃は、またほんのりと頬を赤く染めた。
(なんだか、さっきから心臓が変になったみたい)
咲耶の顔がまともに見られない。吉乃は、そっととんぼ玉を握りしめた。
「あ、あの、咲耶さん。本当にありがとうございま──」
「──咲耶様」
けれど、吉乃が咲耶にお礼を述べようとしたとき、鈴の音が鳴るような声が吉乃の言葉を遮った。
声の主は咲耶に向かって真っすぐに歩いてくると、天女のように神々しい笑みを浮かべる。
「お会いしとうございました」
鈴音だ。咲耶を見る鈴音はたおやかで、うっとりとした表情を浮かべている。
花魁の鈴音は、仕事中と普段の様子がまるで違う。
今、咲耶に見せているのはまさに仕事中の鈴音の顔で、吉乃はこの一カ月、この鈴音を前にした客たちが骨抜きにされる様を何度も目にしてきた。
「鈴音か。久方ぶりだな」
対する咲耶は顔色を変えることなく飄々と答える。
吉乃がついドキリとしたのは、先ほど桜の木の下で咲耶に『妬いている』と言われたことを思い出してしまったからだ。
「いつになったら、私の座敷に上がっていただけるのですか?」
「花魁からそのような誘いを受けるのは光栄だな。しかし、お前も知っての通り、俺は今のところどの遊女の座敷にも上がるつもりはない。蛭沼の件で作った借りは、また別の方法で返させてもらおう」
鈴音に対してここまで毅然とした態度をとる者は珍しい。
大抵は鈴音を前にしたらのぼせ上がるのに、やはり咲耶だけは違っていた。
「ああ、だが、鈴音は今、吉乃の面倒を見てくれているのか」
「え? ええ、まぁ、そうですが……」
「ならば、引き続き吉乃のことをよく見てやってくれ。これからも、よろしく頼む」
そう言うと咲耶は吉乃を見て微笑んだあと、踵を返して行ってしまった。
鈴音を一度も振り返ることもなく。
残された者たちの間には微妙な空気が流れ、絹と木綿については怯えた様子で、吉乃の足にしがみついていた。
「……ハァ。ほんっと、食えないわね」
「え?」
「まぁ、いいわ。少し、ひとりにしてちょうだい。夜見世の時間まで、誰も部屋には近づけないで」
そう言うと鈴音はさっさと行ってしまう。
一瞬、その場は嵐が去ったような静けさに包まれたが、重鎮であるクモ婆がその沈黙をすぐに破った。
「ま、まぁまぁ。なんにせよ、吉乃が無事でよかった」
「でもまさか、こうも簡単に吉乃さんに手を出すものが現れるなんて、命知らずとしか思えません」
続いたのは琥珀だ。
難しい顔をしている琥珀は、心に引っ掛かりを覚えているような様子だった。
「普通であれば咲耶様が関わっている遊女というだけで、吉乃さんの身を危険に晒そうと考える者はこの帝都吉原にはいないはずです」
それほど、帝都吉原での咲耶の力は絶大なものなのだ。
それなのに今回、下級妖や切見世長屋の遊女が安易に手を出すとは、普通であれば考えられないことだった。
「命知らずにも程があります」
「まぁ、それだけ吉乃の力が魅力的だってことだろう。命知らずが現れてもおかしくはないさ」
クモ婆が琥珀に答える。
改めて自分の惚れ涙の恐ろしさを告げられて、吉乃は身を硬くした。
「でも、吉乃さんになにかあったとしても、すぐに咲耶様がかけつけてくれるのであれば安心ですが」
「……ああ。どっちにしろ紅天楼にいれば安全だ。なんてったって、ここには吉乃を襲った下級妖みたいなのは入ってこられないんだからね」
吉乃の不安を察したふたりは、そう言うと曖昧な笑みを浮かべた。
対する吉乃はなんと返事をすれば良いのかわからず、とんぼ玉の入った巾着に手を添えた。
(本当に大丈夫……なのかな)
