――その翌日、僕は朝イチで出勤し、真っ先に三十階の人事部へと出向いた。用件はもちろん、秘書室への転属の相談のためである。

 前日の夕方に絢乃さんと電話で話してから、僕の決意はすでに固まっていた。あとはもう、僕がいなくなってから総務課がどうなろうと知ったこっちゃなかった。……と言ったら、当時の総務課の同僚に怒られそうだが。

「おはようございます。――あの、山崎(やまざき)部長はもう出社されてます?」

 部長の執務室の前に席を構えている秘書の上村(うえむら)さんに声をかけると、僕より一歳年上らしい彼女は「ええ、来てるわよ」と答えてくれたうえで、僕に社員証を提示してほしいと言った。そこには僕の顔写真とともに、名前と所属部署が印字されているからである。

「総務課の桐島くんね? もしかして、小川さんの大学の後輩だっていう?」

「はあ、そうですけど……」

 どうして彼女がそんなことを知っているのかと僕は首を傾げたが、何のことはない。上村さんももちろん、先輩と同じ秘書室所属なのだ。むしろ知らない方がおかしい。
 となれば、僕が転属したがっていたことも、先輩から彼女の耳に入っていた可能性もあるわけだが……。

「――あの、部長にご相談したいことがあるんですけど。取り次いで頂けますか?」

「分かった。ちょっと待っててね」

 彼女は僕の用件を詮索することなく、すぐに立ち上がり部長室のドアをノックした。

「――はい」

 すると、中から渋めのダンディな声で返事があった。この声の主こそ、篠沢商事・人事部の山崎部長に違いなかった。
 上村さんは少しだけドアを開けると、中にいらっしゃる部長と二言三言話し、僕に向き直った。

「桐島くん、中へどうぞ。部長が、あなたの話を聞かせてほしいって」

「ありがとうございます。――山崎部長、失礼します」

 僕は上村秘書にお礼を言うと部長室へ入り、人事部長へ会釈した。

「総務課の桐島くんだね? おはよう。今日は私に何か相談ごとがあると聞いたんだが。よかったら、そこへ座って話してみてくれないかね?」

 彼は穏やかな表情で、僕に応接スペースの革張りのソファーを勧めた。

「はい、畏れ入ります」

 ソファーに浅く腰かけると、向かいの一人掛けソファーに山崎部長が座られた。

「――総務課というと……、ひょっとしてパワハラの件かな。君も被害者の一人だったということかね」

「あ、いえ! そうではなくて、僕のご相談というのはそれとは別件でして」

 パワハラの被害者だったことは事実だが、僕はそのことを人事部長に相談するつもりはなかった。だからといって、泣き寝入りする気でもなかったが。