――こうして、僕の会長付秘書としての日々がスタートしたわけだが、それは僕自身にとっては「煩悩(ぼんのう)との闘い」の日々でもあった。

 絢乃さんは、とにかく可愛い。そしてピュアだ。僕の下心になんて少しも気づかずに、僕に心を許し信頼を寄せてくれていた。そのたびに僕は自分の中にある醜い煩悩に気づかされ、「俺ってなんて汚れた人間なんだろう」とゲンナリしていたものだ。

 好きな人の支えになりたいという願望が醜いわけではない。決して不純ではないと思う。ただ、そこに「彼女に触れたい」「彼女のハートを奪いたい」という(よこしま)な感情が混ざってしまうから不純なのだ。
 ……まぁ、男にとっての恋のしかたがそうなっているので(特にこれといった根拠はないが)、致し方がないといえばそうなのだが。
 そんな中で、会長室や送迎の車内で彼女に二人きりになると、僕は彼女の知らないところでひとり悶絶していたわけである。

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 この日は、彼女が会長に就任してから一ヶ月ほど経った頃だったと思う。

「――それじゃ、会長代行。僕は絢乃会長のお迎えに行って参ります」

 午後三時過ぎに絢乃さんからのメッセージが受信すると、それは「もうすぐ学校が終わるから迎えに来てほしい」という僕への合図だった。

「あら、もうそんな時間か。いつも悪いわね、あなたに忙しい思いさせちゃって」

 絢乃さんの代わりに会長の業務をこなしていらっしゃった義母は、親子二人で僕をこき使っていることを申し訳なく思っていらっしゃるようだった。義母の優しさが、お嬢さんである絢乃さんにもきちんと遺伝しているらしい。

「いえ、僕が自分で決めたことですから。絢乃さんや加奈子さんがそうして労って下さるだけでも、僕の苦労は報われますよ。――では、行って参ります。加奈子さん、お疲れさまでした」

 僕は義母にそう言って、会長室からエレベーターで地下駐車場へ下りて行った。

 秘書の仕事は、思っていたよりもずっと大変だ。でも、総務課にいた頃の仕事よりずっとやり甲斐はある。
 僕は秘書検定なんて取っていなかったし、ずぶのど素人で、仕事も当初は探り探りやっていた。それでも彼女は僕にいつも感謝してくれている。「貴方がいてくれて助かる」と。

 異動前より秘書になってからの方がハードワークだし(というか、ほとんど「激務」といっていいほどである)、しかも二人分の業務を一人でこなさなければならなかった。下手をすれば、総務課時代以上にパワハラかもしれなかった。
 でもそうならなかったのは、絢乃さんも義母も、僕のことをキチンと「人間」として扱ってくれているからだと思う。だからこそ、僕は今でもこの仕事を続けられているのだろう。……もちろん、絢乃さんの夫になったからというのもあるだろうが。