「しかし念のため、しばらくは外出を控えた方がいいかもしれません。もちろん今日のように出かけたい場合も絶対に許可しないわけではないので、気軽に相談してくださいね」
琥珀の言葉を聞いた吉乃は小さく頷くと、美しく咲き誇る桜の姿を頭の中に思い浮かべた。
(また、しばらくあの桜を見られないのは残念だけど……)
こればっかりは仕方がない。
「色々とご心配をおかけして、本当に申し訳ありません」
吉乃は琥珀たちに改めて頭を下げたあと、もう一度白雪にお礼を言おうと白雪に目を向けた。
と、白雪は鈴音が消えていった廊下を、未だに熱心に眺めていた。
「雪ちゃん?」
「え……あ。ご、ごめんね。ちょっとボーっとしちゃって」
また吉乃の胸に違和感が過る。
心なしか白雪の顔色が悪いように見えるのも、吉乃の思い過ごしだろうか。
「雪ちゃん、大丈夫──」
「さぁ! あんたたち、夜見世の準備をはじめるよ! 吉乃、あんたは稽古の続きがあるから私についておいで」
けれど、大丈夫?と尋ねようとした吉乃の言葉は、クモ婆に遮られてしまった。
結局その後も特に白雪に声をかけることはできず、吉乃たちは忙しさに追われた。
*
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゜
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*
大事件
「なぁ、この子が噂の遊女かい?」
吉乃が、がしゃ髑髏と切見世長屋の遊女に攫われた事件から、早半月と少しが過ぎた。
あのあと、事件の話は瞬く間に帝都吉原内に広まり、吉乃は以前に増して一目置かれる存在となった。
『異能持ちの遊女ってだけでも注目の的なのに、この短期間で三つの事件に関わったんだ。いい意味でも悪い意味でも、突き出し前の宣伝になったかもねぇ』
クモ婆はそう言って豪快に笑ったが、吉乃の気持ちはなんとも複雑だ。
「流石に鈴音花魁には敵わないが、なかなか綺麗な子じゃないか」
「ありがとうございます。約一カ月半後にはお客をとれるようになりますので、これからもどうぞ紅天楼をご贔屓ください」
馴染み客の見送りのために頭を下げた琥珀の瞳には、ちゃっかり銭の字が浮かんでいる。
その隣で頭を下げた吉乃は、やはり複雑な気持ちで近く訪れるだろう自分の未来に思いを馳せた。
(あと約一カ月半後には私は十八になって、紅天楼の遊女としてお客をとるようになるんだ)
この一カ月半と少しの間、基礎と呼べるものは徹底的に叩き込まれた。
寝る間も惜しんで稽古の復習を、詰め込めるだけの知識を頭の中に詰め込んできたつもりだ。
ただ、突き出しが近づくにつれ、胸に生まれた〝とある思い〟が膨らんでいくことが、吉乃はずっと気になっていた。
『ここでは、下を向いてばかりいては、決して高みは目指せない。帝都吉原では背筋を伸ばし、凛として歩く者こそが〝美しい〟んだ』
『俺はお前が遊女になるのは嫌なのに、そうして背筋を伸ばして歩く姿を見たいような気もする』
それは、先日のがしゃ髑髏の事件のあと、吉乃が咲耶に言われた言葉だ。
――吉乃は、遊女としてどうなりたいのか。
養父母に売られて帝都吉原にやってきた吉乃は、自分が遊女になってどうしていきたいのか、これまで具体的に考えたことはなかった。
当然のように自分が遊女として上を目指そうなどと考えたことはなく、花魁など口にすることすら烏滸がましいと思っていた。
今日まで吉乃が真面目に稽古に励んできたのも、紅天楼に配属された以上、紅天楼の名に恥じない遊女になれるようにと思っていたからだ。
(でも、本当にこのままでいいのかな……)
今の気持ちのまま突き出しを迎えてもいいのか。
