僕はこの会社の立派な社員なのに、そして絢乃さんにいちばん身近なポジションにいるのに、そんなことは一度も知らされていなかった。

 ちなみに、兄が言った「就任会見」というのは、あの株主総会の日の午後に行われた会見のことだろう。TVやネットで中継されていたことは初耳だったが、新聞や経済誌にその記事が載っていたことは僕も知っていた。

「おいおい、お前秘書だろ? ヤバくね? ……ほれ見てみ、オレ録画してあっから」

 兄はメディア再生アプリでその映像を開き、僕に見せてくれた。

「あー、ホントだ。キレイに映ってんな、絢乃さん」

「だろ?」

「うん」

 総会の時と同様、彼女は会長就任にあたっての意気込みなどを原稿なしの百パーセントアドリブで、淀みなくスラスラと述べていた。
 その姿は何度見ても惚れ惚れするほど勇ましく、堂々としていた。

「――お前さ、毎日この子の送迎やってんだろ? 狭い車ん中に二人っきりになってさ、野獣化しそうになったりしねぇの?」

 映像ファイルを閉じた兄は、よりにもよって僕のいちばんイタいところを衝いてきやがった。 

「…………うー、ない……とは言い切れないけど」

「だろうな。安心したわ、お前もオトコだったってことだよな」

 兄は笑っていたが、「安心した」って何にだよ、何に!

「でも、ガマンしてんだ? お前、よく耐えてるよなぁ。こんなに可愛いコがすぐ側にいんのに。……あ、オレも手は出さねぇよ? 出したら犯罪になるもん」

「…………」

 この発言は、まったくもってシャレになっていなかった。
 絢乃さんはこの当時、まだ十七歳。兄は十二歳(ひとまわり)上の二十九歳。手を出せば明らかに児童福祉法に引っかかる。

「つうか、それ以前に弟の好きな女に手ぇ出さんって」

「……あっそ」

 兄の言うことは、イマイチ信用できなかったが……。

「――んでもさぁ、この時期はお前にとっちゃビッグチャンス到来なんじゃねぇの?」

「……ほへっ!? ビッグチャンスって何が?」

 兄の話がいきなり思わぬところへ飛んだので、僕は間抜けな声を出してしまった。

「今月は二月だろ? そんなら決まってんべや、もうすぐバレンタインデーじゃん?」

「あ……、そっか。もうすぐバレンタインデーか……」

 僕はそれまで女性とあまりいいご縁がなかったので、すっかり忘れていた。バレンタインデーというビッグイベントがあったことを。

 まさか絢乃さんからもらえるとは思ってもみなかったし、社会人になってからはなぜか社内の女性から義理チョコその他をドッサリもらう日という認識だったからである。