――車内という密室の中、彼女への恋心と「秘書」という自分の立場とのジレンマにひとり悶え、野獣になりそうな自分自身との格闘の末、僕は気づけば篠沢邸のすぐ近くまで車を走らせていた。

「――絢乃さん、もうすぐお家に着きますよ」

「んん……? えっ、やだ! わたし、また寝ちゃってた?」

 やっとお目覚めの僕の眠り姫は、いつも僕に申し訳なさそうな表情を見せていた。それはきっと、無防備な寝顔を見せてしまったことを恥じていたというより、僕に余計な気を遣わせてしまったことを申し訳なく思っていたのだろう。

「ゴメンね! 桐島さんも疲れてるのに、また遠回りさせちゃったみたいで」

「いえ、お気遣いなく。僕なら大丈夫ですから。それに、絢乃さんもお疲れでしょう? あまりにも気持ちよさそうにお休みになっていたので、起こすのが忍びなくて」

 手を合わせて詫びた彼女に、僕は澄ましてそう言った。……実は、この数十分間のドライブだけで、僕の心がどれだけ満たされていたことか。

 彼女は僕が気を悪くしていないことにホッとされたようで、少しだけ寝ぐせのついた髪を手櫛でササッと整え、膝掛け代わりにしていたコートを羽織った。

「――絢乃会長、今日もお疲れさまでした。明日の予定は、また後ほどメールでお知らせします」

 僕は篠沢邸のゲートの前に停車し、彼女を降ろすと、秘書の顔に戻って我が愛しのボスにそう告げた。

「うん、ありがとう。じゃあ、お疲れさま」

 彼女は僕に挨拶を返し、ゲートをくぐっていく。――その姿をしっかりと見届けてから、僕も車に戻り、帰路についた。
 でも、僕は気づいていなかった。彼女もまた、自宅へと帰っていく僕の姿をチラチラと振り返ってくれていたことに。
 こんな僕らが、実は出会ったあの夜からすでに両想いであったことを知るのは、それから一ヶ月半ほど後のことだったが。この頃はまだ、今にして思えばじれったいくらいにお互いの気持ちが通じ合っていなかったのだ。

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 ――こんなじれじれだった僕の恋をさりげなく(……いや、わざとらしく?)アシストしてくれていたのが、誰あろう僕の兄だった。

 絢乃さんの話は兄にもしてあったのだが、兄は彼女の顔を知らなかったはずだ。
 ところがどっこい、彼女が会長に就任した後になって突然、兄は「絢乃ちゃんって可愛いよなぁ」と言い出したのだ。

「…………ちょっと待て! なんで兄貴、彼女の顔知ってんだよ!? 俺、写真も見せたことないよな!?」

 たまたまアパートへ来ていた兄をそう問い詰めると、兄はしれーっとこう答えた。

「え、お前知らなかったのかよ? あの就任会見の様子、ネットでもTVでも中継されてたんだぜ?」

「……へっ? マジで? 知らなかった」