咲耶の言葉を聞いて、吉乃は迷いはじめていた。
けれど考えても考えても答えは見つからず、時間だけが足早に過ぎていった。
* * *
「吉乃。あんたの水揚げの相手が決まったよ」
その日、夜見世が終わったあとで琥珀とクモ婆に呼び出された吉乃は、初めて紅天楼に訪れたときに通された部屋で、一世一代の報告を受けた。
「お相手は帝都でも一、二を争う大店、葦後屋の主人、烏天狗の禅殿です」
「烏天狗の禅、さん?」
「ああ。禅殿は小僧の頃こそ、まぁ女遊びの激しい奴だったが、葦後屋を正式に継いでからはめっきり大人しくなって落ち着いた。女の扱い方もよく知っていて乱暴もしないし、融通の利く奴だから水揚げの相手としては最適さ」
断言したクモ婆は、ふふんと鼻を鳴らして、ちゃぶ台の上に置かれた湯呑みに口をつけた。
「禅殿にも、ご快諾いただきました。既に吉乃さんの噂を耳にしており、ご興味を持ってくださっていたようです」
「そうなんですね……」
実に有り難い話だ。
けれど吉乃は、また複雑な気持ちになった。
遊女である以上、初魂の儀――水揚げは絶対に成功させなければならない試練のひとつ。
頭ではわかっているが、いざ具体的に話が進むと、また大きな不安が心に芽生えた。
「あの、それはもう決定事項なんですよね? 私、本当に禅さんと──」
「まさか、今さら怖気づいたの?」
そのときだ。唐突に扉が開いたと思ったら、仕事終わりの鈴音が顔を出した。
驚いた吉乃が綺麗な顔を穴が開くほど見ると、鈴音は厳しい目で吉乃を睨んだ。
「あんたにひとつ、いいことを教えてあげる。禅様にはね、本来ならあんたじゃなくて白雪の水揚げの相手をしていただく予定だったのよ」
「え……」
「す、鈴音さん、その話は──!」
「でもね。異能のことやその他諸々と、咲耶様のおかげで予想以上にあんたの市場価値が上がったから、仕方なく禅様にあんたをお願いすることになったってわけ。そもそも琥珀さんがあんたを私の妹分にしたのも、一番の理由はあんたに箔をつけるためだったのよ」
鈴音の話はこうだ。
水揚げの相手が地位と名声のある上客なら、吉乃についた価値を落とさずに済むので、禅が抜擢されたということだった。
そして、琥珀が吉乃を鈴音の妹分に推したのも、〝鈴音花魁の妹分である〟ということも吉乃の売りになると見込んでのことだったのだ。
(私、全然気がつかなかった……)
結局、ここでは如何に駆け引きを上手くやるかも生き残る条件のひとつになる。
それは遊女のみならず、鎬を削り合う遊女屋の経営者たちにも言えることだった。
「だから、あんたは今回のことを感謝こそすれ、意義を申し立てるなんて絶対に許されないの」
思いもよらない話を聞かされた吉乃は、顔色を青くして返す言葉を失った。
琥珀の思惑はともかく、白雪は幼い頃から紅天楼で遊女としての英才教育を受けてきた子だ。
将来の花魁候補としても大きな期待をされていて、鈴音が妹分としてとても可愛がっているのを吉乃も知っている。
だからこそ、鈴音が吉乃に怒るのも当然だ。
もしかすると鈴音は、吉乃が紅天楼に来たときからこうなることを予想していて、自分に辛く当たっていたのかもしれないと吉乃は思った。
「私、全然知らなくて……。本当に、すみません」
自分の大切な妹分の水揚げの相手を、嫌々引き受けた妹分に奪われたら不愉快に決まっている。
吉乃は鈴音だけでなく、白雪に対しても申し訳ない気持ちになった。
吉乃さえいなければ、白雪は誰もが認める上客を水揚げの相手にしてもらい、遊女として最高の幕開けを飾ることができたのだ。
「あ、あのっ。それでしたら私、水揚げは別の方でも──」
「いやいや、待ってください。そのことについては既に白雪さんにも説明済みで、了承も得ています。だから吉乃さんが気に病むようなことはないのですよ」
「そうだよ、鈴音。余計なことを言って話を拗らせるんじゃないよ。吉乃に否がないことくらい、あんただってわかってんだろ。これ以上突っかかる気なら、この部屋から出ていきな!」
「ふんっ!」
琥珀のみならず、クモ婆にも強く非難された鈴音は、肩を怒らせたまま踵を返した。
そうして吉乃の方を見ることもなく、本当に部屋を出ていってしまった。
対する吉乃は肩を落として俯いた。
(鈴音さんからすれば、そもそも私みたいな甘ったれが一目置かれていること自体、許せないんだろうな)
「まぁ、吉乃、そういう話だけどさ。水揚げは二週間後だ。でも、その前に禅殿が一度あんたの顔を見たいって言うもんでね。明日の夜、登楼してくれることになってる。色々思うところはあるだろうが、あんたは自分がやるべきことをしっかりやりな」
クモ婆はそう言うと、吉乃の背中をポン!と叩いた。
「でも、なにか不安なことがあれば、いつでも言いなよ。私はあんたの味方だからね」
クモ婆は吉乃が落ち込んだり、下を向きそうになると、いつもこうして励ましてくれる。
吉乃の稽古にもクモ婆は根気良く付き合ってくれるのだ。
「いつも本当に、ありがとうございます」
「いいってことよ。あんた、見目も悪くはないんだ。それに、その目。薄紅色の瞳が珍しいって、よく言われるだろう? あんたは人よりも多くの武器を持ってるんだから、全部有効活用しないと損だよ!」
またポンと背中を叩かれた吉乃は、膝の上で握りしめた拳に力を込めた。
(期待に応えるためにも、早く一人前にならないと)
蛭沼のときのような悔しい思いはもうしたくない。
そう考えた吉乃は改めて、自分自身に『頑張ろう』と言い聞かせた。
「まぁでもこれでとりあえず、あんたの突き出しが無事に済みそうでよかった」
話の締めに入ったクモ婆は、そう言うとまた湯呑みに入っているお茶をすする。
「……いや、まだ安心とは言えないかもしれませんよ」
と、不意に口を開いたのは琥珀だ。
不思議に思った吉乃が琥珀を見れば、琥珀はなにかを考え込む仕草を見せながら言葉を続けた。
「吉乃さんを攫った、がしゃ髑髏は咲耶様に粛清されました。しかし、切見世長屋の遊女は結局、事情聴取が行われる前に何者かによって消されてしまいましたよね」
それは事件の数日後に、咲耶が琥珀の元に派遣した神威の隊士から聞かされた話だった。
神威の隊士たちが吉乃を攫った遊女を捕らえるために長屋を訪れたときには既に、遊女は殺されていたということだ。
「どうしてあのふたりが手を組んで、吉乃さんを攫ったのか……。どのようにして吉乃さんを捕らえたのか、事件の真相は藪の中です」
おかげで吉乃はあれ以来、紅天楼からは一度も出られていない。
「だからこそ、やはりまだ気は抜くべきではないかと……」
「まぁまぁ。なにはともあれ吉乃が無事で、こうして水揚げの相手と日取りまで決まったんだ。今はもう、それでいいじゃないか」
しかし、琥珀の話を聞いたクモ婆はほんの少し語気を強めると、空になった湯呑みを両手で握りしめた。
「ほんと、琥珀は心配性が過ぎるよ」
「確かに浮雲さんの仰る通りではありますが……。吉乃さん、こんなことを言って申し訳ありませんが、くれぐれも身の回りのことには今まで以上に注意してくださいね」
念には念を入れた琥珀の言葉に、吉乃は小さく頷いた。
(とにかく今はクモ婆に言われた通り、自分のできることをしっかりやろう)
今日も首から下げて着物の内側に隠しているとんぼ玉に、吉乃はそっと手を添えた。